Tiny garden

ふたりの幸せな日に(2)

 九月に入り、仕事も落ち着いた土曜日、宣言通り髪を切りに行った。
 園田が勧めてくれたようにばっさりやってもらったところ、これが思いのほかいい仕上がりだった。
 自分の頭の形なんて意識したこともなかったが、潔い短髪は確かに俺によく似合っていた。清潔感は格段に上がったし、自分で言うのも何だが男らしさも増したように思う。鬱陶しい前髪の存在を気にする必要がなくなったのもいいことだ。鏡に映る生まれ変わったようにさっぱりした自分の顔を、俺は感心しながら眺めた。
 さすが、よく見ていたというだけはある。

 髪を切ったその日のうちに、俺は園田に会いに行った。
 切ったら真っ先に見せると約束していた。彼女の感想を聞きたかったのもあるし、自分でも気に入っていたから彼女もきっと誉めてくれるだろうという算段もあった。園田も土曜は暇だと言っていたから、それを口実にデートに持ち込むことに成功した。

 園田とは、彼女のアパートの前で落ち合った。俺が車を出して彼女を拾うと提案したからだ。迎えに行くと言ったら彼女は恐縮していたが、特に嫌がりもしなかった。
 お蔭で俺は早々に彼女の部屋の住所、部屋番号まで知ることができた。彼女の部屋はアパートの二階にあるそうだ。
「あっ、本当に髪切ってる! すごくよく似合うよ!」
 アパートの前で俺を待ち構えていた園田は、こちらを見るなり表情を輝かせた。
 俺は一度車を降り、駆け寄ってくる彼女を落ち着かない気分で迎える。
「ああ、切ってきた。結構すっきりしたな」
「うんうん、涼しげだし男前度も上がってる! 格好いいよ!」
「ありがとう。お前に勧められた通り、思いきってみてよかったよ」
「でしょ? 安井さんは短くした方がもっと格好よくなるって思ってたんだから」
 誉めてもらいに来たというのも事実だが、こうも目を輝かせられると照れた。彼女ははにかみ屋の割に、誉める時はやたらストレートな物言いをする。もちろんちっとも嫌な気はしないが、くすぐったく感じる。
「立ち話も何だし、とりあえず乗って。少しドライブでもしよう」
 俺は助手席のドアを開け、園田を促した。こうでもしないと彼女は助手席には乗りたがらないような予感があったからだ。
 案の定、園田は気後れしたような顔で俺を見る。
「いいの……? あの、私が乗っちゃっても」
「当たり前だろ。他に乗せる相手なんていないし、園田に乗ってもらいたい」
 我ながら歯の浮くような台詞だ。それでも嘘偽りない本心だったし、園田も頬を赤らめつつ、素直に助手席へ乗り込んだ。
 助手席のドアを閉めてから、俺も運転席に戻る。
「どこか行きたいところでもある? なければ適当に流すけど」
 尋ねつつ、助手席で既にシートベルトを着けた彼女に目を向けた。
 今日は赤いチェックの半袖シャツにふくらはぎ丈のジーンズだ。足元は当然のようにスニーカー。失礼ながら、あまりデート向きのファッションではない。
 ただスカートの時も見事だったきれいな脚のラインはジーンズ越しにも十分堪能でき、これはこれで悪くないと思えた。相変わらず、いい脚だ。
 見たところアクセサリーは腕時計、それもスポーツタイプのごついやつだけだった。その彼女が短い髪をかき上げ、俺の問いに答える。
「行きたいとこはないんだけど、あんまり人が多くない場所がいいと思う」
「二人きりになれる場所がいいって?」
 車を発進させながら問い返すと、ゆっくり動かしたにもかかわらず園田の身体が助手席でバウンドした。ぎょっとした様子で俺を見ている。
「ちがっ……もう! そうじゃなくて!」
 彼女の言わんとするところは例によって把握していたが、からかわずにはいられなかった。俺は声を立てて笑う。
「冗談だよ。人目が気になるって言いたいんだろ」
「そうそう、そうだよ。安井さんはわざと変なこと言うから!」
 声を張り上げた後、園田は助手席のシートに倒れ込むように寄りかかる。
「二度目のデートで浮かれてるんだ、大目に見てくれないか」
 ハンドルを握る俺がそう持ちかけると、園田は言いよどむように唇を結んだ。

 車内の会話は途切れ、聞こえてくるのはエンジン音とカーエアコンが冷風を送り出す音だけだ。首の後ろ辺りがいやに涼しく、髪をばっさり切ってしまったことをしみじみと実感した。
 普段、一人で車に乗る時はいつも音楽をかけている。同居人の弟とは音楽の趣味が合わないので、文句も言われずに音楽を楽しめるのは一人きりの車内だけだった。デートの時も雰囲気作りにBGMも選ぶことはあるが、残念ながら俺はまだ園田の音楽の趣味を知らなかった。

 エアコンがある程度車内を冷やし、音を潜めて少ししてから、彼女がぽつりと言った。
「……もうからかわないって約束してくれるなら、いいけど」
 ちらりと盗み見た横顔は意外にも、気分を害した様子はなかった。瞬きの回数が多いのを見るに、早くも緊張しているのかもしれない。二度目のデート、なんて口走ってしまったのがまずかったか。
 二人で森林公園に出かけてから半月ほど過ぎていた。あれを最初のデートと呼んでも間違いではないだろうが、俺としてはいくつか挽回しておきたいこともあった。今日はちゃんと初めから、お互いに笑い合っていたい。
「わかった。今日はもうからかわない」
 俺がそう答えると、園田が驚いたように応じる。
「『今日は』? 今日だけ?」
「ああ」
 園田をからかうと返ってくる反応が可愛くて楽しいから、それをずっと禁じられるのは困る。
 だがそう説明したらそれはそれでからかっていると言い出しそうだから、今日のところは伏せておく。それよりも。
「俺も今日は、園田といろいろ話したいと思ってたんだ」
「私と、どんなこと話したいの?」
 彼女の声が柔らかくなる。緊張をわずかに解いたのがわかった。
「いろいろ。どういうところに連れてったら、園田は喜ぶのかなとか」
「私は、どこでもいいんだよ。会社の人に見つかったらまずいなって思ってるだけで」
 園田は考えながら話しているのか、ゆっくりと語を継いだ。
「場所はどこでも……うん。安井さんと一緒なら、どこだって楽しいと思うし」
 一途な彼女らしい、なかなか殊勝な答えだ。俺は浮かんでくる笑みを噛み殺しながら続ける。
「デートの後の夕食は、どんな店に誘ったらいいのかとか。やっぱり豆腐?」
「豆腐は、好きだけど。でもいつでも食べられるし、今日は安井さんに合わせるよ」
 そう言うと、今度は彼女の方から尋ねてきた。
「安井さんの好きな食べ物って何? 好き嫌いがあんまりないのは知ってるけど」
「そうだな、何でも食べるよ。俺も豆腐は結構好きだ」
「本当? それなら嬉しいな」
 たちまち園田の声が弾んだ。
「私、豆腐料理得意なんだよ。食べる方もだけど、作る方もね」

 女の子からの『手料理できるよ』アピールはごくありふれた恋の手管だ。
 どの子もいずれかのタイミングで見計らったようにこれを言う。この台詞が出てきた時点で遠回しなお誘いだと考えてほぼ間違いない。
 ただこれを交際初期に出してくる女は割と手慣れている印象がある。いかにも初心そうな園田がそういうことを言い出してきたのは意外だった。彼女なりに、俺を部屋に呼んでもいいくらいには思ってくれているのか。人目につくところを出歩くよりはそちらの方がいいと思っているのか――何にせよ、みすみす逃す手はない。

 早速食いついておく。
「園田、自炊してるのか。偉いんだな」
「そんなの当たり前じゃない。一人暮らしだし、私が作らなかったらご飯ないもの」
 何と立派な言葉だろう、うちの不肖の弟にも聞かせてやりたい。
 あいつは『ご飯がなければカップ麺を食べればいいじゃない』と思っている男だ。そのカップ麺が、俺が汗水垂らして働いた金で買ったものだとしても全くお構いなしで――いや、今はあいつのことはどうでもいい。
「じゃあそのうち、ごちそうしてくれないかな。園田の手料理」
 俺はその言葉を、なるべくさらりと、自然に切り出したつもりだった。
「いいよ。今日は部屋片づいてないから、今度になるけどいい?」
 園田の答えにも迷いがなく、すんなりと告げられた。そのことに安堵と確信を同時に抱いた。
「もちろん、いつでもいい。楽しみにしてるよ」
 俺としては早い方がいいが、彼女の都合だってあるだろう。今はその約束を楽しみにしておこう。
 しかし、もう部屋へ招いてもいいと、彼女が思ってくれているということは――。

 信号で車を停めたタイミングで、俺はもう一度彼女に視線を向けた。
 カジュアルな服装ではあるが、最低限の化粧はしているようだった。淡いオレンジの口紅を塗った彼女の唇は、下唇がふっくらと厚く、見るからに柔らかそうだった。こういう形の唇の持ち主は受身の恋愛をするタイプだと聞いたことがあるが、彼女は意外と仕掛けてくるなと思う。
 それなら今日は、キスくらいは済ませておこう。

 内心の思惑を押し隠しつつ、俺は軽い口調で切り出した。
「にしても、園田も部屋を片づけてなかったりするのか。そこはちょっと意外だな」
「あっ、片づいてないって言うか……」
 慌てたのか、園田は早口になって反論した。
「散らかってるっていうんじゃないんだけど。私の部屋、自転車あるから」
「自転車? 部屋の中にか」
 言われてみれば、さっき彼女を迎えに行った単身者用のアパート。あの敷地周辺には駐輪場らしきものは存在していなかった。園田の愛車はどこに停めていたのだろう。
「うん。壁にかけてあるから、見てもびっくりしないでね」
「壁にって……お前の部屋、二階だろ。出勤の度に運び出してるのか?」
「そうだよ」
 何を当たり前のことを、とでも言いたげに彼女は頷く。
「あれ担いで階段上り下りなんて、重たくないのか?」
「全然。軽いもんだよ、私の自転車なんて」
「へ、へえ。でも、いちいち部屋にしまうなんて大変そうだ」
「楽ではないけど、外に出しといて雨ざらしなんてかわいそうだし、盗まれたらやだし」
 そう言うと園田はいつものように、あっけらかんと笑った。
「そういう苦労も含めて可愛い、って感じかなあ。私の自転車」
 彼女についてわかったことが一つある。
 自転車に対する愛情は想像以上に並々ならぬもののようだ。いざ部屋に招かれた時、驚かないよう心に留めておこう。

 しばらく交通量の少ない道を走った後、日没前を見計らい、車を海岸沿いへ向けた。
 そして見かけた臨海公園の駐車場にふらっと入り、車を停める。少し休憩をしたい、自然の風に当たりたいと言うと、園田は疑いもなく快諾し、一緒に車を降りてくれた。

 ただ、夕日差す公園を歩きながら彼女の手を握った時は、さすがにびくりとされた。
「……嫌だった?」
 答えがわかりきっていることを俺は尋ね、園田はぶんぶんと首を振る。
「う、ううん、まさか。ちょっとびっくりしただけ……嫌じゃないよ、全然」
 だが嫌じゃないという割に、繋いだ彼女の手は震えていたし、不必要なほど力も入っていた。繋いだ手の先から肩口までが見るからに強張り、緊張していた。短い髪の隙間に覗く耳が、夕日の色を凌ぐほど赤くなっていた。
 まるで男と初めて手を繋ぎました、というような彼女の緊張ぶりがいとおしくも、おかしくもあった。
「だったら少し、リラックスした方がいい。肩が凝るよ」
 俺が助言をしても、彼女にはそれを受け入れる余裕がないようだ。がちがちに固められたような腕で、ずっと俺と手を繋いでいた。

 それでは疲れるだろうと、俺は公園内に置かれていたベンチに彼女を座らせた。
 もちろん俺も隣に座った。
 おあつらえ向きに周囲には人気がなく、空をオレンジ色に染める日はゆっくりと傾き、辺りを少しずつ薄暗くしていった。人がいなければ物音もほとんどなく、一定の間隔で繰り返される波の音ばかりがしばらく続いた。

 繋いでいない方の手で彼女の頬に触れた時、手のひらに燃えるような熱を感じた。
 園田は微かに息を呑み、睫毛を伏せた。
「な、何か、恥ずかしいよ。そんなに見られたら……」
 彼女は声まで震えていた。夕闇迫る静かな公園、聞こえてくるのは波の音だけ。そんなシチュエーションに彼女はあっさりと取り込まれていた。
 俺が輪郭をなぞるように手を這わせ、そして顎を軽く持ち上げながら親指で唇に触れると、彼女は落ち着きなく視線を宙に泳がせた。彼女の厚みのある下唇は想像以上に柔らかかった。
「あの……あのっ、待ってって言っても、待ってくれない……よね」
 制止するような言葉に、俺も一瞬躊躇した。
 まさか初めてということはないよな。部屋に誘うようなことまで言っておいて――考え込む俺の内心が聞こえたように、園田は目を逸らしたまま続けた。
「別に、初めてってわけじゃないよ。ないけど……私、あの、すっごいどきどきしてて」
 それは、見ているだけでもわかった。
 何もしないうちから呼吸を乱し、頬を真っ赤に上気させ、今や縋るように握られた手は痛いくらいだった。俺がそっと握り返すと、園田は真っ赤になった顔を恐る恐る上げ、潤んだ瞳をこちらへ向けた。
 園田のこういう顔を見る日が来るとは思わなかったな。
 俺は数秒間だけ、感慨に耽りながらその表情を見つめた。
「緊張してるのか、可愛いな」
 そう言ってしまってから、『今日はもうからかわない』と約束をしていたことを思い出した。別に嘘のつもりはなかったが、今のはからかいと受け取られても仕方がないかもしれない。
 だが園田もそのことを指摘するどころか、気づく余裕さえないようだ。
「だって、しょうがないじゃない……」
 震え上がったか細い声で言った。
「ずっと好きだったんだよ、安井さんのこと。そういう人と、こんなことになったら――」
 可愛いな。
 さっき口にしたことを改めて、衝動的に思う。
 俺は彼女の言葉が終わらないうちに、その唇を塞いだ。

 こちらも初めてではなかったし、慣れているつもりだった。
 でも唇が触れ合った時、随分懐かしいような感覚が込み上げてきて胸の中を満たした。この先を期待する純粋な下心や、恋人を得たことへの幸福感とは異なる、少し苦しくなるような感覚だ。
 それを抑え込むように園田を抱き締めると、彼女もすんなりとこちらに身を任せてきた。

「……安井さんの、馬鹿」
 唇が離れた後、園田は拗ねた口調で言った。
 照れ隠しだとわかっていたが、俺は聞き返す。
「何で、馬鹿?」
「手が早すぎ。今日だって初めて手繋いだくらいなのに、こんなことまでするなんて」
 早いだろうか。お互い大人なんだからこのくらいは普通のはずだ。
 俺はそう思ったが、園田の方は一大事に遭遇した後のように放心状態だったから、彼女の感覚では早すぎたのだろう。自分でおずおずと唇に触れる仕種が色っぽかった。
「馬鹿でもいいよ。園田とキスできるなら」
「もう……」
 俺の言葉に呆れた様子の彼女は、それでも最後には笑って、こう言った。
「私も嫌じゃなかったよ。思ったより早すぎたけど……でも、嬉しかった、かな」
 そしてもう一度顔を近づけようとする俺を制する為か、すっかり短くなった俺の前髪に手を伸ばし、さらさらと触れてきた。
「短くしたの、本当に似合うよ。すごく格好いい」
「ありがとう。園田に誉められるのが一番嬉しいな」
「石田さんにはもう見せた?」
 なぜそこで石田の名前をと思ったが、まあ一番ツッコミが厳しそうな相手ではある。
「いや、まだだ。どうせ明後日出勤したら嫌でも見せることになる」
「きっと似合うって言ってくれると思うよ、石田さんも」
「どうだか。あいつならまず大笑いしそうだって思うよ」
「そんなことない。誰が見たって絶対似合うから、心配しなくていいよ」
 園田は俺を勇気づけるみたいに笑う。
 俺も本当に、園田がそうやって誉めてくれるだけでいい。そう思って再びキスしたら、園田はますます恥ずかしがって俺にしがみついてきた。
「わ、もう……馬鹿ぁ。そんなに何回もされたら、どきどきしすぎて歩けなくなっちゃうよ……」
 くすぐるような甘えた言い方にぞくぞくする。
 今度と言わず今すぐごちそうになりたいくらいだが、早すぎると言うなら仕方ない。
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