Tiny garden

いとしいとしというこころ(2)

 ドレスルームにて、着替えを済ませた花嫁が俺を待っていた。
「巡くん、お待たせ」
 椅子に腰かけて微笑む伊都は、ドレスを着ただけではなくメイクも済ませている。
 俺は傍まで寄り、まずその顔を覗き込んだ。
「そのメイク、いいな。健康的な色気がある」
 彼女の化粧は思いのほか控えめだった。肌の色は白く塗ったというふうではなく、ごくうっすらとだけ白粉をはたいただけのように見える。眉もふんわりとした自然な仕上がりだし、睫毛もくるりとカールされてはいるが彼女らしい自然な分量で、一見して普段通りのナチュラルメイクのようだった。
 もちろん要所では色を使っている。頬にはほんのりと湯上がり肌のようなオレンジのチーク、唇は果物みたいに瑞々しいピーチオレンジだ。思っていたよりも可愛く、そして色気のある花嫁さんになっていた。
「ありがとう。私にはこんな感じの方がいいかなって」
 伊都は俺の誉め言葉に目を細める。
 その瞳が潤んでいるように見えるのも、メイクのせいだろうか。
「てっきり、もっと思いっきり濃くするのかと思ってた」
「お人形さんみたいにしてもいいかなって私も思ったんだけどね」
 花嫁さんの化粧と言えば俺にはそういうイメージがあって、いつもはナチュラルメイクの伊都も今日ばかりはビスクドールのように装うのかと思っていた。
 だがこちらの方が確かに彼女らしい。
「あと、ドレスも可愛くしたから。あんまり大人っぽくすると合わないでしょ?」
 彼女がドレスについて触れたので、俺はもっとよく見せてもらおうと伊都に手を差し伸べる。
「せっかくだから立って、全身を見せてくれ」
 それで伊都は俺の手を取り、衣擦れの美しい音を鳴らしながらゆっくりと立ち上がる。
 チャペル式用に選んだドレスは淡いベージュのオーガンジーでできていた。胸元はシンプルなビスチェタイプだが、スカート部分は薄いオーガンジーの生地を幾重にも重ねていて、柔らかな透け感がまるで羽衣をまとったように美しい。背中は深く開いていて、ウェストから伸びた長い引き裾は柔らかなドレープを描いており、水が流れ落ちるカスケードのようにきれいだ。伊都の脚のラインの美麗さを引き立てるスレンダーラインは、彼女を愛らしくも上品な花嫁に見せていた。
 今日の為に伸ばした髪は可愛らしくシニヨンにまとめていて、シルクでできた白い花を飾っている。更にそこから透き通った長いベールを垂らしていて、白くなめらかな首筋やほっそりした肩、そして大きく開いた背中を霞のように覆い隠していた。
「……きれいだ」
 俺は彼女の小さな手を握り、もう片方の手で背中に手を回した。素肌の背中に手のひらで触れると、手の甲にはベールのさらりとした感触があった。
 そのまま軽く抱き寄せようとすると、伊都は俺の胸に手を置いてそれを制する。
「駄目だよ、口紅が落ちちゃう」
「まだ何をするとも言ってないのに」
「わかります。長い付き合いだもん」
 今日も、伊都の笑顔が眩しい。
「ね、皆はもう来てる?」
「ああ。伊都のご両親もお義姉さんも、俺の身内も全員来てる」
「そっか、じゃあ挨拶に行かないとね」
 彼女はそう言ったし、それは事実でもあったのだが、俺はまだ離れがたい思いで彼女の手を握り締めていた。抱き締めたいくらい美しく愛らしい俺の花嫁――もうしばらく独り占めしていたい、などと考えてしまう。
「離したくないな……」
 思わず呟くと、伊都にはおかしそうに笑われた。
「もう結婚してるよ。離すも何も、夫婦なんだよ私達」
「そうじゃない、一分一秒も離れていたくないんだよ」
 この美しい花嫁と、もはや片時も離れていたくはない。これから始まる結婚式における彼女に一挙一動、一瞬の表情に至るまで全てを俺の目に焼きつけたい。そんな渇望が、花婿としての責任感と心の中で葛藤している。
「これから、ずっと一緒にいるのに?」
 伊都は俺の葛藤を面白がる。まだ手袋をする前の手で俺の頬を軽く撫で、上目遣いにこちらを見た。
「巡くんもタキシード、すごく似合ってるよ。格好いい」
 囁き声で誉められて、心がとろかされていくような感覚を抱く。
「ありがとう。石田には『馬に乗りそう』って言われたよ」
「どういうことだろ……白馬の王子様ってこと?」
「多分な」
「それならわかるよ、王子様みたいに素敵だから」
 伊都の手は柔らかく、そして今日も少し冷たくて心地いい。
「私も巡くんのこと、今日はずっと見てたいな……」
 そして俺を見上げる眼差しはうっとりと甘い。
「見ててくれ。片時も目を離さずに」
「うん」
 ベールを揺らして頷く彼女を、俺もできる限りの想いを込めて見つめ返した。
「俺も伊都を見てる。今日のことを余さず覚えていられるように」
「そうだね、いい結婚式にしたいね」
 もちろん、俺達なら立派にやり遂げられるはずだ。
 そして俺達にとっても思い出深い結婚式にしよう。今日という日を思いっきり楽しんでやろう。

 式が始まる前に、俺達は参列してくださる方々のところへ挨拶に回った。
 互いの両親と会い、両家の顔合わせも済ませ、ついでに身内だけの記念写真も撮影した。花嫁姿の伊都を見た一同は溜息をつき、口々に彼女の美しさと愛らしさを誉めてくれた。そうなると俺の方も鼻が高く、誇らしい気分で彼女の隣に立っていた。
 石田、霧島両夫妻にも時間の許す限り会っておくことにした。二組とも結婚式の際には美しい花嫁さん達をいち早く俺に見せてくれたし、となれば俺も自慢してやりたくなったのだ。
「伊都さん素敵! とってもおきれいです!」
 ここでも真っ先に誉めてくれたのは石田夫人だった。歓声を上げながら伊都の周りをぐるぐるしては、目を輝かせて見入っていた。
「すごいなあ……安井課長が『妖精さん』っていうだけありますね!」
「……藍子ちゃんまでそのこと知ってるの?」
 伊都は花嫁らしく微笑みながらも、ちらりと視線を石田へ向ける。
「いいだろ、事実なんだし。お前の旦那が言ってたことだぜ」
 石田がふてぶてしく笑い返してきたので、恥ずかしそうな伊都に変わって俺が奴を睨んでおいた。
「お前本当にいい加減にしろよ。今度は俺がお前の奥さんにあれこれバラすぞ」
「好きにしろよ。俺の惚気なんて本人に知られても痛くも痒くもねえよ」
 脅したところで平然としているのがまた憎らしい。石田め。
 もっとも、
「あ、あの、そういうのはできれば陰でこそっと教えてくださいっ……!」
 石田夫人の方は非常に慌てふためいて俺に訴えてきたので、ある意味抑止力にはなり得たのかもしれない。
「お前の奥さんはこう言ってるぞ、石田」
「なら俺からあとでたっぷり言っとくから、なおさら安井が言うこたねえな」
「俺だって言うなら直に言ったよ伊都に! それをお前が動画なんか撮りやがって」
「何だったら今日だって撮ってやってもよかったんだがな」
 そう言って石田は首から提げていたカメラを持ち上げてみせる。本日のカメラはいつぞや活躍したデジカムではなく、一眼レフのデジカメである。あいつのカメラは伊都が愛用しているような薄型とはまるで違う、バズーカ砲みたいなレンズを備えたやつだった。
「スピーチも頼んでるのに、撮影までお願いするのは悪いよ」
 伊都の言葉通り、今日の披露宴では石田、そして霧島にスピーチをお願いしていた。石田はデジカムでの動画撮影も買って出てくれようとしたのだが、さすがに負担が大きいだろうし、幸い安井家は男手が余っているので今回は写真撮影だけお願いすることにした。
 スピーチの方も本格的なものではなく、披露宴での食事の間に何人かから一言ずつ頂戴するプログラムにしてあった。二人には気負わず、しかし品のあるスピーチをお願いしている。
「心配しなくても俺は本番に強いし、アドリブだって超得意なんだぜ」
 石田はかえって不安にさせるようなことを言った後、俺の顔を見てげらげら笑った。
「そういうわけだから新郎はせいぜい冷や冷やしとけ。俺と霧島は何言うかわからんぞ」
「俺はちゃんとやりますよ、一緒にしないでください」
 そこで霧島が口を挟んでくる。
 スピーチという単語が出た途端、眼鏡をかけたその顔が若干強張ったように見えた。
「安井先輩には俺の時に歌も歌ってもらいましたし、ご恩を返さなくては」
「らしくもなく殊勝じゃないか、霧島。いつもそうなら可愛いのにな」
「俺が可愛くてもしょうがないでしょう、それは伊都さんにお任せしますよ」
 軽く茶化してやるとどうにか表情が和らぎ、霧島はちょっと笑ってみせる。
「それにしても、美男美女の新郎新婦ですね。特に伊都さんはとてもおきれいです」
「ありがとうございます。ちょっと照れます」
 可愛い伊都は誉め言葉にはにかむ。
 すると調子が出てきたのだろう。霧島はそこで思い出し笑いみたいな顔をして、
「さすがは安井先輩の妖精さんですね。そう言うだけありますよ、本当に」
「お前まで言うか!」
「あれは忘れがたいですし、弄らないのも惜しいと思いまして」
 駄目だ、この分だと本当に一生言われそうだ。
 それなら俺だって一生言ってやろう。霧島がプロポーズまでにめちゃくちゃ時間をかけた経緯も、石田がいかに骨抜きにされていったかという過程も、俺が覚えている限りのことをずっとずっと言い続けてやろう。同じ職場のよしみとは言え、俺達三人はそれぞれの結婚式に出席して歌を歌ったりスピーチをしたりするくらいの間柄だ。爺さんになったって何かしらの付き合いがあって、その度にお互いの恥ずかしい話をぶちまけ合っていることだろう。
 そして伊都は、その頃であっても可愛い『俺の妖精さん』でいることだろう。
 当の花嫁は、いつの間にやらガールズトークに花を咲かせ始めている。
「このドレス、オーガンジーですよね。透け具合がやっぱりいいですね……!」
「以前見せていただいたドレスも素敵でしたけど、こちらもすごく素敵です」
「ありがとう。ドレス選ぶの大変で、すっごく悩んだから嬉しいな」
 石田、霧島両夫人の言葉に、伊都も相好を崩している。
 霧島夫人は特にドレスに関心があるようで、伊都に断わってオーガンジーの生地を撫でたり、後ろに回ってトレーンを確かめたりしている。石田夫人と一緒になってぐるぐる見て回っているので、放っておいたら伊都の周りにバターができるのではないかと思えるほどだ。
「ミモレ丈のドレスの方はお色直しで着るんですか?」
「うん。チャペルの式だと足出すのは駄目みたい」
「じゃあ披露宴も楽しみにしてます」
「ありがとう。でも無理しないで、辛くなったら座ってていいからね」
 伊都も霧島夫人の体調が気になるのか、そんなふうに声をかけていた。だが自己申告通り、本日の霧島夫人は顔色もいいし元気そうだ。何より表情がとても明るい。
「チャペル式って言うと、あれもやんのか。誓いのキス」
 ふと、石田がカメラを弄りながら尋ねてきた。
「え! あっ、そ、そうですよね。あるんですよね、普通……」
 なぜか石田夫人があたふたし始めたが――彼女は霧島の式でもこんな感じだったな。自分がするわけでもないのになぜ恥ずかしそうにするのか。
「だったらその瞬間をばっちり写真に収めてやらんとな」
 石田は妙に張り切っていたが、伊都は苦笑気味に応じていた。
「でも、撮るのは難しいかもよ」
「何でだよ」
「巡くんと、ささっと済ませようねって話してたから。恥ずかしいしね」
 そう言うと伊都は同意を求めるように俺を見る。
 俺も黙って頷く。
 結婚式の計画を立てるに当たり、神前式ではなくチャペル式にしようという案は当初から二人の間でまとまっていた。和装をするつもりはなかったからだが、だからといってチャペル式を熱望していたというわけでもない。特に伊都は件の誓いのキスにいくらか抵抗を見せており、プランを立てている間も『するならば控えめにしよう』と俺に訴えていたのだった。
 俺としてはせっかくのチャペル式、『しない』という選択肢はあり得ない。だから伊都の意見に従った。
 いや、従うふりをしていた。
「誓いのキスは二秒で終わらせる予定だから!」
 伊都が指を二本立ててみせる。
 石田と霧島が俺を見て、意味ありげに笑う。
「そんなんで安井が納得したのかよ。お替わり要求するに決まってんだろ」
「安井先輩、ちゃんと時間守れます? オーバーしちゃ駄目ですよ」
「わかってるよ」
 俺は口ではそう答えた。
 だが内心では――せっかくの結婚式、どうせなら楽しみたいと思っている。何せ一生に一度のことだ、そして伊都との、苦難を乗り越え晴れて迎えることができた結婚式だ。悔いは残したくないし、できることは全部やっておきたい。伊都はああ言うが、嫌がっているわけではなく単に恥ずかしがっているだけだと知っている。俺だって長い付き合いだ、彼女の気持ちはよくわかっていた。
 つまり、二秒なんかで済ませるはずがない。
「じゃ、式の前に記念撮影と行くか」
 石田が自前のカメラを、俺達に向かって構えた。
「とりあえず新郎新婦、撮らせてくれよ。何ならキスのリハーサルしてもいいぞ」
「しないよ!」
 真っ赤になって言い返す伊都の隣に俺は立ち、その手をそっと握っておく。
 すると伊都も俺を見上げて、はにかみながらもレンズに顔を向ける。
「あとで私にも撮らせてください!」
「あ、俺も。一枚お願いします!」
 石田夫人と霧島が慌てて携帯電話を取り出す中、石田は本職のカメラマンみたいに片手を上げてこう言った。
「そのまま笑ってろよ、撮るぞ」
 ぱしゃりとシャッター音が響き、目映いフラッシュが瞬いた。

 あとで見せてもらったデジカメの画面には、幸せそうに笑う花婿と花嫁がちゃんと写り込んでいた。
 さすがは石田、写真の腕は確かだった。
 それなら結婚式でも是非、その腕前を振るってもらうこととしよう。
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