Tiny garden

白を纏う(2)

 やがて、スタイリストさんがドレスを手にこちらへ戻ってきた。
「こちらがご希望のスレンダーラインになります。お色はアイボリーです」
 アイボリーとは言うが単体で見れば、青みが少ない白という色合いに見える。肩の部分がないいわゆるビスチェタイプで、上半身は一面が花模様のレースで覆われている。サッシュを結んだスカート部分はやや光沢のあるシフォンで、ドレープが描く陰影がとても美しく見えた。
 事前に調べた情報通り、身体のラインに沿うよう仕立てられたシンプルなドレスだった。
「わ、すごい。このドレス、私のイメージ通りです!」
 一目見た瞬間、伊都は歓声を上げた。
「自分で着るならこういうのがいいなって思ってて……!」
 よほど気に入ったんだろう、興奮気味にドレスに見入っている。あの瞳の輝きよう、まるで美味い豆腐料理に出会った時と同じだ。
 一方、俺は伊都ほど感動する境地には至らない。やはりドレスは人が着るから意味があるのであって、抜け殻だけ見せられてもイメージが湧かなかった。
「近年は特にレースのデザインが流行しているんです」
 スタイリストさんが後押しするように説明を添える。
「品のある透け感が人気なんですよ。花嫁さんらしい清らかさと大人の妖艶さを両立できるお品となっております」
「透け感? どこが透けてるんですか?」
 即座に伊都が聞き返せば、スタイリストさんはドレスを反転させて背中部分をこちらに見せた。
 生地に上からレースをかぶせた前面とは違い、背中はシースルーのレース一枚仕立てだった。俺は思わず伊都の反応を窺ったが、彼女は嫌がるどころかますます好印象を持ったようだ。すぐに言った。
「素敵ですね……! これいいなあ、着てみたいです是非!」
 普段ならこの手の露出が多い服は俺がいかに頼もうがせがもうが一切着てくれないのだが、ドレスとなると別物らしい。その非日常性は伊都のような女性でさえもいい具合に開放的にしてくれるようだ。ありがたいことである。
 しかし一方で、霧島ゆきの夫人からのアドバイスにはこうあった。
 一、即断即決しないこと。
 二、ドレスを着たら必ず写真を撮っておくこと。
 三、ドレスショップの店員さんは得てして誉め上手だが、決して妥協はしないこと。
 伊都はすっかりこのドレスを気に入っているようだし、彼女ならきっと似合うことだろう。だが気に入るあまり一着目で『これにします!』と言われても困る。俺はもっといろいろな伊都を見たいし、たくさん写真に収めたいのだ。
「では一着目はこちらにいたしましょうか」
「はい、お願いします」
 頷く伊都は上機嫌だった。よほど今のドレスが気に入ったのだろう。
 それならそれで俺が口を挟むのも野暮だろうか。そんなことを思いつつ、俺もつられたように笑んでいた。

 伊都はその後、他にも二着ほどのドレスに当たりを着けたようだ。
 どちらも彼女が着たがっていたスレンダーラインのものだった。素材や細部のデザインこそ違えど、スカート部分が細身であることは変わらない。伊都はやはりごくシンプルなドレスをご所望のようで、嬉しそうに見繕った後でスタイリストさんと共にフィッティングルームへ消えた。
 説明があった通り、まずは採寸から始めるらしい。ドレスはそのまますとんと着ればいいものでもないらしく、細かな調整が必要だとのことだった。式の一ヶ月前にも来店して最終調整をすると聞かされて、何だか鎧兜の武装みたいだなと密かに思ってしまった。
 採寸の間、俺はすっかり手持ち無沙汰で伊都から預かったデジカメを弄っている。
 当たり前だが他に客の姿がない店内に、流れるのは洋楽のBGMのみだ。何となく聞き流していれば選曲はどれもラブソング、結婚式の定番ソングが多かった。こういうところまで否応なしに気分を盛り上げようとしてくる。
 正直なところ、どきどきしていた。
 他でもない伊都のドレス姿だ。今日までウェディングドレスについて二人であれこれ調べて、彼女が着たらどんな感じだろうと想像もしていたが、やはり実物を拝むとなれば気持ちも違う。早く見たいという思いが逸り、落ち着かない気分だった。

「ご新郎様」
 やがて、スタイリストさんが一人で戻ってきた。にこやかな笑みで俺を呼ぶ。
「ご新婦様のお支度が整いました。とってもおきれいですよ」
 もちろんそれはどんな客にも添える言葉なのだろうが、こちらの期待は一層高まった。
 カーテン両開きの大きなフィッティングルームまで通され、俺は中に立ち入った。大きな姿見の前に見覚えのあるドレスをまとった後ろ姿が見える。レース越しに透けて見える背中と、結んだサッシュの下で流れ落ちるようなドレープをきかせた白いシフォンのスカート。裾は床に引きずるほど長く、まるで水面にさざ波立つように広がっている。
 髪をシニヨンにまとめた伊都が、そこでこちらを振り返る。
「あ、巡くん。どうかな?」
 浮かべているのはいつもの、あっけらかんとした全開の笑顔だ。

 だがそんな彼女が非日常的なドレスを身にまとうと、それだけでまるで別人のように見えた。アイボリーの生地は彼女の肌色にとてもよく馴染んでいたし、ビスチェでは覆い切れない鎖骨と胸の間の柔らかそうな部分や、なめらかな肩のラインが今は芸術品のように美しく見えた。そして最も素晴らしいのが腰から脚にかけての曲線だ。長いスカートは彼女の引き締まった脚、くびれた腰にぴったりと寄り添い、その魅力的なラインをより引き立たせている。
 昔に見た古い映画を思い出す。美しい女がベッドから白いシーツを引き剥がし、一糸まとわぬその身体に巻きつけるという場面だ。思えばあのシーンにはまっさらな白の清らかさと匂い立つような妖艶さが両方備わっていた――今の伊都にも同じように、シーツ一枚を身にまとったような清らかと妖艶さがある。

 溜息が出た。
「伊都……」
「な、何?」
 俺が名前を呼ぶと、それだけで彼女は少し恥ずかしそうにする。
 こちらも二人きりなら言いたいことはたくさんあるのだが、傍らではスタイリストさんが慣れた様子でにこにこしている。愛する彼女のウェディングドレス姿に見とれる男なんて飽きるほど見てこられたことだろうが、だからといってその目を意識しないではいられなかった。
「きれいだ、すごく。早く結婚したくなった」
 ひとまず月並みな誉め言葉を口にすると、伊都もはにかんでみせた。
「ありがと。やっぱりいいドレスだよね」
「ああ、それによく似合ってる」
「そっか……」
 ところがそこで、なぜか彼女は浮かない思案顔になる。
「どうかしたのか?」
 尋ねてみれば、尚も考え込みながら言われた。
「うーん……何て言うか、ちょっと地味じゃないかって気がしてきて」
「どこが?」
「私の顔が」
 伊都はフィッティングルームの奥にある、大きな姿見と向き合った。そして小首を傾げる。
「ドレスのこと調べる時、外国のモデルさんの顔ばかり見てたからかなあ。何か私が着ると、一段地味だなって思う」
 確かにドレスのモデルさんは彫りの深い外国人であることが多かった。それは俺も一緒に調べてきたからよく知っている。
 伊都は愛嬌があり笑顔の可愛い面立ちをしているが、さすがに外国人ほど彫りは深くない。日本人らしい顔をしている。
 とは言え、彼女が言うほど地味だとは思えなかった。
「俺はいいと思うけどな。着たがってただけあって、その型は伊都によく合ってるよ」
 特に脚のラインが。
「式当日はブライダルメイクをいたしますので、今とはまたご印象が変わるかと」
 スタイリストさんも穏やかに口添えしてきた。
「コサージュなどのアクセサリーでより華やかにすることもできます」
「そうですよね、うーん……」
「ただ、スレンダーラインはドレスの中でもシンプルな仕立てとなっております。ご披露宴の規模など伺いますと、やはり他の型のドレスより地味に映る場合もあるかと……」
 遠回しに、言葉を選びながらそんなことも言われたので、俺まで考え込む羽目になったが。
 俺達は職場結婚なので、それなりに大きなハコでなければお招きすべき皆様を収容できない。ホテルの披露宴が華やかでないはずもなく、となるとこのドレスでは地味だという意見も一理ある。
 思い出すのはつい先日の石田の結婚式だ。あれもホテルでの披露宴だったが、石田夫人は長いトレーンの優雅なウェディングドレスを着ていた。やはりあのくらいでなければ、大きなハコではかえって浮くのだろうか。
「とりあえず、写真を撮ろう」
 俺は空気を変えようと、伊都にそう声をかけた。
 どうせ今日は試着に来たのだ。彼女が納得いかないのであれば次に行くまでだ。ましてや一生に一度の式、妥協なんてして後で悔やむ事態だけは避けたい。
「そうだね、お願いします」
 伊都も思案を一旦やめて、カメラの前で背筋を伸ばしてみせた。
 デジカメのファインダー越しに彼女を見つめる。今のドレス姿も十分にきれいだ。写真に残しておきたくて、俺は角度を変えて何度も何度もシャッターを切った。
 だがもし、もっと彼女に似合うドレスが他にあるなら、それを見つけてみたいとも思う。

 それからも伊都は二着ほどドレスを試した。
 同じスレンダーラインでもややデザインが華やかなものを探していただいてそれを着た。総レースのドレスと、クリームを絞ったようなフリルのドレスだった。
 そのどちらも俺にとっては美しく思えたし、思った通りに彼女を誉めたが、伊都が納得することはなかった。
 スタイリストさんも同じ印象を持っていたのかもしれない。無闇に誉めちぎるということもなく、『一度のご来店で決められる方はそう多くないんですよ』と慰めるように言ってくれた。

 店を出た後、車に乗り込んだ伊都は早速デジカメを確認し始めた。
「悩むなあ……」
 そしてやはり唸っている。
 別に俺の撮影技術が劣っているというわけではなく、ちゃんときれいに撮れていることは確認済みである。あとで俺の携帯電話に転送しよう。
「俺にはきれいに見えたけどな、あのドレスも」
 ハンドルを握りながら声をかけると、伊都はこちらを向いて苦笑する。何度も着たり脱いだりしたからか、少し疲れているようにも見えた。
「ありがとう、巡くん。せっかく誉めてくれたのに迷ってごめんね」
「好きなだけ迷えよ。俺ももっといろんな伊都が見てみたい」
「うん、本当にありがと」
「大丈夫、霧島夫人だって店に通い詰めたって言ってたろ」
 向こうの場合は『候補がたくさんあって迷った』ということだったから、俺達のケースとは違うのかもしれないが、一度で決めない方がいいのは確かだ。時間の許す限りはじっくり悩めばいい。悩んだ分だけ俺はいつもと違う雰囲気の伊都を楽しめるし、画像データも増えていく。いいことだ。
 ただ、ドレスの候補については再検討すべきかもしれない。似合う色はわかったが、型の方はどうだろう。
「明日行く店では思い切って、違う型のドレスにしてみたらどうかな」
 ふと思いついて、俺は助手席の彼女に提案してみた。
「その方がいいかな?」
「ああ。と言うか、コンセプトから見直してもいいんじゃないか」
「コンセプト?」
「大人っぽい花嫁さんになりたくてスレンダーラインにしたんだったよな」
 その気持ちはわからなくもない。伊都はれっきとした大人だし、歳相応にしっかりしている。勤務中の彼女は実に頼もしい広報課員だし、自転車を漕ぐ姿は凛々しくて格好いい。
 だが彼女の屈託のなさ、愛嬌のある笑顔から年下に見られがちだというのも事実だった。広報課でも小野口課長からは娘のように思われているようだし、東間さんとも姉妹のような仲のよさだ。二人とも、伊都のことを可愛いと思っているのがよくわかる。以前お会いした伊都のお姉さんもそんな感じだった。
 そして俺にとっても、伊都は何よりもまず可愛い存在だ。
「ここはあえて、可愛い花嫁さんを目指してみたらいい」
「巡くん、私もうじき三十だよ」
 伊都は声を立てて笑った。
「可愛さをコンセプトにするにはさすがに歳重ねすぎた気がしない?」
「俺はそうは思わないな。伊都は今でも可愛いよ」
「巡くんが誉めてくれるのは嬉しいけど……」
 照れているのも声でわかる。
 俺は先回りするように語を継いだ。
「他の人も同じように思うんじゃないか。いつも通り、可愛い伊都が見たいって」
「い、いつも通りってのは……どうかな」
「少なくとも俺は思ってるよ。いつもの伊都の笑顔を、結婚式当日にも見たい」
 出会った頃から何一つ変わらないあの笑顔こそ、晴れの日にもふさわしいと思う。きっとこの上なく幸せそうな花嫁さんに見えることだろう。
 そして伊都の笑顔に似合うドレスを探し出すこと、それが当面の課題となる。
「まあ、ドレスを着たところで中身まで大きく変わるわけじゃないもんね」
 伊都もいくらか腑に落ちたようで、そう言ってまた笑った。
 ちらりと横目で見ると、そこには確かにいつもの、屈託のない笑顔が浮かんでいた。
「もっと、私に似合うかどうかで決めた方がいいのかもね」
「ああ。俺が思うに、伊都にはミニスカドレスが似合うよ」
「巡くんはそれが言いたいだけだよね?」
「そんなことない。いい機会だから試しにちょっと見てみたいだけだ」
「そこまで見たいかなあ」
「見たいね。見た上で写真に収めて永久保存して心の支えにしたい」
「その情熱、もっと他のとこに生かそうよ巡くん!」
「残念だけどこの情熱はお前にしか働かないし使えないんだ」
 だからこそ、ドレス選びにだって喜んでとことん付き合ってやれる。
「もう、ああ言えばこう言う」
 言葉の割に、彼女の声に呆れた様子はない。
 むしろ何だか幸せそうだ。
「とりあえず、結婚式当日は笑ってられそうだよ」
 そして、呟くように続けた。
「巡くんと一緒だからね、笑わないはずないよ」
「そうか、俺のユーモアセンスにも惚れ直したか」
「違うよ、幸せだから笑っちゃうんだよ」
 伊都はまたくすくすと、助手席で声を立てて笑い続けた。
「って言うかさっきのユーモアだったの? 口調、本気だったよね?」
 それはまあ、いちいち語るまでもないな。
 明日は可愛い花嫁さんを堪能させてもらうことにしよう。
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