Tiny garden

決して絶えず、限りないもの(3)

 臨海公園の中を時折潮風が吹き抜けて、園田の前髪を揺らしていた。
 その下にある彼女の瞳は、戸惑いの色を浮かべて俺を見ている。
 初めから全力ですれ違っていた俺達の認識と、恋愛観と、そしてあの頃の気持ちを、ようやく重ねられる時が来たのかもしれない。

「俺は園田の前では格好つけていたかったから、別れようって言われた時も受け入れることにしたんだ」
 視線を彼女から外さずに、俺はあの頃の気持ちを打ち明ける。
「園田が、優しい男が好きだって言うから、未練がましく縋ったりしないでほとぼりが冷めるまで待ってやろうと思ってた」
 見栄とプライドを捨てきれなかった。園田をあれ以上泣かせたくもなかった。何より俺自身が仕事で疲れ切っていて、彼女のことまで頭が回らなかった。
 今となっては何もかもただの言い訳でしかない。
 だが、あの頃の俺が園田に求めていたものはわずかだった。彼女の言うような優しさや思いやりなんかじゃない。それさえあれば、俺は絶対に園田の手を離さなかった。
「園田も、俺が必要だって思ってくれるだけでよかったんだ。俺を気遣ってる余裕もないくらい、俺が欲しくて人生に必要だって思ってくれてたら」
 俺がそう告げると、彼女はその言葉を全身で呑み込もうとするみたいにゆっくりと瞬きをした。
「じ、人生に……?」
「そう、人生に。今はそう思わないか、園田」
 言い含めるように繰り返す。
 いきなり言われれば重い単語のように感じられるかもしれない。だが俺達はもう何年も互いの人生に関わりあってきたはずだ。少なくとも俺はこの四年間、園田のことを考えない日はないほどだった。もはや俺には彼女のいない人生なんて考えられない。
「そこまで真面目には考えてなかったかも」
 一方、園田は気まずげに口を開く。
「あ、もちろん安井さんは理想の結婚相手だと思うし、一緒にいて楽しいし、幸せだけど……」
 フォローするように続けたが、俺は思わず苦笑した。
 恋愛を人生単位で考えない人間が、よくもそれを飛び越えて結婚しようなんていう気になったものだ。
「園田、婚活してたんだろ? どういう奴が自分の人生に必要かって、考えなかったのか?」
 苦笑して尋ねると、彼女はたじろいだ。
「あ、あんまり……。どういう人となら気が合うかな、とは考えたけど」
「すごいな。そんなアバウトさで婚活なんてしてたのか」
 俺は目を伏せて、思わず嘆いた。
「いい加減な男に捕まってたらどうする気だったんだ。危なっかしい」
 婚活の現場がどんな具合かは知らないが、園田が大切にしているもの達を尊重してくれる男がどれほどいるか。聞けば彼女の得意な豆腐料理やロードバイクはそういった場であまりいい顔をされなかったようだし、結婚に際し妥協ばかり求めてくるような男が相手ならいろんなものを諦めなければいけなくなっていたかもしれない。それらの趣味嗜好も含めて、園田の全てを愛してくれる男なんて、俺の他にいるはずがない。
 園田が何か反論したそうな、いささか反抗的な顔つきをしたので、俺は機先を制するつもりで彼女に言った。
「じゃあ今考えてくれ。その上で俺が必要だと思うなら、そう言って欲しい」
 出すべき答えは単純明快だ。
「俺はお前が必要だ。切実に、お前が欲しい」
 だから俺も極めてシンプルに告げた。

 あの時、森林公園へ行った日の帰りにそう言えたらよかった。
 そうしたら俺達はここまですれ違うこともなく、もっとわかりあうこともできたし、離れる必要だってなかっただろう。
 だがそれも過ぎたことで、今の俺達は四年の月日を経てきたからこそ、こうしてここにいる。
 俺の目の前にはあの日から絶えず想い続けてきた相手がいる。
 今こそ確かめたい。あの日抱いた直感が正しかったことを。

 園田は俺の言葉を聞くと、かっと頬を上気させた。
 とは言えすぐに受け入れられたわけでもないようだ。潤んだ瞳を困惑気味に泳がせて、しばらく思案に暮れていた。彼女の中で考えがどのように推移し、構築され、どんな答えが導き出されたのか、表情からはわからない。
 ただ次に口を開いた時、園田は唇を震わせていた。
「……豆腐」
 声も震えていた。表情は緊張に強張っていた。そんな彼女が呟いた単語を、俺はすぐさま聞き返す。
「豆腐?」
「うん」
 彼女が頷く。まだぎこちない。
「私が豆腐食べたいって言って、付き合ってくれるのは、安井さんしかいないよ」
 それでも、ぎこちないながらもそう言ってくれた。
 園田もわかっているのだろう。俺しかいないということを。いつの間にか俺は園田に引けを取らないくらい豆腐が好きになっていたし、今も園田の豆腐料理が食べたくてたまらない。
「もちろん、付き合うよ。俺も好きだ」
 俺が彼女の言葉に同意すると、ほっとしたのか強張っていた表情がいくらか和らいだ。
 だからか次の言葉は、先程よりかはなめらかだった。
「それと、自転車。安井さんは私の趣味を知っててくれてるし、それに服を誉めてくれるよね」
「園田には自転車乗る時の格好が、一番よく似合ってるからな」
 俺は正直に言った。

 もちろん今夜の服装もきれいだ。園田が俺の為に女らしい格好をしてきてくれた。そのことは嬉しいし、俺も昔、そんな彼女に似合う腕時計を贈ろうと思っていた。
 だが園田に一番似合うのは、彼女を最も輝かせるのは、やはり活発そうなサイクルウェア姿だと思う。
 ついでに言うと俺は、彼女がスパッツをはいているのを見るのが好きだ。最初に見た時の印象が強く残っているせいもあるだろうが、彼女のきれいな脚を一層きれいに見せてくれる。できることなら生涯、この脚を眺めて、撫で回して過ごしたい。
 そして園田自身も、生涯傍にいて眺めていたい。触れていたい。

 園田は俺を見つめ返している。
 震えなくなった唇が、慎重に切り出した。
「それに、こんなに好きになれる人、他にはもういないと思う」
 今の言葉は、心に染み込むようだった。
 はっきりと彼女が口にしてくれた時、俺は安堵した。不安がなくなったことにほっとして胸を撫で下ろすのは格好悪いかもしれない。でもそうせずにはいられず、俺は照れながら彼女に応じた。
「俺も好きだよ、園田」
「うん」
 園田はまだ笑わない。俺の返答を、真剣な面持ちで受け取ってくれた。
 それから、
「あと……私も、安井さんが――」
 後に続く言葉を言いかけて、園田は一度息をついた。
 ためらったというよりは、上手く言えそうにないことを形にしようとしていたのかもしれない。一呼吸置いた瞬間、彼女の顔に浮かんだのは覚悟の表情だった。
 その顔を見た時、何を言われるのだろうと思った。
「安井さんと一緒に生きてみたいな。今度は最後まで、ちゃんと」
 園田は真面目な顔で、そう言った。
 欲しかった答えに違いなかったのに、俺はなぜか驚いていた。好きだった、と言われる以上の愛の告白を受けたような気がした。
 いや、事実そうだろう。彼女は俺と生きたいと言っている。俺が、俺の人生に園田が必要だと言ったのと同じように――それは一番欲しかった答えだ。
「まるでプロポーズの言葉みたいだ」
 俺が感嘆すると、園田は咎めるみたいに苦笑する。
「『あなたが人生に必要だ』っていうのと、意味は全然違わないと思うんだけどな」
 確かにそうだ。その通りだ。
 俺達はようやく、同じ想いを抱きあうまでに至った。
「でも私は安井さんが必要だっていう以上にね、安井さんに必要とされて、すごく嬉しいよ」
 園田がはにかみながら言い添えると、俺はもう笑わずにはいられなくなっていた。

 今はすごく真面目な話をしている時だ、笑うのはおかしい。
 でも込み上げてくる笑いを堪えきれなかった。
 幸福感が胸に満ちて溢れ出しそうで、声を上げて笑いたくなった。人生でこれまでこんな局面は何度もあった気がするのに、今の幸せはこれまでとは比べものにならない。みっともないくらい必死になって追い駆けてきたこの恋が、ようやく報われたのだ。
 ようやくこの手に彼女が戻ってくる。
 あの時離してしまった手を、今なら繋ぎ直すことができる。

 俺は園田の手を握ろうと思った。隣りあって座っているからそれは簡単なことだ。
 でもそれ以上に、もっと彼女に近づきたくなって――俺は幸せに笑いながら、腕を伸ばして園田の身体を捕まえると、胸に抱き込んだ。
「わ、わあっ」
 園田は声を上げたが、その身体は抵抗もなく俺の腕の中に収まった。
 彼女のさらさらした、柔らかい髪が俺の首の辺りに触れる。いい匂いがした。潮風のせいか少し冷たかった。でも抱き締めた身体は柔らかくて、内側からほんのりと熱を放っているようだった。
 身体が覚えている通りだった。俺はそれを確かめるみたいに力を込めて彼女を抱き締め、その感触と体温、そして香りを味わった。彼女はずっと、されるがままだった。
「園田」
 名前を呼びながら、彼女の髪を撫でてみる。
 これも記憶にある通りだ。園田の髪はさらさらしていて触り心地がよく、柔らかくて指先でとろけるようだった。ずっと撫でていたくなる。
「……何?」
 園田は俺の肩口に顔を埋めるようにして、くぐもった声で応じた。
 俺は彼女の髪を指で梳きながら、隙間に覗く耳元へ囁く。
「こう言うのも何だけど、かなり久々に幸せだ。ありがとう」
「うん」
 彼女が戻ってきた。
 俺は、彼女を取り戻したのだ。
 これが幸せでなくて何だろう。

 今までずっと、俺は半身を失くしたような気持ちで日々を過ごしてきた。
 彼女の手を離した日からずっと後悔ばかりしてきた。彼女を失うという局面でさえ見栄とプライドを捨てきれなかった自分にほとほと嫌気が差していた。
 だがそういうものは一度脱ぎ去ってしまえばどうということもなかった。むしろ身軽になれて清々した。今の俺は昔ほどは格好よくないだろうし、みっともなくて必死過ぎて無様だ。
 それでも必死になったからこそ、俺の腕の中に彼女がいる。
 誰にどう思われてもいい。笑われても、馬鹿にされてもいい。

「後悔なんかさせないからな」
 抱く腕の力を更に強めて、俺は彼女に言った。
 このまま身体がくっついてしまって、片時も離れないくらいになればいい、とさえ思う。もうどこへも行かせたくない。離したくない。
「しないよ。何があったって」
 園田が俺の腕の中で囁き返す。微かな吐息が胸に感じられた。
「戻ってきてくれて嬉しい」
「うん……出戻りだから、ちょっと恥ずかしいけどね」
 彼女は照れているようだ。声でわかった。
「別に恥ずかしいことじゃないだろ」
 俺が笑うと、園田は溜息交じりに反論してくる。
「いや、でも、結構照れるよ。間違えてばかりの人生だったなって思って」
 だが人生なんてそんなものだ。上手い具合に正解ばかり選べる奴なんてそうそういるもんじゃない。大抵の人間は時として選択を間違え、その過ちを後々まで引きずって悔やんだりもする。だが過ちを犯す度に何かを得る。それも事実だ。
「間違えても、得るものがあったならいいんだよ」
 俺は園田にそう言ったが、まるで他人事のような物言いだと思って、すぐに付け加えた。
「俺だって他人のことは言えない。三十になっても未だに時々間違う」
「安井さんでも間違うことあるんだね」
 園田が意外そうな声を立てたが、彼女こそ知っているはずだ。俺の過ちも、後悔も、そこから始まった実に無様な年月も。
「あるだろ普通に。園田のことでは試行錯誤ばかりしてた」
 そう答えると彼女は俺に寄りかかりながら、まるで慰めるように少し笑った。
「あ、一緒一緒。私もそうだったよ」
 ここで慰められるのも複雑だ。俺は深く溜息をつく。
「本人に同情されるのって微妙な気分だな」
「同情じゃなくて、わかるって言ってるの」
「わかってたんだったらもうちょっと……」
 俺の過ち、迷走ぶりに早い段階からの理解が欲しかったところだ。お前の『なかったことにした』すげない態度に俺は何度振り回され、へこんだことか――愚痴を零しかけたが、それも過去の話だ。今は置いておこう。
「まあ、いいか。今更だ」
 そう呟いて俺は、今はただこの時間と、腕の中にいる園田の感触を楽しむことにした。

 公園に来てからどれほど経ったのか、わからなくなっていた。
 時計を見る気にはなれなかった。時間がどれほど経とうと、彼女を離す気はない。このままずっと二人きりで、片時も離れずに夜を送りたいと思う。
 臨海公園は相変わらず人気がなく、それが余計に俺の感覚を麻痺させていたのかもしれない。夜が更けていくごとに潮風は冷たくなってきたが、抱きあっていればそれも気にならない。俺は彼女の身体の柔らかさを堪能し、温もりを求めて彼女を抱き締め続けた。
 園田もこの時間を楽しんでいるのかもしれない。俺の腕の中にいる間はいやにおとなしかった。髪を撫でられていると心地いいのか、俺にもたれかかってきてくれた。彼女の重みが懐かしく、こうして寄り添っていられる幸せを噛み締めていた。

 だが、人間というのは欲深いものだ。
 黙って抱きあっていてもそのうち、他のことがしたくなる。
「園田」
 俺は再び彼女を呼んだ。柔らかい髪の隙間に見える可愛い耳に、吐息が触れるような距離で囁いた。
 園田はわずかに身じろぎをしたが、顔も上げずに返事をした。
「何?」
「ちょっと、顔上げて」
「やだ」
 要求を一蹴されて、俺は苦笑した。
 これは魂胆を見抜かれているようだ。だが、だからと言って引き下がれるような気分でもなかった。
「何でだよ。顔が見たいんだ」
「見るだけじゃないでしょ、このパターンは」
 さすがは園田。俺のやりそうなことは熟知している。
「じゃあわかった。キスしたいから顔上げて」
 素直になって要求すると、顔を上げない彼女の耳がほんのり赤らんだように見えた。
「やだ」
「やだって何だよ。傷つく言い方するなよ」
「こういうのって最初に許すと、それ以降もずるずる流されたりするから」
「まるでそういう経験があるみたいに言うな」
 そこまで言うほどずるずる押し流しただろうか――してたか。
 心当たりはなくともないが、それだって俺のことが好きだったから受け入れたんじゃないのか、とは思う。
「あるから言ってるんだよ! 安井さんこそ他人事みたいに!」
 顔も上げずに園田が声を張り上げたから、その姿が可愛くて俺はつい笑ってしまう。
「園田もよく覚えてるな」
「忘れられない。いろんな意味で」
「覚えててもらえて光栄だよ。なら、何にもしないから顔上げて」
 そう言って顔を上げた瞬間に唇を、といういたずらは、昔付き合っていた頃に何度かしたことがある。鵜呑みにして顔を上げてはキスされて真っ赤になる園田が可愛くてたまらなくて、ついからかってしまったものだ。
 狼少年の話ではないが、そういう意味で俺の信用はないも同然だ。
 ただ、今はいたずらで言っているわけじゃない。
 そろそろ園田の顔が見たい。そして、顔を見て話しておきたいことがもう少しだけあった。

 長きにわたるすれ違いを晴れて脱した俺達だが、その過去のお蔭で、恋人同士がするようなことは既に大体済ませてある。
 だからもったいつけずにこのまま、次へ進んでしまってもいいと思うわけだ。
 俺達なら上手くやれる。かつて抱いた直感が確信に変わりつつある。こうしてやり直すこともできたのだ。俺達は先へ進んで、新しい関係になることだってきっとできる。
 そういうことを、園田に言おうと思っていた。
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