Tiny garden

決して絶えず、限りないもの(4)

 園田はなかなか顔を上げてくれなかった。
 額が俺の身体にくっついたみたいに頑なだった。

 仕方がないので、俺は小さな子をあやすように改めて告げる。
「本当だって。何にもしない」
「そう言って安井さんはすぐ前言翻すじゃない」
 即座にむくれたような声が返ってきて、俺も苦笑せざるを得なかった。
 その点に関しては前科も散々あることだし、園田の言うこともわかる。だがそこまで抵抗されると、かえって『何か』したくなるという男心が彼女にはわからないものだろうか。
 せっかく今から、俺達の人生において最も大切な話をしようとしているのに。
「今は翻さない。それより言っておきたいことがあるんだよ」
 俺が繰り返すと、やがて彼女は意を決したのか恐る恐る顔を上げた。
 まだ俺の腕の中にいる園田の頬は赤く、瞳は潤んできらきらしている。一度目が合うと彼女はきれいな睫毛を伏せかけて、渋々といった調子で俺を見上げてきた。照れているのをどうにかして誤魔化したいのか、眉間に皺を寄せて気まずげなしかめっつらを作っていた。
「言いたいことって何?」
 そんな彼女の問いかけに、俺はためらいもなく内心を打ち明けた。
「結婚しよう」

 四年前にも何度となく頭をかすめては、いつか告げようと思っていた言葉だった。
 俺はその為の準備をいくつもしていたし、彼女に渡したいと思っていたものだってあった。それらも今はここにはない。だが何もなくても、先に伝えておかなければいけないと思った。
 同じ過ちは繰り返さないつもりだった。

「――はっ?」
 園田が声を裏返らせる。
 突然のことに頭がついていかないのか、目を白黒させているのがおかしかった。
「だから、結婚。俺達ももういい年だし、頃合いだろ」
 言い含めるように続けると、たちまち彼女は狼狽し始める。
「ええ!? だ、だって今し方告白して気持ち確かめたばかりだよ!」
「始まりは四年前だろ。まあブランクはあったけど」
「そのブランクが重大なんだってば! いきなり結婚なんて言われても!」
 今年の頭に『私も結婚しようかな』などと軽いノリで口走っていたのはどこの誰だったか。あれも彼女らしい思いつきだったというなら、頷けるが。
 だったら俺のところにもそんなふうに、軽いノリと思いつきで気楽に飛び込んできて欲しい。少なくとも俺達には四年前の下地があるし、何も知らない間柄じゃない。それどころかお互いの趣味嗜好、生活スタイル、仕事まで理解しあっているような関係だ。何も知らないところから始めるよりもずっと上手くやれる。一緒に暮らしたって、きっと。
「でも園田だって俺と一緒に生きたいって言っただろ」
 俺が先程の発言を持ち出して確かめると、彼女は困り果てたように反論してきた。
「言ったけど、でもまさかその日のうちにプロポーズまでいくとは思わないよ」
「さっきのあれ、プロポーズじゃなかったのか」
 それらしい、思わせぶりなことを言っておいて。俺は少し落胆したが、あの言葉に嘘がないことは知っていたからすぐに気を取り直した。
「俺だって園田が必要なんだ。残すところは結婚くらいしかないと思う」
 笑いながらそう告げたつもりだったが、園田はなぜか怯んだように少しだけ身を引いた。と言っても俺に抱き締められているので、ほんのわずかにだけだ。
「そ、そうだけどさ。もうちょっと付き合ってみてからがいいかなって……」
「まさかそれも一からやり直したいなんて言わないよな?」
 彼女の言葉を制するように尋ねる。
 途端に園田はうっと詰まり、もじもじしながら俯いた。
 ある意味四年前と何ら変わりなく、恋愛には晩熟なままのようだ。それはもちろん、俺もよりを戻せた以上は今までできなかった恋人らしいことをもれなくやり直しては堪能していくつもりではある。だがそれと同時進行で結婚話を進めても問題はあるまい。俺もいい歳だし、彼女だってそうだ。そして結婚すれば、昔と同じ轍を踏むこともない。
「結婚したら同じ部屋に帰れる」
 俺は不退転の覚悟で園田を口説き落としにかかる。
「俺が忙しい時でも園田を寂しがらせないで済む。帰ってきさえすれば会えるんだからな」
 すると彼女はようやく、俺がここで結婚について口にした理由に思い至ったようだ。奥二重の瞳を見開いたかと思うと、ゆっくり聞き返してきた。
「……そういう理由?」
「そう。確かに今すぐとはいかないけど、俺も園田を寂しがらせない為に最大限の努力をする」
 二度と『寂しい』なんてメールを送らなくてもいいようにする。

 あのメールが悪かったわけじゃない。
 何度も言ったが俺は彼女がその一言を送ってくれた時、とても嬉しかった。だがその思いには最大限応えることができなかったし、結果として園田を泣かせてしまった。園田だってあのメールを送ってしまったことを何年も悔やんで、引きずっていたほどだ。できることなら二度と寂しい思いをさせない方がいい。
 そうするのに一番都合がいいやり方は、二人で暮らすことだと思う。

 恐らく彼女の中にもいろんな思いが過ぎっているのだろう。
 俺を見上げる園田は瞬きを繰り返しており、瞳に浮かぶ小さな光がちかちかして、とてもきれいだと思った。
 鈍い光沢を帯びた唇はわずかにだけ開いている。下唇の方が厚みがある彼女の口元を、こんなにも近くで眺めることができたのはいつ以来だろう。ようやくここまで近づけたという思いが胸に込み上げてきて、そうなるとその唇に触れたくなった。
「やっぱりキスしたい。してもいい?」
 思ったことをそのまま声に出すと、園田はその唇を尖らせた。
「駄目。今日はしないってもう決めたから」
「お預け期間が長すぎる。俺なんて二月からずっとしたかったのに」
「そんなに前から!?」
 彼女は動揺していたが、事あるごとに唇を見つめてきた俺の視線に気づかなかったというなら少々鈍感じゃないかと思う。俺が彼女の唇へ目を向ける時、考えることはたった一つだ。記憶に残る、身体が覚えているその感触は、今も変わらずそのままだろうか――確かめたくなった。
 俺は戸惑う園田の頬に片手を添えた。夜風で俺の手が冷えていたのか、それとも彼女の頬が熱を持っているせいだろうか。触れた部分は熱く燃えるようで、手のひらから溶けていきそうなほど心地よかった。
「え……え、本当にするの?」
 園田の声が震えている。四年前とあまり変わらない反応をするところがまた可愛い。
「したい。駄目?」
 聞き返すと困り顔で目を逸らされた。
「駄目って言ったよ、私」
「今夜は一度でいいから。頼む」
 その約束を守る自制心がまともに働くかどうか自信はなかったが、俺は彼女に懇願すると、頬に添えた手の親指で彼女の唇にそっと触れた。厚みのある下唇の柔らかさは記憶にある通り――いや、それ以上だったかもしれない。指の腹で押すとゆっくりと沈み込み、気持ちがいい。
 俺の指が唇の輪郭をなぞると、園田はいよいよ慌てふためき、真っ赤になって震えだした。
「で、でも、付き合い始めたその日のうちにとか倫理的にどうかなって思わない?」
「俺とは初めてでもないだろ。はい目閉じて」
 再度促しても園田はなかなか目を閉じようとせず、ただ迷っている様子は目の動きでわかった。
 あと一押しでその迷いを断ち切れる、そう確信した俺は更に畳みかけようとして――。

 急に、上着のポケットがぶるっと震えた。
 それとほぼ同時に耳障りな電子音が鳴り響き、俺は思わず顔を顰める。
「こっちも電源切っとけばよかった」
 私用の携帯電話は電源を切っていた。石田じゃないが、デートの最中に電話がかかってくるのは興醒めだからだ。しかし社用の携帯電話の方はそうもいかない。
 それにしても休日、それもこんな時間に電話とは一体どういった用件だろう。俺は園田を一旦離すと、鳴り続けてる携帯電話を取り出し、画面に目をやる。
「小野口課長だ」
 表示された名前を読み上げると、園田は驚きに声を上げた。
「え!?」
 驚くのも無理はない。休みの日に上司の名前を聞いたら誰だって戸惑うだろう。
 俺も正直、休日にあの人から連絡を貰うとは予想外だった。何の用件かは想像もつかないが、さすがに無視はできない。
「悪い、ちょっと出ていいか」
「う、うん、もちろん」
 彼女に一言断り、俺はベンチから立ち上がる。

 少し歩いてそこから距離を置きながら、電話に出た。
「――はい、安井です」
『あ、安井くん? どうも、小野口です』
 小野口課長の声が穏やかな聞こえてきたので、俺は苦笑しながら挨拶をした。
「お世話になっております」
『こちらこそ。今ちょっといいかな、話をしても』
「構いませんが、どういったご用件でしょう?」
 今夜は後でかけ直す暇がないかもしれない。内容如何では手短に切り上げようと思いながら、俺は聞き返した。
 すると小野口課長は少し笑い、
『いや、何。園田さんと最近どうかな、と思ってね。その後、進展あった?』
「……ええ、まあ。それなりです」
 とっさに答えられず、俺は曖昧に濁した。
 まさか今、すぐそこにいますよ、とは答えにくい。しかし以前のように攻めあぐねているわけではないことくらいは伝えておきたい。こんな確認の電話をかけてくるほどだ、放っておけばこの人はまた俺達の為に気を回そうとするだろう。
『そうか。君のように優れた人が悪戦苦闘するとは、恋愛というのもなかなかわからないものだねえ』
 顔が見えないせいだろうか。小野口課長の声は妙に楽しげに答えた。
「悪戦苦闘というほどでは……最近はどうにか、仲良くやれてますよ」
 悔しいので反論したかったが、石田や霧島なら明け透けに語れることでも、小野口課長が相手では言いにくい。さっきプロポーズを済ませてこれからキスするところですよ、などとは打ち明けられまい。園田も後で困るだろうし。
『それはよかった。じゃあ改めて、彼女とお見合いでもどうかな』
「え?」
 急に振られた話題に俺が困惑すると、小野口課長は朗らかに話を続ける。
『実はあれからずっと気になっていたんだよ、君達のこと』
「はあ……ありがとうございます」
 それが先月の食堂での態度に繋がるのか。気にかけてくれているのはありがたいが、しかし今になってお見合いとは――。
『君が手こずっているなら是非、手助けがしたくてね。お見合いという席は君達がお互いに関係を見直すいい機会になるんじゃないかな』
 呆気に取られる俺をよそに、電話の向こうの声は立て板に水の勢いで言った。
『恋愛に行き詰まっているなら、いっそお見合いから入るのもありだと思うよ。園田さんだって結婚には興味があるみたいだったし、だからこそ僕もお見合いをセッティングしようとしたんだし』
 そこまで語ると小野口課長はまた笑った。
『で、君に止められたんだったな。まだ園田さんには話してないけど、いつか話せるようになりたいものだね』
「い、いえ、それは……黙ってていただけませんか、その話、彼女には」
 俺は焦った。このことが彼女に知れたら恥ずかしいどころの話ではない。俺が陰で小野口課長に頭を下げて、見合いの話を止めさせていたなんて知ったら、園田は一体どんな顔をするか。想像もつかない。
 ちらりとベンチの方を振り返る。園田はどことなく不安そうにこちらを見ている。片手を挙げて詫びつつ、尚も続く小野口課長の話に耳を傾けた。
『園田さんはこれ聞いたら喜ぶんじゃないかなあ』
 しかもとんでもないことを言われた。
『何だかんだ、女の子はこういう話が好きだからね。お見合いに誘ういい呼び水にもなりそうだよ』
「呼び水、ですか。しかし、俺は園田にはその話は……」
『言ってみなよ、案外こういうのが効果的なんだよ。それでお見合いにも呼べばいいじゃないか』
 小野口課長はどうしても俺達に見合いをさせたいらしい。
 それはそうだろう、見合いの仲人がこの人の趣味だ。俺がさっき仲良くやっていると言ったのに手こずってるだの行き詰まっているだのと散々な評価をする辺りも、どうにかして俺達を見合いの席に呼び込みたいという意思の表れなのかもしれない。

 もっとも、俺達に見合いの必要がないとも言えまい。
 何せ俺は先程のプロポーズへの返事をまだ貰えていないのだ。俺達はよりを戻しやり直すことを決めたが、園田はまだ結婚したいという気にはなれていないようだ――何の為の婚活だったのかと何度目かのツッコミを入れたくなるが、それはさておき、園田に結婚を意識させる為に見合いというのは有効な手段になり得るかもしれない。
 それに今まで失念していたが、小野口課長にここまで気にかけてもらって『課長のあずかり知らないところで上手くいって付き合い始めました、ありがとうございました』で済ませるのはさすがに無礼かもしれない。ここは顔を立てるつもりで、一度くらいその趣味に付き合って差し上げるべきかとも思う。
 問題は――彼女が何と言うか。
 そして俺自身が、仲人を立てた場でどれほど上手く園田を口説けるかだ。一対一なら好き放題できるし雰囲気で押し流すことも可能だが、他に一目のあるところではさすがに、それも彼女の上司が相手では妙な真似もできない。

『どう、お見合い。繁忙期も過ぎたし、そろそろ身体空くんじゃないかと思ってね』
 ぐいぐいと小野口課長が押してくる。
『何ならデートのつもりで来てくれてもいいんだよ。そのくらいの仲にはなっているんだろ?』
「ご……ご存じだったんですか」
 言い当てられて俺が慌てると、朗らかな笑い声が電話の向こうで上がった。
『いいや、今のはかまをかけてみただけだよ。そうか、よかったね安井くん。念願叶ったじゃないか』
 やられた。
 まんまと引っかかって白状させられた俺は、せめて狼狽を悟られないようにと精一杯取り繕って答える。
「ありがとうございます。いいご報告ができて何よりです」
『じゃあ次は結婚の報告でも聞かせてもらいたいな。可愛い部下にはいいお婿さんを貰って欲しいからねえ』
「……わかりました。少し、検討させてもらっていいですか。近いうちにお返事をします」
 眩暈を覚えながら、そう答えるのがやっとだった。
『前向きに頼むよ。君達の幸せに、僕も是非貢献したいんだ』
 実はこの人、俺達の何もかもを見通した上でこんな誘いをかけているのではないか。ふと恐ろしい予感が脳裏に浮かんで、俺は潮風の中で身震いをした。
「はい、ではまた後日お話しさせてください。わざわざありがとうございました」
 挨拶の後で電話を切り、電源も切ろうかという衝動に駆られたがそれはさすがにやめた。上着のポケットにしまう。
 時間にして数分の通話だったが、どっと疲れていた。ものすごい課題を背負う羽目になったせいか、肩の辺りが重く感じた。
 今更だが、俺はまずい相手に弱みを握られたのかもしれない。

 ベンチに戻ると、園田は俺を案じてかじっと視線を向けてきた。
 俺はその隣に腰を下ろし、思わず深く息をつく。
「しまった。すっかり忘れてた……」
 ぼやく俺の顔を、彼女が覗き込んでくる。
「何かあったの? 会社に呼び出しとか?」
 心配してくれる彼女の優しさが、くたびれた俺の心身に染み込むようだった――たったあれだけの通話でくたびれきっている俺も俺だが。
「いや、違うよ。そういう話じゃない」
 俺は彼女に向かって手を振ると、やむなく正直な事情を打ち明けた。
「小野口課長が、またお前とのお見合いをセッティングしたいってさ」
「ええ!?」
 園田は目を瞬かせた後、すぐにはにかんで言った。
「あれきり何も言われてなかったから、もう済んだ話なのかと思ってた」
 彼女からすればそうだろう。四月の時点で片がついた、もう済んだ話のはずだ。
 しかしあの後、園田の知らないところで俺と小野口課長は話し合いをしていた。その時のことを、やはり話さなければならないのか。
「まあ、な。一度断ってはいたんだけどな」
 俺が躊躇すると、園田は不思議そうに呟く。
「じゃあ何で、それも今頃になって? 小野口課長ってわからないなあ」
 真実を打ち明けたら、彼女はどんな顔をするだろうか。
 その顔は見てみたいと思う反面、それには俺がこれまでになく恥ずかしい経緯を洗いざらい彼女へ打ち明けなければならない。

 だが、言わないわけにもいかない。
 見合いについては小野口課長に近々返事をしなくてはならないし、この件を放っておいたら小野口課長がよかれと思って園田に情報を洩らしそうだ。そちらの方が余程恥ずかしいに決まっているので、俺は自分の口で彼女に話しておくべきだろう。
 それにしても。俺の人生、ここに来て恥が増えていくばかりだ。
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