Tiny garden

春は等しく訪れる(2)

 目まぐるしく過ぎ去っていく時の流れに対して、俺は何もできなかった。

 園田と世間話ができるようになったことは、一時期は目も合わせてもらえなかったことを思えば、いい進展と言えるだろう。
 だが挨拶と世間話なんてただの同僚でもできる。園田は相手が俺じゃなくても普通にするはずだ。つまりこれまでの俺は園田にとって、ただの同僚以下の存在だったのかもしれない。そう思うと胸が苦しい。
 後悔の気持ちはつい最近まで存在していた。あの時、彼女の手を離さなければよかった。彼女が泣こうが喚こうが無理やりその手を握り締め、どこへも行かせなければよかった。
 だがあの頃の俺にそれができただろうか。彼女を不安がらせて、泣かせるばかりで、繋ぎとめるどころか泣き止ませることすら叶わなかった俺に。
 結局、俺は臆病すぎて何もできなかった。

 それならそれで後から取り返せばよかっただろうに、俺はぐずぐずとその機会を逃していた。
 別れ際ですら俺を好きだと言ってくれた割に、園田は長い間俺を避け続けていた。社内では会話どころか接触すらままならなかった。
 それでも彼女の部屋の住所は知っていたし、連絡先も携帯電話に残していたが、俺はそれを使えなかった。予想外の拒絶を受けて怯えていたのだ。例えば園田にメールを送って、それが彼女に届かず返ってきたとしたら、何もかも終わる。彼女が俺を好きだと言ってくれたその事実さえ消えてなくなってしまう。俺はその終わりを受け止める決心がつかず、最終手段を切り札のつもりでずっと手元に残し続けて、そして今に至る。
 ただの同僚扱いに成り下がった今では、切り札も何もあったものではない。今更メールを送ったところで何になるか。かくして臆病者は恋を失い、『未練はない』と唱え続けることで襲いくる切なさから逃れようとしていた。
 俺には未練なんてない。
 園田との関係はもう終わったことだ。お互いに気まずさを解消し、笑って挨拶ができるようになったならそれはいい結果だろう。思い出すな、忘れてしまえ。
 切なさなんて所詮は自己憐憫だ。傍に誰もいないまま三十を迎える寂しさ情けなさを、過去の失恋に置き換えて自らを慰めているだけだ。
 だからこそ俺は、なかなか過去を振り切れないのかもしれない。

 俺が一人切なさに酔いしれている頃、真っ当すぎるほど真っ当な恋愛を謳歌している奴がいた。
 石田だった。
 三年前の失恋以来、奴には長い間これといって浮いた話はないようだった。石田も石田で仕事が忙しかったようだし、いつぞやの手痛い失敗からもう誰もが『社内で合コン開こう』などと言い出さなくなったせいでもあったのかもしれない。例の登山サークルも抜けざるを得なくなったようだし、あいつも出会い探しには苦心していたのだろう。
 そんな石田が、ではどこで恋の相手を見つけたかと言えば、これがまたけしからんことに社内恋愛なのである。

 ある晩、俺が野暮用で電話をかけると、石田はなんとワンコールで出た。
「……早いな、出るの」
 用があってかけたとは言え、あまりに早く出られると気持ち悪い。恐らくは今まさに電話を使って何かしていたんだろう。何をしていたのかはすぐ見当がついた。
『小坂とメールしてた』
 予想通り、石田は早く出た理由をそう語った。

 小坂藍子さんというのが今年度、営業課に配属されたての新人さんであり、石田が目下熱を上げているお嬢さんでもある。
 入社一年目にして随分と礼儀正しく、また向学心の強い子で、長い髪を尻尾みたいに揺らしては石田の後をついていく姿は犬みたいに可愛い。そんな小坂さんは第三者の俺が傍目からでもわかるくらい石田のことを慕っており、まあはっきり明言してやるのも癪だが、いわゆる両想いというやつなのだそうだ。
 お蔭で石田の浮かれようったらない。ここ最近はすっかり彼女に骨抜きにされているらしく、口を開けば小坂がああ言ったこう言ったとうるさい。彼女の言動一つで羽が生えたみたいに浮かれたかと思えば、新人の彼女の仕事ぶりを案じて我が事のようにへこんだりもする。まだ付き合ってもいないうちからこうなのだから、彼女とめでたく付き合いだしたらどうなるかなんて想像するだけで愉快だし面白い――いや、恐ろしい。
 近頃の俺はそんな石田をつっついてはからかうことを日々の楽しみにしていた。普段は口八丁でこっちの言葉にも鋭く切り返してくる石田だが、小坂さんのこととなるとそうもいかないらしい。前の彼女の時はここまで隙だらけではなかったはずだが、一体どうしたんだろうな。

「へえ。幸せ一杯だな」
 冷やかすつもりでそう言うと、石田は溜息混じりに応じる。
『まあ、な』
 何だ、あまり幸せそうじゃないな。
 これは小坂さんとのメールが不完全燃焼で終わったか、ちょっと冒険していかにも匂わせるような思わせぶりなことを言ってみたところ、少々恋愛に疎いらしい彼女からは的外れでほのぼのとした返信しか来なかったと見た。ご愁傷様だ。
 それにしても、過去に彼女がいてまともな恋愛経験も積んでる三十男がたかだか二十二、三のお嬢さんに振り回されている姿はなかなか滑稽だ。もっとからかってやるかと俺は切り出す。
「やっぱり、骨抜きにされてるんじゃないか」
『骨は……あれだよ、俺より小坂の方が抜かれてるって』
 図星だったのだろうか。電話の向こうで石田が一瞬、言葉に詰まるのがわかった。
 どうやら既に抜かれた後らしい。
「そうは見えない」
『いや本当に。小坂は俺にべた惚れなんだからな』
 石田が必死になって否定してくるので、俺は笑いを堪えるのに一苦労だった。もちろんその言葉も間違いではないのだが、お互いにだろ、と突っ込んでやるべきかどうか非常に迷う。言えばますますむきになって、話が本題から遠ざかりそうだ。
 若いお嬢さんに振り回されていようが骨を抜かれていようが、石田が楽しそうなら何よりだ。俺はこいつのしょぼくれた顔なんて金輪際見たくなかった。
「お前がどう思ってようと事実は変わらないし、別にいいよ。俺としてはお前が、同じ失敗さえしなければいい」
 俺の言葉に石田は間の抜けた声を返す。
『失敗って?』
「忘れたのか。もうお前の為に合コンのセッティングはしてやれそうにないから」
 思えばあれが、俺にとっての全ての始まりだった。
 あのことがなければ俺は園田と付き合うこともなかったし、その後で振られて、今も微妙に引きずりながら過ごすことだってなかった。
 だが石田にとっては些細な思い出の一つだったらしい。
『あれって俺の為のだっけ? 元々は安井が――』
 とぼけた声でそう言い出したので、俺は遮るように反論する。
「半分はお前の為だろ。失恋したてのお前を慰めようと企画したようなものだ」
 全てが石田の為だった、とは言わない。
 俺にも多少の下心はあった。しかし俺が珍しく石田に気を使ってあれこれと世話を焼いてやったのも事実ではあったから、石田の記憶が既に曖昧になりつつあることには腹が立った。都合よく忘れすぎだ。

 もっとも、石田にとっては計画段階で立ち消えた合コンなんぞ大した記憶に残るものでもないだろう。奴にとっては盛大な失恋の後の駄目押しみたいなトラブルであり、霧島絡みでなければもっとあっさり忘れられていたことかもしれない。
 こんなにもはっきりと覚えているのは俺と園田くらいのものだ。
 いや、園田だってずっと覚えていてくれるかどうか――。

 彼女のことが胸を過ぎるとまた切ない気分になり、俺はそれをやり過ごそうと明るく笑った。
「あの後、結構大変だったんだぞ」
 石田にこの話をするのは初めてだった。
「向こうの幹事には、長谷さんの件でこっちが及び腰になったって気づかれちゃっててさ。こっちは平謝りだよ」
『それは初耳だ。そんなことがあったのか』
 案の定、石田はいたく驚いていたようだ。
「あったあった。お前に苦労かけるのも悪いし、黙ってたけどな」
 これは嘘だった。
 黙っていたのはそんな理由からではない。でも。
「だからもう、社内ではそういうのはやりたくない」
 これは本当だ。
 俺自身、そういうものには興味もなくなってしまった。園田のことを思い出すからと言えばそうだし、あの時彼女を傷つけた記憶が今更のように苦々しく染みてくるからでもある。あんなに酷い扱いをして傷つけた俺を、園田はそれでも好きだと言ってくれたのに。
 感傷に囚われる俺は、溜めずに続けた。
「お蔭でその幹事役の子に、お詫びのデートしろって言われちゃってさ。本当に大変だったよ」
『……初耳だなそれも。って言うか、それで大変だったのか』
 石田の声が疑うように低くなる。
 おかしいな。苦労話みたいにあえて嘆き語ったつもりだったのに、奴にはそう聞こえなかったようだ。よほど耳がいいのだろう。
「大変だって。全部俺の奢りにされたんだぞ、散々な目に遭った」
 嘘ではないが多少誇張して話しておく。
 何もかも正直に打ち明けるとその後のデートの顛末まで喋ってしまいそうになるから、多少は盛っておかなくてはならない。全てを話すのは駄目だ。こうなってしまった以上、腹に抱え込んでおくしかない。
『お前、その子とはどうなったんだよ』
 営業課主任になっただけのことはあり、石田はこの手の機微にもなかなか鋭敏な方だ。俺の語り口から何かを察したように追及してくる。
 そこで俺は落ち着き払って答える。
「いや別に。どうもこうもそれっきりだ」
 言うまでもなく、これも嘘だ。
 いっそぶちまけてしまいたい、抱え込んでいたくないという衝動をぎりぎりのところで堰き止めた嘘だ。

 石田には、打ち明けたいと思うことが何度もあった。
 奴が失恋の痛手を俺に話してくれたように、俺も奴に全ての経緯を話せたら少しは気が楽になるのではないかと思うこともあった。石田なら俺の情けない失恋話をあっさり笑い飛ばしてくれるだろうし、もしかしたら石田らしい世話焼きぶりを発揮して――なんて、未練がないと言い続けている割には未練がましいな。
 だが俺と園田は付き合っていた間ですら、社内の人間にはその事実をひた隠しにしてきた。園田の警戒ぶりは厳重すぎて大げさではないかと思えるほどだった。
 そんな彼女が終わってしまった恋の事実を、彼女の知らないところで暴露されたらいい気はしないだろう。

 嘘を口走った後で唇を引き結ぶと、石田の声が電話越しに聞こえた。
『本当か? 何か怪しいな』
 感心するくらい鋭い。奴の前では、迂闊なことは言わない方がよさそうだ。
「まあいいだろ、俺の話は。とにかく今は石田の方が心配だよ」
 強引に話題を戻し、俺は石田に釘を刺す。
「小坂さんは逃がさないようにしろよ。次はもうないかもしれないぞ」
 経験者は語る、ではないが、次なんてそうそうあるものじゃない。
 そもそも夢中になるくらい誰かを好きになると、次へ行こうなんて気持ちすら起こらなくなる。歳のせいなのかもしれないが。
『三十だもんなあ……。もう合コンってあれでもないよな』
 石田も思うところがあるのか、しみじみと呟いている。
 俺ももうじき三十になってしまう。まさかこの歳まで石田とつるむことになるとは思わなかったし、この歳までお互い独身でいるとも思わなかった。
 そして俺は今、石田にも置いていかれようとしているわけだ。
『俺、小坂にも逃げられたらさすがに追っ駆けるよ』
 石田はふと、決意を込めた口調で言った。
 それを小坂さん本人ではなく、俺という第三者に恥ずかしげもなく語るのが石田という男だ。とは言え昔の彼女についてはここまでは語らなかったように記憶しているし、少々度肝を抜かれてしまった。
「へえ。本当にか?」
 俺が聞き返すと奴は笑い、
『だって後がないかもしれないだろ。それだけではないけど、今は小坂がいいって思ってるけど、ただ三十だからではあるんだよな。追っ駆ける気になれたのは』
 惚気話みたいなことを嬉しそうに口走る。
『成長してんだよ、俺も。振られたらあっさり引き下がるなんて、逃げの姿勢にはもうなれない』
 既に三十歳の奴が威張って『成長』なんて言うものだから、俺は思わず吹き出した。
「成長? それはその表現でいいのか?」
『何で語尾上がるんだよ。疑問に思うなよ』
 石田はむっとしたようだが、三十になってもなお成長の余地があるという点は羨ましくもある。
 確かに最近の石田は少し変わった。小坂さんの話をしている時は本当に幸せそうで、楽しそうで、高校生男子みたいな際どいことも口走ったりはするが、そのくせ時たま驚くような真剣な想いを、先程のように口にしてみせたりもする。
 俺はあれから成長できているだろうか。同じところに留まったまま、足踏みしているだけではないだろうか。ふと、疑問に思った。
 また石田も、耳の痛いことを言ってくれるものだ。
 振られてあっさり引き下がって、逃げの姿勢になった人間の末路がここにある。

 用件を告げて石田との通話を終えた後、俺はしばらくぼんやりと物思いに耽った。
 すっかり骨抜きにされている石田をからかうのは楽しかったが、同時に羨ましくて仕方がなかった。
 小坂さんとは仕事でも、石田絡みでも話をしたことがある。真っ直ぐな目をした、今時珍しいくらいの真面目で純粋そうなお嬢さんだった。以前、彼女が仕事で失敗をして落ち込んでいるところを見かけ、石田に怒られたのかと声をかけたところ、彼女は叱られた犬みたいにしょぼんとしながら切々と訴えかけてきた。
「違うんです。私がとんでもないミスをしてしまっただけで、主任は怒って当然のところをあえて怒らずにいてくれたんです。だから――」
 落ち込みつつも石田のことは庇うそのいじらしさは、確かにとても可愛かった。
 包み隠さず言えば、ちょっといいなと思った。
 話をすればするほど、彼女がどれほど健気に、純粋に石田を好いているかがわかりやすく伝わってきた。石田のように明け透けに語るわけではないが、俺が石田の秘密を教えてやれば目を輝かせて聞き入り、あいつが君を誉めていたよと言えば頬を赤くして堪らなく嬉しそうに微笑む。石田の前にいる時は更に顕著で、奴をじっと見つめながらおりこうに話を聞く姿も、何か言われて元気よく返事をする時の笑顔も、石田にからかわれて慌てふためく様子も何もかもが魅力的だった。
 彼女が他の男に目を向ける可能性はゼロに等しかったが、相手が石田じゃなければ口説いてたのにな、と思わなくもない。さすがにあいつと女の子の取り合いをする気はなかった。あいつも随分はっきりと小坂さんへの気持ちを口にするようになったので、元より俺の出る幕はなかった。

 ただ、とてもよく似ていると思った。
 石田を一途に慕う小坂さんが、昔、俺を好きでいてくれた頃の園田と重なって見えた。

 俺のことを、きっと他人が見たら羨ましくなるくらい一途に、ひたむきに好きでいてくれた女の子が過去にはいたのだ。
 俺もまた、人に話せば自慢と惚気にしかならないような恋心を彼女から寄せられていた。どんな話も時間を作って真面目に聞いてくれて、俺が困っているとなれば手を差し伸べてくれて、俺が酷いことをした時でさえ、彼女は深く傷つきながらも極上の笑顔で許してくれて――本当に可愛くて、いい子だった。彼女の傍にいると幸せを感じた。あの頃の俺は、石田のことが言えないほど彼女に骨抜きにされていた。べた惚れだった。
 それが過去の話となった今も、俺は園田の面影を探し求めている。
 それこそ滑稽な話だ。未練のない奴の取る行動じゃない。
 俺はこの先どんな女の子と出会っても、園田と比べてしまうのかもしれない。彼女に似ている子をいいなと思いながらも、結局は過去を忘れられないまま引きずって、頭の片隅には常に彼女がいるような状態が、まだしばらくは続くのかもしれない。未練がないなんて念仏のように唱えたところで、傍目にはそうは映らないだろう。
 三年前から時が止まったままなのは、俺の方だ。

 そうして途方に暮れながら、過去を引きずりがんじがらめになったまま、俺は三十歳になった。
 誕生日にかこつけて彼女にメールでもしてみようかと思ったが、結局、できなかった。
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