Tiny garden

ふたりの幸せな日に(3)

 デート後は二人で夕食を取り、あくまでも紳士的に彼女を部屋まで送った。

 それから俺も帰宅すると、弟はリビングでテレビを見ながら食事中だった。
 奴の本日の夕飯はレトルトのカレーのようだ。やはり作る気もないらしい。テレビには弟が夢中になっているアイドルグループのMVが映し出されている。俺はこの手の曲があまり好きじゃないので、見るなら俺がいない時にしろと強く言い聞かせてあった。
「ただいま」
 俺が声をかけると、ソファに座っていた弟は振り返り、
「あ、お帰り」
 そう言って一度はテレビに目を戻した後、再び勢いよくこっちを向いた。二度見した直後の表情は硬直していた。
「えっ、めぐ兄ちゃん、どしたのその頭!」
「切ったんだよ。切ってくるって言ってただろ」
 切りたてで軽くなった襟足を撫でながら、俺は答える。
「聞いてたけど、そんなに思いきるとは思わなかったよ」
 翔はそう言うとカレーの皿を置き、わざわざ立ち上がって俺の頭を眺めに来た。三百六十度ぐるりと検分してから、感心したように息をつく。
「随分ばっさりやっちゃったんだな。あんなに切りたがらなかったのに」
 弟は俺の髪型遍歴を知り尽くしているので、俺がどんなに人から言われても髪を切りたがらなかった理由も当然知っていた。だからかしつこく不思議がられた。
「でも何で急に? ずっと前から切れ切れ言ってもスルーしてただろ」
「まだまだ暑いから、少しでも涼しくなるようにって思って」
「それなら普通もっと早い時期に切らね? もう九月だよ、兄ちゃん」
「別にいつ切ったって俺の勝手だろ」
 俺が撥ねつけても、弟はしばらく納得のいかない顔をしていた。
「めぐ兄ちゃんの担当美容師、可愛い子だったとか?」
「何だよそれ、どういう意味だ」
「『短い方がお似合いですう!』とか言われてほいほい乗せられちゃったんじゃないの」
「こっちだって営業職だぞ。見え見えのセールストークに引っかかるかよ」
 とは言い返したものの、女の子の言葉にほいほい乗ったという点は間違っていない。弟の推測も当たらずといえども遠からずだ。
「まあいいんじゃない、こざっぱりしてて。今までのよりかは似合ってるよ」
 弟は言いたいだけ言うとソファに戻り、カレー片手に再びテレビ画面を凝視し始める。
 ちょっとくらい誉めろよと思わなくはなかったが、彼女にたっぷり誉めてもらった後なので気にならなかった。

 月曜の朝、俺は普段より心持ち早めに出勤した。
 石田は朝に強いのか、いつも営業課の誰よりも早く出勤してくる。たとえ前日が残業だろうと飲み会だろうと繁忙期の真っ只中だろうと、気だるげに出勤してくることはない。出てきた時はいつもあのテンションだ。その点は素直にすごいと思っている。
 俺が営業課のドアを開けた時、ドアの鍵は開いていて、課内にはやはり石田がいた。案の定奴が一番乗りだったらしく、他の課員はまだ出勤してきていないようなのが幸いだった。どうせ髪型を弄られるとわかっているから、一人ずつ順番の方が相手をしやすい。
「おはよう、石田」
「おう、おは――」
 自分の席でパソコンを立ち上げていた石田が顔を上げ、その途端に目を見開いた。
 驚きに固まった顔が数秒後、じわじわと笑いによって解けていく。
「な……何だ安井、頭どうした? いきなり毛量減っちゃってるぞ」
「よりによって嫌な言い方するなよ。切ったんだよ」
 俺が自分の頭を撫でながら応じると、半笑いの石田が食い入るように俺を見る。
「まるで華麗な毛泥棒にでも遭ったみたいにすっきりしてんな。羅生門か?」
「だから切ったんだって。羅生門はそういう話じゃないだろ」
「安井の頭髪、見るからに健康そうだもんな。結構いい値で売れそうだよな」

 髪を売る、と言うと俺の中では羅生門よりも若草物語である。
 これは俺の少年時代に複雑な思い出を残した作品で、登場人物の一人にしてマーチ一家の長女の名が『メグ』だ。ある日俺の通っていた小学校で劇団を招いてミュージカル鑑賞をする機会があり、そこで長女メグが名を呼ばれる度、クラスメイトが俺の方を振り向いてはくすくす笑うのが恥ずかしかった。年頃の少年は自分に異性らしさがかけらでも存在するのを嫌うものであり、在りし日の巡少年もまた女みたいな名前で呼ばれるのを本当に、心底嫌がっていたのである。
 もっとも、現在の俺の苛立ちは羅生門とも若草物語とも関係がない。石田のせいで余計なことまで思い出してしまったが、本題はそこではないのだ。

「売れないよ。と言うかお前、髪切ってきた人間に先に言うことあるだろ?」
 堪りかねて俺が突っ込むと、石田は腹を抱えて笑い出した。
「わかってるって。結構すっきりしてて、いい感じじゃねえか」
 石田の性格ならあらゆる方向からいろいろ言ってくるだろうと予測していたが、あっさり誉められるとそれはそれで拍子抜けだった。俺はまだ慣れない軽さの首を竦めた。
「ああ、もっと早く切っておけばよかったな。案外楽だし、気分もいいよ」
 長めにしていた頃と比べて、朝のヘアセットが格段に楽だったし時間も短縮できた。残暑の厳しいこの時期、頭が涼しいというのも見逃せない利点だった。冬場は逆に寒くなるかもしれないが、そちらは余分に着込むなり何なりで対応できる。
 何より皆からの評判が悪くない。
「何か急に生真面目爽やかボーイになっちゃった感じだよな」
 石田は誉め言葉らしいことを口にしつつも、からかいの材料を探すみたいに俺を見た。ボーイなんて言われる歳ではないが、石田に貶す気がないらしいのは態度でわかる。
「短髪ってすげえな。安井から滲み出る変態オーラを中和して、まともに見せてるぜ」
 何て言い種だ。お前には言われたくないと俺は石田を睨んだが、石田は気にするどころかかえって心配そうに腕組みをした。
「こうなるとお前にきゃーきゃー言う女子社員達が、この爽やかさに騙されてしまう危険性があるな」
「髪型変えたくらいで騙すも何もあるか。そもそも俺はお前ほど変態じゃない」
 俺が溜息をつくと、石田は海外ドラマの俳優みたいに大仰な身振りで反論した。
「またまた何を仰いますか。お前の性癖に比べりゃ俺なんてノーマルかつ清廉潔白だぜ」
「お前がノーマルなら俺だってノーマルだよ。人を危険人物みたいに言いやがって」
「変態っぷりの隠蔽工作の為に短髪にするような男なんて婦女子の敵に決まってるだろ」
「隠蔽工作じゃない。誉める気があるんなら普通に誉めろよ!」
 再び俺はツッコミの声を上げ、石田はまたげらげらとおかしそうに笑った。
「悪い悪い。急なイメチェンされると弄りにくくてな」
「弄ってくれなんて頼んでない。普通に誉めろと言ってるんだ」
「その辺は霧島らに任す。で、あいつらが出てくる前に一応聞いとくが」
「何だよ」
 そこで石田は声を落とし、
「まさかと思うが、失恋して髪切ったなんてオチじゃないよな」
 今時女の子でもやらないであろうネタを振られたので、俺は一気に脱力した。
「そんな男がいたら気持ち悪いだろ」
「確かに気持ち悪い。だが安井なら勢いでやりかねんと俺は思う」
「やるかよ。単に邪魔だったから思いきってみただけだ」
「思いきったにしても思いきりよすぎだろ。そりゃ失恋か隠蔽工作かって言われるって」

 そんな失礼なことを言ってくるのは石田くらいのものだろうが、にしても言うに事欠いて失恋とは縁起でもない。
 石田の口からそんな直球の単語が出てくるというのも、奴自身の傷はすっかり癒えたということで喜ばしいのだろうが――それにしてもだ。

 むっとした俺に気づいてか、石田は宥めるように言った。
「じゃあどういう心境の変化で切ろうと思ったんだ? 誰かに勧められたのか?」
「そうだよ。この間、園田に短くしてみたらって言われてさ」
 俺は頷いた。
 まだ石田にも園田とのことは打ち明けるつもりもなかったが、そういう経緯は話しても問題ないだろうと判断した。
「園田に?」
 石田は少し怪訝そうにした。
「ずっと前髪邪魔だったから、言われてみればそれもいいかって思ってな」
「それで思いきっちゃったのか」
「ああ。絶対似合うって勧められたから、思いきって短くしたんだ」
「へえ……意外だな」
 奴がふっと笑ったので、俺は一瞬だけ、話しすぎたかと警戒した。
 だが石田は特に好奇の色を覗かせることもなく、俺を見て笑っただけだった。
「まあでも、見るからに邪魔そうだったもんな。そりゃ園田も言うよな」
 彼女のことをつついてくるそぶりもなかったので、俺も笑っておくことにする。
「きっかけってそんなもんだろ。暑かったしちょうどいいかって、軽い気持ちでさ」
「だよな。些細なきっかけで案外思いきれちゃったりするんだよな」
「そしたら短くしてみて正解だった。セットも楽だし軽いし涼しいし」
「どうりで、生まれ変わったみたいな顔してると思ったよ」
 石田が腑に落ちたように唸る。
 その物言いは大げさだと思ったが、間違いでもない。自分でも驚くほど見違えたし、髪を切ったことに満足していた。
 そしてもちろん、そのことを勧めてくれた彼女にも感謝している。
「けど、そう見えるんだったらもっと素直に誉めりゃいいのに」
 俺が石田に抗議すると、石田は呆れたような顔つきで言い返してきた。
「何言ってんだ。俺が誉める必要なんてないだろ」
 当たり前みたいに言い切るところが何とも言えない。確かに事実でもあるが。
「実際石田に誉められたら誉められたで裏がありそうだからな。やっぱいい」
「だろ? 他の奴に誉められて満足しとけ」
「霧島が何て言うかは気になるとこだけどな……あいつは案外辛口だ」
「じゃあその後、甘口の奴に思う存分誉めてもらいに行けばいい」
 そう言って石田は何度目かわからない笑い声を立てた。やっぱり朝から元気な奴だった。

 一方の霧島はその後出勤してくるなり、まるで見たことのない生き物に遭遇したような顔で俺を見た。
「随分すっきりしちゃったんですね、先輩……。まるで別人のようですよ」
「毛量めちゃくちゃ減ってるだろ? 最初見た時は出家すんのかと思ったぜ」
「そんなに切ってないだろ。と言うか『減った』って言い方するなよ!」
 石田は相変わらず複雑な気分になることを言ってきた。しかし辛口の後輩の反応は思ったよりも悪くなかった。
「前のより似合ってますよ、安井先輩。爽やかで、好青年に見えます」
「そうだろ霧島。お前、なかなか見どころがあるな」
「見えるって言っただけです。好青年だとも、爽やかだとも言ってませんから」
「……一言多いのは誰に似たんだ。先輩の指導が悪いんじゃないか」
 営業課は口の悪いのが多かったが、しかしそれでも新しい髪型はまずまずの評価をいただいた。
 ただ園田ほど可愛く絶賛してくれる相手は他にいなかった。当たり前か。

 園田とは、社内でも顔を合わせることがある。
 もちろん部署が違うのでそう頻繁ではないが、この月曜はたまたま廊下ですれ違った。俺が外回りに出ようと鞄を提げて歩いていると、前方から書類の束を抱えた園田が早足でこちらへやってきた。
「あっ」
 俺の姿に気づいた瞬間、彼女は小さく声を上げた。
 かと思うと廊下の途中で時間を止められたように立ち止まり、硬直して俺を見る。仕事モードだった顔はあっという間に赤くなり、目を逸らされた。
「わわっ……。ど、どうしよ……」
 小声でそう呟いた後、園田はこちらを見ずにぎこちなく言った。
「えっと……あの、おはようございます、です」
「ああ、うん。おはよう」
 俺は頭を下げつつ、参ったなと内心思う。
 そんなにわかりやすい反応をされたら、こっちもどう接していいのかわからなくなる。仮にも今は勤務中であり、ここは社内だ。
 たとえ俺達がつい二日前、デートしてキスまでした記憶があったとしてもだ。
「安井さんは、えと、これから営業?」
 園田は俺の方を見ないようにしながらも、そわそわと尋ねてきた。落ち着きなく自分の髪を触る仕種が気になる。彼女の髪は今日もきれいで、さらさらしていた。
 今日の口紅は落ち着いた色味のベージュだ。仕事用なんだろう。でも彼女にはこの間のオレンジの方がよく似合っていた。
 柔らかかったな。
 ――と、俺まで思い出してたら仕事にならなくなる。
「ああ、外回りだ。いつも通りだよ」
 俺が答えると、園田は数秒間視線を頼りなげにうろつかせた後、意を決したように俺を見た。
 そして奥二重の瞳を微かに揺らしつつ、まだどことなく緊張の残る口調で言った。
「あの、頑張ってね。あと車の運転、気をつけて」
「ありがとう。行ってくるよ」
 俺は園田に笑いかけると、廊下に足を止めた彼女の横を通り抜ける。
 でもせっかくなので、すれ違いざまに彼女の肘を掴んで引き寄せ、小さく囁いておく。
「今夜にでも電話するよ。またゆっくり話したい」
 その誘いに彼女は何も答えなかったが、通り過ぎてから一度だけ振り向いた時、彼女は俺の方を見ていた。そして振り向いた俺に、照れ笑いを浮かべながら小さく手を振ってくれた。

 何だか普通に社内恋愛みたいなことしているようで、こっちまで照れる。
 園田もあんなにわかりやすい態度で大丈夫だろうか。今は誰にも見られなかったからいいが、そのうち隠そうにも隠し切れなくなるんじゃないか。
 まあそうなったらなったで、まずいこともないか。

 その夜、俺は約束通り園田に電話をかけた。
 何の用があったわけでもないが、何となく話がしたかったからだ。
『やっぱり、社内で顔合わせると恥ずかしいね』
 電話の向こうで園田は、言葉通りにもじもじとそう言った。
「あんなにわかりやすく照れなくてもいいのに」
 俺が笑うと、彼女は困ったように反論する。
『私も普通にしてようと思ったんだよ。でも安井さんの顔見たら思い出しちゃって……』
「お蔭で俺も仕事中、ずっと園田の顔がちらついてて困ったよ」
 困った、と言ってもそれは割と幸せな悩みだったのだが、園田は気を引き締めるみたいにきりりとした声で応じた。
『そ、そうだったんだ。ごめんね、もっとしっかりしないと』
「別にいい。俺と出くわしてまごまごしてる園田も可愛かったからな」
『えっ、な、何言ってるの。駄目だよそんなの!』
「駄目じゃない。もっと仕事中も会えたら励みになるのにな」

 営業課には、受付の長谷さんに笑いかけてもらえたらその日の仕事は上手くいく、というジンクスがあった。
 それがどこまで真実味のあるものかは定かではなかったが、彼女が笑ってくれると皆、何となくいい気分になって仕事が捗ったから、という単純な理屈なのかもしれないと思っている。
 同じことを、俺は今、園田に対して思っている。
 彼女と社内で会えたら、今日の仕事は上手くいく――現に今日は何をやってもすこぶる好調で、気分もよかった。たったそれだけの根拠ではあるが、俺にとってのジンクスが園田になるんじゃないかという、確信めいた予感を抱いていた。
 問題は彼女が秘書課の内勤なので、社内で顔を合わせるチャンスがそうそうないことだ。もちろんジンクスが毎日働いたら都合がよすぎるだろうし、そのくらいにしておくのがいい塩梅なのかもしれない。ただ、俺の気分としてはもう少し会えた方がいい。こういう時、外回りの多い営業課はほとほと不利だ。

「また会えないかな」
 俺はそう切り出した。
『廊下で? 時間合わせて、待ち合わせする?』
 園田が聞き返してきたので、俺は笑っておく。
「それもいいけど、休日にも。近いうちにまた会いたい」
『あっ、そっか。今度は……ご飯食べに来る?』
「迷惑じゃないなら、是非。園田の豆腐料理、食べてみたかった」
『いいよ。それまでに部屋をきれいにしておくね』
 彼女は特に抵抗もない様子で言った。今も赤い顔をしているのかどうかは、電話越しにはわからなかった。
 ただ声は、楽しげに弾んでいるように聞こえた。
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