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晴れの日

 我が社の創立記念日は三月の半ばにある。
 と言っても大したことをする日じゃない。社長の訓示が放送で流れて、缶ジュースとサンドイッチなどの軽食が配られて、各部署ごとに軽くスピーチして乾杯して終了。あとはまあ、残業少なめにして早く帰ろうねみたいな日だったりする。十年に一度だけ、ホテルの大ホール貸し切ってパーティを開くんだけど、私は入社二年目で立ち会ったのでもはや記憶も曖昧だった。
 そして今年は節目の年でもないから、やはりジュースと軽食が配られただけだった。晴れの日らしいことはそのくらいで、その後は通常業務が待っている。外は晴れの日にふさわしい好天で、お休みじゃないのが残念なくらいだった。

「園田ちゃん、そっち数合ってる?」
 広報課に配布された軽食の数を確認していると、同じくジュースの本数を数えていた東間さんが尋ねてきた。
「合ってないです、一個多いです」
 即座に答えると、東間さんはさもありなんという顔で溜息をついた。
「やっぱり。こっちも一本多いの」
「あー……きっと今頃、どっかで探してますよね」
「だよねえ」
 うちの会社も大企業ってわけじゃないけどそれなりの大所帯ではある。こういった配布物の数が合わないなんてよくある話だ。
 そういえば前にもこんなことがあった。あれは私がまだ広報に来る前、秘書課勤務だった当時の話だ。その時はジュースと軽食が一人分足りなくて、同僚だった長谷さんと二人、社内をあっちこっち尋ねて回る羽目になったんだっけ。
 あの時は確か、商品部に余分に届いてたんだったかな。商品、製造、営業あたりは人員が多いから、員数が狂うのも仕方ないのかもしれない。
「まあ、こういう時は慌てないのが一番だよ」
 泰然自若を地で行く小野口課長が、私達にそう言った。
「あえて動かず出方を待つ。じゃないとすれ違っちゃうからね」
「それもそうですね、じゃあ……」
 東間さんが納得した様子で私を見た。
 私も頷いて、課長に水を向ける。
「うちの課は先にやっちゃいますか、課長」
「そうしよう。きっとどこかが探しに来るよ」
 そう言うと小野口課長は皆にジュースと軽食を配り、余った一食分を囲むようにして広報課一同が輪になると、高々と缶ジュースを掲げて乾杯の音頭を取った。
「時間がもったいないのでスピーチは省略。創立記念おめでとう、かんぱーい」
 長々とスピーチしないうちの課長はまさに理想の上司です。

 もっとも、広報課がさっさと乾杯を終わらせたのには他の理由もある。
「よその課の写真撮ってきてくれるかな、社内報に載せるから」
 乾杯を終えるとすぐ、小野口課長は広報課員に指示を飛ばした。
 創立記念日の一コマ、というテーマで特集を組んで、各部署の和気あいあいとした写真で誌面を埋める予定だった。イントラの社内報では写真がたくさんある方がぱっと目を引いて見栄えもいいし、文章を捻り出して記事を埋める苦労もない。一石二鳥だ。
「で、ついでにどこかでジュースと軽食足りないようだったら、うちに誘導して」
「わかりました」
 指示を聞き終えた東間さんが、すかさず私に向き直った。
「園田ちゃんは総務部回るよね? 私は商品企画でもお邪魔してこようかな」
「えっ、私が総務でいいんですか?」
 思わず聞き返す。
 総務部とはこの二階に入っている各部署のことで、総務課、秘書課、人事課、それに我が広報課も該当する。他の部署は違うフロアに入っているからある程度歩かなくてはいけないんだけど、総務なら徒歩一分で済んでしまう。そういう楽なところを、広報課一年目の私が担当しちゃっていいんだろうか。
「もちろんいいよ」
 東間さんは眼鏡の奥の目を細め、私にそっと囁いた。
「人事課の写真は園田ちゃんが撮りたいでしょ?」
「え!? いや別に、全然そんなことは……」
 私はとっさに否定したけど、多分顔に出ていたんだと思う。東間さんは訳知り顔で頷いた。
「うんうん、わかってる。そういうことだから総務はよろしくね」
 他の課員からも異論は出ず、心なしか温かい目で見守られているような気さえしつつ、私の担当部署は総務部と決まった。私も別に人事課の写真を撮りたいとか、言われるまでちっとも思っていなかったんだけど、せっかくだから安井さんの顔を見たいかなというのはなくもないです。正直。
 というわけで私も役得とばかり、ありがたく総務部の写真を撮って回ることにした。

 まず最初にすぐお隣の秘書課で撮影を終えた後、次に向かったのは人事と総務が入っている部屋だ。
 ドアをノックして中に立ち入る。パーテーションで仕切られた室内のうち、ドアに近い手前側が人事課、奥側が総務課だった。人事課は既に乾杯を済ませたのか、各課員は手元に缶ジュースを置いたまま早速机に向かっているところだった。
 そして奥のデスクに座っていた人事課長が、私に気づくなり嬉しそうな顔になって立ち上がった。
「園田!」
 なぜそこで目に見えて嬉しそうな顔をするんだろう安井さんは。こっちだって仕事で来てるんだから真面目な顔をしたいのに、そんなにこにこ近づいてこられたらこっちまで顔が緩む。
 顔を引き締めようと必死な私をよそに、いい笑顔の安井さんは戸口までわざわざご足労くださった。
「どうかしたのか、園田」
「あ、えっと……写真を、撮らせてもらいたいんだけど」
 愛用のデジカメを掲げつつ、用件を告げる。
 すると安井さんは軽く目を瞠った後、また楽しそうに笑んだ。
「俺の?」
「違うよ! 皆さんの!」
「何だ、私用じゃないのか。うちの課のってこと?」
「そうです」
 私はどぎまぎしているのを押し隠しつつ、人事課内に視線を向ける。
 皆さん、机に向かいながらもちらちらとこっちを窺っているようだ。お仕事中にお邪魔して申し訳なかったかな。
「もう乾杯終わっちゃった、みたいだね」
「ああ、手短に済ませた。長々とやっても仕方ないしな」
 ここにも理想の上司がいたようです。さすがは同期の出世頭、話がわかっていらっしゃる。
 もっとも、こちらとしては被写体が一つ減ってどうしようかというところだけど。総務課はまだスピーチしている最中のようだし、向こうで写真を撮らせてもらおうかな。人事課の皆さんを写真に収められないのは残念だけど仕方ない。
 私がパーテーションの向こうに目をやった時だった。
「写真撮りたいなら、ポーズだけでももう一回やろうか?」
 安井さんが持ちかけてきてくれて、私はちょっとうろたえた。
「え、いいの? だって終わっちゃったんでしょ?」
「缶は残ってる。乾杯の真似事くらいできるよ」
「でも、もう業務入ってるじゃない。邪魔にならない?」
「写真撮るのに五分もかからないだろ。ほら、支度しよう」
 そう言うと安井さんは人事課員に声をかけ、人事の皆さんも快くそれに応じてくださって、あっという間に乾杯の支度を整えてしまった。迷惑じゃないかな、などとまごついている暇さえなかった。私はありがたく人事課二度目の乾杯の光景をカメラに収め、優しい人事課長と課員の皆さんには丁重にお礼を述べた。
「ありがとう、お蔭でいい写真が撮れたよ」
「どういたしまして。お前の為なら協力を惜しまないよ」
 安井さんは上機嫌だった。創立記念日という晴れの日だから、気分も浮かれているんだろうか。

 その後、総務課にもお邪魔して写真を撮らせてもらった。
 それからふと、小野口課長から受けたもう一つの指示を思い出して、総務に確認を取る。
「広報に缶ジュースと軽食が、一人分多く届いてたんですが……」
 と言っても乾杯の写真を無事撮れたのだから、総務で数が行き届いていることは一目瞭然だ。もちろん人事課もそうだろうけど、他に探している人がいるかもしれないし、周知するに越したことはない。
 あいにく総務の方にはまだ『数が足りない』という連絡は来ていないそうだ。よくあることだから、いつぞやの私みたいに探し歩いているのかもしれない。
「広報で預かってますので、もし探している方がいらっしゃったらお願いします」
 総務に言付を頼んだ後、人事課にも伝えておこうと安井さんのところへも寄っていく。
 彼は既に仕事に戻っていたけど、私が彼の席に近づいていくとすぐさま顔を上げてくれた。いい笑顔だ。
「ちょっと、いい?」
 一言で済む用事だったし、手短に伝えようと私は声を潜めた。
 でもそれを、安井さんは違うふうに解釈したらしい。頷くや否や席を立ち、先に廊下へと歩いていく。別にここで言いにくい話でもないんだけどなと、私は慌てて後を追う。
「廊下まで出てきてもらって何なんだけど……」
 そして人事課前の廊下で私が缶ジュースと軽食の件を告げると、案の定安井さんには少々落胆されたようだ。
「見ての通り、うちの課は足りてる」
「そうだよね。誰か探しに来たら、広報にあるよって言ったげて」
「わかった。……てっきり、夜の予定でも聞いてくれるのかと思ったよ」
 人事課長殿が勤務時間中にあるまじき発言をしたので、私は苦笑を返した。
「あのね安井さん、お仕事中だよ」
「創立記念日なんて、よその会社なら普通は休みだ。俺だって今日は早く帰る」
「だからかな。ちょっと浮かれてるよね、今日の安井さん」
 てっきり私が訪ねていったから嬉しそうにしているのかと思ったけど、どうもそれだけではないように見える。いつもよりふわふわしてる。
 私の指摘にも安井さんは全く動じず答える。
「そりゃ浮かれるだろ。園田が俺のところに来てくれた」
「それだけじゃないみたいに見えるけど」
「いや、それだけだよ。ついでに、昔のことを思い出したからかな」
 そして、少し照れたように微笑みながら語を継いだ。
「そういえばあの時も、ジュースと軽食の数が合わなかったんだよな。あの時の園田は秘書課だった」
「うん……あれ、その話したっけ?」
 秘書課時代の創立記念日に社内を捜索して歩いた話、安井さんにはしていなかったはずだ。なぜかと言うと、それは――。
「霧島の奥さんが営業課まで探しに来てたからな」
 あの時、安井さんは営業課だった。
 私と長谷さんは手分けして缶ジュースその他の行方を探すことになり、その時長谷さんが『私、営業見てきます』と言ったからそちらはお願いした。
 なぜならあの時、私は安井さんと別れたばかりで、とてもじゃないけど営業を訪ねていく勇気はなかったからだ。長谷さんが言い出してくれた時は、助かったとさえ思った。
「園田じゃなくて霧島夫人がうちの課に来た理由、やっぱ避けられてるからかな、って思った」
 安井さんの読みはまさにその通りだった。
「あの時は辛かったな。霧島は彼女が来て嬉しそうにしてたけど、俺は振られたばかりだったから」
 彼の言葉に、私はあの時『助かった』なんて思ったことを今更のように恥じた。あの時、私が営業課に足を運んでいたら、何か変わっていたかもしれない。
 少なくともあれほど長く、安井さんを苦しめることはなかったかもしれない。
「……なんて、もう幸せになってるんだから思い出す必要もないんだけどな」
 安井さんは混ぜっ返すように肩を竦めると、私の髪に手でそっと触れた。
 最近伸ばし始めたばかりの私の髪は、まだ結べるだけの長さはない。毛先を指で軽く揺らした後、物足りなさそうな顔をして語を継いだ。
「でも今日、園田が来てくれたら思い出したよ。今はもう、避けられる心配はないんだってことも実感した」
 まあ私も、人事課に寄りたくて総務部の写真担当するくらいだから。機会さえあれば安井さんの顔を見たいと思ってる。昔とは違い、今日は東間さんが『総務部回るよね?』って言ってくれたことを役得だと思った。
 要は、安井さんと同じ気持ちだった。
「で、園田。今夜の予定は?」
 安井さんが私の顔を覗き込んでくる。
 私も素直に答えてしまいたい気分ではあったんだけど、いかに創立記念日とはいえ今は勤務時間中だ。何となく気が引けて、曖昧に答えるに留めた。
「あとで、仕事終わったら連絡するね」
「今、聞きたい」
 なのに安井さんは食い下がってくる。
 口元は笑んでいる。でも、目は笑ってない。真剣だった。
 その目に気圧されてしまった私は、やむなく素直に答える。
「あ……のね、実は私、今日電車で来てるの」
「天気いいのに?」
 安井さんがわざわざ、廊下の窓から外を見やる。今日は晴れの日にふさわしい好天だった。
「だって今日、創立記念日だし。残業しないかなと思って」
「誰が?」
「いや、あの、お互いに。それで、一緒に帰れるかなと思って……」
「誰と?」
「文脈で察して欲しいなあ、と思うんですけど……」
「俺ははっきり聞きたい派だから。誰と一緒に帰りたくて、こんな絶好の自転車日和にわざわざ愛車置いてきたって?」
 やっぱり今日の安井さん、浮かれてる気がする。
 結局根負けして、私は口を割った。割らされた。
「安井さんと帰れるかなと期待して、自転車置いてきました。これでいい?」
 自棄になった私の答えは彼をこの上なく喜ばせたみたいだ。たちどころに顔をほころばせて言った。
「まずいな……嬉しすぎてこの後、仕事が手につかなくなりそうだ」
「それは困るよ。せっかく早く帰れる日なのに、残業なんてことになったら……」
「なったら? 俺を置いて先に帰る?」
 聞き返してくる安井さんは、当然、私がどう答えるかなんてご存知に違いない。
 それをわかっていても、私は素直に答えざるを得ない。
「帰る。……合鍵持ってるから」
 そしたら安井さんには声を上げて笑われた。
 なんで笑うかな安井さんの馬鹿! 馬鹿って言ったらもっと喜ばれるから言わないけど!

 各所での写真撮影を終えて広報課へ戻ると、笑顔の小野口課長が出迎えてくれた。
「ああ、園田さん。ジュースと軽食の余剰分、どこのかわかったよ」
 私達が取材に回っている間、営業課で不足が発生していることが判明したそうだ。
「石田主任が取りに来てってね。これで乾杯できるって、ほっとしていた様子だったよ」
「そうでしたか、よかったです」
 今回は営業課だったんだ。ますます以前のことを思い出しちゃうな。
 でも、安井さんの言う通り。もう幸せになったんだから思い出す必要ないっていうのも事実だ。
 感慨に耽る私に、
「ところで、人事課行ってきたんだろう? どうだった?」
 小野口課長が、唐突とも思える質問をぶつけてきた。
「えっ!? ど、どうって、なな、何がですか!?」
「いや、取材の話だよもちろん」
 と言いつつも、小野口課長は泰然と微笑んでいる。
 その微笑みに意味ありげなものを感じ取った私が口を噤むと、笑うような溜息をついてみせた。
「僕も今日は残業なんてよして、早く上がろうかなあ」

 いくら晴れの日だからって、皆さん浮かれすぎじゃないでしょうか。
 もちろん私も、全くもって他人のことは言えないけど!
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