Tiny garden

いとしいとしというこころ(3)

 花嫁のベールを上げるのは、花婿の務めだ。
 ではベールを下げるのは誰の務めか。ウェディングドレスをまとったばかりの伊都はその可愛い顔を晒していたし、ベールは確かに上がっていた。これから式を挙げるに当たり、そのベールは誰の手によって下げられるのだろう。
 俺もこうして式を挙げるまでは知らなかったが――花嫁の母の務めらしい。
「私も三十だし、そういうこそばゆいのはどうかなあ」
 ベールダウンと呼ばれるその儀式を初めて聞かされた時、伊都はそう言って照れていた。
「親元離れて結構経つし、子供じゃないんだしさ。要らなくない?」
 いっそ俺に下ろしてもらってもいい、とまで一度は言っていたほどだった。自分で下ろしたベールをすぐにまた上げるというのも滑稽だが、俺は伊都の好きにさせようと思っていた。結局、伊都のお母さんから是非にという申し出があり、ベールダウンの儀式をすることになったそうだ。
 その現場に、俺はもちろん居合わせなかった。
 だから花嫁の控え室にて、伊都とご両親の間にどんなやり取りがあったかはわからない。
 ベールダウンを済ませて控え室を出てきた時、伊都のお母さんはうっすら涙ぐんでいて、お姉さんがその背中をそっとさすっていた。そして伊都はベールを下ろし、ほんの少しだけ神妙な面持ちをしていた。ドレスと同じオーガンジーのベール越しに、睫毛を伏せて物思いに耽る表情が一瞬だけ見えた。
 控え室の外で待っていた俺に気づくと、すぐに笑顔を見せていたが。
「巡くん、お待たせ」
 俺と目が合った途端、伊都の顔にはいつものあっけらかんとした全開の笑みが浮かんだ。
 朗らかな彼女も、結婚式の直前、両親との挨拶では感傷的になるかもしれないと思っていた。もしかしたら、泣いたりするのではないか、とも。だからベール越しにいつもの笑顔を向けられて、俺の方が驚かされた。
「待ってたよ」
 俺も頷き、伊都の手を取る。
 彼女は既に手袋を填めていた。繊細な模様を描くレースのグローブは、彼女の手の甲から肘までを美しい刺繍で覆っている。指先は剥き出しのフィンガーレスタイプだったが、これでも指輪の交換の際には外さなければならない。
 小さな手を軽く握ると、伊都も柔らかく握り返してきた。
「さすがにちょっと緊張するね」
 その言葉が示す通り、彼女の手が冷たいことは手袋越しにもわかった。
「俺はむしろ楽しみだよ」
「さすが、巡くんは大舞台に強いね……何なら讃美歌ソロで歌う?」
「そんな結婚式は聞いたことないな」
 俺の方はあまり緊張していない。ただ、離れがたい。式の間は少しだけ、伊都と離れていなければならないことが寂しい。
 だがそろそろ時間だ。
「また後でな、伊都」
「うん。後でね、巡くん」
 俺は彼女の手を離し、その手を伊都は小さく振ってきた。
 もうじき、結婚式が始まる。

 チャペルには、花婿の方が先に入る決まりだ。
 荘厳なパイプオルガンの音が流れるチャペル内は、ステンドグラスから差し込む柔らかい光と、揺れるキャンドルの温かい炎で照らされていた。祭壇前まで来ておいて花婿がきょろきょろしていてはみっともないから、俺は一度だけ参列席を見回した。
 参列席は右手が新郎側、左手が新婦側の席と決まっている。右手最前列には俺の両親と兄貴、兄貴の嫁さんと甥っ子がいる。そのすぐ後ろの席には翔と姪っ子を抱いた奥さんがいる。
 親族より後ろの席には石田夫妻と霧島夫妻の顔があった。石田は早くもカメラを構えていて、一瞬目が合うとにやりとされたような気がした。藍子ちゃんは自分の式みたいにがちがちに緊張しているのがここからでもわかった。霧島は姿勢よく席に腰かけて、隣に座る霧島夫人を気遣うように見つめている。夫人はパイプオルガンの音に耳を傾けているようだった。
 左手最前列には伊都のお母さん、お姉さん一家の姿が見えた。お母さんはもう泣いてはおらず、ただじっとこちらを見つめている。後ろの方には小野口課長夫妻や東間さんがいる。小野口課長はいつものように穏やかに微笑み、東間さんは顔を上げ、ステンドグラスの意匠にでも見入っているようだった。
 そんな一同も、チャペルの扉が開くと一斉にそちらを振り返る。
 オーガンジーのドレスをまとった伊都が、お父さんと共に現れた。右手をお父さんに取ってもらい、左手にはラナンキュラスのラウンドブーケを持っている。甘いオレンジのラナンキュラスは、確かに俺のネクタイと同じ色をしていた。
 ベールを下ろした彼女は、伏し目がちにしながらゆっくりとウェディングロードを進む。身体に沿うスレンダーラインのドレスは、伊都の美しい脚の動きをより引き立たせて見せていた。長いトレーンを波打たせ、ベールを微かに揺らして歩いてくる彼女は、この世で最も美しい存在に見えた。
 それにしても、ウェディングロードはこんなにも長いものだろうか。
 さして広くは見えないチャペルで、お父さんと並んで近づいてくる伊都が待ち遠しくて仕方がなかった。これまで長い長い待ち時間を幾度も過ごしてきた俺だが、今以上にじれったい気持ちになることはなかったかもしれない。伊都のあの小さな手をお父さんから託され、お母さんによって下ろされたベールを俺の手で上げる時が来るのを恋い焦がれるように待っていた。
 そして、どんな時間にも必ず終わりがある。
 俺の待ち時間もやがて終わる。伊都は祭壇前まで辿り着き、俺は深いお辞儀で彼女のお父さんへ感謝を表す。お父さんは同じようにお辞儀を返すと、組んでいた手を解き、代わりに伊都の背を押すように添えた。俺も伊都を預かり受けるように進み出て、父親の元を離れた彼女の手を取る。
 伊都も俺の腕に手を絡め、真っ直ぐに俺を見上げた。すぐ隣に立つ俺を、いとおしげに、感慨深げに見つめてきた。
 俺にとってもすぐ隣から見る花嫁は、遠く離れて見ているよりも一層美しく、いとおしい。
 それなら俺もこの美しさに恥じぬ花婿であらねばならない。そう思い、できる限り胸を張った。

 結婚式自体はそれほど長いものではなく、式次第も簡潔だった。
 讃美歌312番の斉唱の後は、牧師による聖書の朗読、結婚の誓約へとつつがなく進んだ。
 お互いに声に出して結婚を誓い合った後は、いよいよ指輪の交換だ。伊都は右手で左手の手袋をするりと外すと、ブーケと共にそれを介添え人に手渡した。そして右手を左手に添えるようにして、俺の方へ差し出してきた。
 素手となった彼女の左手を、俺も左手でそっと取る。
 彼女の手はやはりひんやりと冷たく、いつも自転車のハンドルを握る時は小さくなんて見えないのに、俺の手の中にある時だけはとても小さく映る。この日の為に用意した結婚指輪を左手の薬指に通し、付け根まですっと差し込めば、彼女の手には新しい指輪がきらりと輝いた。伊都がそれを見て、ベールの内側で幸せそうに微笑むのが見えた。
 同じように伊都も左手で俺の手を取る。俺よりも冷たく、小さな手は、それでも震えることなく俺の手を支えている。彼女は右手の指先に指輪を持ち、まだベールの下りた顔を上げ、一瞬だけ俺を見てから俺の左手の薬指に指輪を通した。サイズを合わせた時以来ずっとしていなかった新品の指輪は、冷たくもなく温かくもなく、思いのほかなめらかに指に馴染んだ。まるでそこにあるのが当たり前だというように――錯覚かもしれないが、そう思った。
 俺達の間に結婚の証が増えていく。
 初めは約束だけがあった。結婚しよう、そう告げてから一年以上が過ぎていた。同じ部屋で暮らすようになり、互いの実家へ挨拶に行き、結婚式の準備を二人で進め――遂に入籍したのが今年の一月のことだ。
 名実共に夫婦となった俺達は、今日、大勢の親しい人達の前で結婚の誓いを立てた。指輪の交換もして、今まではすることもなかった指輪を左手に填めている。いくつもの結婚の証が俺達の間にはあり、それが一つ増えるごとに無上の喜びを覚えた。
 俺は手に入れたくてやまなかったものを、何年間も恋い焦がれた人を手に入れた。
 そして、ベールの上がる時が来る。
 それは花婿の務めだ。花嫁との間に隔てるものが何もないことを、俺の手で確かめなくてはならない。
 実は今日が来るまでに、何度か伊都と練習をしていた。ベールなんて家にはなかったからタオルを被って、どうすればきれいにベールが上げられるか何度も試した。その時はいつもお互い笑ってしまって、厳かさなんてかけらもない練習風景だった。
 だが今日は、お互いに笑い出したりしなかった。
 俺は花嫁に一歩進み出て近づき、伊都の顔を覆うベールの裾を両手で持った。それを衣擦れの音と共にゆっくりと上げていくと、花嫁も呼吸を合わせるように腰を落とす。微かに俯く伊都の長い睫毛と奥二重の瞼を、ベールの透き通った影が通り過ぎていき、代わりに柔らかな光が落ちてくる。俺はベールを彼女の頭上まで上げると、更にゆっくりと後ろへ下ろしていく。ベールが背中まで下りた時、伊都が視線を上げて俺を見て、目が合ったのを合図に姿勢を正した。
 遮るものがなくなり、改めて間近で見つめる花嫁は、やはり何よりも美しかった。
 こうして見つめ合ったことが、今日までに何度あっただろう。決して順風満帆ではなかった。彼女の眼差しに遠い距離を感じたことも、言い表せぬほどの後悔を覚えたことも確かにあった。
 そういうものを全て乗り越えて、俺達は今ここにいる。
 花婿と花嫁として、幸福な気持ちでここにいる。
 俺は伊都の肘に手を添えた。これも事前に練習していた、誓いのキスの合図だ。
 彼女には顔を上げるだけでいいと言っておいた。いつものようにリードするのは俺でいい。その方が慣れているだろと言ったら真っ赤になって睨まれたのを覚えている。
 でも、いつだってそうだった。いつも俺からだ。
 これまでに何度、彼女と唇を重ねてきただろう。挨拶代わりのキスも、情熱を伴うキスも、いとおしさを表す為のキスも――どれも何度繰り返してきたかわからないほどだった。そしてその度に幸せを噛み締めた。
 きっと、今日のキスも幸せなものになる。
 そして忘れがたいものにもなるだろう。

 練習通りのタイミングで、伊都が顔を上げる。
 ピーチオレンジの唇は果実のようにつややかで、緊張しているのか微かに開いていた。
 俺は彼女に顔を近づけ、唇が触れ合う直前で、花嫁の方が先に目をつむる。
 花嫁として美しく着飾った彼女の、キスを待つその表情をちゃんと目に焼きつけてから――俺は、ピーチオレンジの唇を柔らかく塞いだ。
 両親やきょうだい、職場の同期や先輩や後輩、あるいは部下や上司の前でする誓いのキスは、一体どんな味がするのだろう。俺はずっと前から、それを確かめたくて仕方がなかった。伊都は『二秒だけ』という制約を設けたが、たったの二秒だけでその味がわかるはずもない。
 だから、もう少しだけ長く味わいたい。

 キスの瞬間から、チャペル内にはどよめきと歓声のような声が上がった。
 フラッシュを焚かれた光、シャッターを切る音、どれも目をつむっていてもわかる。俺がキスを味わううち、場内のどよめきが次第に大きくなっていくのもわかる。
 伊都は、約束の二秒を過ぎても何も言わなかった。
 俺から離れようとも、唇を離そうともしなかった。
 長い付き合いだ。俺が二秒くらいでは足りないということも、ちゃんとわかっていたのかもしれない。
 それならそれでと、俺も心ゆくまで誓いのキスの時間を楽しんだ。

「約束が違うなあ……どういうことかな、巡くん」
 結婚式を無事に終え、二人でチャペルを退場した後、伊都が俺に囁いた。
「あれ、二秒じゃなかったか?」
 俺がとぼけると笑いを堪えるような顔で睨まれる。
「軽く一分間はしてたよ」
「そんなもんか。もっといけたんだけどな、惜しいな」
「惜しくない惜しくない! 絶対、石田さんとか時間測ってたと思う」
「かもな。あとで言われるぞ、きっと」
 石田はシャッターを切りながら秒数数えてそうだし、霧島は時計を見ながらきっちり測っていそうだと思う。石田夫人は恥ずかしそうに俯いているか何かでろくに見ていなかっただろうし、霧島夫人は案外、平然と見ていたのではないかという気がする。
 あとは、弟や兄貴がうるさいかもな。散々突っ込まれるだろうことは今から覚悟しておこう。
「カメラマンへのサービスだよ。きっといい写真が撮れた」
 俺の言葉に、伊都は恥ずかしそうに頬を染める。
「私、その写真見れるかな……」
 しかし、どうも満更でもなさそうだ。もっと拗ねられることも覚悟していたから、彼女の反応の柔らかさに俺は口元を緩ませる。
「巡くん、何をにやにやしてるの」
 伊都は咎めるように言ってきたが、彼女の唇もほころんでいる。怒り顔を嘘でも作れない気分、ということだろう。俺だってそうだ。
「結婚式も無事終わって、幸せだな」
 俺は感慨に耽ろうとした。
 が、伊都はタキシードの袖を引っ張ってそれを制した。
「しみじみするのは早いよ、次は披露宴なんだから」
 そうだった。誓いのキスの余韻に浸っている暇はない。どうせあとで石田や霧島に冷やかされるだろうし、その時に写真も見せてもらおう。
「次はいよいよ、俺の妖精さんを見られるわけだな」
 そう言ったら伊都は小さく吹き出して、
「巡くん、遂に自分でネタにし始めたね」
「あれだけ散々言われたらさすがにな。嘘ではないし」
「そこまで言ってもらえる私、幸せだなあ」
 花嫁が満ち足りたように溜息をつく。
 俺も同じ思いで、ひとまずは大きく深呼吸をした。
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