Tiny garden

唯一無二の笑顔なり(2)

 やがて、園田が二人分の湯呑みを手に戻ってきた。
 差し出された湯呑みを受け取り、俺は礼を言う。
「ありがとう、園田」
「いえいえ」
 彼女は軽く笑うと元いた席へ戻り、両手で湯呑みを持った。
 口元が笑んでいるのは機嫌がいいからというより、さっきまでいた石田が置き土産みたいに残していった陽気な余韻のせいだろう。
 石田の、真夏の太陽みたいな明るさは俺も認めるところであり、一緒に飲んだり喋ったりする相手としては申し分ないのだが、こうして女の子を挟むと分が悪いと思うこともある。石田が口にするからっとした冗談は女の子からの受けがいい。園田も何だかんだで石田と話すのを楽しいと思っているようだ。それが悪いわけではない。
 ただ俺と園田がこうして二人きりになったのは久し振りなのに――社員食堂には他にも利用者がぽつぽつといたが、少なくともこのテーブルには二人きりだったし、周囲には人がいなかった。
 そういう絶好の環境下にもかかわらず、園田はこの間会った時のことを思い出すどころか、石田のくだらない冗談を思い返して微笑んでいるわけだ。俺が石田め後で覚えてろ、などと思うのも無理はないだろう。

 悔しいので入れ知恵してやる。
「お礼にいいこと教えてやるよ」
 そう前置きしてから、俺はもったいつけるように声を落とした。
「石田を言い負かす方法だ」
「そんなのあるの?」
 園田はすぐに興味を持ったようで、瞬きをしながら聞き返してきた。
 そこで俺は得意げに教えてやる。
「あいつ、今年の健康診断でバリウム飲んだんだよ。そこを突っ込んでやれば一発だ」
 バリウムを飲んでのレントゲン撮影という検査項目が、今年度から奴にも追加された。それは秘密でも何でもなく検診のお知らせを見ればわかるようなことだ。
 当然、園田も怪訝そうにしていた。
「え、そんなことで石田さんがへこんだりする?」
「バリウムは満三十歳からだからな。てきめんにへこむはずだ」
 二十代のうちは対象外の検診だ。石田はそのことを霧島にも散々からかわれたそうなので、園田からも言われたらさぞかし拗ねてみせるのではないだろうか。
 だが園田は釈然としない顔をしていた。
「でもそれじゃ、安井さんもバリウム飲んだんじゃないの?」
「そうだよ。だから俺が石田をからかうのには使えないネタなんだ」

 俺が年下なら便乗してからかってやるところだが、あいにく俺も満三十歳、胃部X線検査の対象だった。
 先日の検診ではいかにも作り物めいた味つけのバリウムを飲み、立て続けに発泡剤を飲まされて撮影に挑んだ。こんなことでがたがた言う歳でもないから粛々と行ったが、そのせいか飲みっぷりを誉められたのは記憶に新しい。検診後に石田と互いの飲みっぷりを自慢し合ったが、間違いなく俺の方が格好よかったはずだ。
 そういうわけで残念ながら、俺はこの件で石田をからかうことができない。

「なるほどね……」
 園田は納得した様子で頷いた。
「じゃあ逆に、安井さんがからかわれる可能性もあるわけだ」
 まあ、そういうことでもある。
 だが同じように、このネタで俺が石田からつっつかれるということもあり得ない。当然だが俺をからかえるのは俺より年下の人間に限られるというわけだ。
「そんなことはしないよな? 俺は園田のこと信じてるからな」
 まだ二十代の園田に信頼を込めて告げると、園田は真面目な顔で応じた。
「しないよ。私も他人事ではないし」
 彼女にはとってはまだ二年も先の話だ。他人事扱いでもいい気がするのだが、園田は園田なりに近づいてくる三十の壁を身近なものとして捉えているのかもしれない。
 もっとも、入社当時からさして見た目に変化のない彼女のことだ。三十になってもこのまま変わらず、あっけらかんとした園田のままでいるだろう。
 俺としてはその頃までに彼女が俺のものになっていたら、それだけでいい。
「俺達で石田をぎゃふんと言わせてやろう。楽しいぞ」
 悪だくみを持ちかけると、園田はなぜか冷やかすような目つきをした。
「仲良しのお友達をいじめるのが楽しいなんて、安井さんは素直じゃないね」
「何だよ、園田はあいつの肩を持つのか? せっかくいい情報教えてやったのに」
「肩を持つとかじゃなくてね。いい大人がお互いからかい合うのってどうかなって思うだけ」
 たしなめる口調に。俺が反論を考えようとした時だ。
 ふと、園田の顔つきが変わった。何かアイディアがひらめいたみたいに表情が一瞬静止して、それからぱっと晴れやかになる。何を思いついたのかは読めなかったが、次に俺の方を見た時、園田はとびきり可愛い笑みを浮かべていた。 
「ねえ、安井さん」
 甘えたような呼びかけを少し、懐かしいと思った。
 一体どんないいことを思いついたか、あるいは思い出してくれたのだろう。俺もいくらか気を抜いて、親しみを込めて返事をした。
「何?」
 ところが、
「入社当時の写真ってある? よかったら広報の企画で使いたいんだけど」
 直後に彼女が口にした言葉は意外、と言うより俺の予想し得ないものだった。
 入社当時の写真? 広報の企画? どういうことだ。
「誰の? 俺の?」
「そう」
 聞き返すと彼女は即座に頷いた。
 もしこれが、俺の写真が欲しいのに言い出せない彼女の遠回しなアプローチだというなら写真だろうとなんだろうと喜んで差し出すのだが、そうではないことは自分でもわかりきっている。何より入社当時のものを、広報の企画で使うと説明した意味がわからない。
 いくつかの可能性を考えては投げ、考えては投げたがわからず、直截尋ねてみる。
「探せばあるかもしれない。何に使うって?」
「あのね、社内報の企画で社員の入社当時の写真と今の写真を並べて、こんなに変わりましたよって記事を組んでるの」

 我が社の社内報はイントラへ掲載される体裁を取っている。俺達の入社当時はまだ紙媒体の社内報を刷っていたはずだが、いつの間にかイントラへ移行していた。それも時代の流れなのだろう。
 社内報に載せる情報の中には人事課から提供されたものも多い。人事異動や入退社などの情報はこちらから社員に個人情報の扱いについて確認を取り、それから広報に情報を受け渡すという流れだった。その為毎月の更新の度に社内報には目を通すようにしていたが、これからは園田が関わることになるというなら今まで以上に熟読しなければならないだろう。
 ただ、そこに自分の写真が載るとなると話は別だ。
 社内報は真面目な内容ばかりではなく、時折箸休めのようなユニークな記事が載るのだが、今回の企画も要はそういうものらしかった。

「その素材が今、深刻な不足状態でね」
 園田が話を続ける。
「ちなみにタイトルは『あの時君は若かった』なんだけど」
 企画タイトルを聞いた途端、俺は思わず吹き出した。
「うわ、前時代的!」
 古い、古すぎる。
 それでいて針が吹っ切れるほどの古さはないから聞くとちょっとむずむずしてくる。これはどう考えても園田のセンスではあるまい。
「何で笑うの!? 小野口課長が考えてくれたんだよ!」
 園田が心外そうに声を上げたので、俺は更に笑った。
「それはタイトル聞いただけでわかるよ。お前の案じゃないなってことは」
「そんなに古いかな……。企画自体は面白いと思うんだけどな」
 まるで自分のアイディアが蹴られたみたいに、園田はしゅんとしてみせる。
 それだけ彼女自身もこの企画に思い入れがあるのだろうが、素直に一喜一憂するところは可愛い。笑う時は目を細めて顔いっぱいで笑い、落ち込む時は眉尻を下げて顔中で落ち込んでみせる。
 せっかくなのでその変わりようをじっくり眺めては笑い続けていたら、園田は機嫌を損ねたようだ。今度はつんと唇を尖らせて抗議してきた。
「そこまで笑うことないじゃない。じゃあ安井さん、対案でも出してみてよ!」
「いや、悪い悪い。園田が拗ねるのが面白くて」
 俺が慌てて詫びると、彼女は気を取り直したのか、また社内報の話に戻る。
「記事はもう組んであるんだけど、ちょっとインパクトが足りなくて。今までは勤続年数が二桁の人達にお願いしてたんだけど」
「それじゃ俺は対象外じゃないか」
「うん、そうなんだけどね。安井さんだったらインパクトありそうじゃない」
 対象外のはずの俺に求められているインパクトとはどんなものなのか。話の続きを聞くのが恐ろしくなってきた。
「必要なのは過去とのギャップと、ちょっとした面白さなんだよね。見た目は昔と変わってるけど、どっちも本人だなって思わせるような写真が欲しくて……それでいて社内のウケも取れるような人選って言ったら、安井さんか、そうでなければ石田さんかなあって」
「それ、誉められてるって受け取っていいのか」
 どう考えても面白いネタ写真を求められているように聞こえる。

 しかも人選が俺か石田というのがまた。
 これは普通の写真なんか出したら許されそうにない。恐らく期待されているのはクイズ番組で的外れな回答をするお笑い芸人枠だろう。
 だがいくら俺と石田であっても、そうそう面白写真、それも入社当時のものなんて出てくるはずが――いや、うん、なくはなさそうだな。当時のものがまだ残っていれば。
 むしろ新人時代の写真を探せば、そこには能天気な馬鹿面を晒す俺達しか写っていないはずだった。
 確かに俺達、あの時は若かった。

「大体、俺なんかがそこに並んだら浮くだろ。他の人達は古株の社員ばかりなんだろ?」
 一応、俺じゃなくてもいいのではないかという意思を示してみた。
 かつては頭空っぽのルーキーだった俺だが、今は部下もいるし後輩もいる立場なのである。過去の恥を晒して仕事がしにくくならないかという不安はなくもない。
 園田は小首を傾げて答える。
「うん。でも、一人くらいネタ枠があってもいいかなって。初めは私がその候補だったんだけど」
 ネタ枠と明言されてしまった。
「園田じゃ何で駄目だったんだ」
「あんまり変化がないからかな……。成長が見えないって言うか」
 言われて俺は目の前に座る園田をしげしげと見た。八年以上も変わらない短い髪、愛嬌のある丸顔、笑うと細くなる奥二重の瞳、下唇が厚めなところまで何も変わっていないように見える。
 この顔ではネタにはなりそうにないな。あの時どころか、今だって若い。そして可愛い。
「確かにそうかもな」
 俺が納得すると彼女は両手を合わせ、上目遣いにこちらを見た。
「だから、お願いします。写真があったらでいいから」
 意中の相手からそうやってお願いされるのは、なかなか気分のいいものである。
 いや、いいのは気分だけではない。言葉は悪いが彼女に恩を売ることができれば次の機会に繋がる。写真のお礼に、などと言って何がしかの要求をすることもできる。
「わかった。今日帰ったら探してみるよ」
 下心百パーセントの計算を終えると、俺は彼女にそう言った。
 答えた瞬間、園田はにっこり笑ってみせた。
「ありがとう! 期待してるね」
 いつものことながら、惜しげもなく屈託もなく、あっけらかんと笑ってくれるものだ。
 その笑顔だけで十分元が取れたような気がしたが――いや駄目だ。お礼目当てで引き受けたのだから、もっと何かいただかなければ気が済まない。
「自分の写真なんてまず取っておかないしな。あるかどうか自信はないけど」
 わざと含みを持たせて答えたのも駆け引きのうちだ。カップラーメンの残りを食べつつ、古い記憶を掘り起こす。

 入社当時の写真があるとすれば、営業課時代の先輩がたに撮ってもらったものになるだろう。
 そういえば何枚か、記念にと飲み会で撮影した写真を譲ってもらったことがあったはずだ。わざわざ見返したいものでもないしずっとしまい込んでいたが、机の引き出しでも探せば出てくるだろう。
 ただ、見つかった場合は俺が俺自身の恥と向き合う形になりそうだ。場合によっては石田もか。どう考えてもあの頃の俺達が行儀のいい紳士然として写真に収まっているとは思えない。
 かつての過ちすら園田の為に曝け出すというなら、形振り構わない今の俺も十分滑稽だ。後に笑い話にでもなればいい。

「いいよ。もしあったら、お前の為にネタにでも何でもなってやるよ」
 最後の迷いを振り切って告げると、園田の顔から笑みが消えた。
 瞬きも忘れた戸惑いの表情で、おずおずと頷く。
「え、……うん、あ、ありがとう」
 こんな言葉くらいでうろたえるのか。
 それならお礼は期待していてもいいかもしれない。
「写真、出てくるといいな。お互いの為に」
 食事を終えた俺は、彼女が入れてくれた番茶をゆっくりと味わう。
 お茶はすっかり温くなっていたが、今の俺には十分美味しかった。

 その日、仕事を終えて帰宅した俺は、着替えよりも先に家捜しを始めた。
 目的はもちろん園田に頼まれた写真を見つけることだ。パソコンデスクの引き出しを漁るとそれらしいものが発見できた。一応整理しようという気はあったのか、現像した時に無料でもらえる安っぽいアルバムの中に突っ込まれていた。
 何かの大型備品を購入した折だろうか、大きなダンボールから両手両足を突き出した格好で埋まっている石田とその横で腹を抱えて笑っている俺。
 あるいは懐かしい営業課の片隅で、がっちがちに固まっている新人時代の霧島と肩を組んで変顔を作る石田と俺。
 あるいはどこかの飲み会の席でふざけてネクタイを頭に巻いている石田と、同じことを後輩に強要しようと霧島のネクタイを解きにかかっている俺、そして生娘のように抵抗を見せる霧島。
 いつ、誰が撮ったかも覚えていないような、そんな写真が次々と出てきた。
「予想はしてたけど、まともな写真がないな……」
 思わず独り言を呟いてしまうほど、酷い写真ばかりだった。若気の至りとはいうものの、こいつらはこの時点でもれっきとした大人、社会人である。馬鹿なことばかりしていて許される歳ではない。
 それに忘れてはいけない。園田から頼まれているのは、俺の新人時代の写真だ。

 俺は古いアルバムをめくり、それらしい写真を探した。
 すると何ページかめくった先に、随分懐かしい顔が現れた。
 それも飲み会で撮影した写真のようだが、石田がやたら若かった。髪型はもちろんかつてのサッカー選手を真似したソフトモヒカンだったが、それ以前に顔が若い。今、奴が仕事を教えている営業課の新人くん並みに若い。スーツもまだぱりっとしたリクルートスーツそのままで、まさしく新人時代の石田だった。
 当然、奴の隣には俺がいた。やはり長めの髪型で邪魔そうな前髪をしていた、俺の顔も背中がむずがゆくなるほど若く、幼く、今の俺からは考えられないほど屈託なく笑っていた。俺と石田は両手を突き出すギャルポーズで写真に収まっており、その表情と言ったら頭の固そうな老人らから『全く今時の若者は』とこれだけでお叱りをいただけそうなほど頭空っぽ、能天気な笑顔だった。
 写真はどこかの居酒屋で撮影したと見え、二人の周囲にはオレンジがかった照明が、少し汚れた壁が、テーブルの上の枝豆の殻を溜め込んだ小鉢が写り込んでいる。
 この写真には覚えがあった。俺と石田が入社してすぐ、恐らく歓迎会の折に撮影したものだ。当時の俺と石田はもちろん仲もよかったが、営業課の先輩がたからは漫才コンビのような不名誉な扱いを受けていた。写真撮ってやるからお前ら二人で面白いことやれ、などと無茶振りされた俺達はこんな調子でポーズを取った。不思議と当時は恥ずかしさもなかった。今は顔から火が出そうなくらい恥ずかしいものの。
 誰が見ても納得のアホ面だ。
 だが、ものすごく楽しそうだ。
 俺も石田も別人みたいに惜しげもなく屈託なく、あっけらかんと笑っている。
 これからお互いの身に起こる苦労や不幸や悲しみなんて、何も知らない顔をしている。

 その写真を見ていると俺は無性に切なくなってきて、同時にふっと思い出した。
 こんな笑顔の写真を、俺は他にも持っている。
 俺の写真じゃない。石田のものでもない。もっと可愛くてきれいで唯一無二の笑顔を収めた、今となっては奇跡みたいな一枚だった。
 彼女の写真は机の別の引き出しに入っている。
 どこにしまったかちゃんと覚えているくらいには、近頃、何度か見返している。
 でも今、引き出しを開けて写真を取り出してかつての俺達と並べてみると、森林公園のベンチではにかむ園田は新人時代の俺達よりもずっと大人っぽく、きれいなお姉さんに見えた。
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