Tiny garden

日暮れて道遠し(1)

 十一月に入ると、俺は二十七歳になった。
 この歳になって誕生日を喜べるほど能天気ではないが、彼女がいるとなると話は別だ。
 一年に一度の誕生日が、たちまちのうちに楽しいイベントへと様変わりする。そういうものだった。

 あいにく、誕生日当日は平日で仕事があった。
 だが園田は帰りの時間を合わせてくれて、駅まで一緒に歩きながらお祝いの言葉をくれた。
「おめでとう安井さん。二十七歳だね」
「ありがとう。一年また一年と、疎ましい三十代が近づきつつあるな」
「まだ三年も先の話でしょ、全然気が早いよ」
 彼女はあっけらかんと笑って、俺の憂鬱を吹き飛ばした。

 もっとも俺も、そこまで深刻に考えていたわけではなかった。
 一足早く二十七になっていた石田と『おっさんへのカウントダウンが始まった』などとふざけて言い合うことはあったが、実際に自分達がおっさんに近づきつつあるとは思っちゃいなかったし、三十の大台もまだ遠い話だと捉えていた。言い換えれば、三十という数字にまだ現実味を持てていなかったのだ。
 しかしだからといって、三十までの残り三年間を漫然と過ごすつもりもなかった。

 隣を歩く園田を見る。
 気温が下がってきたこの時期、自転車を押す彼女はウィンドブレーカーを羽織るようになっていた。色は目の覚めるようなオレンジだ。彼女はこういう、はっきりした色合いを好んで身に着けることが多かった。
 下は相変わらずミニスカートにスパッツだ。寒くないのかと聞いたら、漕いでいるうちに暑くなると元気よく答えていた。
「ね、次の休み暇? 一緒にお誕生日のお祝いしない?」
 俺を見て微笑みながら彼女は言う。
「嬉しいな。いいのか、お言葉に甘えて」
 彼女ならそう言い出すだろうと予想はしていたが、実際にされると胸が高鳴った。そう言ってくれる相手がいることが何より幸せだった。
「どうぞ甘えて。何かしたいなって思ってたんだ」
 園田はヘルメットの下で夜風に乱される髪を軽く振った。
 秋の冷たい風をはらんで短い髪がふわりと広がり、彼女が愛用しているシャンプーの匂いがした。
「でも、どうしようか。安井さんはどういうパーティがいい? 誕生日くらいどこか個室のお店予約して、盛大にお祝いしようか」
 付き合い始めてから二ヶ月がとうに過ぎていたが、俺達の関係は未だ秘密のままだった。
 お互いに、そろそろ誰かに打ち明けようかという話し始めてはいた。だがそんな俺達の前には年末進行という避けがたい繁忙期が待ち構えており、楽しい社内恋愛の事実を報告するのにふさわしい時期ではないと判断した。
 特に石田辺りには一席設けてじっくり報告してやりたいという思いもあり、俺は年が明けたらそろそろ、と考えていた。

 園田の方はまだ後ろめたさがあるらしく、石田には打ち明けたいという俺の気持ちこそ酌んでくれたが、自ら公表したいとまでは思っていないようだ。
 お蔭で俺達のデートは今なおドライブか、人気のない公園か、そうでなければ彼女の部屋に限られた。俺は相変わらず厄介な同居人と暮らしていたから、彼女の部屋に招いてもらえるのはむしろ好都合なくらいだったが、その為だけに秘密の関係を続けるというのも複雑だった。
 彼女の存在が日増しに大きくなる中、俺は二人の関係をより前向きに捉えたいと望んでいた。

「たまに、どこか行こうか。遠出でもして」
 俺が提案すると、園田は少し迷いながらも頷いた。
「……いいよ。どこか、行きたいところでもあるの?」
「お前はないのか、行きたいとこ」
「何で私に聞くの? 安井さんの誕生日なんだから、安井さんが決めていいんだよ」
 声を立てて彼女が笑う。仕事の後だというのに、園田は疲れを感じさせない朗らかさで続ける。
「私は安井さんが楽しそうにしてくれればそれでいいよ。予算なら立ててあるし、心配しないで」
「まさか。お前に余計な金は使わせたくないよ」
 園田の気持ちは嬉しいが、そう言われると金のかかる場所は選びにくくなる。
 俺はあくまで園田に祝って欲しいのであって、金を使って欲しいわけではなかった。それどころか俺自身の正直な本音としては、彼女さえいてくれれば他には何も要らないくらいだった。
「だって、せっかくの誕生日だよ。プレゼントも買おうと思ってるし」
「そんなことまで考えてたのか。気を遣わなくていいのに」
「いいの。私がしたくて言ってるんだから、安井さんも遠慮なく欲しい物言って」
「欲しい物か……」
 そう聞かれても思い浮かぶのは一つだけだ。
 最近は特に、寝ても冷めてもそのことばかり考えている。
 俺は愛車のハンドルを握る園田の手の上に、自分の手を重ねて、軽く握った。十一月の気温のせいか彼女の手はどきっとするほど冷たかった。こうして歩かせているのが申し訳なくなる。
「あっ。ひ、人に見られたらまずいよ」
 園田が握られた手を引っ込めようとする。
 もう夜の十時を過ぎていて、他に歩く人影もそうそう見当たらないというのに。こちらを気まずげに見上げてくるので、俺は渋々手を離した。
「見られたら見られたでいいだろ。はっきり言ってやればいい」
「そう言うけど……まだ二ヶ月しか経ってないんだよ」
「もう二ヶ月だよ。それにあと少しで三ヶ月になる」
「うん……。でもやっぱ、まだ早い気がするんだ。ごめん」

 例によって彼女は『合コンの幹事同士が抜け駆けをした』ことを気にしているようだ。
 俺からすれば二ヶ月も間を置けば十分だと思うのだが、彼女が気後れしているので無理強いもできない状況だった。

 俺は手を繋げなかった代わりに彼女の頭に手を置いて、さらさらの後ろ髪を一度だけ撫でた。
 園田はそれでも不安そうに辺りを見回し、声を落とす。
「ごめんね、安井さん。その代わり誕生日は安井さんの欲しい物を用意するよ」
 縋るような目を向けられたから、俺も仕方なく気持ちを切り替え、聞き返した。
「何でもいいのか」
「何でもいいよ。言ってみて」
 彼女は疑いを知らぬ顔つきで頷く。

 その屈託のなさに俺は、兼ねてから頭にあった『欲しい物』を率直に口にすべきかどうか迷った。
 だが他に思い浮かぶ物もないし、下手に適当な品を挙げれば彼女は本当にそれを買い揃えておきそうだ。迂闊なことは言えない。

 だからまあ、結局は率直に言った。
「園田が欲しいな、プレゼントに」
 すると園田は奥二重の目をまんまるにして、呆気に取られた様子で俺を見つめた。彼女が押す自転車のタイヤが回る微かな音と、二人分の足音だけがしばらく続いた。
「駄目かな」
 確認のつもりで俺が尋ねると、びくっとした彼女はどうやら、我に返ったようだ。
 夜の景色の中でもわかるくらい、真っ赤になって口を開いた。
「な……なな、何でそういうことさらっと言っちゃうかな!」
「仰々しく言われても困るだろ。今よりもっと照れるぞ、きっと」
「そ、ういうことじゃなくて! 欲しい物を聞いたんだよ、私は」
「だから、欲しい物だよ。お前がいい」
「まだ言う! そんなの駄目、プレゼントにならないよ!」
「なるよ。プレゼント兼、最高のごちそうになる。もちろん美味しくいただくからな」
「わ、わーわー! それ以上言わないで安井さんの馬鹿! ここ外だから!」
「夜に大声出すのはいいのか。もう遅い時間だぞ」
 声なんて上げたら、手を繋いで歩くよりも遥かに目立つはずだ。にやにやしながら指摘してやると、園田はあっと小さく声を上げ、口を噤んだ。
 その後で、存分にボリュームを落として言った。
「安井さんって時々、ものすごいベタなこと言うよね」
「何だ、園田は独創性溢れる斬新な口説き方をされたいのか」
「そういうんじゃないけど。何か、実際言われるとびっくりするって言うか」
「ベタって言うのは、それをいいと思う多数派がいるからこそベタになるんだよ」
 つまりいいものはいい。たとえ散々使い古された言葉だとしてもだ。
 現に言われた方の園田の反応はとても可愛い。いつまでこんなに初々しくうろたえてくれるんだろう、と先のことまで想像したくなる。慣れたら慣れたでそれも楽しそうだ。
「まあ、納得できなくもないけど……」
 彼女はもごもごと、口の中で転がすような答え方をした。
「じゃあそういうことで。プレゼント、よろしくな」
 俺が話をまとめると、園田は拗ねた様子で口を尖らせる。
「いいなんて言ってないのに」
「言ってくれるだろ? 俺の誕生日なんだから」
「……もう」
 溜息をついた園田は他にも何か言いたそうにしていたが、上手い反論が見つからなかったようだ。何だか困った顔つきで自転車を押している。
 それで俺は、なるべく優しく言い添えた。
「せっかくだから、園田の手料理も食べたいな」
 彼女は目の端で俺を見て、それからちょっとだけ笑った。
「本当にいいの? 誕生日くらい贅沢してもいいのに」
「園田の手料理、すごく美味しいからな。もっと食べたくなった」
 俺が誉めると彼女は感激したのか、ぱっと表情が明るくなる。
「ありがとう……! じゃあ今度の休みはうちでパーティだね」
「楽しみにしてるよ」
「うん、任せて! また美味しいの作るから!」
 拳を振り上げて張り切る園田が本当に可愛くて、俺は思わず笑ってしまった。こうして見ると園田って、いい意味で若いよなと思う。俺はもう二十七だが、彼女はまだ二十四だった。
 もっとも、あと二ヶ月もすれば二十五になるはずだったが――。
「お前の誕生日はどうする?」
 ふと、そのことが頭を過ぎった。俺が思いつきで尋ねると、園田はびっくりしたようだった。
「来年の話だよ。まだ早くない?」
「早くない。一月十日だろ、あと二ヶ月切ってるじゃないか」
「そっか、確かに。私は……安井さんがいてくれれば、それでいいよ」
「お前も誕生日プレゼントに俺が欲しいって?」
 そういう意味じゃないとわかっていたが、からかうつもりで言ってみた。
 途端に園田はむっとして、俺を肘でぐいっと押しやるようにつついた。
「ば、馬鹿! もう安井さんってば、そういうんじゃないから!」
 俺は声を立てて笑いつつ、でも何か考えておかなきゃなと思う。
 二ヶ月なんてきっとあっという間だ。しばらくは仕事も忙しいが、うっかりして準備もしてない、などということはあってはならない。
 誰だって、大切な相手に誕生日を祝ってもらえたら嬉しいものだろう。

 次の週末、俺は園田の部屋に招かれて、彼女の手料理をごちそうになった。
 この日のメニューは厚揚げとじゃがいもの照り焼き丼だった。厚揚げと薄切りのじゃがいもを醤油ベースの味つけでこんがりと焼き、更にバターを絡めて照りよく仕上げていた。香ばしさとこってりした味つけにご飯がすいすい進んだ。
「これ美味いな。かなり気に入った」
「本当? よかった、厚揚げも美味しいよね」
 彼女が顔をほころばせて、俺の食べっぷりを眺めている。
「実は、誕生日にしては地味なメニューかなって思ったんだけど……」
「いやすごく美味いよ。また作ってくれ」
「食べ終える前から言ってくれるなんて、嬉しいな。作ってよかった!」
 彼女の部屋に通うようになってから一ヶ月が過ぎ、俺は彼女の手料理にすっかり胃袋を掴まれていた。園田が作る献立はもちろん豆腐がメインのものばかりで、本来ならその淡白さとヘルシーさから物足りなく感じるところなのだが、彼女が作ると満足のいく風味とボリュームになるのがいい。さすが豆腐好きだけあって、豆腐の扱いには非常に慣れているようだ。
 もし結婚したら、本当に毎日が豆腐尽くしだろうな。
 そんな想像が脳裏をかすめるように、この頃、なりつつあった。

 付き合い始めたのは八月の終わりからだが、園田とはそれ以前から親交もあったし、彼女のことはよく知っているという自負があった。
 少し気の早い想像をしたのもそのせいかもしれない。もちろん想像で終わらせるつもりもなかったが、彼女に切り出すのはさすがに尚早だと思っていた。

「安井さん、ビールどうぞ」
 食事の後、園田が冷蔵庫から缶ビールを二本取り出した。
「ありがとう」
 礼を言って受け取ると、彼女もにっこり笑んでテレビの前に座った。軽く乾杯をした後でテレビの電源を入れ、プレイヤーを再生し始める。
 彼女の部屋で過ごす時は映画を観るのが決まりのようになっていた。園田が所有しているDVDははっきり言ってムードのないアクション映画ばかりだったので、俺は雰囲気のいい恋愛映画を選んで借りてきては二人で観るようにしていた。もっとも、映画を最後までじっと観ていたことはほとんどなかった。体育座りをして画面に見入ってはくすくす笑ったり拳をぐっと握り締めたり鼻を啜ったりする園田に、何のちょっかいもかけずにいるなんて土台無理な話だった。

 今日も俺は映画の再生が始まって三十分と持たなかった。手を伸ばして、彼女の無防備な首筋を指先でつうっとなぞった。
 園田がびくりとしてこちらを振り向き、すぐに軽く睨んできた。
「安井さん、もう酔っ払ったでしょ」
「そんなことない」
 いくら酒に弱い俺でも、ビール一本で酔うなんてことはない。だが気を抜けばすぐ酔ってしまうのも事実なので、園田と飲む時は酒量を控えめにすると決めていた。そうじゃないと、後で困る。
「そろそろ、プレゼントが欲しいな」
 俺がねだると、彼女は指先でくすぐられた時よりも困った顔になる。
「あ、あのね安井さん。まだ映画始まったばかりだよ」
「映画、観たい?」
「そりゃあ……安井さんは、観たくないの?」
「今、集中できる気分じゃないんだよ。後でもう一回見直そう」
 そう言うと俺は缶ビールをテーブルに置き、膝を抱えて座る園田をほぼ強引に抱き寄せた。園田は斜めに傾くみたいに俺の腕の中へ倒れ込んできて、軽くキスしたらあっさりと頬を上気させた。
「安井さんってばもう……馬鹿なんだから……!」
「自覚はしてるよ。大分いかれてる」
 俺は彼女の柔らかい耳にかじりつきながら囁き返す。
「でもこんなに可愛い子と一緒にいたら、馬鹿にだってなるだろ」
「変なこと言わないでよ、恥ずかしいから」
「変じゃない。本当に可愛いよ、伊都」
 俺は何度か、彼女を名前で呼ぶように試みていた。
 一月十日の誕生日からつけられたその名前も、俺は可愛いと思っていた。いつまでも名字で呼び合うというのも他人行儀だろうし、ゆくゆくは彼女にも『安井さん』をやめてもらいたい。その為にもまずは俺が、彼女の名前を呼び慣れておこうと考えていた。
 だが園田は俺に名前で呼ばれる度、どこか落ち着かない様子で目を泳がせていた。
「何か、慣れないよ。安井さんにそう呼ばれるの」
「駄目?」
「駄目じゃないけど、くすぐったくて。安井さんにはずっと名字で呼ばれてたし」
 確かに、かれこれ五年も名字で呼び合ってきた。それを切り替えるのが難しいというのはわからなくもない。
「園田、って呼ばれる方が耳に馴染んでるんだよね。だからなのかも」
「もしかして、名字で呼ばれる方が好きなのか?」
 尋ねてみたところ、彼女は肯定とも否定ともつかないそぶりで首を傾げた。
「そう……なのかな。名前で呼ばれると、何かこう、ふわっとなっちゃうんだ」
「ふわっと? 舞い上がるってこと?」
「うん。すごくどきどきするから、たまにだけにして」
「なら、もっと呼ぶことにしよう」
 俺が調子づいて繰り返し彼女の名前を呼ぶと、彼女は一層恥ずかしがって俺を軽く叩いたり、いつものように『馬鹿』と連呼したりした。
 それでも嫌がりはしなかったし、逆に慣れたという様子もなかった。

 その夜は当然のように彼女の部屋に泊まった。
 誕生日プレゼントとしてはこの上ないグレードのものをいただいたわけで、こうなると来年の、彼女の誕生日祝いはいよいよ手が抜けない。相応のお返しをしなくてはならないなと思っていた。
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