Tiny garden

忘れられない記憶(1)

「振られた」
 石田が俺にそう打ち明けてきた時のことを、忘れられずにいる。
 割と長く付き合っていた彼女に別れを告げられて、ついでに心ない言葉でとどめを刺された、とのことだった。

 まだ俺が営業課にいた頃の話だ。
 石田が主任になる前で、霧島がようやく営業課の空気に慣れてきた頃で、そして――石田は彼女に振られたけれど、俺はまだ、近々自分が失恋するとは想像すらできなかった。そんな時期だ。
 忘れられないと言っても、石田が振られたことが思い出深いというわけじゃない。まあ、あの石田のしおしおに萎れた顔なんて滅多に見られるものじゃないし、そういう意味では印象深かったと言えるのかもしれない。なかなかにあんまりな理由で振られた石田が哀れだったし、同時に他人事じゃないなと身につまされるような出来事でもあった。
 それらを総合して振り返ったとしても、その失恋話自体は特に珍しいものでもない。誰にでも起こりうる判断ミスが招いた悲劇というやつだ。まして俺に直接関係のある話でもないし、まして石田本人が一ヶ月もしないうちにけろりとしていたんだから、俺も何事もなければすぐに忘れていただろう。
 だが石田が振られた件から奇妙な因果が巡り巡って、遂には俺にも降りかかってきた。
 おかげで俺はその当時の出来事を、何一つとして忘れられなくなった。

 そもそも石田の彼女――この時点で既に『元』彼女だが、その女の顔を俺は知らない。
 石田とは職場の同期でプライベートでもちょくちょく飲んだり遊びに行ったりする間柄だったが、彼女を紹介されたことはなかった。
 もっとも、俺もしていないからお互い様だ。また石田はあんなにカメラ好きなのに、女の写真を持ち歩くのは嫌だと公言して憚らなかった。彼女の魅力をファインダーに収めきれないからだとすかしたことを口にしていたが、要は上手く撮れないだけだろと俺は思っていた。
 ただ紹介はしないまでも石田の方は彼女を大切に思っていたらしく、何度か惚気話を聞かされたこともある。大学時代からの付き合いで、卒業後も一緒にいたいからと登山サークルに誘われて、休日もちょくちょく会っては愛を育み、それはもう充実した男女交際ぶりだったらしい。ただ仕事のある社会人に登山なんてのは一番大変な類の趣味だろうし、それでなくとも多忙な営業職。石田は次第に時間が取れなくなり、サークルからは足が遠退きがちだったそうだ。
 そんな中でも石田は、せめて彼女に割く時間は確保しようと努力していた。しかしそれが彼女にとって不十分な物であったことは、後の顛末を見ても明らかだ。

「こんなに冷たい人だとは思わなかった、って言われた」
 その日、打ち明け話をする為に、石田は俺をわざわざ賑やかな居酒屋へと誘った。
 静かなバーなんぞに行こうものなら落ち込みすぎて洒落にならないと思ったのかもしれない。だが夜が更けても騒々しく混み合う居酒屋の空気とは裏腹に、石田は水をやり忘れ枯れかけた朝顔のように萎れていた。
「どうせ、餌をやりすぎたんだろう」
 半ば茶化すつもりで、俺は軽く応じた。
 石田が『冷たい』と評されるような人間でないことはよく知っている。むしろ普段から暑苦しくて鬱陶しいくらいに他人を構う男だ。そんな奴の彼女が構われないはずもなく、恐らくは石田の構いっぷりを当たり前のものと思うようになった女が、仕事が忙しくなった石田が以前よりも構ってくれなくなった為、不満か不信でも抱くようになったんだろう。
「餌なんて全然やれなかったよ。結婚してくれ、って言われてな」
 深く溜息をつき、石田が続けた。俺の茶化しに腹を立てるどころか、反論する気力さえないようだった。
「もうちょっと待ってくれって答えたら、冷たいって言われて振られた」
「プロポーズしてきたのは彼女の方か?」
「ああ。仕事が落ち着くまで待てないか聞いたんだが、もう駄目だった」
「聞く耳持たないってやつか」
 俺の言葉に石田が頷く。
 普段の石田は俺の三倍は飲む男だが、今日はビール二杯目の時点でテーブルに肘をついていた。好物の魚の開きにもほとんど手をつけず、額を押さえて溜息ばかり繰り返している。
 一方、俺も石田が潰れることを警戒して、あまり飲まないようにしていた。もともと大してアルコールに強くはないから、いざとなればソフトドリンクで付き合う覚悟だった。
「寂しがらせてる自覚はあったんだよ。だからしょうがなかった」
 石田が零したので、俺は笑った。
「お前は散々相手に尽くしたのに、相手が待てないのはしょうがないのか? 下手に出すぎだ」
「待てないってきっぱり言われたらな。俺も追い縋らなかったし、お互い様だろ」
 肩を竦める石田は落ち込みつつも、どこか諦めているようでもあった。
 もしかすると俺に打ち明けるよりずっと前から、二人の間には破局の予感が漂っていたのかもしれない。それを打開する為のプロポーズだったと思えば納得もできるし、石田が追い縋らなかった理由もわかる。ここまで来るともう打つ手はないと言っていい。
「仕事が忙しいって時に黙って待てない女は駄目だ。石田、早いとこ忘れて次行け次」
「安井、人の元カノを駄目とか言うなよ。何にも知らないからって」
 俺が発破を掛けると石田はようやく、弱々しくだが笑った。

 しかしまあ、石田の失恋話はまるでお手本のようにありがちで、陥りがちなパターンだ。
 恋愛の教科書があるならアンダーラインを引いて『試験に出ますよ』と言われるくらいのよくある問題だ。
 全ての男は肝に銘じておくべきだろう。付き合っている彼女から結婚を促された時、それは大抵の場合、最後通牒と同等である。結婚して欲しいと彼女が言ってきた時、その裏側には、
『あなたが結婚してくれないなら結婚してくれる別の人を探します』
 という意味合いが込められている。
 質の悪い女はもう既に次の足がかりを見つけた上でこれをやるから腹立たしい。石田の彼女がどうかは知らないが、同僚としては石田がこれ以上傷つくことのないよう願うばかりである。

「いい子だったんだ。可愛いし、さっぱりしてたし、一緒に山登ってると楽しそうにしてくれたし、話してるとこっちの気分まで明るくなるって言うかな。そういう子だった」
 石田は俺の知らない彼女についてぽつぽつと語った後、やはり力なく微笑んでみせた。
「結局は全部過去形だがな。もう既に」
 諦めてる割には重症じゃないか。俺はだんだん心配になってきた。
 石田は振られたことよりも、長年の交際期間を冷たいと一言で締めくくられたことの方が堪えているのかもしれない。実際、尾を引かない気持ちのいい別れ方なんてそうそうないものだ。全くかわいそうに。
 とは言え打ちひしがれている石田には悪いが、失恋した男がくよくよしているのは見ていて気分のいいものじゃない。まして普段はうるさいくらい明るい石田なら尚のことだ。仕事でミスしようが上司に叱られようが大して落ち込みもしない奴が、女一人にここまでへこまされているのは哀れだ。何とかしてやりたい――と言うか、何とかしてやらないと鬱陶しい。
 そういう義務感から、俺は石田の二杯目のビールがなくなりかけたところで切り出した。
「じゃあ、フリーになった石田の為に可愛い女の子集めて合コンでもやろうか」
「はあ?」
 俺の提案に、石田は呆れたように眉を顰めた。
「冗談だろ、今はとてもそんな気になれねえよ」
「今じゃなくてもいい。お前の傷が癒えるまで待ってやる」
「気を遣ってんだか遣ってないんだか……」
「俺があれこれ世話を焼いたって気色悪いだろ。できることだけしてやるよ」
 石田だって、俺に慰められたくて飲みに誘ったわけじゃないだろうに。現在進行形の恋の悩みならまだしも、終わってしまったものに手を貸せるはずもない。
 だったらせめて、ちょっと未来に希望が持てるような話でも提供してやるしかない。
「確かにそうだな、安井に優しくされたらいかにも裏がありそうだ」
 いつもの調子で毒づいた石田が、その後で首を竦める。
「とりあえず、考えさせてくれ。今の俺じゃ飲み会に呼ばれたって盛り上がれる気がしない」
「随分へこんでるんだな。元気出せよ、石田」
「出したいのはやまやまなんだがな。しばらくは独り身を楽しんどくかな」
 空元気みたいな調子で石田は言った。
 結局、合コンの提案がその日のうちに快諾されることはなかった。

 だが俺には切り札があった。
 これを言えば失恋したての石田も間違いなく食いついてくる。そんな秘策を用意していた。
 石田のふて飲みに付き合ってから一ヶ月後、奴がようやく本調子を取り戻してきたのを見計らい、俺は再び合コンの話を持ちかけた。
「受付の長谷さんに声をかけよう。彼女が来ると言ったら、お前も付き合うよな?」
 長谷ゆきの。秘書課所属の美人受付嬢。
 俺と石田より二年後に入社してきた彼女は、入社当時から男性社員の注目の的だった。顔立ちはきれいな上に知的で品があり、特に笑顔が明るくていい。彼女が受付に回ってからというもの、誰が言い出したか知らないが営業課内には『長谷さんに笑いかけてもらえると上手くいく』などというジンクスが生まれたほどだ。そう言われるだけあって競争率も高いらしく、営業課に限らず社内では彼女を狙う男性社員がちらほらいると聞いている。

 正直に言えば俺も結構好みだ。
 挨拶をすると礼儀正しく接してくれるものの、それでいて控えめすぎないところがいい。もっと話してみたい、できれば仕事を離れたところでと常々思っていた。
 もちろん今回は石田の為に開く合コンだ。俺は幹事役だし、石田にいい目見させてやるつもりではいる。だが長谷さんに関しては簡単には譲りたくない。もしかしたら俺の方が好みだと言うかもしれないし、まあ話してみないことにはわからない。
 石田は彼女に振られたばかりだが、俺はこの二年ほど彼女なんていなかった。主に、弟のせいで。
 つまるところ、俺も久々の合コンに多大なる期待を寄せていた。

「長谷さんか……美人だよな。そりゃ彼女が来るんだったら、考えてもいい」
 その名前を聞くと、石田も少し嬉しそうにした。
 もっともすぐに訝しそうな目を向けてきたが。
「でも、実際問題誘えんのか? 別に仲良くはないんだろ、お前も」
「まあな。まだ顔も覚えてもらえてない」
「安井もかよ。実は俺もだ、結構声かけてんのに」
「どうも長谷さんは人の顔を覚えるのが苦手らしい」
 受付嬢という職務上、大勢の人間から声をかけられてキャパオーバーなのかもしれないが、長谷さんに顔を覚えてもらうのは至難の業のようだった。他の同僚からもそれらしい話を聞いて、ますます燃えた向きがいるとかいないとかだ。
「だったら誘うなんて無理だろ。それとも、何か当てでもあんのか」
 一ヶ月前のことは忘れたように乗り気になっている石田が、急かすように俺に尋ねた。
 そこで俺は頷き、
「秘書課には園田がいるだろ。あいつに頼んで誘ってもらうよ」
 俺にとっても石田にとっても見知った相手の名前を口にした。

 俺と石田が入社当時からの付き合いであるように、園田ともまた入社当時から同期としての付き合いがあった。
 例えば同期で集まって飲み会を開く時、男側の幹事が俺なら、女子側の幹事は大抵あいつが務めていた。だから園田とは他の同期とよりも頻繁に連絡を取り合っていたし、彼女の方も携帯電話を買い換えたとなれば真っ先に新しい連絡先を知らせてくれた。最近は皆忙しくて同期の集まりなんかもやっていなかったが、今回も頼むなら園田しかいないと思っていた。
 同期ではあるが短大卒の園田は俺より二歳下で、お誂え向きなことに長谷さんと同い年だった。同じ部署で同い年ということで、園田と長谷さんはそれなりに良好な同僚としての関係を築いているそうだ。当然、合コンにだって誘いやすいだろう。
 問題があるとすれば、園田が合コンの話に乗ってくれるかどうかだが――そこはまあ、必死に頼めばどうにかなる。何なら石田をダシにすればいい。
 だが実際のところ、彼女が俺の頼みを断るとは思っていなかった。
 いい顔はされないかもしれないが、嫌だ、やりたくないとは言わないだろう。確信があった。

 石田が乗り気になったところで、俺はこの話を園田へと持っていった。
 社内で顔を合わせた時に彼女を呼び止め、折り入って相談したいことがあると告げると、彼女は予想通り二つ返事で了承してくれた。
「いいよ、時間作るね。でも相談ってどんなこと?」 
「大した話じゃない。飲み会をやりたいんだ、お前にも幹事をやって欲しい」
 そこまでなら社内でもできる話だが、詳しく説明をするのはやはり憚られた。だから俺はそこで話を打ち切り、続きは後でと彼女に言った。
「急がないから近いうちに二人で話そう。世話になるし、飯くらい奢るよ」
「気を遣わなくてもいいよ、安井さん。話くらいただで聞くから」
 園田が奥二重の目を細めて笑った時、俺のなけなしの良心が全く痛まなかったと言えば嘘になる。

 彼女がそうやって俺に優しく接してくれる理由に、俺は薄々感づいていた。
 だからと言って、長谷さんに対する気持ちと同じものを園田に抱くこともなかった。俺は園田を異性の友人みたいなものだと思っていたからだ。友人だと呼びたくなるくらい、園田は『いい奴』だった。
 園田にとっての不幸は、俺が彼女ほどいい奴ではなかったことかもしれない。

 その日も約束した通り、園田は会社外の通用口で俺を待っていてくれた。
 仕事が存外に長引き、慌てて飛び出してきた俺を、おかしそうに笑いながら出迎えた。
「お疲れ、安井さん。そんなに急がなくても大丈夫だよ」
「でも予定より遅くなった。待っただろ?」
「そうでもないよ。さ、行こ。歩きながら話す?」
 今日は電車で来たという園田は、駅までの道すがら話をしてもいいと言ってくれた。
 俺はためらったが、向こうがいいと言っているのにしつこく誘うのもかえって迷惑だろうと、彼女の提案を受け入れることにした。
「飲み会って同期でやるの?」
 肩を並べて歩き出す。彼女とは十五センチあるかないかの身長差で、見下ろした先では園田の短い髪が揺れていた。さらさらのきれいな髪だったことを、なぜか後々まで覚えていた。
「いや、俺とお前、あと石田は確定してるけど」
 俺は夜になると下りてくる前髪をかき上げながら答える。
 当時の悩みは厄介なこの前髪で、朝のうちにきっちりとセットしてきても夜まで仕事をしていると下りてきて、邪魔で仕方がなかった。
「あとの面子はこれからそろえるとこだ。それで園田に声かけた」
「そうなんだ……私から、誰か誘えばいいってこと?」
「そういうこと。頼めるか?」
「いいよ。それで、誰を呼べばいい?」
 こっちを見上げて、園田は屈託なく笑った。
 取り立てて美人だというわけじゃない。でも丸顔で、いつもあっけらかんと笑うので愛嬌はある方だと思う。
 社会人になってからというもの彼氏ができなくて寂しいと何かの折に言っていたが、それは男を見る目がないからだ。もっと違う相手を選べば幸せになれるだろう。
 そのことを園田に教えてやるべきかどうか、この頃、俺は少し迷っていた。
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