Tiny garden

彼女に似合うこと(5)

 俺と園田は少しずつだが、かつての幸せを取り戻しつつあった。
 例えば、夜に電話をするようになった。
 まだお互い仕事が忙しい時期だから、退勤して帰宅後のほんの数分の通話しかできないが、それでも疲れて帰った夜に園田の声を聞けるのはいい。
 長い間、電話番号を知っていてもなかなか電話をかけられなかった。その当時のことを振り返れば、今はまるで夢のようだ。

「園田の声が聞けたら、また明日も頑張れる」
 短い電話の間に、俺は彼女へ精一杯の気持ちと感謝を伝えるようにしている。
 検定を間近に控えた彼女にとって、帰宅後の時間も非常に貴重なもののはずだった。それを俺の為に少し分け与えてくれるその気持ちが胸に染みた。
「だから五分でもいい。こうして話ができれば嬉しい」
 そう告げると、電話の向こうの園田は優しい声で労ってくれた。
『安井さん、お疲れ様。今日も頑張ったね』
 俺はその声を目を閉じて聞いていた。
 こんな優しい声でこんな言葉を、もう一度聞けるようになるなんて。
 嬉しいなんてものじゃない。この幸せをしみじみ噛み締めたい。
 もっとも、あんまり浸っているとせっかくの通話時間がどんどん過ぎていってしまう。せっかく園田と話ができるのだから、この時間も大切にしなくては。
「ああ、お互いにな。園田は何時に帰ったんだ?」
『私もつい一時間前くらいに。もう遅いからこのまま寝るつもり』

 今日は彼女の方が先に退社していた。
 天気はよかったから恐らく自転車で帰ったのだろう。きっと今頃はシャワーでも浴びて、楽な部屋着にでも着替えているところか。
 そういえば園田の部屋には何度か泊めてもらったことがあるが、彼女は普段どんな格好をして部屋で過ごし、そしてどんな格好で眠りに就くのかは知らなかった。俺が訪ねていくと園田はいつもデート用の可愛い服を着て出迎えてくれたし、一緒に寝る時は寝間着の類を着る必要がなかったからだ。

「今の園田がどんな格好してるのか気になる」
 興味の赴くままに疑問を口にすると、園田はちょっと笑った。
『え、どんなって。別に普通だよ、何で?』
「園田はパジャマ派? Tシャツにジャージ派? まさかベビードールなんてことは――」
『五分しかない貴重な電話でセクハラか! 時間がもったいない!』
 俺が質問を畳みかけたら途端に突っ込まれてしまったが、これをセクハラと呼ばれるのは心外だ。嫌がらせのつもりで聞いてない。
「聞いておかないと気になって夜も眠れないだろ。俺の安眠の為だ」
『知らないよそんなの。適当に、股引でもはいてる姿想像しとけば?』
 園田の答えは素っ気なく、そして色気もなかった。
 いや、股引は確かに色気もないし単体なら萎えるどころの話ではないが、園田の脚はよく引き締まった非常に見栄えのする脚だ。彼女なら股引ですらも見事に着こなしてみせるかもしれない。
「……園田の脚なら、それはそれでありかもしれない」
 思わず唸る俺に、園田は呆れたようだ。
『安井さんはこんな話してて楽しい?』
「ああ、楽しい。すごく。とても」
 すると彼女は盛大に溜息をつく。
『私には怒られるだけで済むけど、他の子にやったら訴えられかねないからね』
「心配しなくてもいい。園田にしかしないから」
 むしろ、園田が相手だからこそするのだ。こういう話を。
『私も怒らないとは言ってないからね! 時間の無駄だって言ってんの!』
 園田がちょっと怒ったような声を上げたので、俺はすかさずやり返しておく。
「五分しかない貴重な電話でお説教なんてやめよう。時間がもったいない」
『しかもそれさっき私が言った!』
 彼女の抗議に俺は声を立てて笑った。こんな他愛ない会話が、今は楽しくて仕方がなかった。
「いいだろ。こういうところから地道にやり直すべきなんだよ、俺達は」
 散々笑った後で俺が言うと、
『こんな雑談がやり直しになるの?』
 園田は呆れたように聞き返してくる。
「なるよ。こんな会話さえできない頃があったと思えば、大した進歩だろ」

 俺は一人の時間が長すぎた。
 これまでに何度、園田がいてくれたらと思っただろう。それは霧島や石田に惚気られた時だけではない。ふとした瞬間にいつも彼女のことを思い出した。二人でいた頃の幸せな記憶を蘇らせては寂しさを募らせていた。
 そのくらい俺の中には、彼女の存在が根強く残っていたのだ。

『……ねえ。やり直しって言うけど、具体的にはどんなふうに、どこからやり直すのがいいのかな』
 彼女が尋ねてきた。
 近頃の彼女はやり直すことについて前向きな意思を見せてくれたが、同時にそのやり方を掴みかねているようでもあった。
 もちろん俺だって復縁の為の完璧なやり方を知っているわけでもない。ただ今は、俺達がお互いに楽しくて、幸せなことを重ねていけばいいと思っている。昔、付き合いたての頃にそうしていたように。
「お前も一からって言ってた通り、最初からだよ」
 俺の答えを聞くと、園田はまた考え込んだ。
『じゃあ私の場合、安井さんを好きになる前から、ってこと?』
「それって結構昔の話だろ。そんなに遡るのか?」
 彼女の言葉に俺はつい苦笑してしまった。
 今となっては苦い記憶でしかないが、園田が俺を大分前から好きでいてくれたことは知っていた。知っていたが、気づいていないふりをしていた。園田はいい奴だから友人として付き合っていたい、などと罰当たりなことを考えていた。
 あの頃の彼女は時々、投げやりな、諦め混じりの目つきで俺を見ていた。
『そんなにって言うけど、安井さんは私がいつから好きだったかなんて知ってるの?』
 園田がむきになったように聞き返してくる。
 それで俺は、彼女の俺を見る目が変わったのはいつからだったか思い出してみた。
 入社して三年目、仕事にも慣れて同期での飲み会の回数が増えた頃、幹事をやるのはほとんど俺と園田の役目だった。自惚れでもなく、あの頃には既に彼女は、そういう目で俺を見ていたように思う。
「四、五年は前からだろ」
 自信を持って俺は答えたが、電話越しに園田が吹き出すのが聞こえた。
『残念、はずれ。八年前からだよ』
 その後で告げられた正解は、俺にとって衝撃的だった。
「そんなに!?」
『そうだよ。知らなかった?』
 園田はますますおかしそうに、声を立てて笑っている。

 だが俺からすれば笑い事ではない。
 園田の想いがそれほど長いものだったという事実に胸が詰まった。俺が気づくよりもずっと前から、彼女は――そう聞かされて俺は彼女と出会ったばかりの頃を思い出そうとしてみたが、記憶はおぼろげで曖昧だった。
 そのことが悔しくて、焼けつくような思いが過る。

「知らなかった。と言うより、気づけなかった」
 手繰り寄せることすらできない記憶の薄さに、俺は思わず呻いた。
 俺は園田の何を見てきたのだろう。
「そんなに前から好きでいてもらってたのか。俺の目も節穴だな」
『まあ、私も端から諦めてたしね。何にもしなかったから、知らなくて当然かも』
 当の彼女に慰められるのも全く妙な話だが、園田は明るくそう言ってくれた。
 だが、だからと言って気にしないわけにもいかない。きりがないのは散々わかっていることだが、やはり『もしも』を考えてしまう。
 もしもその頃、俺が園田の俺を見る目に気づけていたら――。
「大体、八年前って言ったら入社した年じゃないか。そんなに前から……」
『そうだよ』
「戻れるなら八年前に戻って当時の俺を引っ叩いてやりたい。ぼんやりしてないで周りを見ろと言ってやりたい」
 しかし八年前の俺は今と比べて遥かにアホである。いきなり現れたおっさんに頭ごなしに説教されたところで聞く耳なんぞ持たないだろう。誰かに言われたところでたやすく揺り動かすことができないもの、それが恋愛感情だ。
 その事実を俺は今日まで存分に噛み締めてきた。
 きっと今の俺は、昔の俺よりかはましになっているはずだ。
『八年前って考えると、一からのやり直しって果てしないよね』
 園田も記憶を振り返っていたのだろう。俺が知らない、彼女だけが覚えている昔の記憶。その中で俺は園田を傷つけてはいないだろうか、考えると胸が痛んだ。
 だが今の俺にその記憶を消してやることができるはずもない。
 俺にできるのは今の園田を、昔の記憶なんてどうでもよくなるほど幸せにしてやることだ。
『そろそろ時間だよ、安井さん』
 不意に園田が言った。
 恐らく五分なんて、とっくの前に過ぎていたことだろう。
「わかってる。これだけは言わせてくれ」
 俺は居住まいを正して切り出した。
『何?』
「八年も前からやり直す必要なんてない。園田にまた、俺を好きになってもらえばいいだけだ」
 過去を振り返ることが無意味だとは言わない。
 俺達にはそれだけ長く積もり積もった記憶だってある。
 だが園田には明るい思い出だけを大切にしていて欲しい。切ない記憶や寂しい思い出は似合わない。そんなもの持っていられなくなるくらい、俺がこれから幸せな記憶ばかりでいっぱいにしてやる。
「今度は俺が、必ずお前を振り向かせてみせる。覚悟してろよ」
 俺はきっぱりと、彼女に対して宣言した。
 園田はすぐに反論してこなかった。真っ赤な顔をしてうろたえているのが見えるかのようだった。できれば傍で、どんな格好をしているのかも含めて見てみたかったものだ。
「じゃあ、今夜はこれで。おやすみ、園田」
『お、おやすみなさい……』
 電話を切る直前の、彼女の言葉はたどたどしかった。
 その可愛さを噛み締めながら、俺は後ろ髪引かれる思いで通話を終えた。
 心の内を素直に打ち明けても、園田は俺を咎めなくなった。俺達はやはり変わったのだと思う。

 まるで夢のような幸せの中、ようやく八月と繁忙期が終わろうとしていた。
 そして迎えた八月最後の週、園田は例のDTP検定を見事クリアしたそうだ。仕事が忙しい中、検定の勉強もしていたのでさぞかし大変だっただろうが、彼女らしいひたむきさでやり遂げたようだ。俺にも真っ先に知らせてくれたから、一緒になって喜んだ。
「すごいじゃないか、園田。頑張ったな」
『えへへ、ありがと。昔勉強してたし、落ちたら格好悪いくらいだったけど』
 電話で報告をくれた園田は、照れているのか謙遜してみせた。
「いや、純粋にすごいよ。園田の努力が報われて、俺も嬉しい」
 彼女が落ち込む顔は見たくなかったから、俺もほっとしつつ喜んだ。
 それにこれで、この間の約束も叶う。
「それじゃ前に約束した通り、二人でお祝いをしよう」
『うん、いいよ』
 園田は快く誘いを受けてくれ、九月に入ったら二人で食事に行こうという話でまとまった。
 店は祝う側の俺が探すことで同意を貰い、また後日改めて連絡をすることになった。もちろん豆腐料理が美味い店、という点だけは早くも意見が一致している。
『お店探させちゃってごめんね。楽しみにしてるから!』
 彼女の期待を込めた声援を受け、俺は是が非でも美味い豆腐料理店を探してやろうと心に決めた。そういえば五月に行った店は石田に教えてもらっていたが、最近はあいつも忙しそうだ。今回は自力で探す方がいいだろう。
『じゃあ安井さん、またね。おやすみ』
「ああ、おやすみ」
 現在、俺達の電話は五分というタイムリミットがある。
 お互いに仕事で疲れて帰ってきているから長電話はしないと決めたからだが、それも来月辺りになれば撤廃されるのではないかという予感があった。

 何はともあれ来月が待ち遠しい。九月よ、早く来い。
 ――祈りを込めながら通話を終えた携帯電話を充電器に置いた途端、再び着信を知らせるランプがぱかぱかと明滅した。

 今度の相手は石田だった。
『よう安井。可愛い子と電話中だったか?』
 電話を受けるなりそんな問いをぶつけられ、俺は無様にも一瞬うろたえた。
「な……何だよ、やぶからぼうに。ずっとかけてきてたのか?」
 園田とは五分間と少しくらいしか話をしていない。考えてみれば石田に疑われるほどのこともないのだが、なぜか奴は疑わしげだ。
『いや、さっき一回かけただけだ。ただ電話に出た時の声、妙に機嫌よさげに聞こえたからな』
「お前じゃあるまいし、そうそう声までにやついてたまるものか」
『安井こそ割と声と態度に出る方だろ。わかりやすいぞ、お前』
 石田に『わかりやすい』と言われることほど屈辱的なこともない。お前なんて小坂さんの前じゃ常にでれでれしてるくせに!
 とは言えここ最近は俺の心も浮つきがちで、それが表に出ていない自信もなかった。少し気を引き締めておかないと、園田に愛想を尽かされるかもしれない。
「で、何の用なんだ」
 俺は溜息をついて石田に尋ねた。
 すると石田も電話の向こうで、同じように深く息をついた。
 それから、柄にもなく改まった口調で言った。
『藍子に、プロポーズしようと思う』
 石田の報告に、俺は思わず声を上げた。
「まだしてなかったのか!?」
『なんでそんなに驚くんだよ』
「石田ならもうとっくに済ませてるかと思った。息を吐くように、日常的にプロポーズしてそうだと」
 いつが正式なプロポーズなのかわからなくなるくらい、しつこくしつこく繰り返していそうだ。
 べらべらとまくし立てて相手を煙に巻くやり方が得意な男だから、女を口説く時もそうなんじゃないかと俺は睨んでいる。そうでなくとも惚れた女にはやたら尽くしたがるのが石田で、小坂さんをべたべたに可愛がる姿を見ていれば、プロポーズなんぞ今更ではないかという気もする。
『そりゃあ日常的に匂わせてはしてたよ。結婚後についての話題が普通に出るようにもなってたし、お互いの親にも会ったし』
 石田は既にいい返事を確信しているようだった。
 まあ、現実にはそんなものか。いちかばちかみたいなプロポーズはそうそうあるものでもなく、皆ある程度自信なり確信なりがあるから踏み切るのだろう。
 石田と小坂さんの仲睦まじさは俺もよく知るところであり、失敗する見込みなどまるでないように部外者の俺でも思う。
「だったら逆に、今更なんじゃないのか。そういう形式的なプロポーズなんて」
 俺が疑問を呈すると、奴はにやりとした顔が目に浮かぶような口調で言い返してきた。
『甘いな安井。あえて形式的なことをする方が、女の子ってのは喜ぶもんなんだよ』
「……確かにそうだ」
 深く納得して、俺も呟く。
 形式は大事だ。気持ちが通じ合っているからと基本的なことを疎かにすると、後で痛い目に遭う。それは俺もここ数年で十分、身をもって学んだことだった。
「それで、日取りは? いつプロポーズするんだ?」
『今週の土曜だ。携帯オフにするからよろしくな』
「残念だな、五分おきに電話してやろうと思ったのに」
『無駄無駄。俺たちの仲を阻むものはもう何もない』

 本人の言う通り、今の石田はどんなやっかみも冷やかしも全く意味をなさないようだ。その無敵ぶりが俺には眩しく、羨ましく思えて仕方がなかった。
 そうか。石田も遂に、結婚するのか。

「はいはいそうですか。まあ、天候に恵まれるように祈っといてやるよ」
 俺は適当に奴をいなすと、釘を刺すつもりで続けた。
「ところで石田、こうして事前に報告を貰った以上、事後報告は要らないからな」
『え、何でだよ。成功するのがわかりきってるからか?』
 この推測がまた、石田らしい。事実でもあるだろうが。
「そうだ。その上で報告なんてされたら、ただの自慢にしかならないだろ」
 溜息をつきながら俺が言うと、石田は底抜けの明るさで応じる。
『いや遠慮すんなよ安井、何なら目の前で思いっきり自慢してやるって!』
「要らない。霧島に抜け駆けされ、お前にも先を越されそうな俺の心中を酌んでくれ」
『悪いな! 俺、遠慮なく幸せ掴んじゃうわ!』
 こいつ、開き直りやがった。
 そりゃ今の俺だって幸せだ。園田とやり直すことになったし、メールだけではなく電話もできるようになったし、少しばかり踏み込んだ会話もできるようになったし、来月はデートの約束だってしている。
 だから幸せではあるのだが、こうも石田に水をあけられていると何だか悔しくてたまらない。
 しかも噂で聞いたところによれば近頃は小坂さんにお弁当を作ってもらっているとか――全くもって妬ましい。俺だって園田の手料理が食べたくてしょうがないと何年も思っているというのに!
「こないだだって小坂さんに弁当作ってもらったんだろ」
 俺がそこをつっつくと、石田はでれでれとだらしのない口調で答えた。
『ああ、まあな。と言うかお前こそ、それ誰から聞いた? 霧島か?』
「さる筋からのタレコミと言っておこう。社内恋愛満喫しようたってそうはいかないぞ」
『何がさる筋だよ……。いいだろ満喫してたって』
 満喫していることを隠そうともしないのがまた石田らしい。
「羨ましすぎて許しがたい! よって、お前がプロポーズの言葉を肝心なところで噛んでしまう呪いをかけてやる!」
『やめろよその微妙な呪い!』

 この呪いが功を奏するかどうかは俺のあずかり知らないところだが、要らないと言ったってどうせ石田は報告を寄越すだろう。奴はそういう男だ。少し前なら俺もそれを受け流すばかりだったが、今はなまじお預けを食らっている状態だけにかえって堪えた。
 羨ましいので俺も、社内恋愛を大いに満喫してやることにする!
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