Tiny garden

決して絶えず、限りないもの(2)

 食事を終えて店を出たのは午後七時半過ぎだった。
 俺の車の助手席に再び乗り込んだ園田は、二杯のお茶割りがほんのり効いているのだろう。物思いに耽るような目で自分の腕時計を見ていた。

 フロントガラスの向こう、広がる空は日が落ちて藍染めのような色をしている。俺はその空と彼女を見比べながら、エンジンをかけるより先に切り出した。
「まだ帰るには早い時間だよな。寄り道しないか、園田」
 途端に園田が黙って眉根を寄せた。
 ほろ酔い気分らしい目が冷ややかに俺を見たので、答えを聞く前に俺は脱力する。
「お前、『案の定』って顔するなよ」
「いかにも安井さんらしい手口だなあと思って」
 園田はそんなふうに俺の誘いを評した。
 しかしそういう物言いは心外である。こちらは純粋に『もう少し一緒にいたい』と思った上で誘ったのだ。それは確かに下心が全くないとは言わない、むしろ山ほどあるがそれはそれとして、こちらからの好意的な誘いを皮肉っぽく評価して何になるのかと思う。
「手口って言うな。このまま帰るなんてもったいないと思わないのか」
 俺が言い返すと、彼女は意外にも素直に頷いた。
「それは思うよ。もうちょっと一緒にいたいよね」
 言うなり園田は助手席のシートに深くもたれかかり、静かに息をついてみせた。
 やはりいくらか酔っているようだ。上下する胸の動きに合わせて、震えるような吐息が聞こえた。
 拒まれなかったなら幸いと、俺は手早く話を進める。
「どこがいい?」
「私が決めていいの? じゃあ、風のあるところがいい」
 それなら、ちょうどいい場所がある。夏でも心地よい風が吹き、程よく暗くて、この時間だと人気も少ない。まさに絶好のロケーションだ。
 ついでに言えば俺達の思い出の場所でもあるわけだが、彼女は覚えているだろうか。
「了解。車出すよ」
 俺がエンジンをかけようとすると、園田がはたと気づいたように身を起こす。
「あ、それと明るいところ。行っても怖くないような場所がいい」
「悪いな、それは候補にない」
 せっかくの夜にわざわざ明るいところへ行ったって、ムードも何もないじゃないか。俺は彼女の要望を笑顔で聞き流すと、今度こそ車のエンジンをかけた。

 店の駐車場から車を出すと、海岸通りを目指して走らせる。車窓の景色を眺めていた彼女も程なくして察したようだ。
「臨海公園?」
「そのつもり」
 俺は短く答えた。
 横目で窺うと、助手席の園田は心なしか硬い表情をしている。それでいて、誤魔化すように軽い口調で言った。
「カップルとかいないかな。あんまり多いと落ち着かないかも」
「この時間ならまだ大丈夫だよ。カップルだって食事中だ」
 そうだと思って、今夜の待ち合わせも早めに設定したのだ。あまり遅くなるとああいう場所は混み合う。ざわざわと賑々しい中で深い話なんてできっこないからな。
「まあ、明日も休みって人多そうだしね。急いでご飯食べたりしないよね」
「そういうこと」
 土曜の夜のデートには様々な思惑が渦巻いているものだ。
 急いで食事を済ませる連中は食事の後にお楽しみが待っているか、そうでなければ楽しい思いができるかどうかの瀬戸際にいるか、というところだろう。
 もちろん俺達は後者だ。だから海へと急いだ。

 海岸沿いに車を走らせること二十分、特に渋滞に巻き込まれることもなく、車は臨海公園の駐車場へ乗り入れた。
 読み通り駐車場に車の影はほとんどなく、車を降りてみても静かなものだった。まだ遠く聞こえる潮騒と、吹きつけてくる少し温い潮風の音だけが辺りに満ちている。
 先に車を降りていた園田が、煌々と点る水銀灯の明かりを黙って見上げている。
「寒くないか?」
 まだまだ気温が高いとは言え、風は既に秋のものになりつつあった。俺は彼女に尋ねたが、その顔を覗き込んだ瞬間、吹き出さざるを得なかった。
「園田、もう雰囲気に呑まれてる」
 彼女の顔色は紙のように白く、唇も見てわかるほど震えていた。俺を見る目も瞬きが多く、緊張しているのがありありとわかる。
「あ、当たり前でしょ。こういういかにもなデートは久々だから!」
 顔を覗き込まれた園田は眉を吊り上げ、むきになって反論してきた。
 それはいいことだと、俺は酔ってもいないのに楽しい気分で笑った。それから落ち着きのない彼女へ手を差し出してみる。
「手繋ぐ?」
 俺の手を見下ろした園田が、すぐさま顔を上げて俺を睨んだ。
「繋がない!」
 からかわれたとでも思ったのだろうか。拗ねた顔をしている。
「それは残念だ。とりあえず、少し歩こうか」
「……うん。いいよ」
 それでも俺が促すと、思いのほか素直に隣に並んでくれた。
 そして二人で、久々に、臨海公園を歩き始める。
 公園内にも人の姿はまばらだった。少なくとも石畳の遊歩道を歩くうち、カップルが一組と犬の散歩をする一人、計三人としかすれ違わなかった。公園の中は駐車場よりも潮騒が近く、風に含まれる潮の香りもより強かった。だが遊歩道沿いに立ち並ぶ水銀灯の光は海まで届かず、夜の海は月明かりがなければ一面の闇にしか見えなかったかもしれない。
 そんな夜の臨海公園を歩くうち、俺は以前来た時のことを少しずつ思い出していた。

 四年前は日没前を見計らって、彼女をここへ連れてきた。
 お蔭で公園内も一面の海も夕日の色に染まっていて、きれいだった。同じようにオレンジ色に染め上げられた園田も、もちろんきれいだった。
 手を繋いだ時は、今日と違って前もって断らず、黙って先に手を握ってから彼女に嫌じゃないかと尋ねた。いつもは外で手に触れられるのを嫌がる彼女も、この時だけは俺に手を繋がせてくれた。
 隣を歩く園田の短い髪が夕日に当たってきらきらしていて、その隙間から覗く彼女の耳は空の色よりも真っ赤だった。
 あの頃は幸せだった。わくわくしていた。不安なんて何もなかった。
 だが回り道こそしたが、今だって幸せだ。これから起こるであろうことにわくわくしている。不安だけは正直、かけらもないとは言えない。だがあの頃信じていたように、そういうものも俺達なら乗り越えられると信じている。
 こうしてもう一度、かつて出かけた場所へ戻ってくることができた。
 俺達はきっとやり直せるだろう。そう信じている。

 公園内を歩く間、園田はずっと黙り込んでいた。
 だがそれは来た当初にあらわにしていた緊張のせいというよりは、何か言葉を探しているようなそぶりに見えた。歩きながら、言うべきことを頭の中でまとめようとしているようだった。だから俺もあえて自分からは話しかけなかった。夜の散歩を楽しみながら、時々園田の真剣な横顔を眺めた。潮風に揺れる園田の短い髪は、水銀灯の下でもきらきらしていた。
 しばらく遊歩道を歩いていると、やがて見えてきたベンチの前で園田がこちらを向いた。
「座る?」
「そうしよう」
 俺は即答した。
 遊歩道脇に置かれたベンチは手入れが行き届いているのか、年季は入っているがきれいなものだった。俺と園田はタイミングを合わせたように、ほぼ同時に腰を下ろした。この公園は高台にある為、座ると夜の海がまるっきり見えなくなる。だが俺も園田もそんなことは気にしていなかった。
 俺の左隣に座る園田とは、十センチほど隙間ができていた。その距離を詰められるような段階でないことはわかっている。園田もその距離はまだ維持していたいのか、スカートの裾を気にして座り直した際も同じだけの隙間が空いていた。

 ベンチに座ってからも、俺達の間にはしばらく沈黙が続いていた。
 園田はまだ言葉を探しているようだ。視線を遠い夜空へ投げて、唇を引き結んでいる。普段、顔いっぱいで笑ったり照れたり拗ねたりする彼女は可愛いものだが、こうして真面目な顔をしているとやはり昔とは違う大人の女だと思う。
 夜の闇に浮かび上がるようなその横顔に、頬に触れたい衝動を呑み込んで、俺はじっと彼女の言葉を待っていた。今ならどんな言葉だろうと受け止められる。園田がくれるものなら、何でも欲しい。

 やがて園田がベンチの上できれいな脚を二、三度揺らして、すぐにやめた。
 それからちらりと目の端で俺を見て、少し笑った。
「人から聞いたんだけどね」
 俺も彼女の方へ顔を向け、黙って耳を傾ける。
「世の中には婚約まで漕ぎ着けても、上手くいかなくて別れちゃう人達もいるんだって」
 彼女はそう続けたが、こういう雰囲気の中で切り出す掴みとしてはなかなか斬新だと思えた。
「何の話?」
 とっさに意味がわからず聞き返すと、園田は屈託なく答える。
「だから、人から聞いた話」
「いきなり失敗したケースから語り出すとか、園田はチャレンジャーだな」
 もう少しムードを考えて話題を選んでもいいのにな。俺は内心苦笑したが、彼女が話を続けたがっているようだからとりあえず聞いてみることにする。
「聞いた時に何か、驚いたんだ。そういうこともあるんだって」
「別に珍しい話ではないだろ。人間関係なんてどんなきっかけでも破綻する」
 俺達が、現にそうだ。
 あんなにもたやすく壊れてしまうなんて思わなかった。
「まあそうだけど」
 園田はまるで他人事のように顎を引き、
「長く付き合って、婚約までしても駄目になっちゃうって、じゃあ何を信じていいのかって話にならない?」
 一体誰からそんな話を聞かされたのか――心当たりは一人だけいたが、噂だけで確信はなかったし、詮索する気にもなれなかった。
 ただ園田がそういう切り口で話を始めた意味だけは知りたいと思う。
「テンカウントの、ナインくらいまでは行ってたんじゃないかって、その人は言ってた」
 女らしい指を一つ一つ折り畳みながら、園田はそう言った。

 ナインカウントか。件のその人がどんな恋愛をしていたのかは知る由もないし、なぜ駄目になったのかがわからない以上はどんな感想も抱きにくい。
 ただどういう経緯にせよそういう話を園田にしたということは、その人物はある程度過去に未練があるのだろう。そういう心理だけは俺にも共感できた。

「テンカウントまで行くとどうなるんだ? 結婚か? まさか永遠の愛とか言うんじゃないだろうな」
 俺の問いは後者が当たりだったようだ。
 たちまち園田は慌て始め、頭を絞ってこう答えた。
「えっと、多分、揺るがぬ愛?」
 受け売りの言葉とは違い、園田が自ら口にした言葉は可愛くて、真っ直ぐだ。
 俺は思わず笑ってしまい、彼女に続きを促した。
「私は――私達は、半年くらいしか付き合ってなかったじゃない。短い間だけだったから、別れたらもうなかったことになるのかと思ってた。でも、そうじゃなかった」
 彼女がなかったことにしようとしているのは知っていた。
 別れてから長い間、俺は園田からわかりやすく避けられていた。それがいつ終わったか、はっきりとは覚えていないが、恐らく俺を避けるのをやめた時に彼女の中では一度『なかったこと』になっていたのだろう。
 だがそういった時間さえも、彼女の中には確実に刻まれ、降り積もり、消えずにずっと残されていた。なかったことになんてならなかった。俺だって同じことだ。
 あれだけお互いに深く想い合った時間を、忘れて、失くしてしまえるはずがなかった。
「カウントで言ったら、私達の場合は三つようやく数えたくらいだったと思うけど」
 園田がもう一度指を折り畳む。
 今度はたった、三つしか数えなかった。
「一緒にい続けるのに足りなかったのは時間じゃなかったんだって、最近ようやくわかったよ」
 もちろん、そうだ。たった半年の付き合い、そんなものが直接の原因になるわけがない。まして八年も前から俺を好きでいてくれたという園田が、たった半年で俺に愛想を尽かして見限ったということなら――それではあまりにも俺が甲斐性なしじゃないか。
 一緒にい続けるのに何が足りなかったか、自分ではわかっているつもりだ。
 だが園田の考えも聞いてみたかった。俺は尋ねた。
「何が足りなかったと思ってる?」
 すると園田はあらかじめ聞かれることを予測していたように、すらすら答えてみせる。
「優しさと思いやり、かなあ。もっと安井さんのことを労われてたら、思いやれてたら、私達はもっと一緒にいられたよね」

 優しさと、思いやりか。
 彼女らしい答えだ。純粋で屈託がなく、だが真実からは少し遠い。
 そういったものはあの頃の俺達にもあった。

「俺は、そうは思わない」
 園田の答えを、俺はきっぱりと切り捨てた。
 すぐに彼女が俺の顔を見る。驚いているのか目を丸くしている。
「何について、そう思わないの?」
「ほぼ全部。時間なんて関係ないってところだけは同意できるけど」
 俺は彼女の語り聞かせるように続けた。
「俺達に優しさや思いやりはもう必要ない。あの頃だって多すぎたくらいだ」
「そ、そうかな。でもさ、私はもうちょっと多忙な安井さんを労わってもよかったと思わない?」
 園田は、俺が彼女の意見を否定したことにうろたえているようだ。説くような口調だった。
 だが彼女は今でもわかっていないようだ。
 あの頃の俺が欲しかったのは労りではなかった。
「俺は園田がもう少し甘えてくれてたら上手くいったのにって思ってるよ。『寂しい』じゃなくてはっきり『会いたい』って言ってくれてたら」
 どうしたって見栄やプライドを捨てきれなかった俺には、優しさや思いやりなんて必要なかった。気遣われていたらかえって苦しかったことだろう。
 園田はもっとわがままになってくれてもよかったんだ。社会人一年目からずっと好きだった奴と付き合えたんだから、もっと自分のしたいことをして、俺に要求すればよかった。その方がずっと楽しい恋愛ができたはずだ。
「そもそも恋愛ってのは、自分の為にするものだろ」
 俺は身を屈め、隣に座る園田の顔を覗き込んで告げた。
 顔を近づけると彼女は眼を大きく瞠り、戸惑った様子で聞き返してくる。
「そう、なの?」
「そうだよ。誰だって自分が幸せになりたい、気持ちよくなりたいって欲求から人を好きになる」
 相手と一緒にいたい欲求も、相手を喜ばせたい欲求も、笑わせたい、尽くしたい、傍にいたい、めちゃくちゃにしてやりたい――全て自分が気持ちよくなりたいから湧き起こるものだ。恋愛感情とは所詮、自分本位な感情でしかない。だからこそ赤の他人から与えられる気持ちよさに、誰もが初めは戸惑うのだ。
「確かにそういう側面もあるかもしれないけど、相手を幸せにしたいって気持ちだってあるでしょ?」
 園田が懐疑的な声を上げたので、俺はかぶりを振った。
「それだって自分の為だろ。好きな奴の悩み苦しむ顔は見たくないとか、自分の傍にいる時は幸せそうにしていて欲しいとか思うものだ」

 他人の幸せを願うのも同じ理屈なのかもしれない。
 誰が相手でも暗い顔は見たくない。会う度に溜息つかれて愚痴吐かれるよりは、幸せそうにしてくれている方がいい。俺が誰かの幸せを願う時、それは結局いつも俺自身の為だった。
 今も、園田に対して思っている。
 園田には幸せになってもらいたい。
 俺が、俺自身の手でそうしたい。その方がきっと、気持ちいい。

「俺は、あの頃の俺達こそナインカウントまで辿り着けてたと思ってる」
 きっとあと少しだった。
 弟がいなくなった部屋に彼女を呼べるようになるまで。彼女の為に作った合鍵を渡せるようになるまで。彼女のことを社内の誰かに話せるようになるまで。
 あの頃は手が届かなかったその『あと少し』を、今こそ掴み取ってやる。
「あと一つ足りなかったのは優しさじゃない。体面とか変な遠慮とか無駄な我慢とか、そういうものを全て吹っ飛ばせるくらいの強い気持ちだけだった」
 俺は園田を見つめて、言った。
 今の俺にはその気持ちがある。確信していた。
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