Tiny garden

いとしいとしというこころ(6)

 いかに惜しく思おうと、時間は容赦なく過ぎていく。
 晴れて披露宴もお開きの時を迎え、俺と伊都は来てくださった皆様のお見送りをした。会場の外に立ち、帰っていく出席者一人一人に感謝を伝えた。

「今日はお招きいただきありがとう」
 奥様とお二人でお越しいただいた小野口課長は、俺達にお礼を言ってくれた。
「いえ、こちらこそ来ていただけて嬉しかったです。ありがとうございました!」
 伊都が慌てて頭を下げ返し、俺も同じように続くと、小野口課長はそこで穏やかに笑った。
「それにしても一分四十七秒だって? 息、苦しくなかったかい?」
「えっ、あ、あの」
 上司からの思わぬ言葉に、伊都が言葉を詰まらせる。
「もしかしたら社内新記録かもしれないな……僕らの時はどうだったか、覚えてる?」
「覚えてません」
 小野口課長の奥様は、恥ずかしそうに笑いながら夫の肩を叩いた。
 残念ながらお二人の結婚式は俺や伊都の入社前の話であり、どんな結婚式だったか、誓いのキスのタイムはいかほどだったかという点は確かめようもない。俺達が社内レコードを築いてしまったかどうかも定かではない。
「あ、あれは違うんです。私はそんなに長くしてた気がしてませんし!」
 伊都が激しくうろたえながら弁解を始める。
「ね、巡くん。そんなに長かった感じしなかったよね? ね?」
「まあ、そうだな。一分くらいかと思ってた」
「霧島さんと石田さんが悪戯で、ちょっとタイム盛ったんじゃないかな?」
 どうだろうな。あの二人ならやりかねないという気もするが、しかしあの二人が盛るならもっと際限ない数字にするのではないだろうか。一分四十七秒フラットという数字には奇妙な説得力が存在していた。
 ともあれ花嫁が疑念を抱いたところで、
「あ、疑われてますよ先輩。どうします?」
「しょうがねえな。霧島、証拠見したれよ」
 小野口課長の後から出てきた霧島と石田が、にやにやしながら近寄ってきた。
「はい、伊都さん。これが証拠の数字です」
 霧島はスーツのポケットから再びストップウォッチを取り出し、わざわざ俺達の方に向けてみせた。何の変哲もないストップウォッチの文字盤は、確かに一分四十七秒フラットで針が止まっていた。
「そもそもなんでストップウォッチ持ってきてるんだよ」
「結婚式には腕時計をしないものですから」
 俺のツッコミには全く見当外れな答えが返ってきた。このふてぶてしさ、まさに上司譲りだ。
「どれどれ……本当だ、一分四十七秒だね」
 小野口課長まで覗き込んできては腑に落ちたように頷いている。
「でしょう? でもお二人とも納得してくださらないんですよ」
 俺はともかく、確かに伊都はちっとも納得していない。今もすぐさま霧島へ疑いの目を向けていた。
「始まる前にちょっと進めといたりしてません?」
「してませんよ、証人もいます」
 霧島は隣に立つ夫人を手で指し示し、霧島夫人もくすっと笑った。
「誤魔化したりしてないって私が証明します」
「そ、そうなの? でもなあ……そんなに長かった気しないんだけど……」
 尚も伊都は釈然としていない様子だ。この分だと誰がどれほど証明したところで信じがたいのかもしれない。俺はそろそろ、認めるしかないかという気になってきたのだが。
「何だよお前ら、二分近くもやってたって自覚ねえのか?」
 石田がからかうような口調で言うと、伊都は唇を尖らせた。
「ないよ。巡くんだってそこまでじゃないって言ってたし」
「ってことはだ。時間が短く感じちゃうくらい『よかった』ってことだろ」
 その石田の指摘は恐らく事実だろうし、そして効果てきめんだった。
 次の瞬間、伊都は耳まで真っ赤になり、口をぱくぱくさせながら、
「わ……ちょ、石田さん何言って……わあああもう!」
 最後には言葉にならない声を上げて俺にしがみついてきた。俺の肩に顔をうずめて恥ずかしがっている。
 俺は笑いながらそれを受け止めつつ、石田に釘を刺しておく。
「うちの妻をあんまりからかわないでくれ。この通り恥ずかしがり屋なんだ」
「あんだけ長々やっといてか。つくづく面白いな、お前の嫁さん」
 石田も声を立てて笑った後、隣でもじもじしている自分の奥さんに声をかける。
「な、藍子も見ただろ。安井夫妻の一分四十七秒」
「み、見てないですっ!」
 どういうわけか――と言うよりむしろ案の定、石田夫人も真っ赤になって慌てふためいた。
「見てなかったのか? すごかったんだぜ、もう真正面から噛みつくようにがばっと」
 石田が大きく腕を広げ、ジェスチャーつきで説明しようとすると、夫人はぶんぶんとかぶりを振った。
「い、いいです! すごかったのは何となく雰囲気でわかったので!」
「そんなにすごくはなかったよ!」
 こちらはうちの伊都だ。俺の腕にしがみついたまま、弁解は諦めていないようだった。
 すると石田夫人も、俺達に向かって一層もじもじしながら言った。
「あの私、お二人のことお祝いしようという気持ちはあったんですけど、まるで覗き見してるみたいな気分になって申し訳ない気もして、それでずっと手で顔を覆ってたんです。でも終わったかなって思って手をどけたら、まだされてて、今度こそ終わったかなって思ったらまだで、そういうのが五回くらい続いたので……」
「一分四十七秒は間違いないってこと?」
 俺が聞き返すと、彼女は真面目に頷いた。
「はい。あ、あの、見てはいませんけど!」
「わあ……藍子ちゃんにとどめ刺された……」
 ここで、どうやら伊都も事実を受け入れる気になったようだ。がっくりと項垂れた。
 これはしばらく社内でも言われそうだ。俺は別に、むしろ自慢し返してやるつもりでいるが、伊都はどうかな。上司も先輩も居合わせたわけだし、しばらくからかわれては真っ赤になっていることだろう。
 いいな、広報課までその様子を見に行きたい。
「写真もばっちり撮れてるぜ、今度じっくり見せてやるよ」
 石田は去り際に、自慢のカメラを掲げてみせた。
「何せ一分四十七秒もあったからな。いい画が撮り放題だった」
「そうだろ。カメラマンへのサービスでもあったんだ」
 俺がうそぶくと石田もにやりとして、 
「もちろんプリントしてやるから心配すんな。半切で額縁に入れてやろうか?」
「サービスいいな。じゃあお前と霧島の家に配る分もくれよ」
「冗談言うな。俺ん家に飾ったら、うちの可愛い藍子ちゃんが毎日眩暈起こすだろ」
 違いない。この会話の間にも、石田夫人と伊都は一緒にもじもじしていた。
「うちはいただいたら飾りますよね、映さん」
 霧島夫人は意外にも平然としていて、むしろ隣の旦那をうろたえさせていた。
「伊都さんはともかく、毎日安井先輩の写真見ながら暮らすのはちょっと……」
 理由がそれかよ。確かに俺も、家に霧島や石田の写真なんて飾っておきたくはないが。
 そんなものなくても、顔くらいしょっちゅう見てる。
「じゃあまたな、写真のお披露目ついでに今度集まろうぜ」
「今日はお招きいただきありがとうございました! とってもいいお式でした!」
 石田と石田夫人は、二人揃って手を振りながら帰っていき、
「先輩、本当におめでとうございました。今度また惚気話を聞かせてください」
「また六人でゆっくり集まりたいですね」
 霧島は霧島夫人を労わりながら、仲睦まじく帰っていった。
 他の出席者も会場を後にして、やがて会場は空になる。皆の後ろ姿を見送りつつ、俺はいつだったか、石田が結婚式を『祭り』と例えてみせたことを不意に思い出す。
 これで、祭りも終わりだ。
 少し寂しいようで、だが安堵してもいて、そしてとても幸せだった。
 伊都が俺の隣にいて、俺の腕を取り、俺に笑いかけてくれているからだ。
「楽しいお祭りだったね、巡くん」
 彼女も同じことを思い出していたようだ。いつもの笑顔が、そう言った。

 結婚式の後は、会場のホテルにそのまま泊まることになっていた。
 しかもスイートルームだ。普通に予約を取れば一泊十万円はするそうで、庶民の俺達にはおいそれと泊まれる部屋ではないが、結婚式を挙げると泊まらせていただける。俺達も話の種にと泊まってみることにした。
 八十平方メートルのスイートルームは、リビング、ベッドルーム、バスルームからなり、どこも高級感溢れる調度で統一されていた。リビングは完全に独立した一部屋で、やたらモダンなデザインのソファやテーブル、各種AV機器まで完備されている。ベッドルームは広々としたキングサイズ、バスルームは大理石造りの展望風呂という贅を尽くした仕様となっている。
 しかしながら俺達は庶民なので、
「こんだけ広いと、ぶっちゃけ持て余すよね……」
「何していいのかわからないよな」
 リビングのソファに並んで座って、ウェルカムドリンクを傾ける俺達は、部屋の広さに完全に飲まれていた。
 これが二泊三泊とのんびりできる旅行ならまだしも、たった一泊ではスイートを心ゆくまで堪能できるはずもない。持て余すのも致し方あるまい。
 何より、大きな祭りを終えてきた後だ。
 初めてのスイートではしゃぎ回るには、俺達は少々くたびれていた。
「今日は朝から忙しかったし、少しのんびりしようよ」
 伊都からの提案で、軽く入浴だけ済ませた後はさっさとベッドへ引っ込むことにした。
 そのベッドも二人には広すぎるくらいのキングサイズだ。俺達はその広さすら持て余し、結局真ん中でぴったりくっついて横になっている。
 俺に腕枕をされた伊都の姿が、ベッドサイドランプからのオレンジの光に照らされている。化粧は落としてしまったし、妖精さんのようなあのドレスも脱いで、ホテル備え付けのナイトガウンを着ている。胸元がゆるりとたわんでいてどうしてもそこに目が行きがちだが、今の表情もとてもいい。半ばまどろむような目で、でもひたむきに俺を見つめている。
「伊都、眠いだろ?」
 尋ねてみると、彼女はふっと表情を和らげた。
「結構疲れたかも。巡くんは眠くないの?」
「俺も疲れたけど、寝るのがもったいない気もしてさ」
 スイートルームのベッドはビジホのベッドとは格が違う。さすがに寝心地がよくて、目さえつむればすんなりと眠りに落ちてしまえそうだった。
 だが今日は楽しすぎて、幸せすぎて、このまま終わらせてしまうのが惜しいようにも思えてならない。
 ベッドルームは静かだ。伊都と二人きりなのだから当然だろう。それでも俺の耳には祭りのような披露宴の賑わいがまだ残っていて、胸がときめくのを覚えた。
 今日は、いい日だった。
「実は私も」
 伊都が小声で囁いてくる。
「まだ興奮してるのかな……疲れてるのに、眠れる気がしないの」
「わかるよ、俺もだ」
 興奮と言うべきか、感慨と言うべきか、とにかく今日の結婚式では目まぐるしく感情を揺り動かされた。俺は今日一日で伊都について、改めて深く想い、これまで出会ってきた人達のことも随分たくさん考えた。まだたったの三十二年だが、俺の人生というものをちらりと振り返ってもみた。
 いつからか伊都と共に歩むようになった人生の、一つの節目が今日だった。
 いい日だった。
「子守歌でも歌おうか」
 俺が冗談半分で提案すると、途端に伊都の奥二重の瞳が輝く。
「いいの?」
「構わないけど、本当に聴きたいのか?」
「うん。私、巡くんの歌好きだよ」
 伊都は枕にしている俺の腕を自分の手のひらで撫でてきた。柔らかくて気持ちのいい手は、今は少し温かい。やはり眠たいのだろう。
「それに、結婚式と言えば巡くんの歌だよね」
 そう言うと、彼女は面白いことに気づいたというように目を瞬かせる。
「あ、私、巡くんの歌を聴かない結婚式って久々かも」
「ずっと歌ってきたからな」
 霧島の結婚式も、石田の結婚式でも、あるいはそれ以前にあった社内婚での結婚式でも、俺はよく余興を任されてきた。
 ようやく迎えた自分の式に歌がないのは、寂しいかもしれない。
「それなら、花嫁さんだけの特別サービスだ」
 俺は彼女に囁き返す。
「何がいい? 何でも、リクエストにお応えするよ」
 すると伊都は数秒間だけ考えて、
「じゃあ、あの曲がいい。石田さんの結婚式で歌った曲」
「"Can't Help Falling In Love"か?」
「そう、それ」
「いいけど、どうしてこれなんだ」
 彼女の好きな曲だっただろうか。不思議に思いながら聞き返すと、彼女は急にはにかんだ。
「あのね……」
 ほんの少しためらったのも、恥ずかしさのせいだろうか。
「今日、チャペルの式の前に、ベールダウンってしたじゃない?」
「ああ」
 花嫁の母親の務めだ。
 あの時、伊都と伊都のお母さんの間にどんなやり取りがあったか、俺は知らない。
「私ね、あの時、ちょっと泣きそうになっちゃったんだ」
 だが伊都がそう言ったように、控え室を出てきた彼女がその直後、どこか神妙な顔をしていたのを見ていた。
「お母さんが先に泣いちゃうから、私もつい感傷的になっちゃって……もういい大人だし、家出てから十年にもなるのにね」
 伊都の声は打ち明け話のように静かで、優しかった。
 俺は男だから、どうしても『嫁入り』の心境はわからない。婿入りでもすればわかるのかもしれないが、そういえば婿入りで泣く男、そして親という構図はあまり聞かないように思う。娘とその親の間には、息子の場合とは違う感傷が生まれるものだろうか。
「でもね、控え室を出て、巡くんの顔を見た時――」
 伊都はそこで表情をほころばせた。
「寂しさとか、切ない気持ちとか、もう一気に全部吹っ飛んじゃったんだ」
 そういえばあの時、外で待っていた俺に気づいた伊都は、いつものようにあっけらかんと笑ってくれた。
 何もかもが吹き飛ぶような、明るい全開の笑顔だった。
「私、ずっと好きだった人と結婚したんだ、って思って」
 今の伊都もあの瞬間と同じ顔をしている。
 憂いも不安も寂しさも切なさもなく、ただ明るく笑っている。
「すごいと思わない? 私、十年前に好きだった人と結婚したんだよ!」
 ベッドの中で屈託なく、笑いながら語る。
「あの頃の私に教えてあげたいな。片想いしてるその人と、十年後には結婚できるんだよって」
 その言葉に胸が、甘く、切なく傷んだ。

 そうしたら、あの頃の伊都は喜ぶだろうか。そもそも、信じてくれるだろうか。
 彼女のことだ。きっと今みたいに屈託なく、可愛らしく喜んで、本気で信じてくれることだろう。
 同じことを十年前の俺に告げたら――きっと信じないだろうし、まさか園田と、なんて罰当たりにも笑い飛ばすに違いない。
 だがその数年後、失恋の痛手に苦しむ俺に告げたらどうだっただろう。
 お前は一人じゃない。辛い時は見栄なんて張らずに弱音を吐けばいいし、助けを求めてみれば必ず手を差し伸べてくれる人がいる。もっと形振り構わず追い駆けてみせれば彼女だって少しは聞く耳を持ってくれたかもしれない。そして彼女のメールアドレスは、別れた時からずっと変わらないままだ――なんて、どうやったって伝えようもないのだが。
 過去は過去だ、変えることなどできないし、そこにどんな傷があろうと忘れ去るまでは共に歩むしかない。

 だから俺は、伊都をぎゅっと抱き締める。
「わっ……急にどうしたの、巡くん」
 嗅ぎ慣れないシャンプーの香りがする伊都を、腕の中に取り込んで、離れないようにする。
 過去がどうであれ、俺達の辿ってきた道がどうであれ、十年間の答えが今日、ここにある。
 伊都も、俺も、過ごしてきた年月は違えど長きにわたる恋を実らせた。"Can't Help Falling In Love"――あの歌の通り、十年前にはあり得ないと思っていた恋が、突然すとんと落ちてきて、今は当たり前になっている。
 好きにならずにいられない。
 愛さずにはいられない。
 その歌の通りに、俺は今日も伊都に恋をして、そして彼女を愛している。
「ありがとう、伊都」
 俺は彼女の長い髪を撫でながら、胸のうちにある感謝を告げた。
「俺を好きになってくれて……俺を、愛してくれて」
 彼女の髪は昔から変わらず、柔らかくてさらさらで、撫でると指に心地よい。くしゃくしゃと掻き混ぜるようにしながら撫で続けると、彼女はくすぐったそうに俺の胸に頬を寄せる。
「そんなの、私の方こそだよ。ありがとう、巡くん」
 くぐもって聞こえる彼女の声が、俺の胸に温かく染み込んでくる。
「これからもずっと一緒にいようね」
「当たり前だろ。二度と離さない」
「うん……私も。絶対離さない」
 伊都が俺を抱き締め返してくる。体温はやはり高く、柔らかい身体から伝わってくるのが心地いい。
 だから俺は約束通り、彼女に子守唄を聴かせてあげた。
 曲目はもちろん、あの歌だ。"Can't Help Falling In Love"――いとおしい彼女にありったけの恋心と愛情を込めて、その髪を撫でながら、耳元でそっと歌ってあげた。

 一曲を全て歌い終えるまでに、伊都は瞼をゆっくりつむり、静かな寝息を立て始めた。
 しばらく待ってから、俺は腕を伸ばしてベッドサイドの明かりを落とす。
 キングサイズのベッドを半分の面積も使わずに、俺は伊都を抱き締めたまま同じように目をつむる。
 今日はいい日だった。
 明日も、いとおしい彼女と共に、同じくいい日でありますように。
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