Tiny garden

春は等しく訪れる(1)

 弟が結婚するという知らせを受けたのは、俺が三十の誕生日を迎える少し前のことだった。

 久し振りに電話を寄越したかと思えば、翔は開口一番こう言った。
『めぐ兄ちゃん、俺、嫁さん貰うから』
 その瞬間、俺は軽い目眩を覚えて天井を仰いだ。
「翔、お前もか」
『えっマジで!? まさか兄ちゃんも?』
 たちまち弟が声を弾ませたので鼻で笑っておく。あいにく俺の方は気配すらなかった。
「いや、俺じゃない。職場の後輩の話だ」
『あ、何だ。兄ちゃんと時期被っちゃうかと思った』
「そいつに、来年結婚式を挙げるって話を最近されたばかりなんだ」
『へえ。それで兄ちゃん、びっくりしてたのか』
 弟は社会人になろうと結婚を控えていようとあまり変わらない、くだけた口調で続ける。
『職場の後輩ってことは、めぐ兄ちゃんも参列しないといけないんだろ?』
「そうだよ。前いた営業課の後輩だからな、是非来てくれと言われた」
『人事課長ともなると大変だろうね。ご祝儀も弾まなきゃなんないだろうし』
「全くだ。お前の日程次第では節約生活もやむなしとなるな」
『ごめんごめん。俺んとこは気を遣わなくていいからさ』
「そうもいかないだろ。お前がよくても、うちの親が黙ってない」

 営業課時代の後輩、霧島が三年近く付き合った長谷さんにようやくプロポーズをし、彼女からは快諾されたのはつい最近の話だ。
 結婚式は来年二月の予定だということで、俺も石田も霧島本人から真っ先に報告を受け、今は二人でご祝儀の用意をしなければと言い合っていたところだった。品のない話だが現在の俺は人事課の課長であり、霧島とはプライベートでもそれなりに長く付き合っている。近年では奴の部屋に招かれて酒を飲みに行くと、長谷さんが通い妻のように現れては甲斐甲斐しくつまみを用意してくれて、一足早い夫婦ぐるみでの交友関係となりつつあった。そういう経緯もあるので、祝儀には相応の額を包むのが礼儀だ。
 そこへ弟の結婚話まで飛び込んでくれば、頭を掠めるのはやはり予算。二件のめでたい話に対する出費がどれほどのものになるかという点だった。
 もちろん、だからと言って間が悪いなどと弟を責めるつもりは毛頭ない。この不肖の弟に貰い手があっただけでもありがたい話だ。式には有給を取ってでも駆けつけて、大いに祝ってやるつもりでいた。

「で、お前の式はいつなんだ、翔」
 二月にぶつからなければいいが。そう思って尋ねると、翔は照れたような笑い声を上げる。
『ああ、俺達は式とかやんないんだ。籍だけ入れるよ』
「そうなのか」
 式がないと聞いて、有給を取ってでもと意気込んでいた俺は少々拍子抜けしたが、最近では特に珍しくもない話だろう。霧島の場合は社内結婚だから式を挙げざるを得ないようだが、翔はそうではないらしい。
『彼女の実家、ここから遠くてさ。両家の顔合わせだけちゃちゃっと済ませた』
 弟の奥さんになる人の実家は、うちの実家から飛行機を乗り継がなければいけない距離にあるという。顔合わせだけでも随分な長旅になったようで、報告が遅れてしまったのだと弟は言った。
「なら、あとはもう入籍するだけなんだな」
『そういうこと。写真だけは撮るから、できたら兄ちゃんとこにも葉書送るよ』
「頼む。お前の嫁さんの顔を見るのが楽しみだよ」
『へへ、見たらびっくりするよ。超可愛いから』
 謙遜することもなく、翔は堂々と惚気た。

 それにしても大学時代、仕送りを注ぎ込むほどアイドルに入れ込んでいた翔がよくも普通の女と結婚できたものだ。俺が不思議がっていると、本人がでれでれしながら説明してくれた。
 何でも結婚相手のお嬢さんも同じアイドルグループを好きなのだそうで、出会いのきっかけはネット上のファンコミュニティ、二人で会うようになったのもライブへ共に行く同行者を募っていたことかららしい。そこから意気投合して一緒にイベントやライブに足を運ぶようになるうち、恋に発展したのだそうだ。随分な徹底ぶりだと俺は感心した。

『お蔭で最近じゃ、父さん母さんの彼女らを見る目も変わってさ』
 弟の言う『彼女ら』とは無論、件のアイドルグループのことだ。
 クラシック曲やジャズをこよなく愛し、実家の一室をレコード部屋にしてまで古いレコードを溜め込むうちの両親は、それ以外のジャンルの音楽に対する目がとても厳しい。かつて俺が翔のアイドルグッズを実家へ持ち帰った時などは両親ともども実に疎ましげな顔をしたものだった。
 だが今となっては例のアイドル達こそが弟の恋のキューピッドである。頭の固い父さん母さんもさすがに態度を軟化させたようだ。
『この間なんて母さん、俺にメンバーの子の名前教えて、なんて言い出したよ。息子はともかくお嫁さんと話合わないのはまずいと思ったみたい』
 大した意識改革である。
 件のアイドルにはやはりかけらも興味がない俺としては、実家が彼女ら一色に染まらないことを密かに祈るのみだ。久々に帰省したと思ったら壁にポスターがべたべた、なんていうのは歓迎できかねる。彼女らがいかに弟達のキューピッドであったとしてもだ。
『ところで、めぐ兄ちゃんはまだ結婚しないの?』
 弟達の馴れ初め話が一段落すると、弟は悪気もなく俺に水を向けてきた。
『兄ちゃんももうじき三十だろ。そろそろ落ち着いた方いいんじゃないの?』

 三十の大台が目前に迫り、俺も人並みの憂鬱を抱いてはいた。
 仕事においては二十代なんて若造もいいところで、三十になってようやく一人前みたいな風潮があるが、だとしても新緑のように瑞々しいはずの二十代が幕を下ろさんとしている事実には悲しみしかない。俺自身、この二十代の終焉を何の潤いもないまま迎えようとしているのだから尚のことだ。
 つまり弟の今の質問は効果抜群、俺に二倍のダメージを与えてきたのである。

「落ち着こうにも相手がいない」
 正直に答えた途端、弟は意外そうな声を上げた。
『え? めぐ兄ちゃん、彼女いただろ?』
「いつの話だよ。とっくに別れた」
 むしろ、振られた。
 彼女はそうは思っていないだろうが、事実としてはそうでしかなかった。
『嘘っ!? 初耳だよそれ!』
 うるさく声を張り上げる弟に、俺は苛立ちを押し隠すつもりで溜息をつき返す。
「まあ、お前と電話するのも久し振りだからな」
 弟が地元で就職してからというもの、連絡を取り合うことはほとんどなかった。弟の動向は時々ある両親からの電話で十分把握することができたし、翔にとってもそうだっただろう。お蔭で奴の頭の中の『めぐ兄ちゃん』は、三年前で時間が止まり、何一つとして変化のないまま存在しているようだ。
 しかし三年も経てば何だって変わるし、失うものも得るものもある。
 そして失くしたものはそうたやすくは取り戻せない。
『彼女ってあれだろ、前に見せてもらった写真の子』
「……ああ」
『何にも言わないからこのまま結婚するのかと思ってたよ。いつ別れたの?』
 翔は驚きを隠し切れない様子で追及してきた。もう何年も経つこととはいえ、根掘り葉掘りされるのはあまり気分のいいものでもなかった。
「結構前だ」
 あえて時期をぼかして答えると、奴はなぜか随分と残念そうにしていた。
『そうかあ……。めぐ兄ちゃん、かわいそうに』
「自分が結婚控えてるからって憐れむなよ。別に平気だよ」
『別に同情とかじゃないけど……そっか。兄ちゃんが平気ならいいや』
 翔は少し笑ったようだ。
 こいつに失恋直後の俺を見られなくてよかった、と心底思った。
『それきり彼女とかはなし? 他の子とは付き合ってないの?』
 だからどうだと言うのか。そんなことで遠く離れて暮らす弟に迷惑をかけるわけでもない。
「今のところはな。と言うか、別にいいだろ。俺一人くらい生涯独身でも」
 俺は投げやりに反論した。
 だが翔はそこで脅かすように声を顰める。
『でもないっぽいよ。父さんも母さんも稔兄さんも、めぐ兄ちゃんのこと心配してる』
「何でだよ。俺まで結婚しなきゃ安心できないって?」
 孫の顔を見たいというありがちな両親の希望はとうに叶えられている。
 真面目な長男に続いて甘ったれだった末っ子も身を固め、残すところは遠方で気ままに働く次男だけ。仕事を辞めて地元に帰る予定があるわけでもなし、俺のことはそっとしておいてくれてもいいのにと思う。兄貴なんて家庭持ってそっちにかかりっきりだろうに、なぜいい大人にもなった今でも兄貴面をしようとするのか全く理解できない。
『ほら、兄ちゃんは実家から離れて一人暮らしだし。一人で寝込んだりしてたら怖いじゃん。結構仕事忙しいみたいだしさ。誰か傍にいたら安心できるのにね、みたいな話はしてたよ』
 翔はそう言うが、現在の俺の生活にそういう類の潤いは全くない。つまり、当てがないのだ。
 だから両親及び兄弟達には俺のことなんて構うな、と言いたい。
『めぐ兄ちゃんならもてるし、彼女くらいすぐにできんじゃないの?』
 弟のこういう物言いには、昔から悪気なんてない。
 だが気分が沈んでいる時にはストレートな皮肉に聞こえて、どうにも堪えることがあった。
「俺ももうじき三十、立派なおっさんだからな。そろそろ相手にされなくなる頃だ」
『またまた。生涯独身とか言っちゃうのは早いと思うよ』
「それに仕事が忙しいからな。相手を見つける暇もない」
 俺は軽く応じると、近いうちに祝儀を送ると約束して弟との通話を終えた。

 電話を切ると部屋の中は急速に静かになる。
 三年前、弟と同居していた頃と比べるとどの部屋もすっきりと片づいていたし、目障りなポスターが壁を覆っていることもない。備蓄食料が勝手に消えてしまうこともなくなったが、代わりに驚くほど静かな生活が続いていた。
 3DKの部屋は、一人で暮らすには広すぎた。

 今の季節は秋のはずだが、あちらこちらに季節外れの春がやってきたらしい。
 霧島に続いて翔までもが結婚するのだと思うと、やはり少々複雑だった。後輩や弟に先を越されるのは、悔しいとまでは言わないが寂しいものではあるし、正直に言えばそういう相手に出会えたことが羨ましかった。広い部屋での一人の生活にもそろそろ飽きが来ていた。これでもう少し暇な職場に勤めていたなら、真剣に引っ越しを検討していたかもしれない。
 ありがたいことに俺には打ち込める仕事があった。人事課に回されてすぐに昇進し、内勤だというのに営業課時代と遜色ない多忙さだ。両親からの電話でも時々『いい相手はいないのか』と聞かれたが、さっきのように『仕事が忙しくて』と答えればやり過ごすことができた。ご縁があるまではこの調子で乗り切るつもりでいる。
 しかし、そうこうしているうちに三十歳が近づいてくる。
 俺には春がやってくる気配もないまま、歳だけは確実に取ろうとしている。
 同期の石田は俺よりも少し前の七月に、三十歳になった。あいつにとっても三十の大台は憂鬱極まりないものらしく、誕生日を迎えるまでは何かと言うと深く嘆いていた。しかし三十歳になってしまえばどうってこともなかったのか、あるいは三十歳の誕生日を誰か可愛い子にでも祝ってもらえたのか、近頃では三十になる以前ほどは嘆かなくなった。どうやらあいつのところにも春が訪れる気配があるようで、俺はそれを素直に羨ましい、もしくは妬ましいと思っている。
 俺は石田とは違い、嘆きながら三十になり、そしてそのまま嘆き続けていくのだろう。空しい人生だ。

 物思いに耽ると際限なく暗くなる。
 俺は一旦部屋を出て、弟に送る為のご祝儀袋を買いに出かけた。
 そして近所の文房具屋で結婚祝い用の結び切りのご祝儀袋を購入し、部屋へ戻ってきた後で筆ペンを買い忘れたことに気づいた。
 滅多に使うものではないから家に置いてあったかどうか。なければないで買っておかなければならないし、探してみるしかない。そう思い、元は弟の部屋だったところに置いたパソコンデスクの引き出しを開ける。

 仕事が忙しいせいで、近年ではこの机に向かうことも稀だった。
 机の上こそ取り繕ったように美しく整頓されているが、ひとたび引き出しを開ければその中は滅多に開けられないせいで混沌としている。
 いつ行ったかも思い出せないような店のリーフレットやポイントカードの説明書などが一緒くたに収められた引き出しを漁り、ペンの類をまとめてしまってあるペンケースを探し当てる。ようやく見つけて引き出しから引っ張り上げた拍子、その上に引っかかっていた数枚の紙が飛び出すように溢れ、床の上に散らばった。
「しまった……。そのうち片づけないと」
 独り言を言いながら、床に落ちた紙類を拾い集める。
 すると、裏返しの状態で落ちていた一枚の写真に目が留まった。
 表を確認しないうちから何の写真かわかって、俺は動きを止めた。
 手に握っていたペンケースを放り出し、写真に手を伸ばす。

 数秒ためらってから勢いをつけて引っくり返せば、写っていたのはやはり、彼女だった。
 八月の森林公園で、ベンチに座り、腰につけた風船をぷかぷかと宙に浮かべて、こちらを向いてはにかむ園田が写っていた。

 この写真は滅多に開けない引き出しにしまい込んでいた。
 いや、写真をしまっておいたからこそ引き出しを開けなくなったと言ってもいいかもしれない。
 一時期は本当に、目にするのも辛かった。写真の中で笑っている園田がこの数ヶ月後には涙を流しながら別れを告げてくるのかと思うと、何ともやるせなかった。だが見たくないからといって写真を捨てることもできなかった。結局こうしてしまい込んでおいては、時々現れて俺を感傷に浸らせる。
 今は写真を見ても、昔ほどは辛くない。強い後悔の念で胸が痛むということも、肺が空っぽになるほど深い溜息をつくこともない。
 ただ写真に写っている三年前の園田は今見ても本当に可愛くて、目に眩しいくらい一途な恋をしている。彼女の照れた笑顔もこちらへ向けられる眼差しも、今はもうない。失くしてしまった。
 もう昔の話だ。未練なんてないはずだった。
 だが俺は彼女の写真を捨てられず、また引き出しにしまう。折れ曲がらないよう丁寧に、要らない紙に挟むようにして元の場所に戻しておく。なぜ捨てないのかと誰かに聞かれたら答えられない。かつてと違って、何度も何度も見返すことなんてなくなってしまったのに。

 あれから三年が過ぎた。
 別れた直後こそ気まずい関係が続いていた俺と園田だったが、今では普通に話をする。
「あ、安井さん。おはようございます」
 人事課で働く俺と、秘書課勤務の彼女は、例えば朝の出勤時に顔を合わせたりする。
 そういう時に彼女の方から挨拶をしてくれるようになったのは最近のことだ。それまでは俺の方から声をかけていた。初めのうちは会釈だけ返されて素通りだった。だんだんと、硬い表情ながらも挨拶を返してくれるようになった。
 そして今ではほんのわずかにだが、笑いかけてくれるまでになった。
「おはよう、園田」
 俺が笑みを返すと、園田は視線を下げて怪訝そうにして、それから身振りを添えてこう言った。
「安井さん、ネクタイ曲がってる」
「え? ああ、本当だ」
 指摘されて見てみると、確かに結び目が右にずれていた。慌てて片手で直せば、それを確かめてから園田が言う。
「よかったね、気づけて」
「本当だな。ありがとう、園田」
 礼を告げると彼女はおまけのように、にこっと笑ってから立ち去った。彼女らしい、あっけらかんとした愛嬌のある笑い方だったが、あの写真に写っている笑顔とは明らかに違っていた。
 俺は彼女がいなくなってからもしばらくの間、廊下に立ち尽くしていた。やがて、ネクタイに添えたままだった手をゆっくりと離し、溜息をつく。
 ああやって気づいてくれるんだったら、彼女に会う時はいつもネクタイを曲げておこうかな。

 こんな短い会話すら貴重なものとなった俺達に、復縁の気配などあるはずもなかった。
 別れた当初こそ未練たらたらだった俺も、さすがにこうも時が経てば、それが叶わぬものであることを悟っていた。別れの切なさも彼女のいない寂しさも全部断ち切ったはずだった。だがあの写真だけは、どうしても捨てられない。
 未練がないというならなぜ捨てられないのか。自分でもわからなかった。
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