Tiny garden

Try,try,try again.(1)

 慌しい年度末が過ぎると、忙しい新年度がやってくる。
 もっともこの時期の忙しさなど、程度の差こそあれ毎年度同じだ。昨年と同じ部署で新年度を迎える人間にとっては大したことじゃない。
 更に大変なのは、新年度と同時に環境が変わる皆さんだろう。

 この時期になると社内に現れるリクルートスーツの新入社員達は、誰も彼もが緊張感からか硬い表情をしている。たまに石田みたいな飄々としたのもいるが、そういう奴が石田みたいに何年もあのまま振る舞い続けられる確率はものすごく低い。大抵は途中で化けの皮が剥がれるか、否応なしに変わらざるを得なくなるかだ。つまるところ石田はある意味大した逸材だったということだろう。
 また新年度には人事異動も行われる。勤続年数がそれなりでも異動先では新人、仕事も人間関係も一から覚え、構築していかなければならない。それでいて異動先からは即戦力としての働きを求められるのだから大変だ。俺も人事課に移った直後は本当にきつかった。
 だから俺は、今年度から広報課に配属された園田をとても気にかけていた。
 仮に彼女が異動していなくても気にはかけていただろうが、要はまあ、『人事課長として異動した社員の動向を気にする』というもっともらしい口実の下、彼女の様子を窺っていたわけだ。
 こういうのは職権濫用とは言わない。業務の範囲内だ。

 そこで俺は人事課長として、異動後の動向を園田本人に尋ねてみた。
 仕事にかこつけて彼女に声をかけ、動向調査だと告げると、園田は感心したように言った。
「へえ。そういう仕事もあるんだ、人事って」
 随分素直に驚かれたので、俺の方が拍子抜けした。
 実際、さも業務の一環であるように声をかけてはいたが、こうも疑いなく信じ込まれるとそれはそれで寂しい気がするのが我ながら面倒だ。少しくらいは個人的な感情も含んで様子を気にしているのだと思ってくれてもいいのにな。

 霧島の結婚式以降、俺と園田は社内でも普通に話をするようになっていた。
 園田の方から声をかけてきてくれることも珍しくなく、そういう時はいかにも同期らしく話が弾んで楽しい気分になれた。
 だが一方で、あれから具体的な進展はなかった。新年度でお互い忙しいうちは誘いをかけることもできないから仕方ないのだが、園田の親しげではあるが友情の域を出ないような態度には正直、焦りを感じてもいた。俺はこの通り何かと言うと園田のことを気にかけているのだが、彼女はそれに気づいているのかいないのか、いまいち手応えがない。
 今も、完全に仕事だと思われているせいで、俺個人が心配しているとは露とも思っていない様子なのが何とも切ない。

「そりゃ異動があればヒアリングはするよ」
 気を取り直して俺は続ける。
「引き継ぎが上手くいってるか、ちゃんと人員を組み込めた上で仕事が回ってるか、程度はな」
 園田は俺の話を真面目な顔で、時々うんうんと頷きながら聞き入っている。
 その顔を見ていたら場違いな笑いが込み上げてきて、俺は口元を引き締めながら話さなければならなかった。
 こういうところは相変わらず、可愛いな。子供みたいだ。
「でもそういうのは四月末辺りにやる。だからこれは個人的な調査だ」
 ちらりとでも、完全に仕事ではないという点を匂わせてみたつもりだった。
 だが園田はやはり疑いもせず、納得したそぶりで唸ってみせた。
「ふうん……。こうやって聞いて回るのって、大変なお仕事だよね」 
 まさか異動した社員一人一人を見つけて捕まえては、こうして一対一で個人的なヒアリングをしていると、本当に思っているのだろうか。それが事実なら確かに大変だ。いくら何でもそんな手間のかかることはしない。
 あまりにも素直に騙されているから、俺は堪え切れず吹き出した。
「ちょっとは勘繰れよ。俺が個人的に気にしてるって言ってるのに」
「ええ? 仕事でやってるんじゃないの?」
 げらげら笑い声を上げる俺を見て、園田は困惑したようだ。すっとんきょうな声を上げた後、何この人、と呆れたような目を向けてきたから、俺は笑いながらも話を戻す。
「そんな目するなよ。で、どうなんだ」
「何が?」
「広報課。もう馴染めたか? 皆、いい人ばかりだろ」
 部署内の全員の人柄まで把握しているわけではないが、少なくともあそこの課長がどんな人かはよくわかっていた。だからそこまで心配はしていない。
 案の定、広報課に話が及ぶと園田の表情がふっと解けた。屈託なく明るい声で答えた。
「うん、すごくいい人ばかりだよ。小野口課長は優しい方だしね」

 その小野口課長こそが、今回の人事において園田の引き抜きを要望した人物だった。
 俺よりも一回り以上年上のベテラン社員で、入社当初から広報一筋で務め上げてきた方らしい。俺のような若造にも穏和に接してくださる優しい方でもある。お蔭で社内では悪評一つないという話だ――ある一点を除いては。
 その一点についてはまだ園田も知らないだろうし、今は触れないでおく。

「何かものすごく愛妻家だって聞いたし」
 園田がそう続けたから、俺も相槌を打った。
「まあな。休日は奥様の店を手伝ってるって話もあるしな」
 小野口課長の奥様がカフェを経営しているという話は、社内でそれほど広くは知られていないようだった。俺も先輩社員から噂として聞き、後から課長後本人に確かめた程度だ。もちろん行ってみたこともない。
 園田もこの件は初耳だったのか、目を丸くして聞き返してきた。
「お店をされてる方なの? 課長の奥様って」
「ああ。俺も行ったことはないんだけど、ハーブティーの店だって」
「へえ、何か格好いい」
 ハーブティーをあえて『格好いい』と評するところは、いかにも園田らしい感じがした。彼女にとって横文字のものは大抵『格好いい』らしい。俺が英語の歌を聴いていただけで格好いいと言ってきたくらいだから間違いない。
 とは言え、かつて彼女から同じように『格好いい』と絶賛された俺自身は横文字でも何でもない純国産である。園田の好みは今でもわかるようでわかりにくく、その掴みどころのなさが今頃になって俺を焦らせている。
 今の俺が聞きたくて聞きたくて仕方のない言葉を、たかだかハーブティーという五文字程度にあっさり捧げてしまうくらいだ。
 嫉妬する対象でもないのはわかっているが、昔はもっと簡単に、俺にも言ってくれていたのに。
「あ、そうだ。あとね、東間さんがすっごく親切!」
 俺の内心なんて知る由もなく、園田はもう一人、広報課員の名前を口にした。
「九年目の異動も大変だよねって気遣ってくれるし、仕事の教え方も上手いし、いい先輩なんだよ」

 東間さんは、記憶が確かなら俺達の三、四年ほど先輩に当たる。
 この人も広報課で長く勤め上げているようだ。俺自身はさほど接点もなく、せいぜい総務部で顔を合わせた時に挨拶をする程度だったが、感じのいい人だと思っていた。おまけになかなかの眼鏡美人だ。
 ただ、確かに美人ではあるが――失礼を承知で言えば、東間さんはいささか近づきがたい類の美人だった。
 例えば霧島夫人をポジの美人とすれば、東間さんはネガの側に属する美人だ。すれ違えば誰もが振り返るほどきれいなのにどこか陰がある。小野口課長の部下でありながら未だに独身だということもあり、社内には東間さんが何らかの訳ありではないかと噂する向きもあるようだった。
 俺個人の印象としては、美人だとは思うがタイプではない。これに尽きる。
 そしてタイプであろうとなかろうと業務には何ら影響を及ぼさないので、要はどうでもいい。

「確かに東間さんはいい人だよな。話してて感じもいいし」
 俺が無難に同意を示すと、園田は同意されたのが嬉しかったのか、力を込めて更に語った。
「そうだね。東間さんと初めて挨拶した時、私、何かここでもやってけそうって思ったくらいだからね」
 その底抜けに明るい表情を見下ろしていると、こっちまで楽しい気分になってくる。
 俺の好みは今更語るまでもないが、新年度を迎えても変わらずに同じことを思っている。
 やっぱり俺は園田がいい。どうにかして取り戻したい。
「そうか。園田がそう思ってるんなら、よかった」
 新天地について語る彼女の様子から、その動向が順調であることは十分わかった。俺が安心した旨を告げると、園田はたちまち柔らかく微笑んだ。
「ありがとう、気にかけてくれて」
 彼女は自分の笑顔がお礼になることを知っているのだろうか。
 俺は思わぬご褒美でも貰った気分で、それでもなるべく表情に出ないようにしながら応じた。
「人事として当然のことをしたまでだよ」
 仕事のつもりなのかそうじゃないのか、設定が一貫しなかったのはよくない。
 しかし手の内は既に明かしてある。俺がどうして気にかけるのか、園田はいくらかでも察しているのだろうか。
 彼女が広報課にもう少し慣れた頃、また誘ってみるつもりでいた。

 だが園田を誘うより早く、四月半ばのある日、俺は思いがけない人物から誘いを受けた。
「安井課長、いらっしゃいますか」
 他の課員を全員帰した後、俺も人事課で帰り支度をしていた。そんな折にわざわざ訪ねてきたのは、広報課の小野口課長だった。
 俺が振り向くと、小野口課長は目尻の皺を作りながら温厚そうに笑った。
「お疲れ様です。すみませんね、いきなりお邪魔しちゃって」
「ああ……いえいえ、お疲れ様です」
 急な来訪に驚いたのは事実だが、人事課にこうして人が訪ねてくるのは珍しいことでもなかった。
 アポなし訪問は定時前にすべきだ、というのはただの一般常識で、そんなものが守られないことも社会人歴九年目には思い知っている。
「何かご用でしたか」
 俺は警戒心を露わにしないよう、至って穏やかに尋ねた。
 帰り際によその課から持ち込まれる話などいい話であった例がなかった。当然ながら大抵は仕事の話だし、それも結構な確率で急ぎ、もしくは『急がないんですけどできれば早い方がありがたいんですよねー』といった圧力込みの案件だ。それも、こっちが早く帰れるかもと思っているタイミングで持ち込まれるから、その落胆たるや軽いものではない。
 とは言え小野口課長は温厚篤実で知られるお人柄だし、さすがにこの時期忙しい俺の負担を増やすようなことはないだろう。と思いたい。
「いえ、仕事の話じゃないんですよ」
 小野口課長は軽く片手を挙げてから、俺に向かって愛想よく微笑んだ。
「ただ安井課長にちょっとお話がありまして。今夜空いてます? よかったら飲みに行きませんか」
 ――来た。
 穏和な話し方とは裏腹に、俺は鋭く突き刺さる直感に身を震わせた。
 小野口課長は愛妻家で人柄もよく、おまけに四十過ぎにして結構な男前だ。社内での評判も悪くない。
 ある一点の悪癖、あるいはよくわからない趣味を除いては。
「お話って何ですか? 小野口課長が改まられることかと思うと、ちょっと怖いですね」
 俺が軽く牽制すると、それを宥めるかのように首を振ってきた。
「いやいや、大した話じゃないですよ。世間話のついでに……ね。今夜、お時間は大丈夫ですか?」
 これは間違いない。直感が大当たりだ。

 小野口課長の謎の趣味。
 それは、お見合いをさせるのが好きなことらしい。
 趣味が『お見合いの仲人』という時点で訳のわからないこと甚だしいが、こうして社内の未婚者に声をかけては同じ社内から適当な相手を探してきて引き合わせ、仲を取り持つというようなことを好んでいるらしい。社内では過去にも何人かが小野口課長のセッティングで見合いをさせられたと噂になっており、中には結婚まで漕ぎ着けたカップルもいて、それが小野口課長の趣味への情熱に一層火をつけたようだ。
 東間さんに不穏な噂が流れていたのも、その趣味のせいでもあるのだろう。お見合い大好きな小野口課長が、長らく独り身の直属の部下に声をかけていないとは考えられず、東間さんには見合い、ひいては結婚ができない深い理由があるのではないかと――単なる憶測を噂として流す連中の何と厄介なことか。俺もそのうち独身でいる理由をあれこれでっち上げられて、噂されるようになるのだろう。
 そんな小野口課長からすれば、俺や石田といった独身の男共は格好のターゲットであり、俺も過去に何度か水を向けられたことがある。安井課長は結婚しないんですか、いい子いないんですかと世間話のついでに聞かれ、まあそのうちにとお茶を濁した記憶がある。石田も見合いを持ちかけられて大変だったと語っていた。
 そんな調子でこれまではなあなあにしてきたが、遂に今夜、正式な打診をされるのかもしれない。

「構いませんけど、小野口課長は大丈夫ですか? 遅くなると奥さん、悲しみません?」
 愛妻家のウィークポイントを突くつもりで聞き返したが、小野口課長の表情は揺らがなかった。むしろ一層相好を崩して言われた。
「たまに飲んで帰ってきたって怒るような妻じゃないですよ」
 しかも惚気か。
 こういうのが目の毒だと思う時点で、俺はいかにもそういうご縁が必要そうな、かわいそうな独身男に過ぎないのかもしれない。
「それより、安井課長に是非お願いしたい話が……まず飲みながら話しましょう、ね、ね」
「……わかりました」
 一回り以上も年上の先輩の誘いを、若造の俺が無下にできるはずがなかった。
 いや、いい機会だから誘いに乗った上できっぱりと言っておこう。俺はお見合いをする気なんてないんです。お気遣いはありがたいのですが今後もお受けすることはないと思います――などと、いっそはっきりと意思表示をしておこう。
 何なら多少は正直に言ってもいいかもしれない。
 実は気になる子がいるんです、とか。
 むしろ話を少し盛って、今ちょっといい感じの子がいるんで――とか。
 話を盛ってこの程度かと思うと空しさを抱かずにもいられないが、小野口課長はこの春から園田の上司でもあるし、下手なことをして彼女の耳に変な話が届いては困る。この手の障害は早めに潰しておくに限るだろう。
「もう帰り支度できました? じゃあ行きましょうか。会社の近くに静かに飲めるいい店があるんです」
 小野口課長に促され、俺は愛想笑いを浮かべながら人事課を出る。

 もともと酒に強くない俺にとって、先輩社員との酒の席は別段楽しいものでもない。
 これが園田とだったらもちろん楽しいに決まっているし、期待いっぱいで勇んで飲みに行く。あるいは石田や霧島とだったらむさ苦しいことこの上ないが、あいつらとは遠慮をする必要がないから気楽でいい。
 だがそれ以外の相手とだって、気乗りしなくても飲みに行かなくてはならないことがある。
 気は重いが、これも仕事のうちだ。
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