Tiny garden

思い出が溢れそう(3)

 休日の昼下がりだからか、テーブル席は先客で全て埋まっていた。
 俺達はカウンター席を勧められ、そこに二人で並んで座った。カウンターはあまり高くなく、椅子も背もたれのある座り心地のいい席だった。

「いらっしゃいませ、ご注文は何にいたしますか?」
 カウンター越しに注文を尋ねてきたのは小野口課長だった。
 奥さんとお揃いのリネンのエプロンが、男前の顔立ちに意外とよく似合っている。こうして見ると昔ながらの喫茶店のマスターという風情もある。奥さんは他の客の注文を受けてハーブティーを入れている最中のようで、だからこの人が注文を取りに来たということだろう。
 しかし相手は職場の大先輩、平然とお客さん面をするのはさすがに抵抗が。
「外の黒板を見たんですけど、今日のお勧めってさくさくのスコーンなんですよね?」
 戸惑う俺をよそに、伊都はむしろノリノリで注文を始めている。
「はい、焼きたてでとても美味しいですよ」
 小野口課長も伊都に合わせてにこやかに応対をする。
「じゃあそれに合うハーブティーを教えていただけますか?」
「スコーンはプレーンな風味ですから何でも合いますが、香り高いものを楽しむ時のお供にするのが一番でしょうね」
 そう言うと小野口課長は卓上のメニューを指差した。
「例えば、ローズなんていいと思いますよ」
「薔薇は確かにいい香りしそうですね。じゃあ私、それにします!」
 すんなりとメニューを決めてしまった伊都が、すぐにこちらを向く。
「巡くんは?」
「俺も、同じので」
「かしこまりました。ローズティーとスコーンのセットですね」
 小野口課長は伝票を記すと、早速注文を奥さんへ伝える為にカウンターを離れた。

 その隙に伊都が囁いてくる。
「小野口課長、こういうのすっごい似合うよね」
「確かにな」
 別に広報課長という表の顔が似合わないわけではてないが、この人には接客業が似合いそうだと確かに思う。今日初めて訪れた客なら、日頃から夫婦で切り盛りしている店だと勘違いしてもおかしくなさそうだ。
「すごいよね、美男美女がやってるお店だよ」
 伊都がはしゃぐように言ったところで、戻ってきた小野口課長が苦笑した。
「園田さん、あんまり誉められると査定が甘くなっちゃうよ」
「えっ、じゃあもっとたくさん誉めないと!」
「すみません、人事の前でそういう話はちょっと」
 慌てて俺が口を挟むと、課長も伊都も肩を震わせて笑い出した。
「そうだった、人事課長殿の前でこれはまずかったかな」
「広報課全体が疑われちゃいますね、まずいまずい!」
 言葉の割に二人とも、何だか妙に楽しそうだ。
 もっとも俺も本気で咎めたわけではない。休みの日にまで仕事のことなんて考えたくもないし、二人だってそうだろう。

 それにしてもこの上司と部下の関係は実に和やかだ。
 小野口課長が以前、伊都のことを『こんな子が娘だったら』などと言っていたのを思い出す。親子にしては少々歳が近いものの、今のやり取りからは想像できなくもないなと思ってしまった。

「お二人は今日はデートかい?」
 笑いを鎮めるのにしばらく時間をかけた後、小野口課長が尋ねてきた。
 笑いすぎて涙を拭う伊都の代わりに俺が頷く。
「忙しくなる前にクリスマス用の買い出しをと思いまして」
「ツリーを買ってきたんです」
 伊都は少しかすれた声で言い添えた。相変わらず素直で屈託がない。
「ツリーか、クリスマスには欠かせないものだからね」
 腑に落ちた様子で小野口課長は言い、視線を俺達の肩越しに投げた。
 つられてそちらを振り返れば、大きな窓の傍に人の身長くらいのクリスマスツリーが置かれている。ちょうど窓の外からも見えるであろう位置だった。電飾はつけられていなかったが白いモールやオーナメントで飾られていて、これはこれで華やかだった。
 この時期はどこにいても、クリスマスの足音が聞こえてくるようだ。
「だけど、惜しいな。もう少し早ければクリスマスディナーにお誘いしてたのに」
 小野口課長がそう続けた。
 意外な言葉に俺と伊都は、思わず顔を見合わせる。
「クリスマスディナー?」
「このお店で、ってことですか?」
「そう、毎年やってるんだよ。小さな店だからすぐ予約がいっぱいになるんだけどね」
 ハーブティーのお店でクリスマスディナーというのも新鮮な響きに聞こえる。この店にアルコールメニューはないはずだし、そもそも夜まで営業しているのだろうか。
「クリスマスだけは午後九時まで店を開けてるんだ」
 恐らく疑問顔であろう俺達に、小野口課長は笑いながら答えてくれた。
「クリスマスと言えばローストチキンだろう? うちのは香草焼きでね、手前味噌だけど結構評判いいんだよ」
 ここでようやく、ハーブとクリスマスが繋がった。なるほど。
「そっか、ローストチキンか……」
 伊都も納得がいったようだ。直後、はっとしたようにこちらを見た。
「巡くん、クリスマスならチキンも要るんじゃない?」
「言われてみればそうだな」

 俺はわざわざそういうものを購入して食べる方ではなく、現に去年も一昨年も一切食べなかった。鶏肉が嫌いなわけではなく、クリスマスだからとその手の慣習に乗っかるのが空しく思えたというだけだった。ケーキだって石田の頼みでなければスルーしていただろう。
 だが今年は伊都がいる。
 二人で過ごすクリスマスなら、その手の慣習に乗っかってはしゃいでしまうのも悪くはない。

「予約がいっぱいとは残念です。香草焼き、食べてみたかったのに」
 俺の言葉に小野口課長は嬉しそうな顔をする。
「美味しいんだよ、うちの妻は料理も絶品でね」
「そう言われると、食べたくてしょうがなくなってくるんですけど」
 伊都も悔しそうだ。彼女が豆腐と甘いお菓子以外に興味を示すのは実に貴重なことである。
 だが俺だって食べてみたかった。もう少し早く知っていたら、ここでディナーと決めていたのに。
「今年はクリスマスが土日ですからね、すぐ埋まってしまったんです」
 と、小野口課長の奥さんが俺達の席に近づいてきた。
 トレーに二人分のティーポットとカップ、それにスコーンの皿を載せ、俺達に向かって上品に微笑む。
「いらっしゃいませ。いつも夫がお世話になっております」
「いえいえ! こちらこそ、二人揃って小野口課長にはお世話になっております」
 俺より早く伊都が、会釈をしながら答えた。
 それで奥様も頭を下げ返すと、俺達の前に手際よく注文の品を並べていく。
「ローズティーとスコーンのセットでございます」
 透明な耐熱ポットの中には小さな薔薇のつぼみがいくつか浮かべられていた。水の色は薄めのお茶という感じで、はっきりした薔薇色を想像していたから意外だった。湯の中の薔薇のつぼみは確かに美しい色合いをしているのだが、その色が出るというものでもないらしい。
 俺がそのポットに見入っていると、食器を並べ終えた奥様が頭上からこう言った。
「ローストチキン、テイクアウトでしたらまだ余裕がございますよ」
「本当ですか!?」
 反応は、伊都の方が早かった。
「ええ。デリバリーはやっておりませんので、当日店頭でのお引渡しとなりますが」
 奥様が頷くと、俺達は顔を見合わせてからすぐに答えた。
「是非お願いします!」
「取りに伺いますので!」
 かくして俺達は、クリスマスを楽しく過ごすためのアイテムを更に一つ確保した。

 カップに注いだローズティーは、とても芳しいバラの香りがした。
「いい匂い……こんなお風呂に入りたいね」
 伊都もうっとりとその香りに浸っている。
 味は上品な、ハーブティーらしいほのかな甘みがあった。外側はさっくり、中はふんわりとしたスコーンとは確かによく合い、どちらも大変美味かった。
「スコーン、さくさくで美味しいね」
 味わう度に口元をほころばせている伊都は、実に幸せそうだった。
「ローストチキンも楽しみだな」
「ね! きっとすごく美味しいと思う!」
 クリスマスにローストチキンを食べるのも何年ぶりだろう。弟と同居していた頃、あいつが食べたいと言って買ってきたのに付き合って以来、かもしれない。どんな味がしたかも覚えていないが、弟は割と美味そうにがつがつ食べていたような記憶がある。あれでも一人きりのクリスマスよりははるかにマシだった。

 そう思うと、今年のクリスマスはしなくなったことを取り戻す日でもあるのかもしれない。
 誰かと祝うことも、ツリーを飾ることも、ケーキやチキンを食べることも、大人になるうちにいつの間にやらしなくなっていた。そんな俺のところにサンタクロースがやってくるはずもなく、ここ数年のクリスマスには楽しい思い出はおろか、それを期待する気持ちすらなかった。
 俺だって子供の頃はクリスマスが好きだった。サンタクロースだってある程度までは信じる純真な心があったし、家族と食卓を囲む時間を何より幸福だと思っていた。それすらいつの間にか忘れていた俺のところに、去年、伊都が来てくれた。
 俺がクリスマスを取り戻せたのも彼女のお蔭だ。
 今年は二人でお祝いをして、ツリーを飾ったり、ケーキやチキンを食べたりする。まだ家族になる前の、恋人同士で囲む食卓も当然ながら素晴らしいだろう。

「クリスマス、待ち遠しいな」
 温かいローズティーを味わいながら、俺はしみじみ呟いた。
「うん、早く来て欲しいよね」
 伊都も目をきらきらさせている。
 この歳になってクリスマスが待ち遠しくなるとは思わなかった。だが多くの人が待ち望む日だからこそ、街の空気も華やぐのだろうし、クリスマスの準備をする人々は皆幸せそうに映るのだろう。子供だけではなく、いくつになっても楽しもうと思えば楽しめるものなのだろう。
 俺なんて、心から堪能して味わい尽くす気満々だ。
「今日ハーブティーを買ったら、あとは当日のチキンとオードブルだけかな」
 同じように、伊都もクリスマスを楽しむ算段をしているのだろう。物思いに耽りながら言った。
 他に買っておくものと言えば――伊都へのクリスマスプレゼントくらいのものか。こちらは伝統に倣い、当日まで秘密にしておかなくてはならない。買いに行く暇も作らなくてはならないし、隠し場所も見繕っておかなくては。
「そのくらいだろうな」
 俺は相槌を打った後、まるで子供にするように伊都を脅かしてみた。
「あとはクリスマスまでいい子にしてないとな。サンタさんが来ないぞ」
「巡くんもね、おりこうさんでいようね」
 すかさず伊都がやり返してきて、途端にくすぐったい気持ちになる。
 自分で言ったことがはね返ってきただけなのに照れるというのも妙な話だ。
「俺はいつだっておりこうさんだろ、子供の頃からそうだった」
「じゃあ、巡くんにもサンタさんが来るかもね」
「もう来てる、目の前に」
 そう応じてから、これは少々格好つけた台詞だったかもな、と後から思った。
 ところが伊都は照れもせず、奥二重の瞳をただ静かに瞠った後で控えめに笑んだ。
「サンタはおじいさんなんだよ。トナカイの引くソリに乗ってやってくるんだからね」
「若くて可愛いサンタだっていてもいいだろ」
 何の為にミニスカサンタ服なるものが販売されていると思っている。若くて可愛いサンタがいるからだろう。
 あれも、買っておいたら伊都は着てくれるだろうか。
 俺が黙って視線を注ぐと、彼女は何かを察したように苦笑いした。
「巡くん、何かよからぬことを考えてるね」
「わかるのか?」
「長い付き合いだもん。だけどいいのかな、おりこうさんにしてなくて」
 伊都はなぜか随分と、俺にいい子であるよう求めてくる。
 彼女なりに俺の狼藉に対する危機感、もしくは照れがあるのかもしれない。思い返せば去年も、まさに狼藉といっても差し支えない雪崩れ込みようだったからか――もちろん同意の上ではあるが。
 だが、せっかくのクリスマスだ。
 堪能できるものは全て味わい尽くしたい。
「わかった。クリスマスまではいい子にしていよう」
 俺は企みを押し隠しつつ、彼女に対して宣言した。
 スコーンを全て食べ終えた伊都が、ティーカップに息を吹きかけながら俺を見る。艶のある唇を尖らせて、何やら意味ありげな目を向けてくる。
「……何だよ、その目」
 俺が笑いながら尋ねれば、伊都は目を伏せてローズティーを一口飲んでから言った。
「ううん。巡くんがいい子にしてるかどうか、見てる人は見てるんだよ」
 それからその唇に、にまっと子供みたいな笑みを浮かべてみせた。

 ところで、彼女が考える『いい子の条件』とは一体どのようなものだろう。
 俺はそれを確かめたくて、ある計画を企てた。お会計を済ませ、ハーブティーを購入し、もちろんローストチキンの予約も済ませて店を出た後、コインパーキングに停めてあった車に乗り込んでから実行に移した。
 助手席に乗り込んだ彼女がドアを閉めた瞬間を狙って、強引に肩を引き寄せ唇を重ねた。
「っ!?」
 伊都が上げた戸惑うような呻きは、温かい咥内にくぐもって響いた。
 店からパーキングまでの十五分の道程は、彼女の頬を冷やし、唇を乾かしてしまっていた。それでも口を合わせているとその頬が次第に熱を持っていくのがわかる。心臓の動きが早くなっているのも、潰れるほど密着した柔らかい胸から伝わってきた。

 前にも、こんなことをした。
 あの時は秋だった。雨に降られて車に逃げ込んだ後で、俺の方が冷たかった。今もそうなのかもしれない、伊都の唇は乾いてはいたがほんのりと温かみを感じた。柔らかさはいつもの通りだ。あの時は久しぶりだったが、今はそうではない。挨拶代わりに毎日するくらいには、俺達は幸せになっている。
 それでも思い出が蘇ると、胸が締めつけられることがある。
 不安や悩みがあるからではなく、幸せだからだ。  今があまりにも満たされていて、空っぽだった頃を思い出して恐怖すら覚えるからだ。
 俺はあの頃、どうして一人でも平気だったのだろう。クリスマスが近づいてくるにつれ、去年も思ったことを考える。そしてその度に、伊都がいる今をとても温かく、嬉しく思う。

「……び、びっくりした」
 唇が離れると、伊都は息も絶え絶えにそう漏らした。
 その直後、潤んだ目で俺を睨みつけることも忘れなかった。
「もう、巡くんは……今日は雨降ってないんだけど」
「伊都が寒いんじゃないかと思って」
「外に人がいたら見られちゃうでしょ」
 それについては大丈夫だ。車に乗り込む直前に、ちゃんと確認しておいた。
「こういうことしてたら、サンタさん来なくなるかな」
 去年よりも伸びた髪を一度撫でてから彼女を離す。
 すると伊都は、助手席に座り直しながらぼそりと言った。
「そんなことは……ないと思うけど……」
「これはいいのか。じゃあ、どこまでやったらいい子じゃなくなる?」
「そういうの、教えてもらいながらするのは悪い子!」
 伊都は俺を一喝すると、ぷいと横を向いてしまった。

 髪の隙間から覗く彼女の耳が、すっかり赤く色づいている。
 クリスマスまでいい子でいるのは難しいようだ。その赤さを眺めながら、思った。
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