Tiny garden

写真には収めきれない (4)

「……どういうこと?」
 園田は急に真面目な顔になって、慎重に聞き返してきた。
 まだ思いつきに過ぎない呟きを、拾ってくれたことがありがたかった。彼女とは昔からくだらない話もたくさんしてきたが、真面目な話だって同じくらい重ねてきた。そういう時でも俺の話には耳を傾けてくれるのが園田だった。
 今夜は彼女がいてくれて本当によかった、感謝している。

 思いつきとは言ったが、それは長い間、俺の中にあった思いなのかもしれない。
 一人でいるのは寂しい。霧島や石田に置いていかれるのも寂しい。だが孤独を避ける為に何かしようという気がまるで起こらない。好意を寄せられてもそれを昔ほど嬉しいとは思わず、むしろかつての自分を見ているような微妙な気持ちにさせられる。それはなぜか。
 振り返ってみれば、俺はずっと停滞していた。前に進めないまま足踏みだけを続けてきた。過去の痛みや苦しみに縛られて、何もできないまま三年という月日を無為に過ごしてきた。
 そういった日々を飛び越えて前に進む為に、俺が欲しいものは何か。
「何と言うか……」
 園田が聞く態勢に入ったのをいいことに、俺はたっぷりと時間をかけて考え、切り出した。
「もっと地道にやりたいのかもしれない」
 まず初めに思い浮かんだのはこれだ。
 霧島を、そして石田を見ていて羨ましいと思う。第三者からすればまどろっこしくて焦れてしまうような、一分一秒を大切にする恋愛。そういう地道な恋愛に寄り添い、付き合ってくれる相手がいるのはいいものだと、今は思う。
「地道って? 恋愛をってこと?」
 目を瞬かせた園田に、俺は深く頷いた。
「ああ」
 それで彼女は、彼女なりに『地道な恋愛』のイメージを思い浮かべてみようとしたらしい。眉間に皺を寄せて一分間近く考え込んだ挙句、こう言った。
「例えば、まずは交換日記から始めますみたいな?」
 地道と言うよりそれはもはや古典の部類に入る恋愛だ。
 俺は思わずバーの天井を仰いだ。
「いつの時代の恋愛だよ……。今時幼稚園児だってそんなのしないだろ」
 真っ向から否定すると、園田は改めて考えてから言い直す。
「じゃあ、付き合うにしても結婚前提で、将来を見据えた交際をしますってこと?」
「……そっちの方がまだ近い」
 当たらずといえども遠からず、といった程度ではあるがまあいい。着地点は同じようなものだ。
 傍で見ていてもじれったくて背中を押してやりたくなるような牧歌的な恋愛の先には、やはり平和的で穏やかなハッピーエンドが待っているものだ。今日はちょうどそういった恋愛の行きつく先を見届けてきたばかりだった。霧島がプロポーズをして結婚を決めるまでには随分と時間がかかっていたが、それまでの三年間には何も無駄などなかったのだろう。
 これまで時間を浪費し続けてきた俺は、堂々としていたあの花婿が羨ましくて仕方がなかった。
「もっとも、単に隣の芝生が青く見えてるだけかもしれないけどな」
 俺は残り少ないワインを飲みながら、釘を刺すように呟いておく。
 冷めてきたワインは香辛料がきつく、口の中に甘ったるく残った。
「そういう恋愛をしてる連中を見て、ちょっと羨ましくなってるだけとも言えるからな」
 誰かを羨む気持ちは一概に否定できないものだが、それだけで身の振り方を決めてしまうのも危うい感覚と言える。そうやって焦っている時は正常な判断ができなくなっているものだ。霧島や石田に置いていかれたくない一心だけで飛び出してしまうのは愚かなことだろう。
 幸いにして俺にはまだ、安易な恋愛に流れないだけの冷静さは残っている。

 いや、それを冷静さと呼ぶのは間違いか。
 どちらかと言うと、怖気づいているだけなのかもしれない。
 何せ俺は社内恋愛の楽しさよりも辛さ苦しさばかり知っている。今更同じことを繰り返して同じ思いをしたいなんてただの苦行としか思えない。それで今日声をかけてきた子達にも食指が動かなかったのだろう。

 酔いが回ってきたのだろうか。ふと我に返ってグラスの軽さに気づいた時、ちょうど園田が声をかけてきた。
「まだ何か飲む?」
 グラスは空になっていた。
 俺は今夜、いっそ酔っ払いたい気分になっていた。一緒に飲む相手が園田だという安心感もあり、ろくに考えもせず聞き返す。
「園田はまだ付き合えるのか?」
「いいよ。私ももうちょっと飲みたいし」
 彼女は二杯目のモスコーミュールもぐいぐいと飲んでいる。まだ酔っ払う気配もないが、髪型のせいで剥き出しの耳が赤くなっているのが可愛かった。もっと杯を重ねたらどうなるのか、見てみたくなった。
 アルコールに強いのは彼女の方だから、酔いつぶすのはまず不可能だろう。だが彼女の方が一杯多く飲んでいるから、同じくらい酔っ払うことはできるかもしれない。そうしたら俺達はもっと深い話ができるようになるかもしれない。今夜はまだ触れていないような思い出についても、もしかしたら。
 そう考えるうち、俺ばかり話をしていて彼女からは何も聞いていないことに気がついた。
 園田はどうなのだろう。今、何を考えているのだろう。彼女に付き合っている相手がいないことは知っていたが、恋愛そのものに対してどんな考えを持っているのかは掴めなかった。
 それを聞いてみたいと思うなら、お互いにもう少し酒の力が必要だろう。

 ホットワインの甘さが尾を引いていたから、二杯目はジンフィズにした。
 程よい苦味で甘ったるさを追い払ったところで、俺は迷わず切り出した。
「園田は、結婚しないのか?」
 言葉を選ばず尋ねた理由は、彼女が何と答えるか、わかっていたからかもしれない。
 園田は一瞬目を白黒させた後、答えるより早く酒にむせた。口元に手を当てて何度か咳き込んだ後、うっすら涙の滲んだ目で俺を見る。
「えっ、何。いきなり何を聞くかと思えば」
 彼女の目から向けられる軽く睨むような眼差しが、かえって心地よく感じられる。俺は緩む口元を隠すようにグラスを傾ける。
 駄目だな。本当に酔っ払いつつあるようだ。
 やがて落ち着きを取り戻した園田が、ふうと息をついてから答えた。
「しないんじゃないかな」
 相手がいないのは予想通りだったが、彼女の物言いは思ったよりも他人事のようだった。結婚なんて自分には縁のないものだと決めてかかっているような口ぶりだ。仮に今、相手がいないのだとしても、たかだか二十八でそんな決断をする必要はないはずだ。
 俺は訝しく思い、彼女に告げた。
「随分投げやりに言うんだな。まだ諦めるような歳じゃないだろ」
「諦めてるって言うか……まあ、それもなくはないんだけど」
 園田は軽く手を振ってから、タンカードに口をつける。

 色がすっかり落ちてしまった彼女の唇は、本来の色を取り戻していた。
 見覚えのあるその色を、俺はきれいだと思っている。
 さっき咳き込んだからか、彼女の睫毛は濡れていた。タンカードを卓上に置く時、伏し目がちになったその表情をいいなと思う。色っぽくていい。
 普段のあっけらかんと笑う園田の、それ以外の表情だって俺は既に知っている。俺だけしか知らない顔だってあるのだろう、そう思うと不思議な優越感で心が満たされた。
 優越感というのも妙な話だ。
 彼女はもう、俺のものでもないのに。

「そもそもご縁がないしね。それに一人でも結構楽しいし、ちゃんと稼げてるし」
 園田は酔いを感じさせない、はきはきした口調で答えた。
「それに最近はずっと一人でもいい、みたいな人それなりにいるよね。結婚だけが幸せの全てじゃないみたいな。私もそんなんでいいかなって」
 彼女の意見はよく聞く類のありふれたものだった。
 残念ながらこういった考え方は、それが自分自身の経験及び熟考に基づくものか、それとも書籍や偉い先生の受け売りなのか、話し方から読み取れてしまうものだった。
 今回の彼女の意見はどことなく他人事めいた調子で、熟考を重ねた上でそこへ辿り着いたそぶりは全く見受けられなかった。園田なら、自分自身で見出した答えならもっと胸を張って言い切るはずだ。そういう時の得意げな顔を俺はすぐにでも脳裏に思い浮かべることができた。
「そりゃ、結婚が全てだなんて俺も思ってないし、ちゃんと考えた上でそういう答えを出す人達がいるのは知ってるよ」
 俺はそんな園田を見据えて、なるべく嫌味にならないよう指摘をする。
「でも園田は、そこまで真剣に考えてないだろ?」
 たちまち園田がぎくしゃくと目を逸らした。
 図星のようだ。
「……何でわかるの?」
 目を逸らしたまま気まずげに彼女が尋ねてきたので、俺は彼女が先程言った言葉を返す。
「俺だって園田のことはよくわかってるからな」
 ジンフィズのグラスに手を伸ばすと、園田が俺の動きを目で追うようにこちらの手元を見つめてきた。グラスを持つ俺の指先に見入るようにして、何事か考え込んでいる。
 思案に暮れるその表情は何かを辿るようで、懐かしいものを見ているようでもあった。
 俺達はお互いのことをよく知っている。覚えているといった方がいいかもしれない。俺達のお互いに対する見識はまさしく経験と熟考に基づくものであり、他のどんな事柄よりも信頼の置ける代物に違いなかった。
 やがて、園田は気後れしたように口を開いた。
「確かに、よくは考えてないかもしれないけど……」
「全然考えてないだろ」
「いや、全然ってほどではないよ。ちょっとくらいは考えたよ」
「園田の考えなんてお見通しだ。どうせ今は相手もいないし一人暮らしに不自由してないし、このままでもいいかなんて短絡的に考えてるだけなんだろ。何年か後に今とは違う自分がいるなんて想像すらしてないはずだ」

 彼女の考え方は昔から短絡的だった。
 一瞬のひらめきですぐに飛び出していけるようなフットワークの軽さは彼女の魅力でもあり、短所でもある。
 だがそんな彼女がよく考えればいいことが起こるかと言えば、そうでもない。彼女は意外と頑ななところがあり、それが熟考を経て確信に変わると梃子でも動かない意思を持つのが厄介だった。俺はその意思を揺るがすことができず、結局は彼女を手放すことになった。
 お蔭で今の彼女は俺のものではない。

 タンカードの中身を飲み干し、店員に三杯目の注文をして、俺に向き直った園田は苦笑していた。
 困ったようなその笑い方は何でもない一瞬の表情だったが、目に焼きついて離れなくなる。今夜はドレス姿だから余計に印象深いのかもしれない。
 ふと、写真を撮りたいなと思った。
「でもそういう認識でよくない? 多分困らないよ、私、一人でも」
 園田が話を戻したので、俺も我に返って反論した。
「今はいいだろうけど、三十過ぎたらいろいろ変わるぞ」
「そんなに?」
「まあな。周りは結婚し始めるし、そうなると無性に寂しくなるし、親はもちろん会社の上の人間までせっついてくるようになるし、そのくせ露骨に出会いは少なくなるし……」
 霧島や石田のことは言うに及ばず、弟の結婚も地味にダメージが大きかった。三兄弟の唯一の独身者とあって親は連絡を取る度にしなくてもいい心配をしてくる。誰かいい人はいないのかと聞かれて曖昧に濁すのもそろそろ疲れてきた。社内でも下手に出世してしまった都合上、何かと言うと結婚の意思のあるなしを聞かれる機会があるのが辛い。見合いの話をそれとなく匂わされたこともあった。
 結婚をしないで一人で生きると決めるのは別にいい。その意志を貫ける人間なら何の問題もないだろう。だが周囲の雑音を気にせず撥ね退けるだけの意志の強さを持つ必要がある。それが今の園田にできるだろうか。
 俺は、できる気がしない。
 周囲の雑音を振り切ったところで、終始つきまとう寂しさだけはどうしようもない。
「園田はまだ二十代だからいいって思ってるのかもしれないけどな」 
 脅かすつもりで俺は声を潜める。
 すると園田はまんまとびびったようで、軽く頬を引きつらせた。
「う、うん……。と言うか、そんな違わないでしょ?」
「いや違う。もう根本的に違いすぎる。三十になってから急に結婚したくなったって、二十代の頃のようにはいかないんだからな」

 二十代のうちは結婚なんてそうそう意識もしないだろう。
 せいぜい、いつでも傍に置いておきたいくらい惚れ込んでる相手ができて、彼女のいる生活もいいものだと漠然と思い始めた頃に頭を過ぎる程度だ。単に付き合っている相手がいるだけでは考えない。その相手がすぐ傍にいることを、俺に笑いかけてくれることを心地よく思い、彼女を幸せにすることが俺自身の幸せであると思うくらいでなければ――きっと、考えもしない。二十代の頃は他にも無我夢中になる事柄がたくさんあり、恋愛だけに集中するのは難しい。実体験を踏まえても思う。
 だが三十になり、仕事も落ち着いてくると、自らの来た道を振り返る余裕もできる。周囲に目を向けることもできる。そうして突っ走ってきたはずの自分が実は何にも進めていないことに気づいて愕然として、急に焦り始めるわけだ。

「それに何より、気の持ちようが変わるよ」
 そう呟いた後で、俺は頭が次第に重くなってきたのを感じた。
 頬杖を突いて頭を支えると、途端に眠気にも似た妙な感覚が漂い始める。スモークを焚いたように不鮮明な頭の中で、それでも主張したがる一つの意思に、俺は熱弁を振るう。
「恋愛観が、と言った方がいいのかもな。二十代の頃は鼻で笑ってきたようなことが、三十になってみたら途端に素晴らしいものだったってわかる。俺に誰かを馬鹿にする権利なんてなかったってことも――」
 だがそこまで語ったところで、今度は自己嫌悪が胸を満たして言葉を続けられなくなった。
 二十代で恋愛につまずき、三十になっても引きずっている俺に何が言えるだろう。俺はそうして鼻で笑ってきたことにすら手が届かないまま、いつまでも足踏みばかりしている。
 そしてそのせいで、最も失くしたくないものを失くしてしまった。
「悪い、ちょっと酔ってきた。自分でも何言ってるのかわからない」
 俺が呻くと、園田が注文していた三杯目の酒が運ばれてくるのがちらりと見えた。グラスの縁に塩を乗せたソルティドッグだ。
 園田がそれを受け取り、口をつけるのを、俺はあえて見ないように俯いた。
 直視してしまうと、蘇る思い出に歯止めが利かなくなりそうだった。
「そうみたいだね」
 園田の声がする。
「そろそろお開きにする?」
 気遣うような優しい声に、俺はどうにか体面を保つ口実で応じる。
「園田が飲み終わってからでいい」
 まだ帰りたくなかった。
 一人になりたくなかった。
 寂しいからだ、と理由をつけてはみるがそれなら他に手の取りようがあることも十分すぎるほどよくわかっている。それでも何もしないのは、何もできなかったのは、なぜか。
 俺はそろそろと顔を上げた。
 真っ先に目に留まったのは心配そうにこちらを見ている園田の顔だ。頬と耳をほんのり赤くした彼女の瞳は、酔いのせいか微かに潤んで見えた。そこから視線を外せばドレスの胸元とくっきりと浮かび上がる鎖骨が見え、俺は逃げるみたいに視線をテーブルの上へ彷徨わせる。

 そろそろわかっただろう。俺が前に進めない理由。
 俺が何を見ているのか、何を見ていたいと思っているのか。
 一人になりたくないのではなく、一緒にいたい相手がいるのだという事実。
 ついさっき、思ったはずだ。彼女の写真を撮りたいと――面白半分でなければ好意があるから写真を撮る。俺は行動に出てこそいないが、彼女の写真を欲しいと思った。それが好意でなくて何になるのだろう。
 写真が欲しいと思ったら、それはもう恋をしているのと同じだ。
 だが、認めきれない。もし俺が園田を今でも好きだというならまる三年引きずり続けていることになるわけで、そんな未練がましい奴が自分自身だと思うと寒気がする。
 俺が園田を可愛いとか、きれいだとか、いいと思うのは昔好きだった相手だからで、それをいいと思わない方がおかしい。目が離せないのもそういうことだ。記憶が確かに彼女を覚えているから、あまり変わっていない今の彼女と比べたくなってしまう。
 それなら俺はなぜ、今の園田の写真が欲しいなんて思ったのか。
 答えは目の前にあるはずだった。直視しようと思えば、できるくらいすぐ前に。

 覚悟が決まらず再び俯く俺の頭上で、不意に園田が言った。
「……私も、結婚しようかな」
 こちらが度肝を抜かれそうになるほど気楽で、安易で、熟慮の気配もない呟きだった。
 思わず俺は重たかったはずの頭を跳ね上げ、彼女に食ってかかった。
「誰とだよ」
 すると園田は慌てふためく。
「いや、誰って言うか。相手がいたら、見つかったらしようかなって」
 ただの思いつきでそういうことを言うな。心臓が止まるかと思った。
 俺はこっそりと深く息をつき、それから改めて自覚する。

 彼女のたった一言に心臓が止まるくらい驚くなんて、やっぱりそういうことじゃないのか。
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