Tiny garden

写真には収めきれない (5)

 園田は人の気も知らずにへらへらしている。
「今まではしないつもりだったけど、しないって決めてかかるのもよくないなって、安井さんの話聞いて思ったんだ。ウェディングドレスも着たいしね」
 その言葉に俺は、自らの発言を悔やむ。

 迂闊だった。俺は園田に結婚を勧めたかったわけではない。ただ俺の差し迫った現状を訴えていくうち、園田のあまりのノープランぶりに警句を吐く形になっただけだ。
 そうしてその結果、俺は何がしたかったのか。酔いの回った頭が動かない。上手く考えられなくなっていた。
 俺は決して園田に結婚を急いで欲しいわけでも、ウェディングドレスを着て欲しいわけでもない。それはもちろん彼女ならどんなドレスもスタイルよく着こなして、参列者に誉めそやされる美しい花嫁になることだろう。
 だがそれを、俺は同期代表として参列席でなんて見たくない。可能性として想像しようとさえ思わない。こんな忌々しいことを考えてたまるかと慌てて頭から追い払う。

 園田を思い留まらせたくて、少しむきになって反論した。
「さっきまではしない気満々だったくせに……ころっと考え変えてきたな」
 考えを変えたのは彼女だけではない。むしろ俺の方こそ非難されてもおかしくない翻意ぶりだったが、みっともないほど感情丸出しの論調に、園田はいくらかでも気づいただろうか。柔らかい苦笑いで応じてくる。
「だから、今まではって言ってるでしょ。これからはもうちょい前向きに考えるよ」
「相変わらず短絡的だな、園田は。どうせ明日にはまた違うこと言ってるだろ」
 そう口にした後で、自分の発言にひやりとした。
 さっきまで園田の考えのなさ、将来への展望に釘を刺し続けてきたくせに、彼女が結婚しようかななどと言い出したらこれだ。必死で止めたくなっている。俺は彼女にどうして欲しいのか、自分ですらよくわかっていなかった。それなのに感情の赴くまま口を開いているものだから、言うことがてんで支離滅裂、矛盾だらけで破綻している。
 遠慮のないことを言っても機嫌を損ねる園田ではないが、あまりおかしなことばかり言えばさしもの彼女も気づくだろう。俺の身勝手な論調、見事なまでの手のひら返しに。
「そんなことないよ。安井さんの深刻さ見てたら、他人事じゃないなって思ったもの」
 園田は宥めるように言い、ソルティドッグのグラスに手を伸ばす。
 彼女の声は耳をくすぐるように優しかったが、それに酔いしれている暇はなかった。
 残り時間はもうわずかだ。これ以上杯を重ねるわけにはいかない。俺が酔いつぶれてしまうし、彼女はそれを制止しようとするだろう。
 いっそそれを振り切って、つぶれて彼女の世話になってしまおうか、なんて馬鹿げた策まで浮かんだが、それをやって取り返しのつかないことになれば今以上に後悔する羽目になる。

 そこまで考えた時、俺はようやく自分の本当の望みに気づいた。
 取り返しのつかないことはしたくない。
 それはつまり、彼女を失くしたくないということだ。
 声をかけることすら許されなかったあの頃には戻りたくない。せっかくこうして二人で向き合い、話ができるようになった今、ここから逆戻りはしたくなかった。
 それでいて、前には進みたいと思っている。足踏みばかり続けた挙句ようやく踏み出した最初の一歩を、次の更なる跳躍への足がかりにしたいと思っている。着地点は今、やっとのことで見えてきた。
 俺は園田を取り戻したい。
 いつになく発火温度の低い感情に翻弄され、際限のない欲求に呑み込まれつつも、完全に手が届かなくなることを恐れてすんでのところで思い留まるくらいには本気のようだ。
 認めるしかないと思ったら今更のように頭がクリアになってきた。あまりの単純さに少し笑えた。こんな簡単な答えにも思い至らないまま、俺は三年間を棒に振ってきたわけか。つまらないプライドと臆病さのせいで随分無駄足を踏んだが、この遅れは今からでも取り返せるだろうか。
 俺にもまだ可能性はあるだろうか。
 彼女の記憶の中に、俺はまだ残っているだろうか。

 試してみたくなって、俺は彼女に向かって言った。
「まあ、園田だったら。その気になれば相手くらい簡単に見つかりそうだよな」
 これは本音ではない。内心ではそんなことあってたまるかと思っている。
 もっとも、園田本人も半信半疑という顔で首を捻っていた。
「そうかな……。安井さんほど簡単じゃないと思うよ」
 謙遜というふうでもないから、この三年間の彼女は本当に恋愛沙汰から遠ざかっていたのだろう。
 それならと俺は攻めに出る。
「でもないだろ。お前も十分、可愛いよ」
 さっき俺の呼吸を止めたのと同じやり方で、彼女にやり返してみた。
 さてどんな反応が戻ってくるかと思ったら、園田はその場で凍りついたように身体を硬直させた。大きく瞠られた奥二重の瞳だけが驚きに揺れていた。頬が赤いのは酔いのせいだから鵜呑みにしてはいけないが、彼女の呼吸を止めるくらいはできたようだ。
 瞬きもせずに俺を凝視する彼女の硬直を、俺は一言で解いてやる。
「さっきの仕返し」
 途端に彼女は息を吹き返し、そして思いきり顔を顰めた。釈然としない様子で聞き返してくる。
「何それ。仕返しって何のこと?」
「俺のこと格好いいって言っただろ」
 そういうことを何の考えもなしに、男に対して言うのはよくない。園田のことだからまさしく何にも考えてなくて、何の裏も下心もなくて、ただ思いついた通りに口にしたんだろう。でもそういうことを、とうに別れたとは言え未練があるかも明らかではない元カレに、迂闊に告げるのは危険だ。
 お蔭で呆気なく火がついてしまった。
 園田は俺の胸中も知らず、納得したようなしていないような声で言う。
「ああ……でも何で? 誉めたんだよ、私」
「俺だって誉めてるんだよ。嘘でもお世辞でもない」
 嘘じゃない。俺は園田を可愛いとも、きれいだとも思っている。
 今夜はことのほかきれいだ。見慣れない髪型とドレスとほろ酔い顔を写真に収めたい。残しておきたい。心からそう思っている。
「誉めて欲しくないなら言っといてよ」
 もっとも、当人はその美しさに逆らうようなふくれっつらで言い募る。
「安井さんのこと、どんな格好してようと一切誉めないようにするから」
 園田の子供みたいな拗ね方がおかしい。誉めて欲しくないなんて俺は一言も言っていないのに、まるで俺が怒りから仕返しをしたように思っているみたいだ。
 そういうものとは違う仕返しもあるって、園田も知らないはずはないのにな。
「そうじゃないよ。けど、普段あんまり誉めてこない相手に急に誉められたからな」
 俺はすっかり吹っ切れてしまって、いやに明るく笑えた。そしてご立腹の彼女に対して続けた。
「どきっとするだろ、そういうのって」
 その瞬間、園田がまた目を瞠る。
 だがすぐにその目が泳ぎ、彼女は妙に慌しく自らのグラスを手に取った。そして何かを隠そうとするみたいに口元へ運び、傾ける。お蔭で表情はよく見えなかったが、動揺してくれていたのはわかった。
 それだけで脈があると思うのは尚早だが、少しくらいは前向きに捉えてもいいかもしれない。
 異性として全く何の意識もしてないなんて状態では、今みたいにうろたえはしないだろう。今夜のところはそれがわかっただけでいい。

 俺が二杯めを、園田が三杯めを飲みきったところで切り上げ、二人揃ってバーを出た。
 階段を上がって外気に触れた途端、身を切るような寒さに見舞われて俺は思わず首を竦める。
「今夜はまた随分と冷え込むな。寒くないか、園田」
「大丈夫。お酒入ってるから、これでちょうどいいくらいだよ」
 ドレスと上にコートを羽織っただけで、ボタンも留めていない彼女が朗らかに笑った。
 言葉通り酔いが回っているせいか、彼女は随分とご機嫌のようだ。冷たい風が吹いても心地よさそうに笑んでいる。少し解れかけたまとめ髪にちらつく雪が留まって、ふっと消えた。
「まだ雪降ってるんだな」
「本当だね。まあ結婚式らしくていいじゃない、ロマンチックで」
 やはり、園田も雪を見ればそういうふうに思うようだ。まるで神様が雪を降らせてくれたみたい、なんて考えるのかもしれない。
 俺としては結婚式の為だけではなく、俺達の為でもあると思いたいところだが。
「……あ。安井さん、日付変わってるよ」
 空を見ていたかと思えば次の瞬間には携帯電話を取り出し、園田は現在の時刻を確かめたようだ。すぐに俺を見て、ちょっとおかしそうに笑った。
「思ったより長居しちゃったね。安井さんも電車だよね?」
「ああ。終電間に合うかな」
「それは全然大丈夫。こっからなら普通歩きで十分間に合うよ」
 何だ、残念だ。
 ――そんな本音は胸の奥にしまって、俺は彼女を促す。
「園田も電車なら、駅まで一緒に歩こう。酔い覚ましにもちょうどいい距離だ」
「そうだね、行こ」
 彼女は嫌がるそぶりもなく俺の隣に並んでくれた。その態度が嬉しくて、俺も笑いを噛み殺しながら歩き出す。
 道にはうっすらと雪が積もっていて、時々靴の裏でさくさくと小気味よい音を立てた。

 確かに雪はロマンチックだ。人通りがぱったりなくなった夜の駅前通り、真っ暗な空には星も見えないが、街明かりは煌々としていて行く道はひたすら明るかった。そんな光景の中を絶えず雪が降り続いている。これをロマンと言わずして何と言おう。
 あと少しだけは二人きりでいられる。
 せっかくだからこの雰囲気に便乗して、話でもしておこう。

「今日は楽しかったよ。ありがとう」
 少し改まった言い方になってしまったかと思った直後、園田がなぜか吹き出した。
「本当に?」
 おまけに笑いながら聞き返されたので、内心ぎくりとした。
 楽しかったのは嘘ではない。だがそれ以上に心が大きく揺れ動いていたのも事実だ。全て認めてしまった今こそ晴れやかな気分でいたが、そこに至るまでには重苦しい葛藤があった。差し向かいで飲んでいる間、そういった内面の移り変わりまで彼女に見抜かれていたなら恥ずかしいことこの上ない。
 とは言え相手は園田だ。そこまで目敏いとは思っていない。
「何だよ。何で疑うんだよ」
 俺がわざと拗ねたように聞き返せば、園田はますます笑って、声を弾ませた。
「だって安井さん、すっかりやさぐれてたから。いい気分で飲めてた?」
 飲み始めた直後は確かに複雑な気分だった。俺だけが幸せから取り残されている、そんな実感があったからだ。その状況自体は今も変わっていないのだが、不思議と気分だけはよくなっていた。
「お前がいなけりゃもっと酷いことになってた」
 本音と共に吐き出した白い息が、冷え切った夜の空気に溶けていく。
 もしこの夜を一人で過ごしていたら、こんないい気分には到底なり得なかっただろう。それどころかぐるぐるとどす黒い堂々巡りを繰り返して何の実りもない時間を過ごしたことだろう。
 園田がいてくれたお蔭で寂しくなかった。一人ではなかった。俺自身が何を望んでいるか、行き着きたい先がようやく見えた。
 だから園田には結婚なんてして欲しくない。
 俺と同じように、元に戻りたいと思うようになってくれないものか。
「でも今夜だって、園田が結婚してなかったから誘えたんだよな」
 俺が冗談交じりに言うと、隣を歩く園田が真似をするようにおどけてみせた。
「本当だね。もし私が人妻だったら、こんなふうには付き合ってあげられなかったよ」
 全くだ。
 よくもまあ三年間も手をこまねいていたものだ。いくら園田に男の気配がないとは言え、いつ彼女が誰かに攫われてしまうかわかったものでもないのに。
「そうだな、お前が独身のままでよかったよ。何ならもうしばらく独身でいろよ」
 実感を込めて、俺は彼女に強く勧めた。
 飲んでいる間に言ったあれこれなんてもう忘れたふりをしておいた。
 都合のいいことだと思ったか、園田は黙って苦笑した。すっかり矛盾してしまった俺の主張を酔っ払いの戯言だと思っているのかもしれない。実際、酔った勢いから出た発言ではあるから整合性のなさは否定できない。いくつか感情に任せて言いたいことだけ言ってしまったのも事実だった。
 でも、そういう戯言さえも耳を傾けてくれる園田の存在が、本当にありがたかった。
「また誘ってもいいか? お前が迷惑じゃなかったら」
 笑う彼女を見つめながら、俺は静かに切り出した。
 それはもはや最初の一歩ではなかった。着地点から飛び出す二歩目の誘いだ。ここで踏み出せばもう後戻りはできない。わかった上で俺は、迷うことなく彼女を誘った。

 園田は迷ったようだ。
 雪が降り積もった道に視線を落とし、少しの間黙った。
 真夜中とあって道に足跡はなく、俺達の行く先にはひたすら白い道があるだけだった。そこに俺達は並んで踏み込み、いくつもいくつも足跡をつけながら進んでいく。

 いくつかめの足跡がついた時、彼女がすっと顔を上げた。
「いいよ」
 振り切ったように微笑んで、そう言ってくれた。
 こればかりは短絡的に結論を出すとはいかなかったようだ。こういう時にこそいつものノープランぶりを発揮してくれればいいのに。ともあれいい返事を貰えて俺は浮かれた。
「じゃあ、また誘う」
 社交辞令ではないことを強調して言い切った後、今の季節を思い返して付け加えておく。
「……と言っても今月から忙しいし、次に誘うのは新年度になりそうだけどな」
「あ、それは私もだよ。異動あるし、四月は何かと慌しそうだし」
 園田も軽く手を挙げた。
 春から彼女は広報課だ。異動前後は仕事も多いし気忙しいしですぐには落ち着かないことだろう。次の機会まで間が空くのはやむを得まい。
「なら五月辺りにまた」
 俺はそう言って、雪が降り落ちてくる真っ暗な空を見上げた。
 全く今夜は気分のいい、めちゃくちゃな夜だった。酔いに任せていい加減なことばかり言ったせいで、園田がどこまで俺の本音を察してくれるかわかったものではない。もしかしたら全部が酔っ払いの戯言だと思われてしまうかもしれない。それならそれで、次に挽回するまでだ。
「その時は、今夜よりは楽しく飲めるようにするから」
 俺は次の機会に期待をかけて、彼女に誓った。
 だが園田は短い髪を揺らし、優しくかぶりを振ってみせた。
「別にいいよ。愚痴くらい聞くって」
 それから酔いが回っていても変わりない、あっけらかんとした笑顔で続ける。
「やさぐれる安井さんってなかなか見れないし、面白かったよ」
「面白がるなよ」
 俺は抗議の意思を込めて彼女を睨んだ。だが途中からおかしくなってしまって、つい笑い出してしまった。
 隣では園田も笑っていた。彼女もいい気分なのか、くすくすと声を立てて笑っていた。
 彼女が笑うのに合わせてほつれかかった短い髪が揺れ、コートを羽織った細い肩が震えた。コートの下のきれいなドレスの裾は、彼女が歩く度にふわふわと翻った。夜の街に似つかわしくないような朗らかな笑い声がしばらく隣から聞こえてきて、俺は今更のように石田の言葉を思い出す。
『写真の中に収まるのは所詮一瞬だけだ。ほんの一瞬がそれより長い時間に太刀打ちできると思うか?』
 俺も、とてもではないが一瞬だけでは園田の可愛さを収めきれない。
 もっと長い時間を彼女と共有し、その間ずっと彼女を見ていたいと思う。

 写真が欲しいと思うのは、恋をしているのと同じだ。
 だが写真では足りない、本物が欲しいと思ったら――それは何だろうな。
 もはや諦めることもできない、本気の恋なのかもしれない。
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