Tiny garden

彼女に似合うこと(4)

 二人で花火を見て以来、何かが確実に変わった気がした。
 と言っても、俺が想像していたのとは少し違う変化でもあった。
 花火大会の翌日以降、園田は機嫌を損ねていた。社内ですれ違うとまるで警戒するみたいにびくっとしてみせる。俺が穏やかに笑いかけると少し拗ねたような顔で目を逸らすし、手を振ったりすると逆にきつく睨まれる。そういう時の園田の顔はいつも真っ赤だった。
 でもそこであえて顔を赤らめながらも笑い返したり、手を振り返して欲しいなと思うのもおかしなことではないだろう。彼女が恥ずかしがり屋なことはわかっているものの。

 園田の態度はお盆休みに入るまで改善しなかった。
 だから盆休みが明けた翌日、俺は強硬手段を取ることにした。
 彼女が残業を終えて広報課を出ていくのが聞こえたら、俺も残業を切り上げる。
 そして帰り支度を済ませてロッカールーム前へ行き、間違いなく着替えをしてから出てくるはずの園田を待ち構える。今日の天気予報は終日晴れ、降水確率は一日通してゼロパーセント。となると、園田はあのオレンジ色の愛車に乗って出勤してくる。

 やがてロッカールームのドアが開き、サイクルウェアに着替えた園田が現れる。ぴっちりと身体に吸いつくような素材のパーカーに短いスカート、その下は黒いスパッツ。俺が知る限りこの世で一番スパッツが似合う女が園田だ。
 待ち構えていた俺を見るなり目を瞠った彼女に、俺は最大限の笑顔で切り出した。
「園田、今帰り? よかったら一緒に帰ろう」
 途端に園田がむっとふくれる。
「私、今日自転車だよ」
 その返事に頬を膨らませた顔は合わないと思う。俺はおかしいのを我慢しながら答えた。
「駅まででいい。俺も電車だから」
 すると彼女は機嫌を損ねているのを忘れたように瞬きをした。
「へえ。まだ忙しい時期なのに、電車通勤って辛くない?」
「園田と一緒に帰れる可能性を考えて、天気のいい日は電車にしてる」
 ここ数ヶ月、朝に天気予報を見るのを忘れたことはなかった。もちろんその前だってよく見てはいたが、今ほど意味を持って毎朝見ていることはなかった。
 だが俺の言葉は園田をまた居心地悪くさせたみたいだ。わかりやすく赤くなった園田は慌ててそっぽを向いた。
「あれ。まだ怒ってるのか、園田」
 俺が尋ねると、彼女は横を向いたまま答えた。
「怒ってない。と言うかずっと怒ってはないよ」
「じゃあ何でずっと微妙に機嫌悪いんだ。照れ隠し?」
 核心を突いてやると、園田は一層むっとしたようだ。一足先に廊下を歩き始めたので、俺はしつこくついていく。
 彼女は俺を振り切ろうともせず、エレベーターの前まで行くと足を止め尋ねてきた。
「我が社に、不審な投書とか届いたりしてない?」
「何それ。何の話?」
「『御社の社員が屋上でよからぬことをしてました』的な……」
「ないない。そんなの心配してたのか?」
 俺は彼女の懸念を軽く笑い飛ばした。
 園田が花火大会の日、隣のビルに人がいたことを気にしているらしい。仮に彼らがこちらを見ていたとして、いちいち告げ口をするようなネタでもないだろう。
 それに園田だって社員の不祥事だなんだって本気で思っているわけではないはずだった。単に気恥ずかしいのを誤魔化そうとしているだけだ。あの夜に俺達が変わってしまったことを受け止めきれてはいないのだろう。
 その証拠に、彼女はエレベーターに俺も乗せると何も聞かず地下行きのボタンを押した。

 地下駐車場の隅に設けられた駐輪場から、園田は愛車を引っ張り出す。
 そして自転車を押しながら、俺と肩を並べて地下駐車場を出た。

 外には天気予報通りの晴れた夜空が広がっていた。微かな星の光がちらつく空の高さとは対照的に、地上の気温は未だに高くて息が詰まりそうだ。湿度の高さとも相まって、夜の空気はまるでねっとりと皮膚に粘つくように感じることさえある。
 そんな憂鬱な蒸し暑さの中でも、園田は爽やかに髪を揺らして歩いている。自転車を押し始めたらもう機嫌は治ってしまったのか、歩く横顔は少し微笑んでいた。自転車のライトが殺風景なビル街の夜道を照らしている。
 俺も気を取り直して話しかけてみる。
「お盆休みの間は一度も会えなかったから、園田と話したかったんだよ」
 花火の後に畳みかけられたらもっとよかったのだが、あいにく彼女は例の検定を控えていた上、お盆休み中は実家に帰省するとのことだった。お姉さん一家が子連れで戻ってくるので是非会いたいのだと言っていた。
「ご実家、どうだった?」
 俺の問いに園田はいきいきとした笑みを見せた。
「普通だよ、いつも通り。両親は元気だし、姉一家も相変わらず元気そうだったし」
 その答えを聞いて、俺もちらりと自分の実家に思いを馳せる。兄一家には子供が生まれ、弟も結婚した。両親は唯一の独身者である俺を案じているようだし、ますます帰りにくくなった。
「姉が戻ってくるのもお盆くらいだからね。これを逃すと来年まで会えないから、八月は帰るようにしてるんだ」
 園田がそう続けたので、俺は彼女のお姉さんの名前を思い出す。
「三月生まれのお姉さんだっけ」
 園田実摘。三月二十三日生まれの、園田のお姉さん。
 そして、一月十日生まれだから園田伊都。二人ともその名前は誕生日が由来だった。
「そうそう。本人は自分の名前、あんまり好きじゃなかったみたいだけど」
 彼女が頷きながら続けた。
 その言葉を俺は意外に思う。
「何で? 一回聞いただけの俺が覚えてるほど、忘れがたい名前なのに」
 少なくとも兄弟で音を揃えただけの安井家よりはいいと思う。
 安井巡って、どんな意味が込められているのかいまいちわからない名前だよな。変なあだ名はつけられるし、『若草物語』でからかわれるし、この名前で特にいいこともなかった。
「逆に安直な感じがしたんだって。もっと名前に込めたメッセージが欲しかったとか言ってた。今はそうでもないみたいだけどね」
 園田のお姉さんはお姉さんで、やはり俺と同じ不満を抱えていたらしい。
 でもその子の生まれた日を大切にして、名前にもつけるなんて、最高に素晴らしいメッセージだと俺は思う。それに一度聞いたら忘れられない。
「俺はいい名前だと思うけどな。実摘と伊都、どっちも覚えやすいし可愛い」
 会話の流れに紛れるように、俺はさりげなく彼女の名前を口にした。

 彼女を名前で呼んだのはいつ以来だっただろう。
 園田が恥ずかしがるからあまり呼ぶことはなかったが、記憶の中には懐かしく息づいていた。
 伊都、やっぱりいい名前だ。
 もっとも園田は呼ばれた途端に俺から目を逸らし、拒絶と照れ隠しの中間みたいな態度を取った。暑さのせいで汗が伝う頬が、湯上がりみたいにほんのり赤くなっていた。会話は不自然に途切れ、しばらくの間、俺達の足音と自転車の車輪が回るからからという音だけが聞こえてきた。
 まだ元に戻れたわけじゃない。焦るな。
 すぐに引き寄せようとしなくてもいい。少しずつやればいい。

 俺は何事もなかったかのように話題を変える。
「そうだ、お前検定は? 日程もうすぐじゃなかったか?」
 DTP検定のことを口にすると、園田はすぐに視線をこちらへ戻した。まだ頬は赤かったが、表情はいつものように明るかった。
「うん、来週。だからお盆の間にはその勉強もしたよ」
「受かったら教えてくれ。お祝いがしたい」
 俺がそう続けた途端、困ったような顔をされてしまったが。
「気持ちは、嬉しいんだけど」
「駄目?」
「駄目じゃないけど、私まだ写真のお礼もしてないよ。安井さんに」
 祝われるのが嫌だというわけではないようで、ほっとする。先に礼を済ませておきたいというところはとても園田らしいとも思う。
「安井さんこそ、あれから何も聞いてないけど何かないの? お礼にできそうなこと」
 逆に園田が聞き返してくる。
 今度は俺が困る番だった。
「聞かれると悩むな。せっかくの切り札、園田が断るに断れない状況で使うべく、じっくり温存しておきたいと思ってた」
 して欲しいことは山ほどある。
 彼女が俺に与えることのできる、俺の欲しいものだって同じく、山ほどある。
 だがそういうものをお礼という形で叶えるのには抵抗があった。そうすれば、もう二度と正しいやり方では手に入らないような気がする。だからそういうものは俺が、自力でこの手に収めなければならない。
 俺が考えている間に、園田は何かおかしな想像へ行き着いたようだ。
「言っとくけど、駄目なことは駄目ってきっぱり言うからね!」
 駄目出しされたので思わず笑ってしまった。
「まだ何も言ってないだろ。勝手に妄想を膨らませるなよ」
「それ、安井さんには言われたくないよ!」
「はいはい、そう怒るなって」
 収拾がつかなくなりそうだったので、俺は園田を宥めておく。俺と彼女、どちらが妄想力逞しいかはそのうち勝負でもして決めることにしよう。
 とりあえず、お礼の話だ。
「じゃあ、検定受かったら俺にお祝いをさせてくれ。お礼はそれでいい」
 こちらの提案は、俺の出方をあれこれ推測していたらしい園田を相当驚かせたようだ。目を丸くしているのが可愛かった。
「そんなのでいいの? だって、私がするお礼だよ?」
「いいよ。お前が会ってくれるなら、俺はそれでいい」
 切り札として取っておこうかと思ったが、花火を見た夜の出来事を振り返ればそんなものは必要なさそうだと思う。
 俺は迷わずに続けた。
「検定が来週なら、お祝いの席は九月に入ってからだな。その頃ならこっちの仕事も落ち着いてるし都合がいい」
 先の予定まで決められたからか、当の園田は柄にもなく自信なさそうな色を覗かせた。
「もし、受からなかったらどうするの?」
「その時は慰労の席にでもする。けど受かれよ、今から落ちるかもなんて考えるな」
 あえてきつめに、俺は彼女を励ました。
 園田なら受け止められるとわかった上での言葉だったが、予想通り彼女はふっと笑ってくれた。
「うん、絶対頑張る」
 こうして気持ちを切り替えて笑えるのが、園田のいいところだ。

 彼女の内側にも不安や怖れや悩みが何もないわけではないだろう。
 だがそういうものを一旦忘れて、彼女は心から笑うことができる。作り物では決してない彼女の笑顔は、園田の本質の明るさをよく表していると思う。
 そしてその明るさが、俺の先行きにもとうとう光をくれるようになった。彼女が押している自転車のライトみたいに、真っ直ぐに。
 園田が検定に合格したら――今度は、もっとはっきり言ってやろうか。

 俺が早くも先のことを考え始めた時だった。
「前にも話したけど、自分の価値を高めたいって思ったんだよね」
 不意に園田が、よくわからないことを言い出した。
 もしかして検定についての話だろうか。俺は横目で彼女を見、妙に得意げなその顔に、今度は何に感化されたのかと思う。実家で何か聞かされてきたのか、最近仲がいいらしい東間さんから啓蒙でもされたのか。
 その単純明快な朗らかさが魅力なのに、何だっていつも小難しい考えに囚われるのか。
「自分の価値ね……。園田は自分の価値なんて、ちっとも自覚してなさそうだけどな」
 俺が皮肉を込めて告げると、園田は強くかぶりを振った。
「そんなことないよ。私のことは私自身が一番よくわかってる」
「どうだか」
「だって、冷静になって客観的に見てみれば、私って微妙なスペックだと思う」
 語気を強めて言い切る彼女を、俺は並んで歩きながら改めて観察した。
 微妙というのが何を指すのかはわからない。丸顔で、奥二重で、下唇がほんの少し厚くて、どんな感情にも素直に反応する彼女の面立ちが俺はとても好きだ。細いだけではない程よく筋肉のついた脚はきれいだと思うし、スパッツがとてつもなく似合う。短い髪はいつもさらさらで、触り心地がいい――もうずっと、触らせてもらえていないが。
 豆腐料理が上手くて、仕事は真面目で、何よりいつも朗らかだ。微妙どころか文句なし、何から何まで俺好みの高スペック。文句を言う奴がいるなら黙って俺に譲ってくれ。
「だから私、今、すごく変わりたい。価値のある自分になりたい」
 園田は目を輝かせて語る。
「変わらなくたって園田は十分、唯一無二の個性だよ。俺はそう思う」
「でもその個性が昔と何も変わらない、お値段据え置きの安物だったら駄目なんだよ」
 もっともらしい顔で言うが、その値段を決めるのは一体誰だ。
 彼女か、俺か、他の誰かか――まさか婚活市場だなんて言うんじゃないだろうな。
「じゃあ園田は、婚活なんかの為に検定受けたいって考えてるのか?」
 苦い思いで問い質すと、意外にも園田は俺の疑念を否定した。
「ううん。一番は、私自身の為にだよ」
 そして短い髪をさらりと揺らして、自ら語を継ぐ。
「私は、入社したばかりの写真を見て、何にも変わってないなって思える自分ではいたくない」
 どういう意味合いの宣言なのか、にわかには測りかねた。
 だが彼女は自転車を押して歩きながらも真っ直ぐに俺を見ていて、その言葉が俺に向けられたものであることはすぐにわかった。

 園田の面立ちは確かに、入社から八年と少しで特に変わっていないように見える。
 だが俺を見つめる真摯な表情には、彼女の中に何年もかけて降り積もっていった様々な感情や記憶が、礎となって存在しているように見えた。
 あの頃の園田は俺を見る時、途方もない距離を見つめるような投げやりな目をしていた。
 今の彼女はそうではない。すぐ隣にいる俺を見ている。

「もう二度と安井さんを辛い目に遭わせないようにする為に、変わりたいと思ってる」
 そして、園田はそう言った。
 俺はようやく彼女の意図を察し、思わず足を止めた。園田も自転車ごと立ち止まったので、そわそわと尋ねてみる。
「園田、それって」
 だが俺が問いかけるより早く、まるで制するみたいに彼女が言った。
「あ、うん。何て言うか、これで検定落ちたらいろいろ台無しだなとも思うんだけど」
「だから、今から落ちることなんて考えるなよ」
 俺はそんな彼女を励ます。
「それに結果がどうでも、お前がした努力はお前の価値にもなるだろ」
 園田の価値は、俺が知っている。
 歳月は確かに彼女の中に刻まれている。俺にとってはそれこそが彼女の価値だ。二人でいた頃の思い出を、幸せを、改めて取り戻す為にも彼女が欲しい。今日、その願いにまた一歩近づけたようだ。
「ありがとう、園田」
 素直に、俺は礼を述べた。
 そこで園田は反省したように眉尻を下げる。
「お礼を言われるのは……だって私のせいだよ、もともとは」
「園田のせいなんて思ってないよ」
 俺が否定すると、今度は彼女が素直になって、言ってくれた。
「ありがとう。一からやり直そう、私達」
 長らく待っていた言葉に違いなかった。
 それを聞いた時、嬉しくて、ほっとして、口元が情けなく緩むのがわかった。
 見栄を張るのはやめたつもりだが、こういう時は男前に笑いたいものだ。なのにどうしても、にやにやしてしまう。幸せだった。

 自転車のライトが照らす道の向こう、小さく駅舎の明かりが見え始めた。
 もう少し園田といたい。話したいこともたくさんあるし、一歩歩くごとに離れがたい気持ちが募った。だが今夜ももう遅く、明日も仕事だ。
 だからだろう。どちらからともなく、ゆっくりと歩くようになっていた。
「一つ、先に確かめておきたいんだけど」
 俺は隣を歩く園田を見下ろして言った。
「一からやり直すってことは、今夜は別れ際にちゅーしちゃ駄目?」
 真面目なトーンで切り出したからだろうか、園田は一瞬きょとんとしてからみるみる真っ赤になった。頭から湯気が吹き出しそうな勢いで赤面するものだから、俺も先の発言を撤回する。
「悪かった、ちょっと調子に乗っただけだよ。しばらくは自重する」
「本っ当に安井さんは……! そういうことを軽々しく言うから!」
「わかってるって。今は園田が戻って来てくれただけで十分だ」
 酒でも飲んだ後みたいにいい気分だ――いや、俺は酒でいい気分になれたことなんてあまりないから、今の酔いしれている感覚は他の者では味わうことなどできやしない。園田といるのが、俺は一番いい気分だった。
 園田はしばらく俺を思いきり睨んでいたが、ふと何か見つけたような目つきで俺を見上げてきた。またころりと機嫌を直して、その度に表情が変わるのが可愛い。
 そう思ったらふと、ひらめいた。
「そうだ。俺、園田の写真が欲しい」
「いきなり何? と言うか、自分の写真なんてそうそう持ってないよ」
 彼女が戸惑った様子で眉根を寄せる。
「写真のお礼には写真貰うのが一番いいかと今思った」
 俺の言葉に彼女は考え込むようなそぶりをして、
「写真って例えばどんなの? 昔のだったら探してくるけど」
「いや、新しいのがいい。なるべく最近の園田が欲しい」
「最近のか。近頃写真なんて撮ってないからなあ……」
 しばらく思案を巡らせていたようだが、不意に何か思いついたようだ。鞄を探り始めた。園田の通勤鞄は晴れの日だけ大ぶりのメッセンジャーバッグだ。これもオレンジ色なのは自転車のカラーリングに合わせてのことだろう。
 くしくも、天気予報の晴れマークと同じ色だと思う。
「ああ、最近のって言ったらこれがあるよ」
 鞄から取り出したのは名刺入れだった。そこから一枚引き抜いて、俺に見せた。
「何かと思ったら名刺か」
 俺はその名刺を受け取る。
 我が社の名刺には必ず顔写真が入る決まりで、園田の名刺にも彼女のビジネス用笑顔の写真が印刷されていた。広報課、園田伊都とある。
「元手ゼロだし、ちっちゃい写真で悪いけど」
「十分だよ。園田がくれたものだからな」
 写真にしては小さいが、彼女が写っているものには違いない。こういうものでも今の俺なら、手帳に挟んで持ち歩きたくなったりするかもしれない――。
 そこでふと、昔の出来事を思い出した。
「写りが気に入らない?」
 名刺を見つめる俺に園田が問いかけてくる。
 俺はかぶりを振って答えた。
「いや、そうじゃない。ちょっと思い出しただけだ」
「何を?」
「前に、好きな人の名刺を定期入れに、後生大事に入れてた女の子がいたんだよ」
 俺の話じゃない。
 俺はその女の子から話を聞いて、彼女と彼女が想う相手を存分に冷やかしてやっただけのことだ。
 でもまさか、同じことをするようになるとは思わなかった。
「そうなんだ。ちょっと可愛いね、そういうの」
 園田がそう言ってくれたので、俺も自らの定期入れを取り出し、園田の名刺を外からは見えないよう、そっとしまった。
「好きな人から貰ったものなら、たとえ名刺一枚だって、唯一無二の宝物になるんだろうな」
 そして俺は顔を上げ、園田を見つめて感謝を告げる。
「俺もあやかるつもりで真似ておこう。ありがとう園田、大切にする」

 彼女は呆けたような表情で、俺を見つめ返していた。
 またしても顔が赤くなっていたが、それは黙っておいてあげた。
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