Tiny garden

日暮れて道遠し(2)

 泊まりの機会が格段に増えると、さすがに感づく奴もいる。
 冷静に考えれば当たり前の話だが、同居人の目を誤魔化すことはできなかった。

 誕生日のパーティを終えて朝帰りを果たした俺に、待ち構えていた翔は訳知り顔で言った。
「めぐ兄ちゃん、最近外泊多くない?」
 いい気分で帰ってきた俺は、水を差されるのが嫌で適当に答えた。
「まあな」
「もしかして彼女できたとか? 意外と気楽なんだね、社会人って」
 時刻は既に午前十一時、にもかかわらずパジャマ姿でテレビを観ていた翔にそんなことを言われたくはない。
 ただ弟も無事に就活を終え、来年度からは地元で就職することが決まっていた。春から新社会人となる夢いっぱい希望いっぱいの人間に現実味溢れる社会人の艱難辛苦を語るのも惨いことだろうと、俺は話題の矛先を変える。
「お前がいるから彼女を呼べなくて困ってるんだよ。外泊が増えてもしょうがない」
「あ、俺のせい? 酷くね?」
 翔はだらしない顔で笑いながらテレビ画面に視線を戻す。
 画面の中には弟ご執心のアイドルグループが、華麗に歌って踊る姿が延々と映し出されていた。歌も踊りも大して上手くはないが、弟は彼女達のデビュー直後からの大ファンだそうで、ライブだグッズだCDだと惜しみなく金を注ぎ込んでいた。彼女達への投資が、俺が弟と同居をする羽目になった理由の一つでもある。仕送りもバイト代も彼女達に貢いでしまうので、食うに困ったことすらあったそうだ。
 歌が一曲終わったタイミングで、弟が尋ねてきた。
「どんな子と付き合ってんの? 可愛い?」
「そりゃそうだろ」
 可愛いと思っていなかったら、そもそも付き合ってもいない。

 昨日の彼女も本当に可愛かった。できればもう少し一緒に過ごしたかったが、彼女の部屋に長居をするのも悪いから、泊まりの際はなるべく午前のうちに帰るようにしていた。それでなくても園田は俺にあれこれと気を遣って、お茶だのお菓子だのと尽くしてくれようとするからだ。
 だから彼女の部屋を訪ねるだけではなく、たまに俺の部屋にも彼女を招けたらと思うのだが、それには大きな障害がある。

「何だったら兄ちゃんが彼女連れ込む時だけ、どっか避難しててもいいけど?」
 テレビを凝視しながらふと、翔が俺に持ちかけてきた。
「ビジホ代でも出してくれたら喜んで家空けるよ。兄思いのいい弟ですから」
 こいつに払う金があったら普通にホテルへ泊まりに行く。何でわざわざ弟に金を握らせなくてはならないのか。
 そもそも、弟が部屋を空けたところで問題が全てクリアされるわけではなかった。むしろもっとまずいものがここには残されている。
「無茶言うな。あんな部屋、女どころか誰にも見せられないだろ」
 俺は弟の部屋がある方向へ顎をしゃくった。
 今は天岩戸の如くきっちりと戸が閉められているが、一度開けばパンドラの箱よりも混沌とした中身が覗けてしまう。園田の目に留まればさすがに引かれるだろうし、数ヶ月前にあった火災報知機点検の際も、淡々と作業をする係員の傍らで立ち会った俺が死ぬほど恥ずかしい思いをさせられた。翔自身は至って平気そうにしていたのが更に腹立たしかった。
「見せなきゃいいじゃん。ドア開けなきゃいいんだから」
「不慮の事故がないとも言えない。いいからそろそろ片づけろ」
「えー、まだ早いよ。十一月だよ?」
「もう十一月だ。お前、あの部屋の物は一つ残らず持っていけよ。ここに置いてくな」
 語気を強めて、俺は弟を促した。
 しかしそこで弟はぎくりとしたように振り向き、顔を引きつらせる。
「めぐ兄ちゃんさ……うちの実家狭いの知ってるじゃん?」
「もう狭くないだろ。俺も兄貴も家出てるんだから」
「いや狭いって! とてもじゃないけど全部置いとけないよ」
「だとしてもここに置いてかれるのは困る。置いてったら捨てるぞ、本気で」
 嫌な予感を覚えて脅しにかかると、弟は縋りつく目で俺を見る。
「頼むよ兄ちゃん、ちょっとの間でいいから預かって!」
「駄目だ」
「そのうち取りに来るから! 俺も落ち着いたら一人暮らししようと思ってるし!」
「知らない。今まで見逃してやっただけでもありがたいと思え」
 そう言うと俺は弟の視線を振り切り、ダイニングに面している弟の部屋のドアを開け放った。

 カーテンが締め切られたままの弟の部屋は、壁という壁を埋め尽くさん勢いでポスターが貼られている。もちろん弟が好きなアイドルのものだ。
 まあまあ可愛い彼女達が笑顔で凝視する室内には、専門書よりもCDとDVDの比率が高いラックがあり、写真集を傍らに数冊積み上げた万年床があり、表紙を彼女達が飾った時だけ購入される雑誌を積み上げた散らかり放題のデスクがあり――こんな環境下でよく勉学に励み、就職活動に勤しむことができたものだ。

 平面アイドル達の視線に晒されながら、俺は溜息をつくしかなかった。
「ぼちぼち片づけろ。お前のペースでやったら、年度末に間に合わないだろ」
 俺は弟を睨み、弟は必死になってこちらへ手を合わせてくる。
「だからさ、ちょっとだけ預かってってば。何ならCD聴いてていいから」
「聴かない。趣味じゃないんだよこういうの」
「めぐ兄ちゃんは趣味が狭すぎるよ。もっといろいろ聴けば?」
「仮に聴くとしても自分で買う。この部屋を倉庫代わりにするな」
 そこまで言うと弟もようやく、重い腰を上げる気になったようだ。
「はーい……」
 気のない返事が聞こえて、俺も覚悟を決めるに至った。
 園田を気兼ねなく部屋に呼ぶ為にも、今年のうちにすべきことがある。

 十一月が過ぎると、疎ましい師走の空気がやってきた。
 年末進行の間は園田ともなかなか会えなかったが、メールのやり取りなのでどうにか凌いだ。
 十二月と言えばクリスマスがあるが、社会人になってからというもの、まともにクリスマスを迎えたことはほとんどなかった。土日ならともかく平日、退勤後にパーティだ何だと浮かれる余裕はない。まして残業当たり前の忙しい時期なら尚更だ。
 ただ彼女持ちの状況で迎えるクリスマスには、独り身の時とはまた違った寂しさがあった。街を彩るイルミネーションを目にする度、浮かれたクリスマスソングを聴く度に、園田に会いたくて仕方がなくなった。
 忙しい時期に社内で彼女と顔を合わせることはほとんどなく、それがまた俺の寂しさに拍車をかけた。こういう時に秘密の付き合いでなければ堂々と顔を見に行くくらいはできたかもしれない。園田なら言えば時間を作ってくれそうな気もしたが、彼女もまた多忙だとわかっていたので、わがままを言うのはやめておいた。
 そんな葛藤を抱えながらも無事に仕事納めを迎え、年末年始の休みに入ると、俺は弟を連れて実家へ帰ることとなった。
 理由はもちろん、部屋をきれいにする為だ。

「めぐ兄ちゃんって彼女にはちゃんと優しくしてんの?」
 助手席に座る弟が、携帯ゲーム機を弄りながら呻いた。
「当たり前だろ、何だよいきなり」
 俺は車を走らせつつ、唐突な疑問に応じる。
「だって兄ちゃんって身内に冷たいじゃん。俺の大事なお宝をこんなにしてさ」
 弟が後部座席を振り返った。シートの上にはアイドルグッズをいっぱいに詰め込んだ段ボール箱がいくつも並んでいる。もちろんトランクにも積んであって、箱から突き出た丸めたポスターの束がミラーにちらちら映っていた。
 放っておけば翔はこれらの荷物を俺の部屋に置きっ放しにするだろう。そう踏んでの強硬手段だった。本当なら今年は帰省する予定なんてなかったが、いい機会だと実家に顔を出すついでに強制執行することにした。大学の卒業式まではこっちにいる予定だという弟は異を唱えてきたが、しかし『年度末までに片づける』という確約はできないとも言い張ったので、必要最低限のグッズを残して実家に送り届けることを最終的には同意させた。
「ちゃんと丁重に扱っただろ。こうして家まで運んでやってるし」
 車に乗り込んでからもぐちぐちうるさい弟に、俺も苛立って反論した。
「そもそも俺が借りた部屋で好き勝手しすぎなんだよ、お前は」
「俺だって一応家賃入れてたじゃん」
「ほとんど仕送りだろ。大きな顔するな」
 脳裏に過ぎるはこの問題のありすぎるルームメイトと過ごした年月だ。楽しかった、というにはあまりにもトラブルが多すぎた。身内と他人を比較するのもよくないだろうが、石田や霧島と同居した方がまだまともな生活を送れたのではないか。
「おまけに人の食料は勝手に食べるし、電気どころかテレビまで点けっ放しで寝るし、風呂の湯は無断で捨てるし――」
「ほら。兄ちゃん、身内には口も悪いし優しくない」
 そう言うと弟は再びゲームに戻り、熱心にボタンを連打しながら続けた。
「めぐ兄ちゃんの奥さんになる人って大変だよな。プライド高くて変なとこ真面目でさ」
「お前に言われたくないよ。アイドルオタクの嫁になるなんて気苦労しかない」
「俺は結婚とか興味ないし。彼女作る暇も金の余裕もないしさ」
「ただの見栄だろ、そんなの。お前こそプライド高いじゃないか」
 俺の指摘が図星だったのか、翔は年甲斐もなくぶんむくれた。思いきり顔を顰めて舌打ちをする。
「兄ちゃんの彼女さんの連絡先知ってたら、こっそりチクってやるのにな」
 仮に密告したところで園田が笑う以外の反応を返してくると思わないが、言わせておくことにした。
 翔はその後もしばらくぶつぶつ言っていたが、ふと、
「そういえばさ、めぐ兄ちゃん。彼女とはどこで出会ったの?」
「またいきなりな質問だな。何でそんなこと聞くんだ」
「だって兄ちゃん、仕事忙しいじゃん。いっつも残業だー飲み会だーって言ってるし」
「まあな。営業職なんてどこもそんなもんだよ」
 お蔭で十二月は園田とデートする暇がなかった。全く残念だ。

 彼女も今年の年越しは実家で過ごすそうだ。
 本来は予定がなかったそうだが、俺がやむを得ない事情で実家に帰らなければならないと言ったら、それならと彼女も今年は帰省するすることに決めたそうだ。お互い二日には帰ってくることになっていて、翌日の三日にでも会おうかと約束していた。その約束だけを励みに、俺は年末の慌しさを乗り切った。
 年が明けたら彼女の誕生日もある。
 こちらはプレゼントも用意したし準備万端、楽しく過ごせそうだ。何なら片づきつつある俺の部屋に招いてもいいかもしれない。もちろん、弟には席を外してもらってだ。

 胸算用を働かせる俺の隣で、弟はまた別の夢を膨らませている。
「めぐ兄ちゃんくらい忙しくても彼女できるんだったら、俺にもできそうじゃん」
「お前、さっきは興味ないって言ってたくせに……」
「ないっちゃないけど、ちょっとあるんだよ。どうやって作ったのか参考にさせてよ」
「参考って何だ。お前はまず仕事覚えることから始めろよ」
 春から社会人の人間が、社会人としての心得や仕事のノウハウをすっ飛ばしてまずそれを聞きたがるとは。弟の先行きが若干、心配になった。
 でもまあ、俺も園田との秘密の関係を続けてきたせいか、そろそろ第三者に惚気たい気分になってたのも事実だ。それでちょっとだけ、喋ってしまった。
「社内恋愛なんだよ、彼女とは」
 俺が打ち明けた途端、弟は手にしていたゲーム機を落っことしかけて、慌てて持ち直す。
 助手席から身を乗り出して言った。
「マジで!?」
「そんなに驚くことか?」
「驚くよ。めぐ兄ちゃんはそういうの面倒くさがる方だと思ってたし……へええ」
 弟はよほど驚いたのか、やや興奮気味に続けた。
「ってことは、ばれちゃいけない秘密の関係だったりすんの?」
「まあ……そうだな。うちの会社はそこまでうるさくないけど、人目は気にしてる」
 俺よりも園田の方が、過剰なくらい気にしている。こちらとしてはさっさと公にして、面倒事を減らしたいくらいなのに。
「どんな流れで付き合い出したの? 向こうから告られた?」
「ああ」
 この辺りは克明に語ろうとすると心苦しい。今振り返ると罪悪感と自分の愚かさ、園田の健気さに胸が痛くなる。
「やっぱそうか。兄ちゃんは昔からもてたもんな」
「そうでもないよ」
「心にもない謙遜しちゃって。で、今の彼女とは結婚しそう?」
「わからないけど、多分な」

 二十七にもなって、付き合う相手との結婚を考えないのも妙だ。
 特に園田とは、付き合い始めてから次々に家庭的な一面を見せられたのもあって――いや、そんなのは関係ないか。俺が彼女と過ごす時間を幸せだと思うあまり、もっと一緒にいたい気持ちになっている。彼女との将来を考え始めたきっかけはたったそれだけだった。
 でもたったそれだけの気持ちさえ、他人にはなかなか抱けるものじゃない。

「そっか。その人、俺のお義姉さんになるのか。楽しみだなあ」
 翔は暢気にそう言って、冷やかすように笑った。
「俺がこっちにいるうちに紹介してくれたりしない?」
「まだそういう段階じゃないからな。そのうち、機会があったらな」
「じゃあ写真だけでも見たい! 兄ちゃんなら持ってるっしょ?」
「あるよ。見せてもいいけど、汚すなよ。手洗ってからにしろ」
 俺は園田の写真を一枚だけ持っていた。森林公園で撮ったものを、彼女が後でプリントして俺にくれたのだ。写真立てにでも入れとこうかと思ったが弟に見つかるとうるさそうなので、手帳に挟んで隠し持っていた。
 弟が是非にと見たがったので、俺はサービスエリアに車を停め、弟に手を洗わせてから写真を取り出し、見せてやった。
「お、結構可愛いじゃん。年下?」
「よくわかるな、そうだよ」
「何か兄ちゃんより若い感じしたし。あとめっちゃ脚きれい」
「どこに目つけてんだお前。あんまり見るな」
 程々のところで写真を取り上げると、弟はけたけた声を立てて笑った。
「そのうち直に会わせてよ。未来のお義姉さんにさ」

 その後、無事実家に到着した俺と弟は、両親への挨拶もそこそこに持ってきた荷物を運び込んだ。
 夥しい量のお宝グッズを見た両親と弟の間にはひと悶着あったようだが、そこは俺の関与するところではない。
 上の兄貴一家とも会い、実家で年越しを過ごし、年が明けた二日にはまた弟を車に乗せて帰路を辿った。帰り着いた部屋に荷物が少ないことを弟は寂しがっていたが、俺としては清々した、とても晴れやかな気分だった。

 三日には園田と会った。
「あけましておめでとう、安井さん!」
 車でアパートまで迎えに行くと、園田は明るい笑顔で駆け寄ってきてくれた。
「あけましておめでとう。今年もよろしくな」
「うん、よろしく」
 いそいそと助手席に乗り込んできた彼女が、恥ずかしそうに言い添える。
「先月は全然会えなかったから、久々に会えて嬉しいな」
「俺もだよ。ずっと会いたかった」
 前回のデートから、一ヶ月と少しの間が空いていた。それだけの期間を『久々』と言いたくなるほど、俺達はお互いに夢中だった。
「年も明けたし、今月中は少しゆっくりできそうだ」
 俺は彼女にそう告げた。来月からまた決算だの年度末に備えてだのといろいろあるが、この一月だけは彼女優先で過ごしたいと思っていた。
「誕生日もあるしな。当日は仕事だけど、その後の週末はまるまる空いてる」
 一月十日で、園田は二十五歳になる。
 俺がしてもらったように、彼女の誕生日も心を込めて祝えたらと思っていた。
「ありがとう、安井さん。楽しみにしてるね」
 園田はそう言って、柔らかくはにかんでいた。

 しかし、正月休みが明けて出社した俺を、予想外の出来事が待ち受けていた。
 人事異動の内示だ。
 告げられた異動先は総務部人事課――今まで勤めてきた営業課とはまるで畑違いの部署だった。
 正直な話、最初に話を聞かされた時は愕然とするばかりで、何も考えられなかった。
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