Tiny garden

唯一無二の笑顔なり(3)

 出会った頃から、園田は何も変わっていないと思っていた。
 彼女はいつでも愛想がよくて明るくて、俺が何かを頼めば快く引き受けてくれた。
 あのあっけらかんとした笑顔は入社九年目の現在でもそのままだ。もちろん笑顔以外の表情も知らないわけではなかったが、怒った顔も落ち込んだ顔も泣き顔もやがて通り過ぎていく嵐と同じで、一時の感情の変化に過ぎないと思っていた。彼女の笑顔に変わりがないことを、彼女の本質にも変わりがないことだと錯覚していた。
 だが三年前に森林公園で撮ったこの写真には、普段の彼女とは違う表情が写っている。
 そこにあるのは年月と共に積み重ねてきた想いを露わにした表情だ。自惚れでも何でもなく、俺に写真を取ってもらった彼女はこの時、本当に嬉しくて恥ずかしくて幸せだったのだろう。
 園田は変わっていないわけではない。普段見せる素直な笑顔が、彼女の内面の変化を巧妙に隠蔽しているだけだ。つまり彼女が他人に向ける表情とは彼女が無意識にしている相手への評価に他ならず、この写真のような笑顔を向けられていた頃の俺は確かに彼女からとても深く想われていたのだろう。この写真には当時の彼女が向けてくれたありったけの好意が閉じ込められている。まさに奇跡の一枚だ。
 俺は彼女の写真を、これまでに何度もそうしてきたように熱心に見つめた。目を閉じても情景が浮かんでくるくらいつぶさに観察して、それから思う。
 この写真を園田に見せたら、また何かを思い出してくれるかもしれない。
 人よりも目立たずひっそりと変わりゆく彼女の内側から、積み重ねてきた記憶の一つを引き出すことができたら――この写真はその為の鍵になるような気がしていた。

 園田にはメールで、目当ての写真が見つかったことを伝えた。
 すごく面白い写真だから期待していいと告げると、園田は喜んだようだ。明日見るのを楽しみにしてるから、と大はしゃぎの返信が返ってきた。
 自らハードルを上げてしまったが、ご期待に添える内容には違いないだろう。
 今のところ石田から了承は取っていない。どうせ比較画像が必要になるのだし、そいつを用意する時にでも話せばいいだろう。今話して下手に抵抗を示されると厄介だ。
 園田に対しても、彼女の写真のことは黙っておいた。前もって言ったところで身構えられても困る。不意を打って見せてやろう。その方が園田もいいリアクションをくれるはずだ。

 翌朝、俺はロッカールーム前で園田を待ち構えていた。
 普段より遅めに出勤してきた彼女は、いつものサイクルウェアではなくスーツ姿だった。
「おはよう、園田。今日は自転車じゃないのか」
 早速声をかけると、彼女は早足になって近づいてきた。
「おはようございます、安井さん。雨になりそうだからね」
 確かに今朝はどんよりとした曇り空で、いつ降ってもおかしくない雰囲気だった。天気予報でも夕方以降は雨が降ると言っていたような覚えがあるが、車で出勤する日は、朝はともかく帰りの天候なんてあまり気にならない。もっとも自転車通勤なら話は別だろう。
 俺は駆け寄ってきた園田に、手帳に挟んでいた写真を差し出した。
「ほら、約束の写真」
 言うまでもなく、ルーキー時代の俺と石田が写った写真だ。
 園田がぱっと顔を輝かせる。
「ありがとう! 今確認してもいい?」
「そうしてくれ」
 彼女はいそいそと写真を受け取り、俺もちゃっかりその横に並んで、園田の横顔越しに写真を覗いた。
 園田の目は、写真を見た瞬間に釘づけになってしまったようだ。
「これ一枚しか出てこなかったんだけど、テーマにはぴったりだと思う」
 俺が説明を添えると表情がじわじわとほころび、懐かしむようにはにかむ。そして数秒後に溜息をついてみせた。
「わあ……すごい! この写真、本当にぴったりだよ!」

 それはそうだろう。『あの時君は若かった』、そんなフレーズがすぐに頭に浮かんでくる写真だ。
 まだ二十二歳の俺と石田は後先も考えず全開の笑顔をカメラに向けていた。撮影される際、この写真が後々発掘されて衆目に晒されることなど考えもしなかった。しかし仮にそういう考えが頭を掠めたとして、この時の俺にも、恐らく石田にも、ちょっとは見栄えよく写ってやろうなんて考えはかけらも浮かばなかったに違いない。
 お蔭で現在三十歳の俺は、何とも言えないむずがゆさで打ち震える羽目になっている。

「改めて見ると間抜け面してるな。よくもまあ、ここまで能天気に写れたもんだ」
 照れ隠しのつもりで鼻を鳴らすと、園田は写真から目を外さず、朗らかに異を唱えてきた。
「そう? いい感じに力抜けてて、楽しそうで、二人とも可愛いと思うよ」
「可愛いって……」
 その言葉に俺は面食らった。
 今の園田から見ても新人時代の俺達は六つも年下だ。可愛いという感想が出てくるのもそれほど妙ではないのかもしれないが、それでも彼女からそんな言葉を貰うのはやはり変だ。むずがゆさが加速して、一層くすぐったい。
 まあ、俺と石田を同列に並べての『可愛い』だから、手放しで喜んでもいられないが――別に喜んでいるわけでもないが。
「しかも二人ともか。俺だけじゃなくて」
 俺のツッコミを園田があっさり聞き流し、歓声を上げる。
「それにすごく仲良しに写ってる! 写真は嘘をつかないね!」
 仲良しと評されるのも微妙な気分だ。実際、同期として一番よくつるんでいた相手が石田だったから、その評価は間違いではないのかもしれない。
 だがもし、この頃から園田と距離を縮められていたなら、今頃どうなっていただろう。ありえないことだが想像せずにはいられない。ルーキー時代の俺は愚かにも園田に何の関心も持っておらず、明後日の方向ばかり眺めて歩いていた。
 仕方ないか。こんな間抜け面を晒している俺が実は賢かった、なんてことがあるはずもない。アホで間抜けな若造にまともな見る目が備わっていることもない。
 すぐ近くに、こんないい女がいたってことにも気づけなかった。
「本当にありがとう、安井さん! こんなに素敵な写真見つけてきてくれて!」
 園田が不意に振り向いて、とびきりの笑顔を向けてくれた。
 屈託のないいつもの笑い方に、嬉しいような切ないような気持ちになる。
 とりあえずは喜んでもらえてよかった、かな。
「どういたしまして。期待に応えられてよかったよ」
「うん、期待以上だったよ。安井さんに頼んで本当によかった!」
「そこまで喜んでもらえるとは思わなかった」
 園田の期待に応えられたのは幸いなことだが、こうして掘り起こしてきたかつての自分の姿には全く複雑な気持ちしか持てない。可愛いどころかこの能天気さがただただむかつく。何にも知らないで乗せられるままにギャルポーズなんか取りやがって。
 そして今になってこれが社内報に載るわけか。しばらくはネタにされそうだ。
「しかし本当に頭空っぽ、悩みもないって顔してるよな、石田も俺も」
 俺がしみじみぼやけば、園田は宥めるように苦笑してみせた。
「新人さんなんてそんなもんでしょ。ルーキーのうちから冷めてる方が怖いよ」
 そうは言うが、ルーキーのうちから正しく物事を見ていたら、俺の人生は変わっていたかもしれない。

 改めて写真を見ると、若かりし頃の俺も石田も本当に悩みのなさそうな顔をしている。
 俺の新人時代は全くの順風満帆というわけでもなかったから悩みがないはずもないのだが、酒の席で忘れていられる程度には頭が軽かったのだろう。石田はまあ、今でもこんなふうに笑うことがあるような気もするが――奴の落ち込む顔も知っているからだろうか。
 この後の互いの人生を思うと、割り込んで説教でもかましてやりたい気分になる。

「もし言えるもんなら、お前らこの後揃って失恋するんだぞって言ってやりたいよ」
 ふと声に出して、そう呟いていた。
 紛れもない本音だった。もちろんそんな言葉をいきなり現れた三十男に説かれたところで俺も石田も聞く耳など持たないだろう。そしてほぼ同時期に同じように失恋するのは確かだが、その後の運命は大きく違う。石田は棚からぼたもちみたいに可愛いお嬢さんが転がり込んでくるのをまんまと捕まえてしまった。だが俺は――。
 俺は、まだまだこれからだ。少なくとも諦めちゃいない。
「ところで園田、これの他に今の写真も必要なんじゃないのか?」
 何事もなかったように話を戻せば、園田は一瞬遅れてから頷いた。
「……う、うん、そうだよ。後で撮らせてもらっていいかな」
「なら俺が撮ってくるよ。カメラはある?」
 どうせ石田には写真の使用許可を貰ってこなければならない。駄目と言われてもあの手この手で黙らせるつもりでいたが。いざとなれば小坂さんを利用するまでだ。
「そんな、そこまでの面倒はかけられないよ。私が撮るから」
 園田はやんわりと遠慮しかけたが、彼女が行けば説明が面倒になる。
 石田は写真の出どころが俺だと知れば『何でこんなもん引っ張り出してきた』と言い出すだろうし、そこから俺の思惑を見抜かれるのも面倒だ。ここはやむを得ず協力しなければならなくなって、といった体で話を持っていくのがいい。その為にも交渉役は俺自身でなければならない。
「そうはいかないんだ。実は社内報の件、まだ石田には言ってない」
 俺が打ち明けると、園田は残念そうに眉尻を下げた。
「嘘、許可貰ってないの? じゃあ断られる可能性もあるよね」
「心配しなくていい。石田には俺から話を通すよ。あいつには嫌とは言わせない」
 そこで俺は堂々と胸を張り申し出た。頼れる男アピールも決して忘れない。
「えっ、大丈夫?」
「お前が行くより俺から話した方がいい。必ず協力させるから、任せてくれないか」
 説得の言葉を重ねると、園田の表情にも迷いの色が滲み始めた。ためらいながら聞き返してくる。
「でも安井さんだって忙しいんじゃない? 任せても大丈夫?」
 こう言わせたらもはや話はまとまったようなものだ。
 俺は内心ほっとしながら応じる。
「平気だよ。何時までに持っていけばいい?」
「何時でもいいよ。どうせ今日も残業だし……夜九時過ぎとかでなければ」
「定時後でもいいか? あいつも新人教育中で、身体空くのはそのくらいだろうし」
 新人教育担当の主任殿はこの時期とみに忙しいのだ。新人くんが退勤した頃合いを見計らって訪ねていくのが無難だろう。
 園田はこくんと頷いた。
「うん。撮れたら連絡してくれたら、すぐ貰いに行くから」
「わかった。古い方の写真もその時でいいよな? これで石田を脅しにかかるつもりだ」
 俺の部屋にはこれより更に恥ずかしい写真があるぞと脅してみようか。いや、あれはさすがに公開すると俺もまずいか。
 とは言え石田なら案外ノリよく了承してくれそうな気もする。写真を見た小坂さんに『主任の若い頃って可愛いですね!』みたいなことを言われ、でれでれしながら撮影に応じる姿が思い浮かぶようだ。くそ、石田め。やっぱりちょっとむかついてきた。
 想像だけで腹を立てるのはこのくらいにしておいて、俺は園田からデジカメを受け取った。シャンパンゴールドの、見覚えのあるデジカメだったがそれには触れず、スーツの胸ポケットにしまっておく。
「余計な手間までかけさせてごめんね。それと、本当にありがとう」
 園田が手を合わせて俺を見上げてくる。
「いや。力になれて嬉しいよ」
 俺は本心から言って、それからいよいよもう一枚の写真を出そうと切り出した。
「そうだ、もう一つ見せたいものが――」
 だがそこで、こちらに他人の気配が近づいてくるのに気づいた。

 園田の頭越しに見えたのは長い髪を一つに束ね、細い眼鏡をかけた、歩き方に品のあるすらりとした女性――あれは、広報課の東間さんだ。
 さすがに園田の同僚の前であの写真を出す気にはなれない。
 俺が動きを止めてそちらを見たことで、園田も東間さんの接近に気づいたようだ。

 彼女が振り向いたタイミングで、東間さんが控えめに笑いかけてきた。
「おはよう、園田ちゃん。……と、安井課長もおはようございます」
 東間さんは俺がいるのを怪訝に思ったようだ。おやっという顔をしたが、俺達の手元に目をやった時、全てを理解したようだった。
「もしかして例の写真、安井課長にお願いしたの?」
 途端に園田は照れたような笑みを東間さんへ向けた。
「そうなんです。今日、早速持ってきていただきまして」
「さすが迅速なお仕事ぶり。ご協力ありがとうございます」
 園田の説明を聞いた東間さんが、俺に向かって折り目正しく頭を下げる。
 下心百パーセントで今回の以来を請け負った身としては、他の広報課員から頭を下げられるといささか気まずい。俺は笑いながら頭を下げ返す。
「いえいえ。お役に立てるなら幸いです」
「じゃあ、私も見せてもらっていいですか?」
 東間さんが写真を覗き込もうとしたので、園田がそれを差し出した。
「はい、どうぞ! とってもいい写真なんですよ!」
 写真を受け取った東間さんはじっと見つめた後、眼鏡の奥の瞳を大きく瞠った。驚くべきものが写っている、とでも言いたげな反応だった。
「これ、安井課長と……営業の石田主任?」
 驚くのも無理はない。俺と石田が最もアホだった頃の写真だ。
 納得する俺をよそに、園田はなぜか声を弾ませて説明を添える。
「そうです。二人とも『あの時君は若かった』って感じですよね!」
「ほ、本当に……」
 東間さんはそれに相槌を打とうとしたようだったが、その声が震えたかと思うと次の瞬間、おかしそうに吹き出した。
「と、東間さん? そこまで笑うような写真ですか?」
 俺はぎょっとした。
 いや、頭の軽そうなアホ面が二つ並んで写っていることは否定しないし、俺達を知る者が見れば笑ってしまうのも致し方ないとは思う。だがこれまでほとんど接点もなかった東間さんにまで吹き出されるのは予想外だった。東間さんが他人の写真を見て吹き出すということ自体も意外だった。俺の中でのこの人のイメージは『慎ましい日陰の美人』だったからだ。
 だが東間さんは口元を押さえ、懸命に笑いを堪えようとしている。
「ご、ごめんなさ……でも、これ、すごく可愛いって言うか、お二人らしいって言うか……!」
 弁解しようとしているらしいが笑いながらでは弁解にもならない。そのうち堪えきれなくなったのか、俺達に背を向けて肩を震わせ始めた。傍から見ると泣いているようにさえ見える後ろ姿だった。
 東間さんってこんなふうに笑う人だったのか。
 むしろ誰かをこんなふうに笑わせる威力が、この写真には秘められているということなのか。
「もしかして今のが、これからあの写真を見る社員の、一般的な反応ってやつなのか?」
 俺が事実を悟ってぼやけば、園田もおかしさを堪えようと必死の笑顔で言った。
「そうかも」

 今更迷うつもりはない。
 俺は園田の為に形振り構わず全てを曝け出すと決めたのだ。
 だがそれでも捨て切れない気恥ずかしさがあり、近頃は随分と恥をかく機会が多いなと思う。
 恥なんて生きていけば何かというとかくものだ。むしろどんどん増えていくのが人生というものだ。腹を括らなければなるまい。
 ただ俺だけ恥ずかしい思いをするのも癪なので、園田にもあとで存分に同じ思いをしてもらう。
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