Tiny garden

ふたりの幸せな日に(6)

 カーテンの隙間から差し込む光が、夕日の色に変わっていた。
 もう少し待てば、カーテンを開ける必要がなくなりそうな頃合いだった。俺は現在の時刻を、DVDプレイヤーの時刻表示で確かめる。十六時四十五分。少しのんびりしてしまった。
 園田と過ごす以外に予定なんてないし、のんびりでも別に構わない。むしろしばらくは動きたくなかった。ただ彼女を抱き締めて、いつまでも余韻に浸っていたかった。
 でも同時に、少し疲れてもいた。数時間前にお茶を飲んだきりで喉はからからだったし、もう少ししたら空腹も覚えることだろう。
 そして徐々に余韻が引いていくと、彼女もだんだんと冷静になる。熱に浮かされたような時間が過ぎ去った後は、くすぐったいような、気恥ずかしい時間が必ずやってくる。

「ね……ねえ。この格好のままだとちょっとあれかも」
「あれって? 俺は好きだよこの格好、いい眺めだ」
「み、見ないでよもう……」
「あいにくだけどさっき、散々見た。きれいだよ、伊都」
「じゃあもう見なくていいじゃない! ちょっとの間、あっち向いてて」
「そんなつれないこと言うなよ。いくら見たって見飽きないんだよ」
 園田はあれこれと今更のようなことばかり言ってきたが、俺を言い負かすことは無理だと踏んだようだ。やがて諦めたのか、いち早く起き上がり、着替えを始めた。
「安井さんは、何時までいられるの?」
 シャツワンピースに袖を通した園田が、たくさんボタンを留め始めながら尋ねてきた。
 俺はまだ床に寝そべったまま、彼女を見上げて聞き返す。
「何時までいてもいい?」
 どうせ明日も休みだし、急いで帰る必要はない。
 それ以上に、彼女から離れがたかった。彼女が先に起き上がった時、その身体の柔らかさと温かさが引き剥がされたように消えてなくなり、そのことをとても残念だと思った。できれば離れて欲しくなかったが、そうもいかないのもわかっている。
 だからせめて長い時間、彼女と共に過ごしたかった。
「え……別に何時まででもいいよ」
 園田はワンピースのボタンを上から順に留めている。

 少し前に俺が全部外してしまったから、脚はまだ剥き出しのままだ。彼女の脚は直に見てもラインがとてもきれいで、よく引き締まっていた。
 隠れてしまう前にと未練がましく手を伸ばし、撫でてみた。手のひらにすべすべした感触があり、手触りは今までに触れたどんな物よりも素晴らしかった。彼女の脚は筋肉がついているのに柔らかく、特に内腿は触れるとふるふると豆腐みたいに柔らかく揺れた。

 俺があんまり脚を撫でるからか、園田はちょっと困ったような顔をする。
「そこに手置いてたらボタン留められないよ」
「留めなくていいよ。このまま開けっ放しでいればいい」
「やだ。変なこと言わないで」
 きっぱりと拒絶した彼女は、その後でくすくす笑いながら俺の手を捕まえ、そっと床に下ろした。
 そしてボタンを全部留めてしまうと、俺の顔を覗き込むように見下ろしてきた。
「よかったら晩ご飯も食べてく?」
 俺を見て、目を細める彼女の表情は無邪気だった。見た目にはさっきまでと何も変わらないようだった。少しだけ泣いた跡も真っ赤だった頬も汗に濡れた額も、今となってはわずかな痕跡を残すのみだ。唯一、乾いた赤い唇だけが、先程までの長い時間を象徴しているようだった。
「嬉しいけど、迷惑じゃないのか」
「全然! 長くいてくれる方が嬉しいよ」
 そう言ってから、園田は俺の胸に優しく手を置いて、もじもじしながら言い添える。
「と言うか、帰って欲しくないな、なんて……。言ってみたりして」
 彼女にしては珍しい、甘えるような口調が胸に来た。
 俺は答えるより早く彼女の後頭部に手を置き、力を込めてぐっと抱き寄せた。
「あっ……」
 声を上げた園田が俺の上に倒れ込んできたので、そのまま強引に唇を重ねる。
 身体にかかる彼女の重さと高い体温が気持ちよかった。
 帰りたくない。離れたくない。
「……じゃあずっと、ここにいようかな」
 長めのキスが終わってから、俺は彼女の身体を上に乗せたまま、さらさらの髪を撫でながら言った。
 顔を上げた園田が目を瞬かせる。
「泊まってく? 安井さん」
「お前さえよければ。俺もちっとも帰りたくない。もっと一緒にいたい」
「私はいいよ。泊まってってくれたら、すごく嬉しいな」
 彼女は快く頷いた後、ふと考え込むような顔をした。
「でも、ごめん。うちには余分な歯ブラシとかないんだ。あとで必要な物買ってくるよ」
「そうだな。車で来てるから、よかったら一緒に行こう」
 急な泊まりとなるといろいろ欲しい物もある。時間に余裕があれば着替えも見繕ってきたいところだ。
 俺は園田の乾いた唇を指の腹で撫でた。多分お互いに、喉が渇いていた。
「疲れてるんだったら、夕飯は外で食べてもいいしな」
「別に疲れてないよ」
 園田は明るく答えていたけど、疲れていないはずがない。今日はもう十分すぎるほどごちそうになってしまった。美味しかった。
 だから後はもう、彼女に負担をかけないようのんびり過ごせたらいい。
「お前には無理させちゃったからな。少し休めよ」
「無理もしてないよ。安井さん、優しいね」
 気遣われたのが嬉しかったのか、そこで園田は表情をふっと和ませた。
 こんな些細なことでも嬉しそうにしてくれるのが可愛い。何だかこっちまで浮かれてしまう。
「でも身体、疲れてるだろ」
「疲れてないったら。大丈夫だよ」
「さっきは俺も夢中でさ、お前に結構いろいろ、ほら、好き放題しちゃったから」
「……え?」
「無理させて身体きついんじゃないかって心配なんだよ。平気か?」
「な、何言ってんの!」
 そこまで言うとようやく園田が俺の言わんとしているところを察したようで、たちまち真っ赤になってしまった。
「もう、安井さんの馬鹿! ばかばか!」
 そんなことを喚きながら手のひらで俺の胸をぺちっと、音がするくらい叩いてきた。でも喚く彼女はちっともうるさくないどころか可愛いくらいだし、叩かれたって大して痛くもない。そして彼女が俺に対して時々言う『馬鹿』って言葉が、今じゃ甘い愛の囁きみたいに聞こえてくるから不思議だ。
「もっと言われたいな、馬鹿って」
 俺がしみじみ呟いたからか、彼女は俺を睨んでいた目を一転して大きく瞠った。
「何、それ」
「いや、今思っただけ。園田に馬鹿って言われるの、いいなって。気持ちいい」

 園田はあんまり他人を悪しざまに言う方じゃない。
 特に俺に対しては『好きな人』だからなのか、ちょっと過剰なくらい誉め殺しに来る。俺みたいな男を捕まえて優しいなんて、逆に心配になるくらいの過大評価だ。
 もちろんそういうのが嬉しくないわけじゃないし、そう思ってくれてるなら彼女に対してだけは期待を裏切らない優しい男でありたい、なんてことも考えたりする。
 だがその一方で、園田がとっさに口にする『馬鹿』って言葉にも相当の破壊力がある。
 彼女がそれを口にするのは照れ隠しの時だけだ。園田が俺の言葉に照れて、うろたえて、どうしていいのかわからなくなった挙句それを誤魔化す為に子供みたいに罵ってくるのかと思うと最高にいい気分になる。
 俺以上に心の優しい彼女が『馬鹿』なんて言うのはきっと、世界に一人、俺だけなのだろうし、彼女がそこまで言いたくなるほどその心を掻き乱し、翻弄し、めちゃくちゃにできるのもまた俺だけだろう。

 ただ、そういう気持ちは彼女にはよくわからないものらしい。
「安井さんって、実は罵られたりするの好きな人?」
 不安そうに聞いてくる辺り、園田は真剣に俺の趣味を確認したがっているようだ。
 でも多分、お前が思ってるのとは全く逆だ。
「そんなことない。ただ園田に言われるのが好きなだけ」
 俺の答えを、彼女はどうにも釈然としない顔で聞いている。
「ふうん……」
 こういう感覚を何と言うのが正しいんだろう。
 よく知っていると思っていた相手の中にまだ知らない一面を見つけて、それがまるで宝物でも見つけたように嬉しい。
「だから遠慮しなくていいよ。俺に言いたいことがあったら、何でも言えばいい」
「遠慮なら、最初からしてないよ」
 園田はそう言うと、また急に立ち上がって俺から離れた。
「ね、喉渇かない? お水持ってきてあげようか」
「ああ、助かるよ。ちょうど飲みたかったんだ」
 俺は上体を起こしながら頷いた。
 それで彼女は踵を返し、水を入れたコップを二つ持って戻ってきた。俺がその水を飲み干すと、園田もあっさりコップを空にして、それから大きく息をつく。
「……何か、どうなっちゃうんだろうと思ったけど」
 はにかみながら、独り言らしく彼女は言った。
「考えてたより幸せな感じがするね、こういうの」
 俺をちらりと見ながら、恥ずかしそうに笑っていた。
 その笑顔を見返した俺は、実に満ち足りた気分でいた。

 恋愛観の違いだと言ってしまえばそれまでだが、俺は園田ほどひたむきに恋をしたことがない。
 人を好きになるのは簡単なことだと思っていたし、実際に簡単だった。可愛い子、きれいな子はいつでもすぐ好きになれたし、そういう子達から好意を寄せられて一緒にいるのも楽しかった。恋愛は自分の為にするものだった。何よりも気持ちよさが肝心で――別に性的な意味じゃなく、心身共にという意味で――園田とも、そういう気持ちよく楽しい男女交際ができたらいいと思っていた。
 でも園田を見ていると、恋愛はそんなにたやすいものではないような気がしてくる。
 好きな人の為に何もかも懸けられるような、自分の内面すら曝け出してしまえるような、彼女らしい一途でひたむきな恋に、俺まで引きずり込まれてしまったようだ。
 いや、もしかすると俺自身、望んでそこへ飛び込んだのかもしれない。
 彼女がしているひたむきな恋が眩しくて、羨ましくて、彼女と同じように欲しくなった。

 結局、その晩はちゃっかり園田の部屋に泊まってしまった。
 日が落ちてから一度買い物に出て、歯ブラシなどの生活用品と寝間着代わりの衣料品を買ってきた。だが歯ブラシはともかく、寝間着は全く使わなかった。
 彼女の部屋に敷いたたった一組の布団の中に、二人で潜り込んでいた。お互いくたびれているはずなのに、園田は何だかはしゃいでいるみたいで、明かりが消えた闇の中でもわかるくらい表情を輝かせていた。
「修学旅行みたいだよね、こういうの」
 そう言って、一人でくすくす笑っている。
 園田の例えは色気がないと言うか、おれとしてはもう少し別の旅行に例えて欲しかった気がしなくもない。ただ彼女の言葉に色気がなくても、彼女がパジャマを着ていないという事実は大変魅力的だった。
 俺は腕を伸ばして彼女の身体を抱き寄せながら応じる。
「修学旅行だって一人一組の布団で寝るだろ。こういうことするのは大人だけだ」
 柔らかい体温を腕の中に収めると、それだけで心が満たされるような幸福感を覚えた。
「あ……もう」
 少し呆れたように鼻を鳴らした後、園田も自分から俺に抱きついてくる。俺の背に腕を回し、しがみついてくる。
 その後で不意に顔を上げ、戸惑った様子で俺を見た。
「安井さんはやっぱり手が早いよね」
「好きじゃなきゃしないよ、こんなこと」
 俺の答えは決まっている。それは今日の昼にも言ったことだ。好きだからこそ、今夜はこうして一緒に過ごしたいと思った。
 ただ、こんなに好きになるとは想像もしていなかった。
 俺の腕に頭を預けている園田は、こんな暗闇の中でも真っ直ぐに俺を見つめている。
「好きじゃなきゃ……かあ。そういうものなのかな」
 呟いた言葉は怪訝そうだった。
 園田はそういうふうに思ったことがなかったと俺に打ち明けてくれたが、今はどうなのだろう。少しくらいは前向きに考えてくれるようになっただろうか。
「いろいろ考えてたんだけどな。安井さんが私と付き合ってくれたから、あんなことしようとか、こんなことしようとか。ご飯作ってあげようとか、一緒に楽しく映画観ようとか、他にもいくつかあったけど」
 彼女が語るそういった想像は恐らくすこぶる健全な代物だったのだろう。
 それを俺が引っ掻き回して、無理やり大人向けの内容に改ざんしてしまった。
 それが悪いことだとは露とも思っていないが、これから園田がどんな想像をめぐらせるのか、その変化には興味がある。
「でも安井さんはそういうの飛び越えて、私が考えもしないようなことをいろいろしちゃうんだもん。すごくびっくりした」
「俺だってお前がシャワー浴びてくるって言った時は驚いたけどな」
 率直に告げたら、布団の中で軽く足を蹴られた。
「それは忘れていいから! 今思うと、結構恥ずかしいことしちゃったかな……」
「忘れられるわけないだろ。一生覚えてる」
「お願いだから安井さんは忘れてよ。私が忘れられそうにないんだから」
「じゃあお互い、今日を大切な思い出にするってことでいいんじゃないか」
 俺が提案すると、園田は深く溜息をついた。
 いろんなことがあった一日を締めくくるような、感慨深げな溜息だった。
「そうだね。……あのね、一つだけ言っておきたいんだけど」
「何?」
 布団の中で視線が絡まりあう。
 彼女の眼差しはやはり一途で、ひたむきだった。
「私、安井さんとだったら何でも幸せなのかも」
 そんなふうに、園田は言った。
「無理なんてしてないからね。本当だよ。何でも、すごく幸せ」

 それから十分もしないうち、園田は俺の腕の中で寝息を立て始めた。
 俺は眠るのがもったいないと思っていたくらいだったから、彼女があっさりと寝入ってしまったことがおかしかった。
 だが、やはり疲れていたのだろう。
 あどけない寝顔を見ているとなぜか胸が痛くなる。彼女の為なら何でもしてやりたいと、焦燥感、もどかしさが膨れ上がってくる。もうこれ以上彼女を傷つけないよう、俺にできることは何でもしたいと思う。

 俺は園田の顔にかかる髪を、眠りを妨げないようにそっと払った。
 それから寝顔を見つめつつ、園田をしっかりと、離れないように抱き締める。
 彼女が傍にいて、これから一緒に眠りに就こうとしているのに、どうして切ないなんて感覚が込み上げてくるのだろう。まるで片想いみたいな気持ちだ。彼女が好きで、いとおしくて仕方がない。
 同時にそんな気持ちを、彼女と同じように持てることに、最高に幸福な気分でもいた。

 俺と園田にとっての幸せな日はもうすぐ終わる。寂しいが、仕方のないことだ。
 しかし明日が同じように幸せでないとは言えない。もしかするともっと幸せな日がこれから、毎日のようにやってくるかもしれない。
 だから俺も目を閉じた。
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