Tiny garden

夜のボーイズトーク(3)

 やがて、注文した料理が次々に運ばれてくる。
 まず来るのはサラダ類、火を使わない品だ。大根サラダとしらすおろし、豆腐サラダがやってきてテーブルの上に並んだ。
 それだけで卓上がほんの少し賑わったような気がする。

「この三人で飲むのって久々ですよね」
 大根サラダをばりばりと食べながら、霧島が切り出した。
「そう言やそうだな」
 しらすおろしに醤油を垂らす石田がすぐに同意した。
「昔は飯食いがてら飲みに行くのが普通だったもんな。今じゃその必要もねえし」
 八月辺りの繁忙期は時間のなさも他に暑さも辛くて、夏バテ防止と飯作りの手間を省く為によく外食をした。一人で食べるんじゃ味気ないからと石田や霧島を誘うことが多かった。昔は二人とも独身だったから、俺の誘いにもすんなり乗ってきた。
 だが今は二人とも妻帯者だ。家に帰れば飯があるという実に恵まれた生活をしている。
 結婚はしていないが俺だってそうだ。いつも伊都が夕飯の用意をしてくれるし、弁当だって作ってくれる。しかも美味い。
「つくづく恵まれた生活してるな、俺達」
 万感込めて呟く俺に、石田と霧島が揃ってにやにやしてくる。
「お前なんて結婚前からだからこずるいよな、フライングもいいとこだ」
「そうですよ安井先輩、ちょっと贅沢なんじゃないですか」
「なんで俺が責められるんだよ……何も悪いことはしてないだろ」

 フライングなのも贅沢な思いをさせてもらっているのも事実ではあるが、それを他人に責められるいわれはない。
 俺達は無責任に同棲を始めたわけではなく、結婚を前提にしていたのだから問題もないはずだ。

 にもかかわらず、二人の論調はさも俺が大罪人であるかのようだった。
「結婚まで待ちきれなくて同棲始めるなんて堪え性なさすぎだろ」
「安井先輩は節操のない人だと思ってましたけどね、手が早すぎます」
「お前らが言うか!」
 他の連中ならともかく石田と霧島には言われたくない。
「何を言う、俺らはちゃんと結婚まで待っただろ。なあ霧島?」
「ですよね、俺も半同棲までしかしてません」
「こいつら平然と……お前らにそれを言う権利があるか、特に霧島!」
 ふたりの重箱の隅をつつくようなツッコミは、いつだってそっくりそのまま返しても問題のない内容だった。お前らの心にはどれだけ棚があるのかと言い返したくなる。
 それは確かに、結婚するまで待てなかった俺は堪え性がないと言えるのかもしれないが。
「わかるだろ、一刻も早く一緒に暮らしたかったんだよ」
 ジョッキ片手に訴える俺を、石田と霧島はやはりにやにやと見てくる。
「まあしょうがねえよな、誕生日祝ってもらえなくて拗ねる安井くんだもんな!」
「普段偉そうなこと言っといて、彼女にはべったり甘えるタイプなんですね!」
「くっ……むかつく……!」
 今日の一件はこれから先の生涯で永遠に言われ続けるのではないだろうか。ふと、そんな不安が過ぎった。
 だから俺は誕生日を祝ってもらえないのが寂しいのではないと言っているのに。
「いいよいいよ、好きに言ってろ。伊都が帰ってきたら二人でパーティやり直すから」
 俺は本格的に拗ねながら、木匙で豆腐サラダを食べ始める。

 たっぷりのネギを載せた弾力のある豆腐をスプーンで崩しながら、こくのある胡麻ドレッシングでいただく。豆腐サラダは和風ドレ派と胡麻ドレ派が二大勢力という印象があるが、俺はやはり胡麻ドレ派である。

「しかし結婚前からそんなにいい思いしてて、結婚へのモチベ保てんのか」
 そしたら石田が妙なことを言い出して、俺は危うくむせかけた。
「モチベってなんだよ、結婚するのにそんなもの要らないだろ」
「俺はすっげえあったぜ。早よ結婚してえなーおはようからおやすみまで藍子のいる暮らししてえなーもういくつ寝ると結婚式かなーって思いながら毎日カレンダー見てたし、仕事の合間に式の準備だの打ち合わせだのやることいっぱいあっても、その楽しみだけで乗り切れた」
 当時のことを回想するかのように、石田が指折りをしてそう語る。
 毎日カレンダーを見ては結婚式までの残り日数にそわそわしていたとは、奥さんも犬っぽいが石田も大概犬である。想像すると大層面白かったが、同時に言いたいことはわからなくもなかった。
「確かに、結婚しても今と何も変わらないかもなって気持ちはあるよ」
 俺は素直に答えた。
「今だってほぼ結婚してるような生活だもんな」

 おはようからおやすみまで伊都と一緒にいる暮らしをしている。
 家事の分担だけではなく生活費や家賃の配分も話し合っているし、二人で一緒の口座に貯蓄も始めている。あとはもう籍を入れて式を挙げるだけ、という段階まで来ている。

「だからってモチベーションが保てないことはない。結婚したい気持ちが薄れることもな」
 きっぱりと続ける。
 むしろ一刻も早く結婚したいと、日々思っている。
「やっぱり、彼女と同じ名字になりたい。そうすることで初めてただの同居人じゃなく、温かく幸せな家族になれるんだと思うよ」
 そこまで言い切ると、石田と霧島は顔を見合わせ、それからほぼ同時に拍手を始めた。
「おお……安井もどんどん恋の詩人の道を邁進しつつあるな」
「こっちが恥ずかしくなるようなことを真顔で言いますよね」
「お前ら! 聞いといてその反応はないだろ!」
 別におかしなことを口走ったつもりはないのだが、揃って茶化されるとさすがに面映い。俺は逃げるようにジョッキのビールを呷る。
「だけど同じ名字になったら園田さん、『やすいいと』ですよね」
 霧島がふと気づいたように口を開く。
「伊都ちゃんって名前だと名字の相性気になるよな。その辺、本人は気にしてねえのか」
 石田もそういえばという顔で追従した。
 どうも石田に『伊都ちゃん』と言われると癇に障る。だがそれを顔に出すとまたうるさく突っ込まれそうなので、俺はもう一口ビールを飲んでから淡々と応じた。
「『高いよりはポジティブでいい、買わなきゃって思うよ』って言ってたよ」
 その時のやり取りを伝えれば、途端に霧島が破顔した。
「ああ、そういう言い方しそうですよね園田さんって」
「からっとしてて、裏表がないのがいいよな。まさに安井とは対照的だ」
 相変わらず石田は一言多い。

 だがそこまで言われる俺だからこそ、彼女の明るさに惹かれたというのも事実だった。
 あの笑顔さえあれば結婚の準備だろうと仕事だろうと、どんなモチベーションも途絶えることはないだろう。

「園田さんなら、きっと明るくて笑いの絶えない家庭になるでしょうね」
 霧島の方がまだ言葉に優しさがある。そう言って微笑む後輩に、俺は毒気を抜かれ聞き返す。
「そう思ってくれるか?」
「はい。園田さんとなら、安井先輩は幸せになれるだろうと思います」
 普段は可愛げのない後輩から、まるで予言のような祝福を貰った。
 俺は多少面食らいながらも、いい気分でそれを受け取る。
「ありがとう、幸せになるよ」
 これまで二人の結婚を見届けてきて、次は、ようやく俺の番だ。
 霧島の言葉に、その事実を改めて噛み締めていた。
「まあ安井先輩みたいに果てしなく面倒くさい人、園田さんくらいの明るさがないと支えきれないですよね」
「だよな! 俺も心からそう思うわ」
「お前ら結局それか!」
 一瞬ほろりとしかけた俺の純粋な心を返して欲しい。霧島も石田も結局は俺を弄りたいだけなんだろう。なんて奴らだ。
「全く営業課の連中は、揃いも揃って素直に人を祝うって気持ちがないのか!」
「俺も昔は素直ないい子だったんです。先輩がたに染められたんですよ」
「そうだぞ安井、お前の煤けた背中を霧島はよっく見てるんだよ」
 普段はさして仲良くもないくせに、この営業課の上司と部下はどうでもいい時だけ絶妙なタッグを組みやがる。
「むしろお前だろ石田、お前が直属の上司だろ!」
 俺は石田に八つ当たりしつつ、いつの間にやら残りわずかになったビールを喉に流し込む。
 げらげら笑う石田が店員を呼ぼうとしたタイミングで、最初に頼んだ料理の残りが運ばれてくるのが見えた。

 いつもよりもペースが速くなった理由はいくつかある。
 まず、石田と霧島が集中して俺を弄ってきて、酒に逃げずにはいられなかったこと。
 次にこの店の料理が美味くて、ついつい酒も進んでしまったこと。
 そして最もたる理由が、何だかんだで楽しい飲み会になってしまったということだ。誕生日祝い並びに結婚祝いにしては雑な扱いを受けていると思うが、よくよく考えればいつもこんなものだった。いつも通りの男ばかりの飲み会だ。

 気がつけば俺は大分酔っ払っていて、
「安井は相変わらず酒弱いな、もうべろべろじゃねえか」
 あまり顔色の変わらない石田に笑われるくらいには、しっかりできあがっているようだ。
 確かにどこかふわふわしているが、そんなに悪い気分ではない。むしろまだいける気さえする。
「全然大丈夫」
 俺が手をひらひら振ると、霧島も蕎麦を啜りながら苦笑してみせた。
「今夜は園田さんがいらっしゃらないんですから、程々にした方がいいですよ」
「霧島こそ蕎麦だけで何杯目だよ、程々にしろよ」
「これはざるなのでまだ一枚目です。ここのお蕎麦、美味しいですね」
「屁理屈じゃないか、よく酒飲みながら蕎麦ばかり食えるな」
 奴の麺好きには全く畏れ入る。だがそんな蕎麦の美味い店を選んだのは俺で、霧島が美味そうにしているのを見ていると何となく嬉しかった。
「そんなに美味いなら、俺も〆は蕎麦にすっかな。にしん蕎麦あるし」
 石田がメニューを手に取り、しげしげと眺めている。それからちらりと俺を見た。
「安井はどうする?」
「俺も食う」
「何にするんだ、豆腐蕎麦なんてのはないぜ」
「きつね。豆腐がないなら油揚げを食べればいいじゃないって、伊都が」
 幸いにしてきつね蕎麦はあった。注文を終えてそれを待つ間、俺はいつ頼んだのか思い出せない豆乳アイスを食べてしまうことにする。
「俺、アイスなんて頼んだっけ……」
「頼んでただろ、さっき『暑いから冷たいもの食いたい』っつって」
「安井先輩、相当酔ってますね。ちゃんと帰れます?」
 二人に心配そうにされながら、俺はスプーンを動かしひたすらアイスを食べた。きなこと黒蜜のかかった豆乳アイスは、酒の入った身体にひんやり冷たくて美味かった。自分ではそこまで酔っている気はしないのだが、念の為にも帰りはタクシーにしよう。
 帰るのは伊都のいない一人の部屋だ。ちゃんと帰りつかなくては。
「お前らはいいよな、帰ったら奥さんがいるんだから」
 俺が零すと、二人には揃って苦笑されてしまった。
「明日には園田も帰ってくんだろ、そう寂しがるなよ」
「本当、先輩は寂しがり屋なんですね。一人じゃ寝られないんですか?」
「馬鹿言うな、いつもいる伊都がいないってだけで一人ぼっちの倍は寂しいんだぞ」

 昔の俺はちゃんと一人暮らしをしていた。その頃はたまに人肌恋しさを覚えることはあったものの、やり過ごせないほどではなかった。
 だが伊都と暮らし始めてから、俺はようやくまともな感覚を取り戻したように思う。彼女といると幸せで、彼女がいなければ寂しい。どうしてこれまで伊都なしで暮らしてきたのか、どうして平気でいられたのか、自分でもわからないほどだった。

「俺はもう、伊都なしでは生きられないんだ」
 思わずそう呟いてから、石田と霧島がぽかんとしているのに気づいて、何となく尋ねてみた。
「俺、やっぱり酔ってるか?」
「酔ってる酔ってる。けど超面白いから気にすんな」
「ええそうですね、是非お話の続きを聞かせてください」
 二人とも、てんで勝手なことを言いやがる。
 いつの間にか皿からアイスが消えて、スプーンがガラス皿を打つ硬い音が響いた。俺はスプーンを置き、頬杖をついてきつね蕎麦の到着を待つ。
「そういえば安井先輩、こないだドレスを見に行ったんですよね」
「奥さんから聞いたのか?」
「はい。園田さんがすごく可愛かったって、妻が大絶賛してました」
 社員食堂で霧島夫人とご一緒した際、衣裳合わせの画像を見せてあげたのを思い出す。俺の携帯電話に保存してある、とっておきの可愛いやつだ。
「何だよそれ、初耳だぞ。俺にも見せろよ」
 石田もすかさず食いついてきたので、俺は携帯電話の画像フォルダからその写真を呼び出し、二人に見せてやった。
 二人は額を突き合わせるようにして画面を覗き込み、そして感心したような声を上げた。
「おお、こりゃまた可愛い花嫁さんだな。こういう丈のドレスもあんのか」
「バレエのチュチュみたいで可愛いですね、本番も大変楽しみです」
「そうだろ、可愛いだろ。俺の伊都だからな」
 誉められるとまるで自分のことみたいに嬉しい。そして本日も謙遜は一切しない。
 なぜならそんな必要などないくらい、あのドレスを着た伊都は可愛いからだ。
「初めて見た時、妖精のお姫様だって思ったんだよな……」
 衣裳合わせの時の衝撃を反芻しつつ、俺はしみじみ二人に語った。
 すると石田と霧島はまたしても顔を見合わせ、
「今何っつった、安井」
「えっと……もう一度お願いできますか、先輩」
「だから、妖精のお姫様だよ。可憐で、いつも以上に可愛くてさ」
 伊都はいつも可愛いが、あの時ばかりは本当に目が眩むほどの衝撃を受けた。
「こんな花嫁を迎えることができる俺は、世界一の幸せ者に違いないって思った」
「お……おう」
「はあ……」
 石田は吊り目がちな目元で瞬きを繰り返し、霧島は眼鏡の奥の瞳をこれ以上ないほど見開いた。
 その直後、我に返った石田が、スーツのポケットから携帯電話を取り出す。
「なあ安井、今のもっかい頼む」
 そして俺に背面を向けながら言ってきたので、俺はそのレンズの前で手を振った。
「やめろよ、酔っ払いの顔を写真に撮るな」
「写真にはしねえから。ドレスを着た園田が何に見えたって?」
「それはさっき言っただろ」
「いいからもっかい言ってみ」
「……だから、妖精のお姫様だよ」
 あの時のことを思い出すと、ときめきで動悸が速くなり、同時に幸せで満たされた気分になる。
「本当に、人間じゃないんじゃないかってくらい可愛くてさ、可憐でさ」
 俺は頬杖をついたまま、石田と霧島にあの時の気持ちを語って聞かせる。
「あの時は胸が詰まって、まともな誉め言葉も出てこないくらいだったな……。可愛かった。けど心配なのは披露宴の本番だよ。あんな花嫁に隣に立たれて、俺、ちゃんと挨拶とかできるかな。幸せすぎて言葉も出なくなったらどうしようかな……」
 そして石田は、そんな俺に携帯電話を向け続ける。霧島もその画面を覗き込んでいる。
「いつになくすげえこと語るな……」
「しっ、先輩。声が入ります」
 やはり酔っ払っているようで、ふわふわと気分がどこかへ漂い始めている。
 それを捕まえようとするかのように、石田の声が追い駆けてくる。
「今幸せか、安井」
「ああ、すごく。三十二年の人生で一番幸せだ」
「そりゃよかった。これからも園田と仲良くな」
 石田の声が随分と優しく聞こえたのも、もしかすると酔いのせいだろうか。

 蕎麦を食べたら今夜はぼちぼち帰ることにしよう、そう思った時に店員が湯気の立つ丼を手にこちらへやってくるのが見えた。石田が携帯電話をポケットにしまうのも見た。
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