Tiny garden

白を纏う(1)

 その日、伊都は見覚えのあるワンピースを着ていた。
 シンプルな白いシャツワンピースだった。丈は膝が覗くくらい、ウエストの辺りから緩やかに広がるデザインで、襟元のボタンを一つだけ開けている。鎖骨は見えるか見えないかという程度で、その代わりふくらはぎは惜しげもなく晒している。
 地味ながらもほんのりと色気があるその服は、俺の思い出の中にも印象深く刻まれていた。

「久々に見たな、そのワンピース」
 着替えてリビングへ戻ってきた伊都に、俺はすぐさま声をかけた。
 途端、伊都はいたずらが見つかった子供みたいな顔をする。
「そうだね、久々に着たかも」
 同棲を始めてから既に半年が過ぎていたが、その服を見たのは本当に久しぶりだった。
 着ているところを見たのは、初めて彼女の部屋に招かれたあの日以来だろう。俺達が初めて付き合った頃、初めて入れてもらった彼女の部屋で、初めて豆腐丼をごちそうになった。そして。
「あの日を思い出すよ。豆腐丼をごちそうになった後、二人で映画を――」
「わあ! いいから思い出さなくて!」
 俺が甘酸っぱい記憶を手繰り寄せようとした途端、伊都が大声でそれを制する。どうやら振り返って欲しくないらしい。
「否定するなよ、いい思い出じゃないか」
「そ、そうかもしれないけど、今考えることじゃないでしょ!」
 だったらいつならいいのか、などと追及するのはたやすい。だが追及し始めると長くなるだろうし、この後の予定に差し障る。まずは予定通りに用を済ませるのが先決、思い出に浸るのはこの部屋へ帰ってきてからにしよう。
「今日はいっぱい着替える予定だから、脱ぎ着しやすい服がいいと思って」
 伊都はワンピースのボタンを指差しながら続けた。
「それでこの服にしたの」
 そういえば脱がしやすい服だったな、などと口にしようものならまたわあわあ言い出すだろうから、俺は言いたい気持ちをぐっと堪えた。代わりに頷いた。
「確かにな、制限時間もあることだし」
 これから二人で向かうのは、週末ともなると予約でいっぱいとなるお店だ。
 俺達も時間厳守、店で許される滞在時間もかっちり決められている。伊都には頑張ってもらわなければならない。

 この週末、俺と伊都は結婚式で着るウェディングドレスを選ぶ予定となっていた。
 行き先は市内にあるブライダルショップだ。今日と明日で違う店に予約を入れている。そのうち今日訪ねる店は結婚式場と提携しているショップだそうで、ここでドレスを選べばいくつか特典があるらしい。よくある話だ。
 式場を決めた際に受けた説明によれば、提携外のショップからドレスをレンタルする場合、式場に対する『持ち込み料』が発生するらしい。だから式場側としては提携ショップで選んで欲しいのだろうが、こちらだって一生に一度の結婚式である。ちょっとの出費を惜しんで後悔などしたくない。念の為に明日は提携外のブライダルショップも見に行くことにして、伊都には『持ち込み料のことは気にするな』と釘を刺しておいた。
 結婚式の花形は何と言っても花嫁だ。
 その花嫁のお気に召すまま、最も美しいドレスを選ぶ。そうすることで俺もまた幸せになれる。

「うう、何かどきどきしてきた」
 伊都は緊張した様子で、ソファの周りを熊のようにうろちょろ歩き回っていた。
「何を気負う必要があるんだよ。ほら、座って落ち着いて」
 ソファに座っていた俺が空いている座面を叩くと、伊都は素直にそこへ腰を下ろす。
 だが座ってからも落ち着かないようで、引き締まった脚を何度も組み替えたり、手首を飾る革ベルトの腕時計をちらちらと確かめている。文字盤の縁取りがピンクゴールドの、あの時計だ。今日のワンピースにはこちらの方がよく似合う。
「一応予習はしたけど、いざとなったら迷いそうな気がしてさ」
 腕時計から視線を外し、伊都が俺の方を向く。困ったような笑みが浮かんでいる。
「迷えばいいだろ、その為の試着なんだから」
 俺が反論すれば彼女はますます困ったようだ。
「試着の前段階で迷いそうな気がするの。だってすっごいいっぱい種類あるんだよ?」
「いくつか候補絞ってたろ、マーメイドラインとスレンダーラインだっけ」
「そうそう、それ」
 店に行く前に予習をしようと、俺達はネットや雑誌、それに偉大なる先達からの情報収集を怠らなかった。特に霧島、石田両夫人の経験談は大いに参考になった。

 ドレスにはもちろん似合う、似合わないがあるが、もう一つ大事なポイントがあるそうだ。
 それは、どんな花嫁になりたいかという願望だ。
 結婚式という晴れ舞台はただでさえ非日常空間である。普段は着ることのないドレスを着ていつもと違う自分を披露するもよし、非日常空間であっても自分は自分だと個性を大いに発揮するもよし、ドレス次第で変身が叶うのも花嫁の特権だと経験者達は語る。

「私は、どうせなら大人っぽく見られたいんだ」
 というのが、伊都の結婚式に当たっての願望らしい。
「両親とお姉ちゃんには結婚してちゃんとやってけるよ、ってとこ見せたいし。可愛い系よりは大人っぽい系がいいな」
 結婚式の頃には伊都も三十歳になっている。可愛い花嫁さんよりもしっとり落ち着いた花嫁さんになりたいという気持ちは俺にもわかる。
 ただそうなると、
「ミニスカドレスという選択肢はなしか……」
 俺が落胆する度に伊都は声を上げて笑う。
「巡くん、本っ当にこだわるね」
「もったいないだろ、せっかくの脚をどこにも見せないなんて」
「別にその為に鍛えてるんじゃないからなあ」
 伊都がソファの上で自慢の脚をぱたぱた揺らす。
 これを長いドレスで覆い隠してしまうのは実に惜しい、全く惜しいとしか言いようがないのだが、花嫁さんは式で写真を撮られまくるものだ。伊都の脚を俺が独り占めできると思えば、諦めはつく。非常に惜しいが。
 それに、ロングドレスの中にも俺好みの品があった。
「ミニスカ以外なら、俺はスレンダーラインがいいな」
 Iラインのシンプルなドレス、それがスレンダーラインだ。ドレスと言えば俺含む大抵の人間はふわっと膨らんだ裾のものをイメージするが、スレンダーラインはそうではなく、ほぼ裾までぴったりと身体に沿う細めのドレスだ。身体の線がはっきりと出るので、スタイルのいい花嫁によく似合うらしい。その点、伊都ならば問題ない。
 そして、彼女が目指す大人っぽい花嫁さん像にもぴったり合致する。
「上品でいいよね。外国の女優さんみたいで」
 伊都もお目当てはそういうドレスのようで、店を訪ねたらまずスレンダーラインから見せてもらうと決めているらしい。
 ちなみに第二候補のマーメイドラインは、名前の通り人魚のような曲線を描くドレスのことだそうだ。伊都はこの二種類を主に当たるつもりでいると言っている。
「今日のうちに三、四着は試しときたいよね」
 彼女は意気込んでいる。

 一度の来店で試せるのは最大でもその程度だと、霧島ゆきの夫人が言っていた。だから一度で決めようとは思わず、カメラを持っていってあらゆる角度から撮影した後、帰宅後にじっくり考えるのもいいそうだ。
 あの人は旦那に比べると決断力はある人だと思っていたが、そんな霧島夫人でさえもドレスを決定するまでに四、五回は店へ通ったという。やはり頼れるのは先輩のアドバイスである。俺達も長丁場になる覚悟だけは決められた。

 だから伊都はデジカメを用意している。仕事でも使っているシャンパンゴールドのカメラだ。
「撮影係は俺が承るよ」
「お願いするね、巡くん!」
 俺はデジカメを彼女から受け取る。もう五年以上も使っているせいでさすがに使用感は出てきたが、細かなもの以外に傷はないし動作も全く問題ない。つくづく物持ちがいいなと感心する。
 それは今日のシャツワンピースからも窺える。皺も染みもないきれいなものだ。これも買ったのはやはり五年も前の話だったはずだが、大事に着ていたんだろうというのがわかる。
「ドレスも楽しみだけど、その服も似合うな」
 伊都には白が似合う。そう思って俺が誉めると、伊都は恥ずかしそうに頬をほころばせる。
「ありがと。巡くんに誉めてもらえるのが一番嬉しいな」
 それなら今日は存分に誉めてあげよう。
 一足早く、彼女の晴れ姿が見られるのだから。

 俺達は昼前に部屋を出て、車で件のブライダルショップへ向かった。
 完全予約制の店だけあり、通された時は店内に他の客の姿はなかった。まずは応接室に通されて、スタイリストさんと軽い面談をする。この店は例の提携ショップなので式場から話が通っているのだろう、挙式日やプランについての説明の流れは至ってスムーズだった。
「ウェディングドレスと言うとやはり純白のイメージですが、ひとくちに白と言っても人それぞれ似合う色が違うんです」
 スタイリストさんは慣れた口調で俺達に説明をする。
「純白が似合う方、オフホワイトの方がより似合う方、アイボリーの方がしっくり馴染む方。同じ日本人でもお肌の色は人それぞれちがっていて、似合うお色も違うんです」
 印刷に使うカラーチャートみたいな色見本を出されて、一通り肌色についてのレクチャーを受けた。
 それからスタイリストさんは実際にドレスに使用する生地のサンプルを持ってきて、姿見の前に座る伊都の肩に、一枚ずつケープのようにかけてみせた。こうして実際に似合う色を見つけるのだそうだ。
「ご新婦様には純白より、アイボリーの方がお似合いかもしれませんね」
 その言葉通り、伊都の肌にはアイボリーの生地が特によく映えるように見えた。言われてみれば彼女が今日着ているワンピースも、生地の質感のせいかもしれないが純白よりは黄味が強い白に見える。
 日本人の肌の色味は大まかに分けて四種類あるらしく、それぞれを各季節に見立ててスプリング、サマー、オータム、ウインターと呼ぶのが一般的だそうだ。伊都の肌色は春、スプリングに分類されるらしく、透明感のある、彩度の高い色が似合うとのことだった。
「ビタミンカラーがお似合いだと言われたりしませんか?」
 スタイリストさんの問いに、伊都だけではなく俺まで深く頷いた。
 オレンジや黄色、ピンクに水色、そういう色が似合う伊都には、やはり透明感のあるアイボリー系のドレスが似合うのだそうだ。とは言え『透明感のあるアイボリー』などと言われても全くぴんと来ない。
「では、実際にドレスを合わせてみましょうか」
 そう言うとスタイリストさんは俺達を従えて応接室を出た。

 そして案内された先は店の二階にある衣裳室だ。
 まるでここが結婚式場であるみたいに天井も壁も白く、床も薄い色合いの絨毯敷きだった。天井のシャンデリアは試着する人の為なのか、かなり明るめに辺りを照らしている。
 衣裳室には数体のマネキンが置かれており、どれも華やかなウェディングドレスを身に纏い、手にはブーケを持っていた。更にスタイリストさんが壁際のカーテンを開けると、そこにはずらりと並んだ白いドレスが――。
「わあ……!」
 伊都が感嘆の声を上げる。
 無理もない、俺もさすがに驚いた。陳列されていたドレスの数といったら二百着は軽く超えている。しかもこれはウェディングドレスだけの数であって、店内には他にカラードレス用の衣裳室、新郎用の衣装室などもあるらしい。これだけの衣装をどのように日々管理しているのか、想像するだけで気が遠くなる。
「まずはドレスをお選びいただいて、その後に採寸、試着となります」
 スタイリストさんは俺達の驚きにも慣れた様子で微笑んでいる。
 きっと今日まで店を訪れた何十、何百というカップルがこのドレスの数に圧倒されてきたのだろう。そして式場を模したような店内の雰囲気にも呑まれていったのだろう。
「本日はご新郎様もご一緒ですし、お二人のご希望をわたくしどもも最大限叶えて参ります。どうぞごゆっくりお選びください」
 そう言うなり、まずスタイリストさんが吊るされたドレスをためつすがめつし始めた。どうやら伊都に似合うものをいくつか見繕ってくれるつもりらしい。
「こんなにあると目移りしちゃうなあ」
 伊都も辺りをきょろきょろしながら、吊るされたドレスに近づいていく。まずは自分でも選んでみるつもりのようだ。
「巡くんも一緒に探してくれない?」
 彼女からの要請に、もちろん快く返事をする。
「いいよ、どういうのを探せばいい?」
「とりあえずアイボリーの、かな。どんな感じなのか、まずは見てみたいんだ」
 どうやら『透明感のあるアイボリー』を二人がかりで探すことになりそうだった。
 ひとまず形は二の次で、該当しそうな色味を見てみることにする。
 肌の色が多種多様なように、ウェディングドレスもまた様々な素材のものがあった。つるつると光沢のあるサテン、独特のふしがあるシルクシャンタン、ふわふわしたチュールやひらひらしたシフォン、工芸品のように精緻なレースなど――当たり前だがどれも美しく、俺が着るわけでもないのに目移りするほどだった。
「ね、巡くん」
 選びながら伊都が呼びかけてきたので、何か見つけたかと目を向ける。
 すると彼女は、はにかみながら小声で囁いてきた。
「ご新郎様とかご新婦様って呼ばれるの、照れるね」
 何を急に、可愛いことを言うのか。
 俺が黙って笑みを返すと、伊都は頬をほんのり赤らめつつドレス選びに戻っていった。

 その横顔を盗み見ながら、彼女はきれいな花嫁になるだろうな、と改めて予感を抱いた。
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