Tiny garden

思い出が溢れそう(4)

 クリスマスイブを迎え、食卓には聖夜を彩るごちそうが並んでいた。

 伊都が昼のうちから作ってくれた豆腐尽くしのオードブルはさすがの出来栄えだ。
 塩豆腐のカプレーゼは赤いトマトを添えて鮮やかだし、ブロッコリーとくるみの白和えはこじゃれた小鉢に盛られてすっかり洋風の装いだった。鮭のテリーヌはピンクと白のきれいな二層になっていて、実に美味そうだった。
「このテリーヌも豆腐でできてるのか?」
「そうだよ! 豆腐は万能だからね!」
 伊都の手にかかれば、豆腐から作れないメニューなんてないのかもしれない。全く畏れ入る。
 そして今回のメインディッシュは小野口課長の奥様お手製、鶏の香草焼きだ。こちらは伊都が支度をしている間に、俺が車を走らせて店まで取りに行った。
「わあ、すごくいい焼き色……!」
 箱から取り出した途端、伊都が歓声を上げた。
 骨付きもも肉をぱりっと焼き上げたローストチキンは、確かにいい色に焼けていたし、食べる前からほんのりハーブの香りがしていた。ローズマリーとバジル、それにタイムをオリーブオイルに入れ、じっくり漬け込んで作ったのだと奥様は仰っていた。
「お店、忙しそうだった?」
「ああ、ディナーの支度に課長も駆り出されてたよ。楽しそうだったけど」
 本来なら仕事のない休日のはずだ。俺ならゆっくり休んでいたいと思うが、リネンのエプロンを着けて働く小野口課長は実に楽しそうだった。奥様だけではなく、夫婦であの店を大切にしているのだろうと思えた。
「ケーキの方はどうだ?」
 俺が尋ねると伊都はにっこりした。
「冷蔵庫に入ってるよ。巡くんが出かけてる間に、石田さんが届けてくれたの」
 今日の石田はケーキの配達という仕事があるらしい。俺のところにも事前に連絡があったので知っていた。クリスマスイブだというのにご苦労なことだと思うが、『これをやり遂げて藍子と幸せなクリスマスを過ごすぜ!』と気炎を上げていたから心配は無用のようだ。
「そうだ。石田さん、サンタ帽被ってたよ。赤いやつ」
「何だそれ……あいつ、昼間のうちから浮かれてんのか」
「ケーキ配るのもサンタの仕事だからって言ってた」
「まあ、似合いそうだけどな。あいつなら」
 そういう浮かれた格好が石田ならよく似合う。
 運転中は帽子なんて被らないだろうし、降りてケーキを持っていく時にいちいち被るのかと思うと笑えてくるが――そういうこともやりそうだ、あいつなら。
「うちに来る前は霧島さん家に行ったんだって」
「へえ、本当にあちこち配って回ってるんだな」
「うん。ごちそういっぱい作ってて、すっごくいい匂いしたんだって」
 霧島夫人も料理上手で名を馳せる人である。クリスマスともなれば手の込んだ料理を用意していることだろう。
「で、うちに寄ったらうちでも料理中でしょ? お腹空いてきた、早く帰りたいって言ってた」
 もちろん、伊都の料理の腕は言うに及ばず。こんな時間に家々を回る石田はさぞかし湧き上がる食欲に苛まれていることだろう。俺も柄にもなく、あいつの仕事が早く片づくことを祈ってやりたくなった。
 クリスマスだから、かもしれない。
「俺も腹減ってきた」
 時刻は午後五時、普段なら夕食には少し早い時分だが、部屋中に漂う美味そうな匂いにいてもたってもいられなくなる。
「伊都さえよければ、夕食にしないか」
 すると伊都も嬉しそうに飛び跳ねた。
「そうだね。ケーキも控えてるし、始めちゃおっか?」

 部屋の隅には先日購入してきたクリスマスツリーが飾られている。くすんだゴールドのオーナメントが、部屋の明かりを跳ね返して鈍く光っていた。
 曇った窓の外では雪がちらついている。さっき出かけた時から降り始めていたようで、華やぐ街並みをよりクリスマスらしくみせていた。明日の朝にはもしかしたら積もっているかもしれない。
 全ての準備は整った。
 楽しいクリスマスが、これから始まる。

 この日の為に買っておいたシャンパンを開けて、まずは乾杯をした。
「メリークリスマス、伊都」
 グラスを合わせると、高く澄んだ音が食卓に響く。
「うん、メリークリスマス! 来年もよろしくね、巡くん!」
「その挨拶はちょっと早い気がするけどな」
 今年はまだ一週間も残っている。そして仕事納めまではあと四日、月曜からが正念場といったところだが、このクリスマスで英気を養えば乗り切れそうだ。
 シャンパンと共に味わう伊都の料理は、今夜も絶品だった。塩豆腐はトマトとの相性も抜群だったし、洋風白和えもクリーミーで美味い。旬のブロッコリーも甘みがあって食感がよかった。豆腐のテリーヌは初めて食べたが、なめらかで溶けるような舌触りだった。もちろん美味かった。
「さすが、豆腐料理はベテランの域だな」
 俺が誉めると、伊都は誇らしげな笑みを浮かべた。
「ありがとう、今日は頑張ったんだから!」
「確かに手が込んでるし、すごく美味いよ。こちらこそありがとう」
 お礼を言えば何だか照れていたようで、くすぐったそうに首を竦める。
「巡くんこそチキン買ってきてくれたじゃない、寒かったのにありがとね」
 そのローストチキンも大変美味だった。油を落として焼かれた皮は見た目通りにぱりっとしていて、肉はジューシーだ。何よりローズマリーやバジルの香りが食欲をそそった。ローストチキンを食べたのは数年ぶりだが、たまにはこういうのもいい。
「確かに寒かったけど、車だしな。自転車ほど辛くない」
 さすがにあの店まで自転車で行く気にはなれなかった。途中で転んだりしたら、せっかくのチキンが台無しだ。雪が降っていて寒かったのもある。
 無論、自転車も乗っていればだんだん身体が温かくなるし、冬の風が心地いいと思うくらいになるのだが、やはり走り始めが一番辛い。特に朝はそうだ。
「やっぱこの時期は朝がきついよね」
 伊都もローストチキンにかじりつきながら頷いている。
「でも巡くん、自転車にはかなり慣れてきたみたいじゃない?」
「そうだな、少なくとも通勤距離は気にならなくなってきた」
 自転車を買い、乗り始めた頃は筋肉痛に悩まされていた。距離の長さに呼吸が乱れることもよくあったが、最近では全くそれがない。何より自転車に乗るのが、純粋に楽しくなってきていた。
 以前は伊都の脚を後ろから眺められること、それだけを励みに走り続けていたようなものだったが――それは今も大いなる励みそして楽しみとなっているが、それにサイクリングの楽しみが加わり、ようやく趣味と呼べる域に達したように思う。
「これなら新婚旅行も大丈夫そうだね」
「どうかな……さすがに距離がな。もちろん楽しみにはしてるけど」
 新婚旅行先はしまなみ海道と決めている。春先に結婚式を挙げるから、新婚旅行はゴールデンウィークにしようかと予定していた。ちょうど暖かくなり、風も気持ちよくなるいい時期だろう。
 それまでにもう少し走れるようになっておきたい。その為にも冬だから、寒いからと言ってサボってはいられない。
「私も楽しみ! 嬉しいな、巡くんが自転車好きになってくれて」
 伊都は満面の笑みで言った後、ふと窓の外に目をやった。

 まだカーテンを閉めていないリビングの窓は曇っていて、外はすっかり暮れていた。
 どのくらい雪が降っているのかは暗くてよく見えないが、この冷え込みだ。まだ降り続いているかもしれない。

「月曜からは自転車乗ってけないかもね」
 外の天候を気にしてか、伊都が残念そうに言った。
「雪が積もったら無理だな」
「積もらないといいなあ……」
 せっかく休日のクリスマスなのに、雪を願わないあたりはとても彼女らしい。
 俺としては降ってくれて、多少積もっておいてくれた方が都合がいいのだが、それはまだ伊都には秘密だ。
「ところで伊都、グラスが空だけど」
 話を逸らそうと目を向ければ、いつの間にか彼女のグラスが空いていた。
 俺よりもはるかに酒に強い彼女は、やはり飲むペースも早い。
「あ、そうだった」
 言われて、伊都が自分のグラスを覗く。
「シャンパンでいいか? 俺が注ぐよ」
「どうしよっかな……あんまり酔っ払いたくないんだけど、後片づけあるし」
 彼女はためらっているが、今夜はクリスマスだ。遠慮することもあるまい。
「気にするなよ、飲みたいなら飲めばいい」
 シャンパンの瓶を手に取り、俺は彼女に強く勧めた。
「何なら、後片づけは俺がするよ」
「巡くんは飲まないの?」
「俺はすぐ酔っ払うからな、一杯だけにしとくよ」
 つい最近、酒の席でやらかした経緯もあることだし。
 そう思って答えたのだが、途端に伊都には探るような目を向けられてしまった。
「企んでるでしょ、巡くん」
「人聞きが悪いな、伊都。俺が何を企んでるって?」
「だって私を酔わせようとしてる」
「それはいいだろ、クリスマスなんだから」
 どうせ俺より強いんだから、大いに飲んで酔っ払えばいい。
 その方がクリスマスをより楽しく過ごせることだろう。せっかく今日も明日も休みだというのに、酔っ払って何の問題があるのか。
「俺は伊都が酔ってる姿を見たいんだ」
 もう一押しつついてみるかと、俺は彼女に力説した。
「去年のクリスマスは用意もしてなかったし、飲めなかったからな。今年はいいだろ」
「見たことあるじゃない」
 伊都は訝しそうな顔をした。
「今夜、って意味だよ」
 だが俺が瓶を掲げると、急に気恥ずかしそうに目を逸らした。
 そして少し迷ってから、おずおずとグラスを差し出してくる。
「じゃあ、もうちょっとだけ」
 それで俺は彼女のグラスにシャンパンのお替わりを注いでやった。
 伊都は一口飲んでから、困ったようなそぶりで呟く。
「本当に酔っ払っちゃって、寝落ちちゃったりしても知らないよ」
「心配するなよ、俺が後片づけするって言ったろ」
「でも、大変だよ。いっぱいあるし」
「大したことない。お前のことも、今年はちゃんとベッドまで連れてくよ」
 俺は、わざと去年のことを思い出させるように告げた。
 途端に伊都は唇を尖らせる。
「巡くんの馬鹿」
 二杯めのシャンパンにもかかわらず、既に頬が赤かった。
 今年のクリスマスは出だしから最高だ。この雰囲気が、俺には楽しくてたまらなかった。

 約束したので、夕食の後片づけは俺が引き受けた。
「私も手伝うよ、そんなに酔ってないし」
 伊都はそう主張してきたが、オードブル作りではとても頑張ってくれたので休んでいてもらうことにした。リビングのソファに座らせてから、俺は一人でキッチンに立った。
 食器を洗い終わった後はついでにハーブティーを入れてあげた。今夜の為に購入してきたのは、去年彼女に飲ませそびれたリンデンだ。
「いい匂い。巡くんもハーブティー入れるの上手だよね」
 カップを受け取った伊都は、香りを堪能するように目を伏せた。
「場数は踏んでるからな」
 俺はそう応じた後、冷蔵庫からケーキの箱を取ってくる。
 リビングのテーブルに置き、側面から開けて慎重に引っ張り出すと、赤く熟したイチゴのナポレオンパイが現れた。
「美味しそう!」
 ソファから身を乗り出して、伊都が声を上げる。
 何を見ても驚き、喜んでくれるこの素直さが可愛い。
「こっちにして正解だったかもな」
 石田夫人お薦めのナポレオンパイか、東間さんが購入されたというタルトフリュイか、俺と伊都は注文の際に随分と悩んだ。どちらも写真うつりは素晴らしくよく、美味そうに見えたからだ。
 最終的には伊都が決定権を俺に譲ってくれたので、俺はナポレオンパイを選んだ。
 理由は単純だ。ナポレオンパイには生クリームが飾られている。
「あれ? お皿一枚だけ?」
 俺が切り分けたパイを皿に載せると、伊都が不思議そうに目を瞬かせた。
「去年みたいに、食べさせてあげようかと思って」
 そう答えたら慌ててかぶりを振ってきて、
「じ、自分で食べれるから! 何そのサービス!」
「去年やったらすごく楽しかったから、今年もやりたかったんだよ」
「楽しいのは巡くんだけでしょ!」
「そうなのか? 伊都も楽しんでたように見えたけど」
 聞き返せば彼女は一層赤くなり、カップを手にしたまま膝を抱え込んでしまう。

 俺はパイを載せた皿を手に、彼女の隣に座った。
 わずかに軋んだソファの上で、伊都がちらりと視線を上げる。目が潤んでいるのはほろ酔い気分のせいだろうか。

 やがて彼女は、白状するようにぽつりと言った。
「どっちかって言うと、恥ずかしかったよ」
「恥ずかしいけど楽しかっただろ?」
「巡くん、意地でも認めさせようとしてる……」
「どっち?」
 俺は追及の手を緩めず、尚も尋ねる。
 伊都はハーブティーを飲みながら、しばらくまごまごした様子で目を泳がせていた。だが俺がじっと見つめ続けていれば、縋るような視線を返してくる。
「楽しくなかった、わけじゃないけど……」
 言質が取れた。
 内心でほくそ笑む俺に、伊都はあたふたと続けた。
「で、でも! そういうことしたら緊張して、せっかくのケーキの味わかんなくなっちゃうから!」
 もう八ヶ月も一緒に暮らしているのに、彼女の恥ずかしがり屋ぶりは一向に緩和される気配がなかった。
 そこがいい、というのも事実なのだが。
「なら仕方ないな。最初の一切れは伊都が自分で食べな」
 俺がケーキの皿を渡すと、伊都はそれを受け取った後で拗ねたような顔をする。
「巡くん、やっぱり企んでる」
「剣呑な物言いするなよ、クリスマスを楽しく過ごしたがってると言ってくれ」
 その為の準備はもう整っている。
 あとは、じっくり楽しむだけだ。
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