Tiny garden

日暮れて道遠し(6)

 別れ話をした二日後、俺は社内で園田を見かけた。
 これまでは勤務するフロアが違うから、普段なら社内で見かけることもあまりなかった。だが同じ総務部の人事課と秘書課はオフィスが並びにあり、移動に関する雑務で人事課を訪ねようとした際、廊下で彼女と偶然行き会うことになった。
 俺は階段を下りて廊下へ出たところで、ちょうどその時、廊下の向こうから園田がこちらへ向かって歩いてきた。

 向こうから歩いてくるのが彼女だと気づいた瞬間、呼吸が止まった。
 俺は二日前のやり取りをどうにか自分の中で消化したつもりでいたし、異動を終えて落ち着いたら真っ先に彼女に連絡をしようと心に決めていた。だが実際に彼女を目にした途端、言い知れないもやもやとした不安とじっとしていられない焦燥感が胸の奥に湧き上がった。
 遠目で見てもわかるくらい、いつの間にか園田は随分痩せていた。それでも足取りは重くなく、肩を落としているということもない。書類を抱えてこちらへ歩いてくるところで、まだ俺には気づいていないようだった。
 俺は彼女に声をかけようとした。なるべく自然に、もし誰かに見つかっても、気まずい空気を悟られることがないように。そう思うなら話しかけない方がいいのかもしれないが、せっかく会えた彼女と、俺は少しでもいいから話をしたくてしょうがなかった。
「園田」
 自然にと心がけた割に、呼び止める声は妙に引きつっていた。急に喉が乾き、張りついたようになっていた。
 園田は身体に電流を流されたようにびくりとして、足を止めた。
「あ……」
 微かな声が聞こえた気がした。空耳みたいに小さな呟きだったが、確かに彼女の声だった。
 彼女は手にしていた書類を胸に抱きかかえると、そろそろと俺に向かって顔を上げてみせた。まだ二日しか経っていないせいだろうか、彼女の目元は未だに腫れぼったかった。その変わらぬ痛々しさに胸が詰まった。
 いかにも散々泣いてきましたという顔で出勤してきた彼女を、秘書課の同僚達はどう受け止めたのだろう。あれこれ詮索されたりはしなかっただろうか。園田ならあえて明るく『泣ける映画を観て号泣しちゃって』とでも言ってみせたのかもしれないが、それが事実でないことはここ数ヶ月でぐっと痩せ細った姿からも明らかだ。
 こうして顔を合わせてみると、上手く言葉が出なかった。
 俺も決して口下手ではないはずなのに、彼女を呼び止めておきながら、何を言おうか今更のように迷っていた。
 しばらく棒立ちになっている俺の前で、園田がふと目を伏せた。
 視線を逸らされたような気になって、慌ててもう一度呼びかけた。
「あの、園田――」
 だがそれを聞き取ったはずの彼女はおざなりな会釈だけをすると、その後は急ぎ足で俺の横を通りすぎた。一切口を開かず、すれ違いざまに酷く辛そうな顔を浮かべていた。はっとして俺が振り向けば、彼女はそのまま廊下の奥へと消えた。逃げるようなスピードだった。

 彼女に立ち去られた俺は、少しの間ここが会社であることも忘れて呆然としていた。
 今まで通り、何も変わらずに話ができると思っていたわけではない。
 普通に付き合っていた頃、俺達は周囲の目を避ける為に社内ではあまり接点を持たなかった。それ以前は同期として当たり障りない会話をすることもあったが、付き合い始めてからはあえて距離を置いてきた。今になって思えば逆に不自然な態度だったのではないかという気もするが、特に誰からも怪しまれることはなかった。
 ましてそうやって親しくないふりをしてきたのは園田の希望だ。だから彼女ならたとえ別れたとしても、周囲の目を気にして不自然でない程度の挨拶や世間話はしてくれるのではと思っていた。
 だが、それは甘い見込みだった。園田は周囲の目を気にするそぶりもなく、俺を振り切るように立ち去ってしまった。
 あれからまだ日が経っていないのだから仕方ない。彼女だって気まずいだろうし、あんなに泣いた後では気持ちも落ち着いていないことだろう。そこへ俺が、また柄にもなく緊張気味に話しかけてきたものだから、彼女までうろたえてしまったのかもしれない。
 何とか、そんなふうに考えようと努めた。

 しかし、彼女はその後も俺と社内で行き会う度に同じような反応を示した。
 数日もすれば目の腫れぼったさは消えてなくなっていたが、俺の存在に気づくと強張った表情を隠すように俯き、それでも最低限の礼儀は守ろうと自棄になったような会釈だけはして、すぐに駆け足で立ち去ってしまう。
「園田」
 俺が呼び止めても振り向きはしない。呼び返してくれることもない。あっという間に目の前から消えてしまう。
 少し時間を置けば世間話くらいはできるようになる。そう楽観的に考えていた俺は、園田の取りつく島もない態度に思いのほか打ちのめされていた。
 少し時間を置こうと決めたのは俺自身のはずだったが、その少しの間でさえ彼女に拒絶されるのは酷く堪えた。彼女が立ち去る足音を聞く度に胸が張り裂けそうだった。

 二十七にもなって、こんな局面を迎えるまで気づかなかったというのも何だが、俺は案外打たれ弱くて繊細な心の持ち主だったらしい。別れ話の最中ですら彼女は俺を好きだと言ってくれた、その言葉があればしばらくは耐えられると思っていたはずなのに、この息苦しさは何だろう。俺に愛想が尽きたと言われたわけでもないのに。
 園田から告げられた別れも自分の中で消化したつもりでいたのに、ボディブローのように後からじわじわ効いてきた。俺は彼女とよりを戻すつもりで、彼女からの別れの申し出を受け入れた。だがこんな調子では復縁どころかまともな話すら当面はできないかもしれない。
 もしかすると俺は、離してはならない手を離してしまったのか。
 四月からはいよいよ人事課勤務となり、園田とは同じ総務部所属になる。同じフロアで働くことにもなるのだし、営業にいた頃よりも社内で顔を合わせる機会が増えるかもしれない。そのうちに俺達は、いつかまた以前のように自然に話せるようになる。なるはずだ。今すぐには無理でも、時間を置けばいつかは話を聞いてもらえる。それまでは辛抱強く待つしかないだろう。
 取り返すと誓ったあの日の決意が心の奥底で蘇る。
 すると言いようのない不安も膨れ上がってきて、去っていく彼女の後ろ姿が脳裏を過ぎった。俺と目も合わせずに立ち去っていく園田の背中は、記憶の中でさえ小さくて、遠かった。

 三月も終盤になると、俺の営業課ですべき仕事もようやく片がついた。
 その時期を見計らってか、営業課一同が俺の送別会を開いてくれた。
 会場は会社近くの居酒屋、送別会だということを除けばいつもと何ら変わりのない飲み会だった。石田曰く『歩いて五分の異動先』では悲しむ者も寂しがる者もいないようで、俺は上司や諸先輩、石田や霧島からも適当なエールだけを貰って送り出されることとなった。
「ここんとこの忙しさを乗り切ったお前なら、どこ行っても上手くやれるって」
「そうですよ先輩。人事に行ったら一層真面目に頑張ってくださいね」
 肩を叩いてくる石田としたり顔で頷く霧島に挟まれ、俺は曖昧に笑った。
「俺はもうちょっと惜しまれつつ送られたいって思ってるんだけどな」
「何言ってんだ柄でもない。惜しんだら惜しんだで気色悪いとか言うんだろ」
「先輩が後ろ髪引かれることのないよう、爽やかに送り出しますからね」
 石田も霧島も、悲しみなどこれっぽっちもない笑顔で言い切りやがった。
 最後くらいは俺がいなくなって寂しいとか、もっと一緒に仕事したかったみたいな殊勝な言葉が出てくるのではと身構えていたのだが、全くと言っていいほどなかった。
 とは言え涙で送り出されるようなキャラでないことは把握していたので、似たようなノリで応じておく。
「お前らこそ、俺がいなくなって営業課は駄目になったと言われないように頑張れよ」

 この夜は、なぜだか妙に酒が進んだ。
 ずっと仕事に追われていて、ひとまず跡を濁さずに年度末を迎えられそうだということにほっとしていたせいかもしれない。あるいはつまみに頼んだ冷奴が思ったより美味かったせいかもしれない。
 そうでなければ――。

「何だよお前、豆腐で酒飲んでんのか?」
 石田がそんな俺を見咎めて、物珍しげな顔をした。
「健康志向ですか、先輩」
 霧島にも問われて、俺はちびちびと豆腐を切り崩しながら頷く。
「そんなところかな。最近、豆腐にはまってるんだ」
「へえ。随分あっさりしたもんにはまるんだな」
 石田は意外そうにしていた。
 だが俺からすれば当然の結果だった。豆腐好きの園田の手料理を味わううち、俺はすっかり豆腐そのものを好んで食すようになっていたのだ。一人で夕飯の買い物に出た時も、ふと目についた豆腐のパックを食べたくなってカゴに入れたり、冷蔵庫に買い置きしておくようになった。園田が作ってくれた豆腐丼を自分でも試してみたいと思っていたが、そういえば作り方を聞くのを忘れていた。
 今からでもメールで尋ねたら返事をくれるだろうか。
 それをダシにして、また彼女と話ができるようになったら――なんて、さすがに見え透いた手か。
 でもこのまま黙っていたら、もう二度とあの味を口にすることもできなくなる。
「豆腐はいいよ、美味いから。俺は毎日豆腐でもいい」
 冷奴を平らげた後、今度は揚げ出し豆腐を注文してから俺は二人に語った。
「食卓に毎日豆腐が上るなんて最高だよな。そういう暮らしがしたい」
「いつの間にそんな豆腐好きになったんだよ」
 石田が突っ込んできたので、俺はもっともらしく嘯いた。
「俺の身体には豆乳が流れてるんだよ。知らなかっただろ」
「大丈夫かそれ、血管に湯葉張るんじゃねえの?」
「普通に詰まりそうですよね。血液はさらさらの方がいいんですよ、先輩」
 石田も霧島も呆気に取られた顔で俺の話を聞いている。どうせ酔っ払いの戯言とでも思っているのだろう。実際、その通りだったが。

 ビールも三杯目に突入したところで、俺は居酒屋のテーブルに頬杖をつき始めていた。妙に気分がふわふわしていて、頬が熱く、自分が酔っ払っているのがよくわかった。
 恐らく客観的に見ても酩酊状態に映るのだろう。やがて石田に釘を刺された。
「おい安井、酒はそのくらいにしとけよ。次頼むなら水にしろ」
「なんで?」
「なんでじゃねえよ。らしくもなくべろべろじゃねえか」
「いつもこんなもんだろ。通常営業だよ」
 俺は酒に強い方ではなかった。特に就職したての頃は飲み会のペースについていくのも一苦労で、石田には何度か迷惑をかけた。徐々に自分にとっての適量を学び、飲みすぎないようつまみを食べたりお酌を断ったりするスキルを身につけた俺は、さすがに近年では出先で酔いつぶれるということもほとんどなくなった。
 なのに今夜箍が緩んだのは、送別会という特別な空気のせいか。
 それとも、別の不安のせいだろうか。
「送別会で醜態晒したら格好悪いですよ、先輩」
 霧島の物言いは生意気だったが、どことなく気遣わしげでもあった。本気で俺が潰れかねないと思っているらしい。
 俺は、いっそ潰れてしまってもいいと思っていた。少なくともいい気分で眠りに就くことはできるだろう、目覚めは恐らく最悪だろうが。酒に頼ってでも、胸に巣食う不安を一時忘れたかった。
 だがその意思を口にする暇もなく飲み会は解散し、千鳥足の俺は石田と霧島によってタクシーに押し込まれた。
「同乗してなかくて平気か? 一人で帰れるか?」
 心配そうな石田に向かって、俺はひらひらと手を振った。
「平気平気。まだ住所言えるくらいの余裕はあるよ」
「なら、気をつけて帰れよ。ちゃんと家入ってから寝ろよ」
「わかってるって。いくら冷たくて気持ちいいからって道路で寝たりしない」
「なんで道路の冷たさ気持ちよさを知ってんだよ」
 石田は呆れたように笑い、それから揶揄する口調で俺に言う。
「お前は酔っ払った時の為に早いとこ嫁さん貰え。その方が安心だ」
 くしくもその言葉が、俺から酩酊気分をあっさりと取り払ってしまった。
 どう返事をしていいのかわからず、俺は適当に頷いてからタクシーの運転手に車を出すよう頼んだ。程なくしてドアが自動で閉まり、車が走り出す。石田も霧島もこちらを黙って見送っていて、随分と心配をかけたようだと思う。
 少し前までなら、そうする、と答えられたかもしれない。
 でも今は、わからない。

 帰りついた部屋は静まり返っていた。
 ちょうど数日前、同居人だった弟は大学の卒業式を終え、実家へと無事に引っ越していった。
 あれだけ口酸っぱく言ったお蔭で奴の部屋はすっかり片づき、がらんとしていた。ここ二年ほど俺の部屋を圧迫してきたオーディオ類を、近いうちにこちらの部屋へ移そうと考えていた。そうすればもっと広々と部屋を使える。ようやく、人だって呼べる。
 だが呼びたい相手は、名前を呼んでも振り向いてはくれない。
 テレビも消え、音のないリビングに立ち入ると、俺はソファに腰を下ろした。気がつけば一人きりだった。傍には誰もいなかった。
 まだ諦めたわけじゃない。園田とならやり直せる。そう信じているつもりだったが、この間からどうしても拭いきれない不安が絶えずつきまとっていた。
 思えば、俺の手元に残ったものはごくわずかだ。
 園田の手を、一時的にとは言え離してしまった俺が持っているのは――渡せなかった誕生日プレゼントと、ぴかぴかの合鍵くらいのものだった。プレゼントには腕時計を選んだ。前に園田がごついスポーツウォッチをしているのを見て、もちろん彼女にはそういうのも似合っているが、買ったばかりだったあのシャツワンピースなんかには違う腕時計の方が合うと思ったからだ。細い革ベルトの品のいい腕時計を、彼女の手首に巻きつけてみたかったが、それは当分叶わないだろう。

 そしてもう一つだけ。
 手帳の中に挟んでいたあの写真も、残ってはいる。
 一枚きりだった。森林公園で撮影したはにかむ笑顔の彼女の写真は、もう何度となく見返していた。だから直に見なくてもその表情をイメージできるはずだったが、今は俺を拒絶して足早に立ち去る彼女の姿しか思い浮かばなかった。全く今更な話だが、もっと写真を撮っておけばよかったと思う。そうすればこんな寂しい夜でも、もっといろんな姿の彼女をイメージできただろうに。
 手元に残った形ある思い出はわずかでも、心の中にはそれ以上の記憶が残っていた。
 だがその記憶は俺と園田しか知らないものだ。俺達の関係を打ち明けた相手は弟だけで、その弟も今はここにいない。石田にはいつか話したいと思っていたが、結局言えないままだった。もし洗いざらい話していたら、奴の今夜の別れ際の台詞も違うものになっていたのかもしれない。
 俺と彼女しか知らない思い出を、俺達は次に話をする時まで、守り続けていられるだろうか。
 俺は彼女の手を離し、彼女は俺から逃げていく。そんな状況だったとしても、失くさずにいられるだろうか。

 ソファに座ったまま、壁のカレンダーをぼんやりと見つめていた。
 三月はもうじき終わり、四月と新年度がやってくる。
 異動後も俺はしばらく忙しいだろう。新しい仕事を覚え、早いところ人事課の歯車として機能できるようにならなければいけない。新しい上司や同僚とも上手くやっていく必要がある。身辺が落ち着くのはもう少し先の話になる。
 やらなければいけないことはたくさんある。
 だがそれらを全て片づけた時、俺にはどれほどの時間と可能性が残されているだろう。
 酔いはすっかり覚めてしまって、今夜も眠れそうになかった。ここに園田がいればいいのにと考えかけたが、思い浮かぶのは去っていく彼女の背中だけだった。
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