Tiny garden

Try,try,try again.(6)

 時間が止まってしまったような、長い沈黙が続いた。
 その沈黙を割ったのは、俺でも、園田でもなかった。

「お待たせしました。湯葉の包み揚げです」
 声がして面を上げれば、居酒屋の店員が料理を運んできたところだった。
 甚平を着た店員は包み揚げの皿を俺達のテーブルに置くと、お下げしますと言って空いた皿を手に取る。俺と園田が気まずく黙り込んでいるのを、怪訝そうに眺めていくのも忘れなかった。
 店員が立ち去った後も、お互いすぐに言葉は出てこなかった。
 だが俺は現実に引き戻されていた。そしてそのお蔭で、園田がどんな様子でいるかを直視することができた。
 自分から婚活について言及したくせに、言ってしまってから後悔でもしているのだろうか。困り果てた顔で落ち着きなく瞬きを繰り返している。俺の反応を見て、言うんじゃなかったとでも思ったのかもしれない。
 黙って眺めていれば、彼女は何の覚悟も決まっていない面持ちで口を開いた。
「……あの」
 園田が何を言おうとしたのかなんて、俺にわかるはずがない。

 ただ、次に放たれる言葉が何であれ、聞きたくないと思った。
 今まで黙っててごめん、という謝罪だろうと、言わない方がよかったかな、という反省だろうと。あらゆる弁解も開き直りも照れ隠しも聞きたくなかった。

 俺は彼女の言葉を制止する為だけに、自分のジョッキを鷲掴みにした。
 まだ半分以上残っていた二杯目のビールを勢いよく飲み干しにかかる。喉を駆け下りていくきつい炭酸に痛みすら感じたが、それでもジョッキを空けるのは思いのほかたやすかった。
「ちょ、ちょっと、そんな急に飲んで大丈夫!?」
 園田の止める声を聞き流して、荒く息をつきながら空のジョッキをテーブルに置く。
 そして真正面から彼女を見据えると、不安げな奥二重の瞳と目が合った。
 聞きたくはないが、聞かなくてはならない。だったらいっそこちらから聞いてやる。
 そう思って、俺は彼女の名前を呼んだ。
「園田!」
「は、はいっ!」
 びくっと震え上がった園田が返事をした。
 俺はそんな彼女に、尋問をするつもりで尋ねた。
「お前、結婚するのか?」
「い、いや、するとかいう段階でもないよ。まだ相手もいないし」
 彼女は上目遣いに俺を見る。
 珍しく気弱な態度だ。俺がなぜ気分を害したか、くらいはわかっているのかもしれない。
「でも見つかったらするんだろ?」
「うん、まあ」
「俺との見合いは断ったのに?」
 更に畳みかければ、園田は後ろめたそうに答える。
「だってそれは、お見合い詐欺になっちゃうし……」
 この期に及んで俺は、彼女に一番近い人間が自分だと錯覚していたのかもしれない。
 甘い見込みだった。小野口課長が言った通り、見合い話を蹴ってしまえば園田のことは、俺には関係のない話になってしまうのだ。
 いや、彼女は俺とは見合いをしないと言っているのだから余計に悪い。俺は端から彼女の眼中にはなく、彼女は俺以外の男を探して結婚するつもりでいる。そのことに愕然とさせられた。

 昔のような気持ちが彼女にも残っていると思い込んでいたわけではない。
 それでも俺には気の緩みがあった。かつて俺達はお互いに好きで付き合っていた頃があり、そういう記憶がある限り、そしてお互いに次の恋をしていない限りは最も近しい異性として存在していられるだろうと、そういうふうに思っていた。
 恋の記憶は何年経とうと消えてしまうものではなく、身体と心の両方に残っている。いつかそれを蘇らせることで、彼女を取り戻せるのではないかと考えていた。園田だってあの頃の記憶を全部忘れたわけでもないだろうに。昔の男と酒を飲みながら次の恋の話ができるような器用さが、彼女に備わっているとは思ってもみなかった。
 だがあれから三年経ったのだ。
 俺自身に何の成長もないからといって、彼女もそうだとは限らない。
 変わっていないと俺が思い込んでいただけで、園田の内面は大きく変わってしまっているのかもしれなかった。

「……そうか」
 俺は頬杖をつき、深い吐息と共に呟いた。
 さっき空けたビールのせいだろうか、頭が重い。腕で支えていないと突っ伏してしまいそうだった。
「そう、だよな」
 もう一言呟けば、向かいに座る園田があたふたと声をかけてくる。
「な……何か、飲む?」 
 ジョッキが空になったから尋ねてきたのだろうが、彼女が困惑しているのは明白だった。
 黙ってそちらに視線を向けると、気遣いと怯えが混在した目で俺を見返す。

 怖がるくらいなら元カレとなんて飲みに来なきゃいいのにな。
 園田のことだ、昔の男とも健全な男女間の友情を育めるなどと道徳の教科書に載っていそうな理想を抱いていたのかもしれないが、そもそも男女間の友情なるものを俺は三十年生きていても未だに見たことがない。そしてもちろん、実在するかどうかすら怪しい代物を、俺は園田との間に育むつもりはない。
 欲しいものはもっとはっきりしている。
 俺の周囲でも着々と実在が証明されている、ごくありふれた関係性だ。それが手に入らない可能性を、今は考えたくないほどだった。

「寂しい」
 俺は彼女に聞こえるように、はっきりとそう告げた。
「え……」
 途端に園田は打ちのめされたような顔をした。
 打ちのめされているのは明らかに俺の方だったが、ためらわず続けた。
「寂しいよ、お前が結婚したら」
 考えたくないが、考える必要がある。
 起こり得る最悪の事態を想定してこそ、その事態を回避する方法も見つけられる。
「霧島が結婚して、石田も結婚したいって言ってる。おまけに園田までなんて、そうしたら俺は本当に独りぼっちだ」
 俺は孤独を嘆き、そしてなくはない最悪の未来について言及する。
「それに、苦しい。お前が作った料理を、俺じゃない他の奴が食べて、美味いって言うのかと思うと」
 園田が豆腐を使わない料理を必死に習って、それを誰かに振る舞って喜ばれるような日々。それは彼女にとっても満足のいく幸せではないはずだ。
 それなら俺の方がいい。俺は園田が作る豆腐料理をどれでももれなく喜んで食べるし、美味いと心から言える。食べたことがあるのだから確信できる。もう一度俺を選んでくれたら、誰よりも、今度こそ幸せにしてみせるのに。
「お前が、俺じゃない奴のものになるのかと思うと……」
 その言葉にも嘘はなかった。
 だがそう口にした時、目の前の園田が一層怯えたように身体を震わせた。
 俺の言葉を止めはしなかったが、快くも思わなかったようだ。戸惑いながら眉を顰めてみせたから、俺はすぐさま彼女に詫びた。
「悪い、口が滑った」
「う、ううん……別に」
 別にいい、とは言ってくれなかった。
 園田は他人の発言には寛大な方だ。昔の俺は彼女に相当失礼な発言をし続けていたが、彼女は時々怒りつつも、あるいは悲しそうにしつつも、最後には笑って許してくれた。
 だが今は笑う余裕もないようだった。緊張に張り詰めた目が俺をじっと見つめている。まるで身構えているような緊張感がその表情から伝わってきた。
 そこで俺は軽く笑んで、わざと自嘲するように言った。
「わかってるんだ。ただの嫉妬だって。よくあるだろ、こういうの。――明け透けに言えば、ずっとフリーだと思って安心しきってた元カノに急に男の影が見えて、それで妙に気になって焦り出して、もう自分のものでもないのに取られたような気になってる。そういう、よくあるくだらない嫉妬だ」
 焦るあまり話を急ぎすぎてしまったのだろう。凍りつく園田に、俺は嘘のような本当のような言葉を並べ立てる。
「だからお前は気にしなくていい。聞き流してくれ」
 彼女の警戒心を解く為だけに、俺はそう言った。
 そのやり方は上手いこと功を奏したようだ。園田は固まっていた表情を解き、申し訳なさそうに口を開いた。
「ごめんね、言うべきじゃなかった」
 そうやって素直に謝れるところはとても彼女らしいと思う。
「すごく無神経なこと言ったと思う。こういうこと、もっと気をつけて話すべきだったのに」
 園田が心底反省しているようなので、俺は宥めるつもりでかぶりを振った。
「いや、何も知らないまま結婚だけ知らされてた方がショックだったと思うから、いい」
「……そうかな」
「ああ。できれば今後も知らせてくれる方が嬉しい」
 むしろ、知らせてくれなければ困る。
 これから彼女の動向は逐一把握しておかなければなるまい。二度と俺の知らないところで婚活なんぞに勤しむことのないように――彼女について聞きたくない事実も、考えたくない可能性もあるだろう。だがそういうものを乗り越えていかなくては、前にだって進めやしない。

 俺はすかさず店員を呼び止め、飲み物のお替わりを頼んだ。
 園田のジョッキも半分以上減っていたので、彼女にもどうするか尋ねておく。もっともっと酔っ払わせて、彼女の婚活の現状について聞き出してやらなければならない。
 園田も三杯目のビールを頼み、二つのジョッキが運ばれてきたところで俺は、何事もなかったように切り出した。
「婚活ってどんなことしたんだ」
 彼女もその問いに、額面上はいつも通りの態度で答えた。
「ええと、パーティに行ったんだ。お金払って大勢と話をする感じの」
「お見合いパーティってやつか」
「そんなとこ。言った通り、予感もないくらい全然駄目だったけどね」
「それで料理のこととか、誰かに言われたのか?」
 もしかして、それで料理教室か。見当をつけた俺に、園田は溜息をつきつつ嘆く。
「言われたんじゃないけど……得意料理を話したら引かれた。もう音がするくらいにさーっと」
「美味いのに。何にもわかってないな、そいつ」
 俺だったら園田の料理が美味いのは知っているし、実際に喜んで食べてやれるし、心から誉めてもやれるのに。実在するかもわからない未来の結婚相手の為に好きでもない料理を習うなんて空しいだろうに。俺にしておけばその悩みからも解放されるのにな。
「あと趣味の話も引かれた。ロードバイクって言うと、浪費してるって思われるみたい」
 園田が続いてぼやいたのは、部屋で同居するほど可愛がっている自転車のことだった。
「お前の金だろ。どう使おうが、他人に文句言われる筋合いないだろ」
「うーん、でも貯金がある方がもてるって聞いたよ。堅実な人の方がいいみたい」
「所詮金ってだけだ。宝くじでも当てとけよ、この上なくもてる」
「そりゃまあそうだけどさ……。せっかくだから将来見据えて、いくらか貯めとこうと思って」
 婚活なるものの現場がどのような空気かはわからないが、収入や資産がものを言うのは間違いないようだ。金のある奴がもてるのは他でもそうだろうが、園田はそれでいいのだろうか。探すなら何より彼女の趣味を受け入れてくれる男の方がいいはずだ。
 俺は、結構好きだけどな。自転車乗ってる園田が。
「やったところで実になるかどうかはわからないけどね」
 園田は苦笑してそう言った。
 どうも状況は芳しくないらしい、こちらからすれば好都合だ。
 ポイントを稼ぐかのように、俺は先程届いたまま放ったらかしにしておいた皿を彼女の前に差し出した。
「とりあえずほら、これ食べろよ。お前には豆腐料理が一番似合うよ」
「あ、ありがとう……。安井さんも食べようよ、せっかくだから」
 勧められたので、俺達は二人で湯葉の包み揚げを食べた。評判通りの逸品は園田の口にも合ったようで、彼女は幸せにとろけそうな顔をしてみせた。
「美味しいこれ! 外はさくさくしてるのに中はふかふかで、食べ終わるのもったいないくらい!」
 園田がはしゃいでいるのを見ていると、幸せな気持ちと胸を締めつけられるような苦しさが共に込み上げてくる。
 本当に、ずっと食べ終わらなければいいのに。
 このまま彼女を離さずにいられたらいいのに。
「いざとなったら見合いって手もあるだろ。小野口課長に頼んで」
 ふと思いついて、俺は彼女に告げた。
 園田は少し笑って首を傾げる。
「それはちょっと……。したことある人に聞いたけど、気まずかったって言ってたよ」
 したことある人、とは誰だろう。社内では過去にも結構な人間が、小野口課長の趣味に付き合わされたそうだが――まあ、誰でもいいか。
 俺は小野口課長に限りなく正直に打ち明けてしまった。
 もしあの人の力を借りることがあるとすれば、その相手はもう決まっている。あの人なら喜んでお節介を焼いてくれるだろうし、俺も、眼中にもない元カレよりはお見合い相手の方が建設的でいい。
「俺はお願いするかもしれないと思ってるよ」
 試しに言及してみたら、園田は目を見開いた。
「え? 安井さん、お見合いするの?」
 当たり前だが他人事みたいな反応だった。
 今はそれでも仕方がない。俺はこれから自分一人でできるあらゆる手段を試して園田を取り戻すつもりでいるが、もし俺の力だけでそれが叶わなければ、誰かの力を借りなくてはならない。
「万策尽きたらな。もしかしたら、試してみるかもしれない」
 せっかく恥をかいて頭を下げたのだ。
 このくらいの元は取らなければ、悔しいじゃないか。

 ビールを三杯飲んだところで、俺達は店を出た。
 外は既にとっぷり暮れていたが、晴れているのは入店前と同じだった。空には細い月が浮かんでいて、目を凝らせば小さな星が瞬くのも見えた。五月の夜はまだ風が冷たかったが、酔って火照った肌には心地いい。
「駅まで送る」
 俺が申し出ると、園田は曖昧な表情で応じた。
「うん」
 心なしかぎこちなかった。
 居酒屋の店内にいるうちは忘れていられることを、外で二人きりになった途端に思い出したのだろう。それでも送るのを拒まれなかったのは幸いだった。

 俺は園田の隣に並び、緊張気味の彼女を見下ろす。
 パーカーの袖をまくったままの彼女の白い腕と、その先にあるほっそりした手首、そして小さな手が目に留まった瞬間、俺も懐かしい記憶を思い出した。
 彼女と手を繋いだ記憶。
 忘れがたい思い出のうちの一つ。

「園田、一ついいか」
 歩き出しながら声をかけると、園田がちらりと俺を見上げてきた。
 その瞬間、俺は彼女の手を捕まえて握った。
 手のひらに収めた時、皮膚から伝わる感触を懐かしいと思った。この柔らかさ、ひんやりとした冷たさ、確かに園田の手だった。
「えっ!? な、なな、何で?」
 園田は当然ながらうろたえた。手を解こうとしたようだったが、軽く引いただけでは解けないほど力を込めていた。
「嫌なら言ってくれ。嫌じゃないなら、少しだけ。駅に着くまででいいから」
「い、嫌とかそういう問題じゃないよ。私達は――」
 俺に対する反論も声が上擦り、全て聞き取れないほどだった。こんなにもうろたえるなんて、まるで初めて手を繋いだ時みたいだ。
「わかってる。それでも繋ぎたかったんだ、頼む」
 懇願すると、とうとう彼女は何も言わなくなった。黙って俯くだけだった。
 俺はそれを了承と取り、駅までの道を歩き出す。
 なるべくゆっくり、この時間を楽しみながら。

 繁華街から駅へと続く道はそれなりに人通りがあった。
 顔見知りに会う可能性もないとは言えないが、構わなかった。むしろ誰かに見つかってしまえばいいと思う。彼女と手を繋いでいることを、ありとあらゆる人間に知らしめたいと思う。
 俯く彼女の手は震えていたし、不必要なほど力も入っていた。繋いだ手の先から肩口までが見るからに強張り、緊張していた。短い髪の隙間に覗く耳が赤くなっていたが、酔いのせいだけではないはずだった。
 何もかも、あの時と同じだった。
「……どうして、手なんて繋ぐの」
 頑なに顔を上げない園田が、歩きながら不意に尋ねてきた。
「思い出したかったから。昔のことを」
 俺は嘘一つなく答える。
「あの頃のことを思い出したら、今の気持ちもはっきりさせられるような気がした」
 思い出したかった。あの頃の記憶を。
 そして園田にも同じように思い出して欲しかった。俺に手を握られて耳まで赤くなっている彼女に、俺と過ごした時間を思い出してみて欲しかった。

 そうしたらわかるはずだ。わざわざ好きでもない料理を習ったり目的もない貯金をしなくても、この手にはまだ掴める幸せがあることを。彼女がどれだけ俺を愛してくれていたか、俺が彼女をどれだけ愛していたかも、きっと思い出せることだろう。
 俺も、改めて実感している。
 かつて俺はこの手を離してしまった。だがまたこうして掴み、繋ぐことができた。駅までという約束だったし、このまま歩いていれば離さなければならない時が来る。その次はいつ繋げるかわからない。園田も警戒して、俺を避けるようになるかもしれない。
 だが、それでもまた掴んで、繋いでみせる。
 何度でも何度でも何度でもやり直して、いつかこの手を取り戻してみせる。

「それに思い出話なんかするよりも、身体の方が覚えてるってこともあるだろ」
 俺はそう言って、繋いだ手に力を込めてみた。
 園田が身体を震わせるのがわかったが、夜道でもわかるくらい赤くなった彼女は、断じて顔を上げようとしなかった。
 その様子がいとおしくもおかしくて、手を繋いでいる間、俺はずっと笑っていられた。
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