Tiny garden

唯一無二の笑顔なり(5)

 広報課の園田に写真とデジカメを届けると、彼女は大いに喜んでくれた。
「ありがとう、安井さん! 昔の写真もいいけど、今の写真もよく撮れてるね!」
 園田はデジカメの画像データと古い写真を見比べた後、懐かしむように微笑んだ。
 いつもの満面の笑顔とは違う、はにかむような微笑は、ちょうど営業課で見たばかりの小坂さんの表情によく似ていた。柔らかくて女らしい微笑みだ。
 俺はその表情に何も思わなかったわけではなかったが、まだ仕事が残っていたから黙っていた。写真を預けた後は自分の仕事に戻った。
 そして午後九時前には今日の仕事を終えてしまうと、帰る準備を整えてから廊下へ出た。
 黙ってそのまま、広報課のドアが開くのを待っていた。園田が『午後九時までには写真が欲しい』というようなことを話していたから、それを踏まえて待ち伏せた。
 よくよく考えれば朝と全く同じことをしているわけだが、今度こそ上手くやれる予感があった。
 今日の園田は自転車ではなく、電車で来ているからだ。

 午後九時を少し過ぎたあたりで、ようやく園田が姿を現した。
 既に帰り支度を済ませ、折り畳み傘を携えた彼女は廊下にいた俺に気づくと、いつものように屈託なく笑んだ。
「あっ、安井さん。お疲れ様です」
「お疲れ、園田。待ってたんだ」
 俺も彼女に笑いかけ、早速本題に入る。
「今朝は時間がなくて見せられなかったけど、実は他にも写真があって。園田に見せたいと思ってた」
 朝にも一度話していた用件だ。彼女もすぐに思い当ったようで食いついてきた。
「見たい見たい! 今度はどんな写真?」
 ここまでは順調だ。ただ、見せるんだったら今度こそ邪魔が入らない方がいい。
「まあまあ、ここじゃちょっとな」
 俺は一旦押しとどめると、彼女にエレベーターホールまで歩くよう促す。
「よかったら一緒に帰ろう、今日電車だもんな?」
「そうだけど……わかった。いいよ」
 少しだけ考えてから園田は頷き、ついてくる。
 こんな時間だからか廊下にも、エレベーターホールにも人の姿はなかった。これ幸いと持ちかけてみる。
「俺は車で来てるんだ。部屋まで乗せてくよ」
 言いながら、俺は階下へ向かうパネルを押した。
 返事はなかった。
 いいとも悪いとも言わない彼女を振り返ると、園田は先程までの笑顔はどこへやら、何か言いたげに俺を見ていた。咎めるような目つきだった。
 その視線の言わんとしているところはすぐにわかった。だがあえて気づかないふりで指摘する。
「見るからに微妙な顔をするなよ。俺の車に乗るの、嫌なのか」
 すると園田は唇を尖らせて反論してきた。
「嫌とかそういう問題じゃなくて。いつも言ってるけど」
「じゃあ何だよ」
「はっきり言うと、付き合ってもいない男の人の車に乗るの、抵抗あるから」
 情け容赦もなくずばりと言うものだ。
 事実ではあるが、いちいち現実を突きつけてくれなくてもいいのに。俺は肩を落とした。
「そこまではっきり言うか」
「でもそういうものじゃない? ここでほいほい乗っていく方がおかしいよ」
 園田は断固としてほいほい乗るつもりはないらしい。
 こんなにガードの堅い女だっただろうか。昔はもっと呆気ないくらい誘いに乗ってくれたのに。
 仕方なく俺は奥の手を使う。
「……俺のおかげでいい写真が手に入ったのに?」
 多少恩着せがましいことを言ってみれば、彼女はまんまと言葉に詰まった。途端に気まずげになって言い返してくる。
「もちろんそのことはすごく感謝してるよ。おかげでとてもいい特集記事が組めたし」
 どうやら例の写真は彼女の仕事の助けになれたようだ。それならこちらも都合がいい。深く恩を感じてもらおう。
「じゃあ俺の誘いを断ったりはしないよな? 送っていくから一緒に帰ろう」
 畳みかける俺を、園田は少し不安そうに見つめてくる。
「安井さん、私を送っていったら遠回りになるんじゃないの?」
「そうだよ。それでも送っていくって言ってる」
「普通逆じゃない? 写真を提供したんだから家まで乗せてけ、とかいうならわかるけど」
「いいから黙って乗ってけ」
 俺が短い言葉で会話を打ち切ると、待ちかねていたエレベーターがようやく到着した。
 園田を先に乗せ、操作パネルの前には俺が立つ。何も言わずに地下一階を指定したが、彼女もやはり何も言わなかった。

 俺の車に彼女を乗せるのは、当然だが久し振りだった。
 彼女のデジカメと同じように、俺の車も昔と変わっていない。それを見て園田がどう思ったのかはわからないが、地下駐車場の弱い明かりの下で一瞬切なげな表情を浮かべたのはわかった。
 助手席に乗るように告げたら、彼女は複雑そうに俺を見上げた。
「あのね、安井さん。こんなこといちいち言うのも悪いかもしれないけど――」
「そう思うなら言うなよ。帰りが遅くなるぞ、早く乗れ」
 俺の車の助手席に乗り込むよりも、こんなところで押し問答を繰り広げているのを誰かに見られる方が遥かに噂を呼ぶだろう。彼女もそのことに気づいたのか、送ると言った時よりはすんなりと助手席に乗った。俺も続いて運転席に乗り込む。
 助手席の園田が慣れた手つきでシートベルトを締める。
 それを横目に見ながら、俺はスーツのポケットから愛用の手帳を取り出した。
 間に挟み込んでいた写真を引き抜き、シートベルトを締め終えて空いた彼女の手に押しつける。
「見せたい写真ってのはそれ」
 ずっと見せたかった懐かしい写真に、園田はゆっくりと視線を落とす。
「持ってたんだ、ずっと。さすがに見返す気になれたのは最近の話だけどな」
 俺は手帳をしまい、自分のシートベルトを締めながら語りかけた。
 写真を見た園田の反応は、思ったよりも静かだった。激しくうろたえることもなく、ただ瞠目して写真を凝視している。ぼうっと呆けた横顔はその写真に深く魅入られているように見えた。美しい絵画に魂を抜き取られてしまった人のように、彼女はひたすら写真を見つめている。
 そこに写っているのは確かに美しい一瞬、絵画のように完成された情景だった。
 真夏の森林公園でベンチに座り、はにかむ表情で俺を見つめる彼女が閉じ込められている。
「……これ」
 やがて彼女がかすれた声を上げたので、それを合図に俺は車のエンジンをかけた。
 地下駐車場から走り出れば、外は小雨がぱらついていた。園田を車に乗せて正解だった。どんよりと曇る空の下、フロントガラスに落ちる小さな滴をワイパーが掃いていく。道を聞く必要はなかった。彼女の家までの道程は正確に覚えていた。

 車内にはしばらく会話がなかった。
 俺はわざと黙っていた。彼女が写真に見入っている間は、そうして懐かしい記憶を次々と蘇らせている間は、下手なことを言わない方がいいだろうと思っていた。
 助手席の園田はじっくりと、十分近くその写真と向き合っていた。

 それから、吐息とともにこう言った。
「この写真、私にくれる?」
 いくら彼女の申し出とは言え、それはできない。俺は間髪入れず答えた。
「駄目。俺のものだ、誰にも渡さない」
「でも、私が写ってるのに」
「だから何? どうしてもって言うなら、焼き増ししてやってもいいけど」
 自分が写っているから、他人には預けておきたくないとでも言うのだろうか。
 だがこの写真を手放せば、俺には本当に何もなくなってしまう。園田と二人で過ごした時間がなかったことのように消えてしまう気がして、俺は断固として譲らなかった。
 園田の目はまだ写真を見つめている。写真を隔てて、昔の自分と見つめあっている。俺はその横顔を眺めていたかったが、あいにくと運転中だった。
 代わりにそっと話しかけてみる。
「可愛いだろ? その顔」
「そうだね」
 意外にも素直に、園田は俺の言葉を肯定した。
「今でも時々、園田はそういう顔をするよ」
 俺が続けると、彼女が息を呑むのが聞こえた。思いがけないことだったようだ。
「え、え? 本当に?」
「ああ。自転車の話をする時と、豆腐を食べてる時は」
「……あっ、そういうことか。びっくりした」
 彼女が心底安堵したようだったから、複雑に思う。
 そういう顔をする時の心当たりくらいはある、ってことだろうか。
「それと前に、東間さんの話をしてた時も」
「そ、そっか。すごくいい人だからね、東間さん」
 腑に落ちた様子の彼女の声に、俺は溜息をつく。
「それから、今日もしてた。あの写真を見た時に」
 昔の俺と石田を見た時、彼女は確かにはにかんでいた。
 きっと古い記憶が蘇っていたのだろう。全てではないにせよ、かつての俺達を見て昔のことを思い出していたのだろう。まだこうなることを想像すらしていなかったはずの自分のことも。
「俺だけを見て笑ってくれたなら嬉しいんだけどな。そうじゃないんだろうな」
 園田がいつから俺を見ていたのか、俺は正確には知らない。もっと注意深く彼女を見ておけばよかったと思うが、写真に残っている通り、かつての俺は馬鹿だった。今になって悔やんだところで過去を変えることはできない。
 ただ、今からやり直すことはできるはずだった。

 窓の外に、園田の部屋があるアパートが見えてきた。
 駐輪場のないシンプルな二階建て、彼女の部屋は二階にある。俺が車を停めてエンジンを切ると、園田もはっと面を上げた。
「ありがとう、送ってくれて」
 彼女は俺を見てそう言ったが、気持ちの整理はついていないようだ。瞬きを繰り返す表情は強張り、心許なげだった。
 俺は黙って彼女に手を差し出す。
 園田は写真の返却を求められたと思ったか、俺に写真を手渡そうとしてきた。だが俺は受け取らず、代わりに彼女の手首を掴んだ。とっさに抗えなかったのか、園田が握られた手首から力を抜く。彼女の皮膚は冷たくて、記憶に残っている通りなめらかだった。
 外は雨が降り続いている。窓に落ちた雨は水の幕となって景色を覆い、静かに続く雨音は二人きりの空間をより強く意識させる。
 手首を掴まれた園田は俺を見ている。
 これから起きることを恐れているような、不安げな、幼い表情だった。
「園田」
 彼女を怖がらせないよう、俺は慎重に呼びかけた。
「また、誘ってもいいか?」
 言葉を選びながら、次に繋がる機会を模索していた。
「二月と先月、どっちも飲みに誘ったけど、楽しくは飲めなかっただろ。もう一度だけ、挽回のチャンスが欲しい」
「楽しくなくはなかったよ。気にすることないよ」
 園田は俺の言葉を否定した。
 それがやんわりとした拒絶であることには気づいていたが、俺は構わなかった。
「やり直させて欲しいんだ。園田」
 表向きはあくまでも飲み直そうという誘いだ。
 だが真意が別のところにあるのは彼女にもわかるだろう。俺達の間に生じる『やり直す』という可能性はもっと深い意味を持つものだ。
 園田にも意味がわかったのか、目を泳がせてうろたえた。
「やり直す必要なんて、あるかな」
 必要なんてないと言い切るならまだしも、そうやって動揺しながら言うのでは説得力もない。
「迷ってるなら急いで返事しなくてもいい。待ってるから」
 俺が笑うと、彼女は慌てて強くかぶりを振った。
「ま、迷ってないよ! 私、全然迷ってないし答えはっきりしてるし!」
「何だよ。せっかく人が意味深なこと言ってるんだから、少しは迷えよ」
 可愛げのない答えに俺が落胆すると、園田は迷っていないようには到底見えない表情で、俺に掴まれている手首を見た。写真を目にした時と同じように少しぼうっとしてみせてから、唇が微かに動いた。
「安井さんは……あの頃、私といて楽しかった?」
 ともすれば雨音にかき消されそうな、弱々しい声の問いかけだった。
 俺は迷わず即答した。
「もちろん。楽しかったし、幸せだった」
「本当に? 私、安井さんに酷いことしたよ」
 園田は信じられないと眉尻を下げたが、俺には酷いことをされた記憶なんてなかった。
 彼女が『酷いこと』と思っているらしい出来事には心当たりがあるが――誰が悪いなんて断罪するような話でもなかったはずだ。お互いに少しずつすれ違ったまま、最後に俺が園田の手を離してしまった。それだけのことだ。
「あんなの、酷いことのうちに入らない。むしろ俺はあの時――」
 言いかけて俺は園田の深刻な表情に気づき、軽く笑い飛ばした。
「ああ、そうか。あの時のことを気にしてるのか」
「気にするよ! 私は本当に自分が情けなくて、許せなくて……!」
 罪の意識のせいだろうか。心情を吐露する園田は苦しそうで、顔色も蒼白だった。
 あれからもう三年が過ぎたというのに、今でも自分を責めている彼女の姿は、俺にとっても心苦しい。
 でも、俺達はやり直せるはずだ。
 あの写真を撮った日に思った。園田が俺を笑顔で許してくれた時、彼女とだったらこの先何があっても乗り越えていけると思った。
 残念ながら俺は園田の罪悪感を拭い去ってやることができず、彼女の手を一旦は離してしまったが、今なら笑い飛ばしてやれる。何でもないことだって言える。
「俺は気にしてないよ」
 だから、そう言い切った。
「今からだってやり直せると思ってるよ、俺は」
 園田は黙っている。
 俺を見つめる瞳が揺れている。下唇を噛んで、何かを堪えるようにしている。あまり思い詰めて泣かれても困るから、俺は彼女になるべく優しく告げた。
「今は考えておいてくれるだけでいい」
 思い出してくれただけでも、ひとまずは十分だ。

 俺が彼女の手首から手を離しても、園田は黙って俺を見ていた。
 何か言葉を探しているようだったが、言うべきことが見つからないのだろう。蘇った思い出が彼女からいつも通りの笑顔さえ奪ってしまうと、後にはぽつんと寂しそうな園田が残った。
 だが俺達の思い出は罪の意識や、後悔や、相手を傷つけた悲しみだけでできているわけではないはずだ。楽しいことも幸せなことも、思い出せばお互い照れてしまうようなこともあった。

 写真を手帳にしまい、エンジンをかけ直すと、園田は俯きながらシートベルトを外した。
 その横顔を見ながら、俺は切り出した。
「園田」
「何?」
 おずおずと園田が聞き返してくる。
 俺はそんな彼女に、至って真面目に尋ねた。
「キスしたい。駄目?」
「――はあ!?」
 あっという間に、寂しげだった園田の顔に血の気が戻った。
 いや、戻ったなどという次元じゃない。みるみるうちに発熱したように赤くなった。それが面白くて俺は更に言葉を重ねる。
「そこからやり直すのもいいかと思って。身体の方が覚えてるってわかったしな」
「だ……駄目に決まってるでしょ何言ってんの!」
 真っ赤に上気した顔の園田は反論しようとしたらしいが、さっきとは違う意味で何も言えなくなってしまったようだ。口を開けたままわなわな震えていたから、俺はまた笑い飛ばしておく。
「冗談だよ」
「そんな冗談やめてよ! ちっとも笑えないし面白くないし心臓に悪いしびっくりするし!」
 園田が助手席でじたばたしている。
 こういうところは変わってないな、相変わらず免疫ないのか。
「でも園田を、暗い気分にさせたまま帰したくないと思ったんだ」
 そう言うと彼女は赤い顔のまま俺を睨んだ。目がちょっと潤んでいた。
「お気遣いどうも。できればもっと違うやり方がよかったですが」
「いや、冗談だけど嘘じゃないからな。万が一ってこともあるし」
 やり直しの第一歩としてキスから始めてもちっとも問題はあるまい。俺としては大歓迎だ。
「ないよ! 私はそういうのすっごく厳しいからね!」
 園田はむっとして釘を刺してきたが、そこは俺の記憶とはいささか異なる点があるようだ。
「そうだっけ? 意外とあっさり許してもらった覚えがあるけどな」
「そ、そんなことない! それは安井さんの覚え違いだよ!」
 彼女はどもりながら否定すると、大慌てで俺の車から飛び出していった。
 声をかける間もなくドアを閉めたので逃げられたかと思ったが、意外にも彼女はアパートの前に立ったまま、車を出そうとする俺を見送ってくれた。

 帰り際に手を振ったら、園田はぎこちなくだが手を挙げてくれた。
 俺が車の中から笑いかけたら、一度むっとしてみせた後、照れ隠しをしようにも隠れ切れない様子ではにかんでみせた。お蔭でなかなか車を出せなくて困った。
 やっぱり、可愛いな。園田。
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