Tiny garden

忘れられない記憶(5)

 サイクリングロードの終点までは残り約八キロ。
 園田には大したことなくても、俺にとっては一気に駆け抜けられる距離ではなかった。
「休み休み行ってあげるよ。道沿いにちょこちょこ休むとこあるしね」
 タンデム自転車には、やっぱり彼女が前の方へ乗った。
 腰の辺りで結わえられた風船は、自転車を漕ぎ出すと俺達の頭上をふわふわと漂った。風船の銀色が午後の日差しを跳ね返して少し眩しかった。
「さすがに風船つけて走ってるのなんて、俺達くらいのものだろうな」
 俺が話しかけると、園田は振り向かずに答える。
「そうだねー。遠くからでも目立ちそう!」
 顔が見えなくても弾んだ声を聞くだけで今の表情がわかった。園田はこのサイクリングをとても楽しんでいるようだった。先程よりはスピードを落としてのんびりと漕いでいく。

 俺も今になって、ようやくサイクリングを楽しむことができた。
 彼女が俺に合わせてくれているのか、今は必死になってペダルを漕ぐ必要もない。そして俺が話しかけると園田は明るく応じてくれる。時々はちらりと振り向いて、いい笑顔を向けてくれる。
「園田、昼飯はどうする? お腹空いてないか?」
「私はまだ平気。安井さんは?」
「サイクリング終わるまでは食べない方がよさそうだ」
「確かにそうかも。じゃ、自転車返したら何か食べよっか」
 森林公園の中を吹き抜ける風は爽やかだ。園田の短くてさらさらの髪も風に揺れて光っている。前方の景色が見えない後部座席の俺にとっては、彼女の後ろ姿を追う視界こそがサイクリングの景色になっていた。
 青いシャツを着た小さな背中とはためく白いミニスカート、そこから伸びるすらりとした脚。何を話しかけても楽しそうにしてくれる声と、振り向いた時の以前と変わらない笑顔。見れば見るほどいいなと思う。
 もっと早く気づいておけばよかった。

「あ、向こうにベンチがあるよ」
 いくらか走ったところで、園田が俺を振り返った。
「安井さん、一旦休む? 水分取った方いいんじゃない?」
「そうしてもらえると助かるな」
 ちょうど喉が渇き始めていたタイミングだった。俺達はまた道の端に寄り、サイクリングロードの脇に無造作に置かれたベンチの傍に自転車を停めた。ベンチに並んで座り、水分を取って汗を拭いた。芝生が敷かれた日向のベンチは焼け石みたいに熱かったが、休憩できるのなら文句を言うつもりはなかった。
 俺より先に水を飲み終えた園田が、ふと自分のバッグをごそごそ探り始めた。そこからシャンパンゴールドの薄いデジカメを取り出し、慣れた手つきで電源を入れる
「カメラなんて持ってきてたのか」
 俺が尋ねると、彼女は痛いところを突かれたみたいな顔つきになった。
 もぞもぞとベンチに座り直して、俯く。
「うん、まあ一応ね。何か撮ることもあるんじゃないかと思って」
「何かって何を? 俺がギブアップして無様に引っくり返ってるところをか?」
「それも撮っておけばよかったね。気が回らなかったよ」
 園田は脅かすような口調で言ったが、恐らく本気ではなかっただろう。俺の言葉を聞いて、初めて思い至ったという顔をしていたからだ。

 俺にとっては、園田がデジカメを持ってきたこと自体が驚きだった。
 彼女がそれを、俺の醜態を収める為に使うつもりはなかったということも。
 なら何の為に持ってきて、たった今電源を入れたのか。いちいち尋ねることでもない。

 大きく息をついて、園田はベンチから勢いよく立ち上がった。
 そして俺に向き直り、構えたカメラをこちらへ向けてくる。
「ね、写真撮っていい?」
 その問いに俺は苦笑した。
「俺の? 引っくり返ってはいないけど、今も結構よれよれなんだけどな」
「うん、だから記念に。こんな安井さん、もう見ることないかもしれないし」
 園田はてらいもなく笑っている。私服だからか、普段会社で見るよりも無邪気な表情に見える。バッグのベルトに結ばれた風船が彼女の頭上に浮かんでいる。
 俺はそんな園田を黙って見上げた。今頃になって、彼女がどういうつもりで俺をここへ連れてきたのかがわかったようだ。あんなにあっさりと許してくれた理由もそれなら納得がいった。
 彼女の言葉を逆に考えれば、今、俺が見ているこの姿、休日のこの笑顔も見納めということになるのかもしれない。それは嫌だと、強く思った。
「園田の写真も撮らせてくれるなら」
 考えた末にそんな条件を出すと、園田はぎょっとしていた。
「え、何で? 私なんて撮ってどうすんの?」
「記念だろ。あとでプリントさせてくれよ」
 俺がせがんでも彼女は抵抗があるのか、尻込みしたように顔を顰めた。
「えー……いいよそんなの、そもそも私の写真なんて何に使うの?」
「別に使わないよ。時々眺めるだけだ、記念写真なんてそんなものだろ」
 怪しむ園田を軽くかわすと、俺は逆にやり返した。
「お前こそ、俺の写真なんて撮ってどうするんだよ」
 園田はうっと言葉に詰まる。
「そ……それは、私だって記念だから、時々見るだけだよ。思い出としてね」

 あれだけ自分を傷つけ、怒らせた相手を、彼女はそれでも思い出にしてくれるのか。
 それは俺の罪状を鑑みれば破格の待遇というやつだろう。本来なら彼女の心に消えない傷跡を残した最低の人物として記憶されてもおかしくなかった。俺のやらかした罪を笑ってくれて、なかったことにしてくれた園田の気持ちを無駄にしてはならないだろう。
 だが俺は一方で、その破格の待遇を放棄したい衝動に駆られていた。
 普段はしまい込んでおいて、時々だけ取り出して眺められるような、彼女の思い出にはなりたくなかった。

「お互いに撮り合うってことでいいだろ。仲直り記念だ」
 そう要求したら、園田は思案の後、渋々と受け入れた。
「じゃあ、それでいいよ。私が先に撮るからね」
 彼女はカメラを構え、ベンチに座る俺にレンズを向けた。俺は汗で湿って垂れ下がってくる前髪をかき上げ、彼女が撮影を終えるタイミングを待った。園田は時間をかけずに写真を撮り終えると、観念したように俺に向かってデジカメを差し出してきた。
「はい。使い方わかる?」
「こういうのは大体どれも同じだろ、多分平気だよ」
「私も、ベンチに座ればいい?」
「ああ。可愛く写ってくれよ」
 俺が促すと、園田は困り顔で言い返してきた。
「そんなの無理だよ」
 その言葉通り、ベンチに腰を下ろした直後の表情は心なしか硬かった。緊張しているのかもしれない。
 視線をあらぬ方へ飛ばし、背筋は不自然なほど真っ直ぐに伸ばしている。両手は固く握って膝の上に置かれているが小刻みに震えており、このままシャッターを切ったらぶれぶれで写りそうだった。
 しょうがないからカメラマンらしく声をかけてやる。
「電車の中でも言ったけど、今日の服、すごく園田に似合ってるな」
 たちまち園田は頬を赤らめ、もじもじしながら自分の前髪を弄り始めた。
「そ……そうかな。ありがとう、誉めてくれて」
 同じ相手に告げた同じ誉め言葉だというのに、こうも反応が違うものなのか。俺は込み上げてくる笑みを噛み殺すのが大変だった。
 園田は恥ずかしそうに続ける。
「私服のスカート、これしか持ってなくて。何着ていこうか迷ったんだ」
「もったいないな、スカート似合いそうなのに」
 いい脚してるのに、とまでは言えなかったが、俺は本心からそう思った。
 そして今日の為に手持ちの唯一のスカートをはいてきた園田の真意を察して、また胸の奥が痛くなる。
 彼女は初めから、今日をデートだと思っていてくれたのかもしれなかった。
「じゃあ、撮るよ」

 デジカメの小さな画面の中に、ベンチに座る園田の姿が映っている。
 今は頬をほんのり赤くして、こっちを見てはにかんでいる。さっきよりは緊張が解れたのか、両手はミニスカートの上に重ねて置かれていたし、ベンチに座る姿勢も自然だった。ただ瞬きだけは多いように見えた。
 背景は夏の日差しに輝く一面の芝生、傍らには借り物のタンデム自転車。緩やかな風が吹いて園田の髪と銀色の風船を揺らしていく。
 石田は付き合っている彼女の写真を持ち歩かない主義だと言っていた。その魅力をファインダーに収めきれないからだそうだ。胸焼けのするような台詞だと思ったが、今となってはそれもあながち吹かしではないなと実感していた。
 カメラに収めることができる一瞬だけでは足りなかった。
 もっと長い間、彼女を引き止めておきたいと思った。

 写真を撮り終えた後はまた自転車に乗り、休み休みながら、どうにかサイクリングロードを完走することができた。あんなに休んでおいて『完走』と呼んでいいのかはさておき、園田が誉めてくれたのでよしとする。
「頑張ったね、安井さん。偉い偉い」
 それで俺はいい気分になって園田と遅い昼食を取り、午後三時には森林公園を後にした。帰りの電車は行きよりも空いていて、俺も園田も余裕で座ることができた。
 自転車に乗り続けていたせいで、さすがにお互い疲れていた。
 園田は風船の紐を握り締めたままぼんやりと窓の外を見ていた。俺は座席の背もたれに身体を預けて、隣に座る彼女の横顔ばかり眺めていた。

 どうにかして彼女を引き止められないだろうか。
 頭の中ではそんなことを考えていた。
 園田からすれば、何を今更という話だろう。なかったことにする、思い出にすると話す彼女の心が俺から離れ始めていることは明白で、しかもそれは俺がしでかしたことに起因する。俺が引きとめる行動に出ようものなら、せっかく許された罪さえ掘り起こされてしまうかもしれない。
 だからといって、このままみすみす諦められるだろうか。
 俺は彼女の傍にいたいと思い始めているのに。

 疲れた頭では考え事もまとまらず、そうこうしているうちに電車はいつもの駅に着いてしまった。
 ホームの階段を上がり、改札を抜け、駅舎を出たところで園田が口を開いた。
「安井さん、今日はありがとう」
 待ち合わせをした変な形のモニュメントの前で、彼女は明るく笑っていた。
「いや、こちらこそありがとう。楽しかったよ」
 俺はそう応じてから、今朝の険悪なやり取りを思い出して肩を竦めた。
「園田へのお詫びのつもりだったのに、俺が楽しんじゃってたな」
「それはもういいよ。気にしないで」
「また誘ってもいいか? 今度はお詫びとかじゃなくて」
 賭けのつもりで切り出すと、園田は迷いの色を見せたものの、やがてゆっくりかぶりを振った。
「ううん。気持ちは嬉しいけど、私はもういいよ」
 それから彼女は笑みを消し、以前はよく見せていた諦めの眼差しで俺を見上げた。
 らしくもなく投げやりで、途方もない距離をなす術なく見つめているようなあの眼差しだった。見慣れているはずのその視線が、引き止める言葉を探す俺を立ち竦ませた。
 薄く開いた唇が微かに震えて、トーンを落とした声を発する。
「……あのね、安井さん」
 ためらいがちな呼びかけに、俺は察した。
 こういう場面にはよくよく遭遇したから慣れていた。この次にどんな言葉が来るのかも容易にわかった。でも今回ばかりはそれを、楽しむ余裕はないだろうとも直感していた。
「実は、ずっと好きだったんだ。安井さんのこと」
 園田は消え入りそうな声で言うと、寂しそうな、無理のある微笑を浮かべた。
「だから、もういいの。今日はありがとう。忘れられない思い出だよ」
 彼女が口にしたのは、俺がずっと前から知っていたことだった。

 でも改めて言われると驚いた。
 いや、どぎまぎしていたのかもしれない。
 渡りに船だ、これを逃すなと打算的な考えが頭をもたげる一方で、長らく何も言ってこなかった園田がそれを今告げてきたことにうろたえていた。彼女は本来なら俺に言うつもりなんかなかったんだろう。それを言わせてしまったのは余程のことだ。

 俺はどう答えようか迷った。急がなければ園田はさっさと踵を返して、いなくなってしまいそうだった。急がなければと慌てた俺は、最もわかりやすい言葉で彼女に返事をした。
「じゃあ付き合おうか、俺達」
「……えっ?」
 園田がきょとんとする。奥二重の瞳が何度か瞬きしてみせたので、俺はさっきよりもゆっくりと答えた。
「付き合おう、今日から。駄目かな?」
 それでようやく彼女も理解できたのか、瞬時に耳まで真っ赤になってじたばたし始めた。
「え……ええ!? な、何で? って言うか本当に? 何で?」
「何でってことはないだろ」
 その動揺ぶりに俺が思わず吹き出すと、園田はあたふたと俺に縋りついてきた。
「だ、だって、私だよ? いいの? 安井さん後悔しない?」
「後悔しないよ。園田がいい」
「わ、わた……わあ……」
 もはや言葉も出ないのか、気の抜けた声を上げた彼女がその場に立ち尽くす。

 信用できないならもっと言ってやってもよかった。
 今日一日で園田をいいなと思ったことも、園田とだったら何があっても乗り越えられて、幸せになれるだろうと思ったことも。帰る時間が近づくにつれ、引き止めたいと思ったことも――でもそういうことは人通りのある駅前で堂々と語らい合う内容じゃない。もっと静かな場所にでも移動した方がいい。

「本当に、いいの?」
 彼女が上目遣いで確かめてくる。
 何かの間違いだったらどうしようと不安がっているのが、表情でわかる。
「いいって言ってるだろ。俺の言うこと、信じられない?」
「う、ううん。信じる! だって、そっちの方が嬉しいから」
 俺が聞き返すと彼女はようやく表情を綻ばせ、
「じゃ、じゃあ……」
 一面紅潮した顔で俺を見てから、ぺこりと頭を下げた。
「改めてこれから、よ、よろしくお願いします」
「ああ、これからもよろしく」
 握手でもするか、あるいは抱き合うかと思ったがそういう気配は一切なく、園田はお辞儀だけした後、まるで少女のようにもじもじと照れながら俺を見つめた。
 やっぱり、可愛いな。
 俺はこの機を、せっかく引き止めた園田を逃してなるものかとすぐに続けた。
「園田、帰りは送っていくよ。彼氏ならそのくらいしないとな」
 本当は夕飯なり、何なりに誘ってみたかったが、お互いにサイクリングで汗をかいていたし、くたびれてもいた。無理強いはできないからせめてもう少しだけでも一緒にいられるようなことをしたかった。
 ところが園田は手をひらひらと振って明るく応じた。
「あっ、ごめん。私、自転車で来てるの」
「え?」
「だから送ってくれなくても大丈夫だよ。安井さんこそ、気をつけて帰ってね」
 帰りも自転車か。今日一日でいっぱい乗ったのにまだ乗るのか。どんだけ好きなんだ。俺が呆気に取られている間に園田はもう一度俺に向かって手を振った。
「えっと、ありがとう。正直、夢でも見てる気分だよ。……じゃあ、また会社で!」
 そう言い残して、園田はあっさりと踵を返す。
 引き止める間もなく駐輪場の方角へ消えていく彼女を、俺は無様にも見送るしかなかった。
 付き合おうって言った後だというのに、何たる呆気なさだ。喜んでくれたのはいいが、今時高校生でも午後四時にデート解散したりしないだろうに。
「……まあ、いいか」
 取り残された俺もやがて肩を竦めて、ほっとしていた。

 失くすかもしれないと思っていたものが、予想もしていなかった素晴らしい形で戻ってきたのだ。それは素直に喜ぶべきことだろう。
 あとは園田の想いに、俺が報いれるかどうかだ。
 長い間ずっと、彼女は俺を好きでいてくれた。俺が酷いことをしたというのに幻滅もせず、俺の罪を許し、笑ってくれた。
 それなら俺は彼女を、その想いの深さに報いる分だけ幸せにしなくてはならない。そうでなければそれこそ、罰が当たる。
 とりあえず、帰ったら夜にでも一度電話をしよう。夢を見た気分になって、まだ信じられない思いでいるかもしれない彼女にもっと実感してもらおう。それで慌てふためく彼女の声を聞けたなら、今日のところは満足だ。
 そんなことを考えていたら自然と笑みが零れてきて、ああ、好きだなと思う。

 実感した瞬間までが、俺にとっての忘れられない記憶だった。
 その記憶はどれだけ時間が経とうとも、何が起きても俺の中から消えてしまうことはなかった。
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