Tiny garden

その声をひとりじめ

 巡くんとカラオケに来た。

 と言っても決して遊びに来たわけではありません。
 石田さんと藍子ちゃんの結婚式はもう来週末で、巡くんは披露宴の余興として歌を歌う予定だった。本日はその練習としてカラオケ店を訪れた。私はただの付き添いだ。
 遊びに行くならともかく、本気の練習に私がついていったら邪魔じゃないのかという心配はあった。実際、巡くんにもそう聞いた。
「私、ついてきちゃってよかったの?」
「もちろんいいよ、一人で歌うのもつまらないしな」
 巡くんは案外、あっさりしたものだった。
「できれば、客観的なアドバイスも欲しいんだ」
「アドバイス!? 私にできるかな……」
 いきなり高度な要求をされて、私は慌てた。自転車ならともかく、歌で私が巡くんに教えられることなんてあるだろうか。いや、ない。
「そんなに難しいことじゃない。発音とか姿勢とか、気づいたことがあればでいい」
「ああ、そのくらいならできそう。いいよ」
 私が頷くと彼は微笑み、更に言った。
「それと、せっかく来たんだ。伊都の歌も聴きたい」
「私はいいよ、だって練習に来たんでしょ?」
 彼氏自慢みたいになってしまうけど、巡くんの歌は上手い。結婚式で本気モードの歌唱を披露する巡くんはそれは絵になる格好よさだし、部屋にいる時に口ずさむ短い鼻歌も肩の力が抜けていて、聴いていてすごく心地がいい。カラオケで歌を聴くのももちろん楽しくて、二人で来る時は何だかんだと彼にばかり歌わせてしまうのがお約束だった。
 対照的に、私の歌唱力は人並み程度だ。人並み、と言っていいのかどうかわからないくらい可もなく不可もなく、でも自分で歌ってて気分いいんだからいいよね、くらいの気持ちでいつも歌っている。カラオケも好きだけど巡くんとならやっぱり聴いている方がいいし、私が歌ったらその分だけ巡くんの歌う時間がなくなってしまう。
 そもそも今日は遊びに来たんじゃない。
「そうだけど、俺だって一曲だけ延々と歌い続ける気はないし」
 巡くんはそう言って、狭い個室の二人掛けソファに私を座らせる。自分もすぐ隣に座って、顔を覗き込むように笑いかけてきた。
「カラオケデートのついでに練習、ってことでいいんだよ」
「え、いいの?」
「もちろん。二人で楽しもう」
 というわけで訂正。今日は遊びにも来たみたいです。

 週末のカラオケ店は受付に行列ができるほどの混みようだった。
 四畳あるかないかの個室の外、ガラス窓のあるドアの向こうではひっきりなしに行き交うお客さんの姿がある。その度にガラス窓には知らない人の顔が横切り、騒ぐ声も聞こえてきて賑やかだ。
「今日は混んでるね」
 落ち着かない気分の私をよそに、巡くんは気にせず曲を入れていく。
「そんなの、歌い始めれば気にならなくなるよ」
「それもそうだね」
 一理ある。ちょうど一曲目のイントロがかかり始めたので、私も部屋の外のことは気にしないよう努めた。
 巡くんはカラオケでは立って歌う派だ。マイクを手にソファから立ち上がる。私はその横顔がよく見えるよう、少し横にずれて座り直した。一曲目は巡くんの好きなバンドの、アップテンポなナンバーだった。巡くんは横目で私を見て、どこか照れたように笑って、そこでようやくイントロが終わった。
 マイク越しに響く彼の歌声は、今日も伸びがよく、澄んでいる。
 普段、話をする時の巡くんの声は男の人らしく低めだ。ものすごく低音だと言うわけでもなく、でも決して高くはない声。話し方ははきはきしていていつも穏やかだ。私は直接見たことないけど、この声で面接とかしてるのかなと思うとどきどきする。
 一方、歌う時の巡くんは話をする時以上にクリアな声をしている。音域が広くて低い声も高い声も出せるけど、高い声を出した時に震えず、かすれず、とてもきれいに響くのが特徴的だった。だから安心して聴き入ることができる。
 しかも今は、私がこの声を独り占めだ。
 幸せな気分で、歌う真剣な横顔を見上げていた。

 彼と付き合う前にも、一緒にカラオケへ来たことがある。
 もちろん二人きりじゃない。同期の飲み会で、石田さんとか、他の子も一緒だった。当然ながら巡くんの歌声を独り占めなんてできなくて、それどころか近くの席にだって座れなくて、離れた位置から彼の歌を聴いていた。
 当時の私は長きにわたる片想いの真っ最中だった。彼が歌い始めると、メニューを見るふりをしたり、歌を検索するふりをしながらその声に耳を傾けていた。歌っている姿を直視することはできなかった。座った席が遠いからじゃなく、誰にも言えない気持ちが顔に出てしまいそうな気がしたからだった。
 あの頃の懐かしい切なさは、ふと蘇っただけですぐに消えてしまった。
 今は隣にいる。歌う彼の顔をすぐ横から見上げている。
 そしてこの声を私が独り占めしている。
 こんな幸せってあるんだなあって、しみじみ思う。

 巡くんは披露宴で歌う曲も織り交ぜつつ、立て続けに何曲か歌ってくれた。
 私はそのどれもを心から堪能していた。
「ね、次はこれ! この曲がいい!」
 一通り入力した曲を歌い終わり、巡くんがソファに座ったところで、私はデンモクの画面を彼に見せた。歌って欲しい曲を先回りして検索しておいたのだ。
「一休みしてからでもいい? 喉が渇いたよ」
 彼は苦笑して、グラスに入った烏龍茶を一気に半分くらい飲む。
 それから一息ついた後、デンモクを持ったままの私に言った。
「伊都こそ全然歌ってないだろ、次はお前の番だ」
「私はいいよ」
「何でだよ」
 巡くんは軽く吹き出した。
「半分遊びに来たようなものだって言ったろ、遠慮するなよ」
「別に遠慮はしてないんだけど」
 単に、自分で歌うより巡くんの歌を聴いている方が楽しいだけだ。
 もちろん私だって歌うのが嫌いなわけじゃない。広報課の飲み会の後、東間さんと二人だけの二次会をカラオケでやることもよくある。そういう時は私も人並みなりに歌うし、それはそれで楽しいんだけど。
 巡くんの歌声を独占できるとなれば話は別だ。
「正直、自分で歌うより巡くんの歌聴いている方が楽しいんだ」
 私が答えると、巡くんはグラスを傾けようとした手を止めた。
 一瞬遅れて、少し困ったように笑う。
「そう言ってくれるのは満更でもないけどな」
「うん、だからもっと歌って。せっかくだしいろいろ聴きたい!」
 ここぞとばかりにねだってみる。巡くんが疲れているなら一休みしてからでもいい、とにかく巡くんの歌声を聴いていたい、浸っていたい。巡くんの声で聴きたい歌はまだまだたくさんあって、二、三時間じゃ全然足りないくらいだ。
「しょうがないな……俺も伊都の歌が聴きたいんだけど」
 巡くんは大げさに溜息をつき、それから何かひらめいたような顔をした。
「なら、いっそ二人で歌おうか」
「それってデュエットってこと?」
「そう」
 私の問いに彼は、随分と愉快そうに頷く。
「たまにはそういうのもいいだろ、せっかく一緒に来てるんだし」
「いいけど、あんまり曲知らないよ。最近のとか全然わかんないし――」
 答えかけたところで、隣に座る巡くんが私の肩に腕を回した。
 そのまま力を込めて抱き寄せられ、私は彼にもたれかかりながら一応言っておく。
「ドアのとこから見えるんだよ」
「気にしなきゃいい、この程度のカップルなら他にも大勢いるよ」
 私の肩を抱く巡くんは妙に満足げだ。多分、これがしたくてデュエットって言い出したんだろうと思う。
 こっちは少々どぎまぎしつつ、とりあえず知っているデュエット曲を探してみる。
「私の知ってるのだと、古めの曲が多いけど大丈夫?」
「古めのって言うと、例えば?」
 デンモクを弄る私の手元を、巡くんがグラス片手に覗き込んできた。
 そこで私は画面に曲名を表示させ、
「『別れても好きな人』とか」
 烏龍茶を飲みかけていた巡くんは、ごほっと盛大にむせる。
「わあ、大丈夫!?」
「だ、大丈夫……じゃない……!」
 何度か大きく咳き込んだ後、彼は涙目になりながら私を睨んだ。
「どうしてよりによってその曲なんだ!」
「古めの曲しか知らないんだってば。さすがに古すぎた?」
「そういうことじゃない、って言うかそこは問題じゃない!」
 なら一体何が問題なんだろう。
 もしかして、タイトルかな。
「えっと、それ以外なら『浪花恋しぐれ』なら歌えるよ」
「それもまた微妙なチョイス……俺は泣かしたりなんてしないだろ!」
「歌詞が気に入らないってこと? じゃあ『3年目の浮気』にする?」
「もっと駄目だ!」
 巡くんはよく通るいい声で、はきはきとツッコミを入れた。聞き惚れてしまった。
「大体、どうして伊都がそんな古い曲ばっか知ってるんだよ」
「東間さんに教えてもらったんだよ」
 飲み会の後の二次会でカラオケに行くと、ほろ酔い気分でテンション高めの東間さんがネタに走った選曲をする。せっかくだからデュエットしようと誘われて、こっちも酔っ払ってるから知らない曲でもその場のノリで歌えたりする。その過程で何となく覚えてしまったのがこれらの曲だ。
 経緯を聞いた巡くんは、どうしてか愕然としていた。
「あの人、そういう曲歌うのか……」
「歌うよ。結構上手いよ」
「選曲がすごいな、意外すぎる」
 確かに、私も初めてカラオケ行った時は驚いた。
 でも実は結構愉快な人なんです。美人なのに愉快なんて、二物与えられちゃってて羨ましい。
「で、どれにする? ちゃんと歌えるのってこのくらいなんだけど」
 巡くんが落ち着いたところで、改めて尋ねてみた。
 すると彼はグラスを置き、私を両腕でしっかり抱き締めた後で言った。
「デュエットはやめよう、非常に縁起でもない」
「そ、そう? 私は別に、どっちでもいいけど……」
「俺が歌うから、伊都は傍で聴いててくれ」
 宣言するなり巡くんは、デンモクを手に取り猛然と曲を入力し始める。私の肩を抱いたまま、苦もなく器用に操作していた。

 それからしばらくの間、私は再び巡くんの歌声を独り占めすることができた。
 その後の選曲は全て甘いラブソングだったので、ちょっと恥ずかしかったけど、幸せだった。

「……本番まで、あと一週間か」
 カラオケの後、帰途に着きながら巡くんがふと呟く。
 彼の愛車の助手席から、私はその横顔をちらりと見ておく。緊張の色や気負いといったものは一切感じられない、思いのほかリラックスした横顔だった。
 結局、彼の為にアドバイスらしいことは一切できなかったけど――と言うかほとんど彼の歌に聴き入っていただけだった。私が何を言うまでもなく、巡くんの歌は完璧だから問題ないだろうけど。
「楽しみ?」
 私が尋ねると、運転席の彼はこちらを見ずに微笑んだ。
「そうだな。石田の花婿っぷりを是非ともこの目で見てやらないと」
「きっと素敵な花婿さんだと思うよ」
 そういう意味では私も楽しみだ。石田さんは間違いなく格好いい花婿っぷりを披露するだろうし、藍子ちゃんはさぞかしきれいな花嫁さんになるだろう。
 結婚式は霧島さんと長谷さんの時以来だ。あれから起きた様々なことを思い起こすと、すごく感慨深かった。
「でも、俺だって素敵な花婿になる自信があるよ」
 ハンドルを握る巡くんが、不意に言った。
 思い出に耽っていた私を現実へ引き戻し、喉を鳴らして笑う。
「忘れるなよ、次は俺達の番だ」
 まるでその日を心待ちにしているみたいな、楽しそうな笑い方だった。
 巡くんのことだ。当然、素敵な花婿さんになることだろう。私にとっては世界で一番素敵で、格好いい花婿さんになる。そう思うと私も、自分の結婚式がちょっと楽しみになってきた。
 今はまだ、もう少し先の話だ。その日までにやっておかなくちゃいけないことはたくさんある。でもその日のことを夢見ておくのもいいものだ、とも思う。
「巡くん、自分の結婚式でも歌ってみる?」
 私はそう持ちかけた。
 まだどんな結婚式をするか、何にも考えていない。石田さん達の式を参考にしようかとは言い合っていた、その程度だ。それとあと、私達らしい式になったらいいな、とも。
 私達らしい式と言ったら、まず巡くんの歌かなって。
「自分の式で歌うのは、ちょっとな……」
 巡くんは難色を示した。それもそうか。
「何かディナーショーみたいで素敵かな、とも思ったんだけど」
「俺のショーにしてどうするんだよ」
 運転しながら巡くんは尚もくつくつ笑っていた。
 そしてしばし笑い続けた後、
「……そうだ。前に石田が言ってたんだけどな」
 何か思い出したように切り出してきた。
「結婚式の出し物の一つに、ファーストバイトってのがあるんだって」
「それ何? 初めて聞いたよ」
「新郎新婦がケーキを食べさせあうんだよ、『あーん』って」
 参列者の皆様の前で?
 それはさすがに恥ずかしいかも。と言うか石田さん、やるのかな。すごくやりそう。
「私達はしないよね?」
 恐る恐る確かめると、巡くんも苦笑いしていた。
「しないよ。でもな、石田が言うにはお前ならやるんじゃないかって」
「や、やらないよ、恥ずかしいじゃない……!」
「ケーキじゃなくて豆腐ならやるかもって言ってたよ」
 いや、いくら豆腐だとしても人前で食べさせあいっこはちょっと、照れる。私には無理だ。
 でもこれがもし、厳選された国産大豆と天然にがり、名高い湧水などを使用し、熟練の職人によって一つひとつ丁寧に作られた最高級の豆腐だったら――。
「ホテルのレストランで出てくる豆腐って、やっぱりすごいのかな」
 私が思わず呟くと、
「本気か!?」
 巡くんは相変わらず聞き惚れる、いい声で突っ込んだ。

 やるかどうかはまだわかりません。豆腐次第です。
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