Tiny garden

秋深き、隣は君(1)

 十月になると途端に涼しくなり、過ごしやすくなってきた。
 読書やスポーツといった各種趣味が推奨されるのもわかる、非常に心地よい季節だ。

 そんな清々しい十月の初め、俺は社員食堂で石田と鉢合わせた。
「よう安井、お前も愛妻弁当か?」
 午後三時に社食へ立ち入った俺に、既に席に着いていた石田が声をかけてくる。
「ああ。久々に一緒になったな」
「ここんとこ、社食来る暇ないほど忙しかったからな」
 石田の弁当箱はパステルブルーのストライプ柄、およそ奴自身が持ちそうにない可愛らしさだ。
 手を合わせてからいそいそと蓋を開ける石田の、真向かいの椅子を俺は引く。そしてその椅子に、なるべくゆっくりと、慎重に座る。油断すると太腿が痛むからだ。
 無事に座れると思わず深い溜息が出た。
「何だ、どうした安井」
 俺のただならぬ様子を見咎めて、石田が訝しそうにする。黙って愛妻弁当に集中していればいいものを。
「ちょっと、筋肉痛なんだ」
 やむなく俺も正直に答える。
 先週末の俺はスポーツの秋を体現するかのように運動に勤しんでいた。そのせいで下半身、特に大腿部が目下激しい筋肉痛に苛まれているのである。
 それを石田はにやにやと笑いやがる。
「筋肉痛? 何したんだよお前」
「そりゃ運動に決まってる」
「嘘つけ、どうせ最愛の彼女と禁じられた遊びに興じちゃったんだろ」
「何て言い方をするんだ、石田……」
 石田が口にすると名画の名曲もこの通り、何やらいかがわしく聞こえてしまう。
 俺は半ば呆れつつ、もう半分は八つ当たりをしたい気分で言い返した。
「と言うか知ってるだろ、俺が何やってるか」

 先月末に新婚ほやほやの石田家を、伊都と二人で訪ねた。
 その際、来年結婚する俺達の新婚旅行先に話が及んで――伊都が行きたいと願ったのは海峡を渡る長大なサイクリングロード、しまなみ海道。来るその日の為に、そして彼女の笑顔の為に、俺は自転車の練習を始めたのだった。
 練習と言っても俺は自転車に乗れないわけではないので、要は距離を走れるように体力作りからということだった。伊都が組んでくれたトレーニングメニューの下、買ったばかりのロードバイクでいくらか距離を走ったのが先週の土日のことだ。伊都はロードバイク初心者の俺を何かと気遣ってくれ、最初は少しの距離でいいと言ってくれたが、彼女の前で弱音は吐けないとばかりに俺は張り切った。それがいけなかった。
 俺の当座の目標は自転車通勤ができるようになることだったが、筋肉痛と戦っているうちは遠い目標だろう。結局、伊都にも『無理しないで少しずつ頑張ろうね』と言われてしまった。

「新婚旅行で自転車乗るんだったよな」
 弁当を食べ始めた石田が、やはりにやにやしながら言ってきた。本日の弁当はさんまの蒲焼きのようだ。奥さんも腕を上げたなとつくづく思う。
 ちなみに本日の俺の弁当は豆腐の天ぷらだ。舌触りなめらかでとても美味い。伊都の作るものなら何でも美味いが、これは特にご飯のおかずに最適だった。
「そうだよ。それに備えて特訓中なんだ」
「有言実行とは恐れ入るな。せいぜい頑張れよ、園田の為に」
「言われなくてもやるよ」
「ま、言い出したからには貫徹しないと格好悪いしな」
 石田も他人事だと思って煽るようなことを言う。実際、他人事ではあるだろうが。
 と思っていたら、
「実はあれから、うちの藍子も自転車に興味持ち始めてな」
 奴がそう続けたので、俺も箸を止めて聞き返す。
「へえ、自転車欲しいって?」
「ああ。園田がすっげえ楽しそうに語ってんの見て、乗りたくなったって」
 それはわかる。自転車について語る時、伊都は目を輝かせてとても楽しそうな顔をする。そしてもちろん、実際に乗ってみせている時もとても楽しそうだ。俺も是非、その楽しみを彼女と共有したいと思っている。
 にしても、石田夫人までか。そういえば学生時代はマラソンやってたって披露宴で紹介されてたな。
「だから夫婦で始めてみようと思ってんだ」
 石田まで随分と楽しそうに語っている。
 もっともこちらは自転車が楽しみというより、奥さんの喜ぶ顔が見たいというだけなのかもしれない。現に今の石田は新婚さんのご多分に漏れず、でれでれと締まりのない顔をしている。

 いや、そんなのは元からだったか。
 石田は小坂さん――現在の石田夫人について話す時は、結婚前からこんな顔をしていた。全くだらしのない顔だった。
 俺も伊都と結婚したらこんなみっともない顔を晒すのだろうか。
 それとも、もう既に俺自身の知らないところで晒してしまっているのだろうか。

「やっぱ楽しいだろ、二人で自転車乗るのって」
 石田の問いに、俺はみっともない顔にならないよう表情を引き締めて答えた。
「楽しいよ。伊都はコーチとしても優秀だし、いろいろ教えてもらえるしな」
「それでいいとこ見せようと頑張りすぎちゃったんだな、安井は」
 エスパーみたいな勘の冴え方である。なぜわかった。
「いや、実際乗ればわかる。意外と足腰に来るぞ。お前も苦しむがいい」
 一足先に苦しむ者として、俺は石田を脅かしておく。
 しかし石田はあろうことか鼻で笑った。
「自転車如きで筋肉痛になるかよ」
「その舐めてかかる態度、あとで痛い目見るぞ」
「ないない、単に安井が運動不足なだけだろ」
 痛いところを突かれ、俺はぐっと言葉に詰まる。
 人事課も決してデスクワークばかりというわけではないのだが、それでも営業課時代と比べれば運動量は少なめだ。運動不足は自分でも感じていたところだった。
「そう言う石田は運動不足じゃないのかよ」
 苦し紛れにやり返すと、石田は意外と真面目な顔つきで応じた。
「最近はさすがにな。昔は山登ったりで、結構動いてたんだが」
「奥さんと登山はしないのか?」
「登山はなあ……下準備もあるし、他のスポーツみたいに気軽に誘えないだろ」
「確かにそうかもな。それで自転車か」
 自転車は初期投資と定期的な手入れさえすればいつでも乗れるし、登山ほどの準備も要らない。自分で走行距離を調整することもできるから、無理せず運動を始められる。休日の空いた時間に運動不足を解消するなら最適だろう。
 見栄を張って筋肉痛になるまで乗らなければ、の話だが。
「きっと伊都も喜ぶよ」
 帰ったら早速この話をしてやろう、そう思いながら俺は言った。
「『藍子ちゃんとサイクリングしたい』なんて言うかもな」
「そりゃありがたいな。実は園田にアドバイス貰おうと思ってた」
 石田も安心したように顎を引く。
「俺も藍子も自転車に関しちゃ素人だからな。買うとなったらいろいろ聞きたいんだよ」
「なら、彼女に伝えとくよ」
 伊都なら二つ返事で相談に乗ってくれることだろう。俺の時もそうで、カタログはおろか愛読している自転車雑誌まで持ち出して、どの車種が俺には合うかということを懇切丁寧に説明してくれた。購入に際しても彼女行きつけの店で口を利いて貰ったので、非常にサービスが行き届いていてありがたかった。
「頼む」
 石田はにんまり笑うと、いつの間にか最後の一切れになっていた蒲焼きを口の中へ放り込む。
 そしてしばらく美味そうに、もぐもぐと口を動かしていたが――ふと骨でも引っかかったような、釈然としない顔になって俺を見た。
「どうした、変な顔して」
 俺が聞くと、石田は眉を顰めて答える。
「いや、お前に『藍子ちゃん』って呼ばれると、何か引っかかんだよな」
「何でだよ」
 別に俺が呼んだわけじゃなく、伊都が言いそうな言葉として伝えただけだ。
 それに、仮に俺が藍子ちゃんと呼んでも何ら支障はないはずだ。石田夫人、なんて当人に呼びかけるには少々堅苦しいし、あの子のキャラにもいまいちそぐわない。伊都や霧島夫人だってそう呼んでいるではないか。
「奥さんを名前で呼ばれたくらいで妬くなよ」
 俺がからかおうとしても、石田はもっともらしい顔でかぶりを振る。
「霧島に『藍子さん』って呼ばれるのは別に平気なんだがな」
「酷いな、俺だけかよ」
「日頃の行いの差だな。安井に呼ばれるともやもやするし、むかつく」
「なら、今度から藍子ちゃんって呼んじゃおうかな」
 石田に嫌がれるとむしろやりたくなるから困る。俺がにやりとすると、新婚の石田は歯を剥き出しにして俺を睨んだ。
「お前な……」
 それから苦虫を噛み潰したような顔で言ってきた。
「じゃあお前らが結婚したら俺も『伊都ちゃん』って呼ぶぞ」
 意趣返しだとわかっていても、石田がその名前を口にしたら確かにもやもやした。むかついた。
 それを口に出して伝えるより早く、一転して石田が笑う。
「何だよ、煽りたがる割に煽られ耐性はゼロじゃねえか」
「そ……そんなわけあるか。別に何も言ってないだろ俺は!」
「顔に出てんぞ、安井」
 石田に言われると、他の人間の三倍はむかつく。
 しかしここで噛みつき返せば奴の思うつぼだ。顔に出ているのならば、引っ込めなくてはなるまい。
 俺は表情をクールダウンすべく、飲み物を買ってこようと席を立とうとして――忘れかけていた鈍痛が太腿に走り、思わず中腰で動きを止めた。
「どうした安井、筋肉痛耐性もゼロか?」
 石田はげらげら笑うばかりで、気遣いの言葉一つなかった。あんまりだ。
 そのうちあいつの『藍子ちゃん』に告げ口してやろう。あの子なら多分、『お二人は本当に仲がいいですね!』で片づけそうなものだと想像もつくが。

 だが筋肉痛というのも悪いことばかりではない。
 俺が太腿の痛みに苦しんでいると、伊都がめちゃくちゃ甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるからだ。
「巡くん、大丈夫? 今日もマッサージしようか?」
 帰宅後、まだ消えない筋肉痛に俺が呻いていると、伊都が心配そうに声をかけてきた。
「悪いな、頼めるかな」
 彼女のマッサージは絶品だった。何でも学生時代、陸上をやっていた頃に独学で身に着けたのだそうで、明日に疲れを残さないよう自分でケアしていたらしい。他人にするのは初めてだと照れていたが、ありがたいことにとても上手だった。
「任せといて、お風呂入ってからするね」
 伊都はそう言うと、ソファに座る俺に明るく笑いかけてくれる。
「じゃ、お湯張ってくるから少し待ってて」
 今日、社食で俺を笑った石田とは百八十度違うこの対応。伊都の優しさが骨身に染みて、つくづく二人暮らしの素晴らしさを噛み締めたくなる。
 一人暮らし、及び弟という同居人がいた頃は風邪を引こうものなら気分まで憂鬱になったものだが、伊都がいてくれるなら風邪を引くのも悪くない気さえしてきた。たまにはこうして甲斐甲斐しくされるのもいいものだ。
 せっかくなので調子に乗ってみる。
「だったら伊都、風呂の中でマッサージするってのはどうかな」
「お風呂の中で……って?」
 きょとんとする彼女に、以前は却下された提案を告げる。
「今夜は一緒に入ろう」
 すると、伊都はたちまち赤くなって俺を睨んだ。
「入りません! 巡くんと一緒に入ったら寛げないってわかってるし」
「何で寛げないのかな。俺は伊都と二人でも十分楽しめると思うよ」
「とにかく駄目! 絶対駄目!」
 同棲を始めた頃からたびたび誘いをかけているのだが、十月に入ってもなお了承を貰えていない。非常に残念だ。
「風呂とマッサージが一度で済むよ」
 食い下がる俺を伊都は苦笑いであしらう。
「巡くん、筋肉痛なんでしょ? 手足伸ばして入った方がいいよ」
 確かにそれは、そうかもしれない。せっかく念願叶って一緒に入っても、俺が筋肉痛に呻いている状態では十分に楽しめないし、格好悪いからだ。
「わかった。じゃあ一緒のお風呂はまた日を改めて」
「……すごいこだわりって言うか、執念だね巡くん」
 俺の執念深さは伊都もよくわかっているはずだ。
 絶対諦めない。いつか必ず伊都と風呂に入ってみせる。

 しかし今夜のところは一歩引いて、一人で風呂に入った。
 そして程よく温まった湯上がりに、伊都にたっぷりマッサージしてもらった。
「本当に上手いな、お前……」
 ベッドにうつ伏せになってマッサージを受ける俺は、溜息と共に呟いた。
 彼女の手が俺のふくらはぎを押し上げるように揉むと、筋肉の奥深くから痛みが解れていくように気持ちいい。小さくて、しっとりと柔らかくて、今は湯上がりだからかほんのり温かい手だった。この手に触れられるだけで不思議なくらい心地よかった。
「よかった、巡くんに喜んでもらえて」
 仕事の後で疲れているだろうに、俺の脚を揉む伊都の声は本当に嬉しそうに聞こえた。
 彼女が甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるのは嬉しいし、幸せで堪らないのだが、時々胸が締めつけられるような気分も覚える。俺が彼女の為にしたことと言えば自転車に乗って筋肉痛になっただけだから、忸怩たる思いとはこのことだろう。
「やっぱり運動不足だったかな」
 俺の言葉に、彼女が少し笑う。
「ちょっとずつ慣らしてけばいいよ。急ぐ必要はないんだし」
「優しいな、伊都は」
 これが石田なら散々笑われているところだろう。現に今日の昼だってそうだった。人が筋肉痛で苦しんでいるというのに笑うわ馬鹿にするわで酷いものだった。
 と、そこで俺は社員食堂での会話を思い出し、伊都にそのことを伝えておくことにする。
「石田も自転車欲しくなったって言ってたよ」
「え、本当?」
「お前が楽しそうに語ってるの見て、奥さんも乗りたくなったんだって」
「そっかあ。自転車仲間が増えたら嬉しいな!」
 伊都が声を上げはしゃいでいる。
 予想できていた反応ではあったが、こんな些細なことで喜ぶ姿に俺まで嬉しくなってきた。
「買うとなったらアドバイス聞きたいって言ってたから、今度聞いてやってくれ」
「うん、任せて! 今度藍子ちゃんにも連絡してみるね」
 伊都の明るさは俺にとっての幸福だ。
 辛い時にこうやって気遣ってくれるのも嬉しいが、それ以上に彼女が隣で笑っているだけでこちらまで気分が明るくなる。
 同時にそれだけのことを、俺が伊都にしてやれているのかと思うことがある。
「……俺も、マッサージ覚えようかな」
 彼女の手が離れ、俺は大分楽になった身体を起こす。ベッドの上で彼女の隣に座ると、伊都が俺の顔を覗き込んできた。
「覚えたい? いつでも私がしてあげるのに」
「俺も伊都にしてあげたいなと思って」
「え、私に?」
 戸惑う彼女の足に触れ、軽く伸ばしてみる。寝る時はいつもワンピースにスパッツという大変素晴らしい格好をしている。特に暖かいうちは短め丈のをはいているから、鍛えたきれいなふくらはぎが露わになっているのがいい。
 そのふくらはぎに手のひらで触れれば、心地よく程よい弾力を感じた。彼女はどういうふうに俺に触っていただろうか、思い出そうとしていると、
「わ、わわ、私はいいからっ」
 伊都が大慌てで俺の手を引き剥がしてくる。
 思わず彼女の顔を見ると、恥ずかしそうに俯かれた。
「こういうの、人にするのはいいけど、されるのはくすぐったいから」
「くすぐってないよ」
「巡くんに触られると、それだけでくすぐったいの!」
 そう言われるとこっちはかえって触りたくなる。それを、伊都はわかっていない。
「遠慮するなよ、俺も伊都に何かしてあげたいんだ」
「い、いいから! 気持ちだけで十分だから!」
「こら、暴れるなって。おとなしくしてくれ」
「じゃあ撫でないでよ……て言うかその触り方マッサージじゃなくない!?」
「気のせいだよ」
「嘘、絶対嘘! もー巡くんのばかばか!」
 秋の夜長に伊都とじゃれあう。楽しい夜が更けていく。
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