Tiny garden

明るい家庭の築き方(1)

 ゴールデンウィークに巡くんが私をご実家へ連れていった時、彼はちょっと憂鬱だったらしい。
 なぜかと言えばそれは、彼女連れで帰るとなると家族にこぞって冷やかされるのが目に見えているからで、そしてその予想通りになった。手ぐすね引いて待ち構えていたご兄弟に巡くんは散々からかわれ、冷やかされ、手荒い祝福を受けていた。居合わせた私もそれなりに恥ずかしい思いをしたけど、それはそれで楽しい記憶として残っている。

 そんな記憶も既に三ヶ月前のものとなった八月、今度は私が里帰りをする番となり、
「憂鬱になるの、ちょっとわかるかも」
 私が今更のように共感を寄せると、巡くんは経験者らしい落ち着きぶりを見せた。
「だろ? そうなんだよ、そういうものなんだ」
「絶対何か言われるってわかってるし、冷やかされるだろうし……」
 巡くんを連れていく話を持ちかけたのは春先のことだったけど、両親の浮かれようと言ったらなかった。早く連れてこい挨拶をさせなさいどんな人なのいつ結婚するのと矢継ぎ早に問われて、あたふたしながら答える羽目になった。社内恋愛だと言ったら両親はなぜか深く納得した様子だった。
 そして私には姉がいる。歳の離れた、もうお嫁に行って可愛い娘もいる頼りになるお姉ちゃん――やはり巡くんの話をして、実家で会う約束をした際、姉は嬉しそうに言ったのだった。
『伊都ちゃんが好きになる男の人ってどんな人だろう。そういう話はしたことなかったから、すごく楽しみだね』
 私と姉は歳が離れているせいもあり、これまで恋愛について語りあう機会がなかった。せいぜいテレビに出ている芸能人の誰が好みか、という程度だった。だからこういう話をするのは初めてで、相手が姉だと思うと何と言うか、他の人の百倍はこそばゆい。
「お姉ちゃんはもういろいろ聞きたがってるらしくて。恥ずかしいなあ」
 私は思わずぼやいた。
 すると巡くんは慰めるように私の肩を抱いて叩き、
「でも伊都、こんなのは序の口だ。俺達は結婚式という大舞台も控えてる」
 と言った。
 結婚式ともなれば一日中主役として表舞台に立たなければならず、身内からの祝福で照れているようではまだまだである。いつか私達はお人形のように美しく着飾り、身内はもちろんのこと親族、友人、そして職場の皆々様の前で結婚の報告をしなければならないのである。近い将来訪れるその日の為、私の羞恥心をガラスコーティングでもしておくべきかもしれない。
 私も巡くんも派手なことは好まない質なので、なるべく地味で静かな結婚式にしたいという意見は一致していた。しかしそこは社内結婚の宿命、しかも向こうは人事課長殿である。結婚式の規模を小さくこじんまりと、というわけにはいかないので、あとはいかに花婿花嫁が目立たない式にするかが頭の捻りどころだ。折しも来月、石田さんが結婚式を挙げるのでそれが参考になるかもしれないと思っている。いざとなれば石田さんや去年式を挙げた長谷さんに相談に乗ってもらうのもいいかもしれない。
 とにもかくにも、今回は里帰りである。
 今回の身内との顔合わせには、来たるべき日に備えた前哨戦という意味合いがあるのかもしれなかった。
「それに今回は、俺の方こそ緊張してるよ」
 巡くんは気合を入れるように大きく深呼吸をする。
「伊都のご両親にお会いするのも初めてだからな。ちゃんと挨拶をしないと」
 どうも巡くんは、うちの両親にあったら形式的な挨拶を一通り済ませようと考えているらしい。いわゆる『お嬢さんを僕にください』的な挨拶だ。
 それはそれで何と言うか、目の前でされたら私の方がもじもじしてしまいそうな気がしてならない。
「そこまで深刻にならなくても大丈夫じゃないかなあ」
 私はあえて明るく彼に告げた。
 何せ相手は他でもない私の両親だ。およそ考えなしノープランでのほほんと二十九年も生きてきた私が先祖返りや突然変異などということはなく、うちの両親もまた似たような調子で楽観的に、のほほんと暮らしている人達だった。そこへ巡くんが現れて畏まった挨拶でもしたら、心の準備もできていなさそうな両親はかえってうろたえるのではないか、私は両親の反応を予想してこっそりにやついた。
「多分向こうも、うちの娘ならどうぞどうぞって感じだと思うし、畏まらなくていいよ」
 しかし巡くんは納得していない様子でかぶりを振る。
「そうはいかないだろ。失礼があってはいけないし、ちゃんとするよ」
 仮に巡くんが挨拶を失敗したとして――彼に限ってそんなことがあるとは一パーセントも思わないけど、その程度でうちの親は結婚をやめるように言うとは思わない。自分で言うのもなんだけどもう二十九だし、姉が嫁いでから十年近くが過ぎている。両親としては妹の方もとっとと片づけば、晴れて穏やかな老後を迎えられると考えていることだろう。そこへ現れた巡くんはまさに渡りに船というやつに違いなかった。心配しなくても大丈夫に決まっている。
「それに、どうせならお前には格好いいところを見せたい」
 彼はそう言って、いたって気楽に構えていた私を一撃にして動揺させた。
「見ててくれよ、伊都。俺を選んでよかったと思わせてやる」
 こういうことを平然と言ってしまうのが巡くんという人だ。一緒に暮らし始めてからもう四ヶ月、彼の言葉と態度の甘さは変わりなく、それどころか一層磨きがかかっているように感じる。二人暮らしにも結構慣れたつもりでいたけど、気を抜くとすぐにどきっとさせられる。
「そ、そんなのいつも思ってるよ」
 慌てふためく私を、巡くんはいつものペースで抱き寄せた。
「ありがとう。それなら今以上に思ってもらえるようになろうかな」
「いやもうこれ以上になったら大変だから! 私の心臓持たないから!」
 この通り私達は幸せだけど、まだ落ち着きとは程遠いところにいる。
 そのうち結婚して夫婦になったなら、今より落ち着いた二人になっているだろうか。そんな気はちっともしない。

 迎えたお盆休み中盤、私は張り切る巡くんを連れ、一年ぶりの帰省をした。
 毎年お盆かお正月でもなければ帰る気にならない距離に実家はあった。もし私と巡くんが結婚をして、夫婦喧嘩なんかしてしまっても『実家に帰らせていただきます!』というにはちょっと億劫になるくらいの距離だ。だから私は夫婦喧嘩をしても家出はしないだろうと思う。そもそも巡くんとじゃ喧嘩もそうそうしないけど。
 一年ぶりくらいでは実家も両親も何も変わっていないだろうと思っていた。その通り実家は相変わらず年季の入った佇まいで私達を出迎えてくれたし、家の中の空気、匂いの懐かしさも何ら変わってはいなかった。家の近くに大きな公園があるので、夏場は窓を閉め切っていても蝉の鳴き声が響く、そんなところも変わっていない。
 ただ、私達を迎えた両親のいでたちは少し予想外だった。
「遠いところから、どうぞお越しくださいました」
 深々とお辞儀をする母は夏だというのにめちゃくちゃしっかり化粧をしており、やはり夏だというのにちょっとした食事会用のピンクのツーピースを着ていた。美容院に行ってきたと見えてパーマの巻き具合もしっかりしている。
「娘がいつもお世話になっております。私、園田伊都の父でございます」
 父もワイシャツにネクタイを締め、白髪交じりの髪を整髪料でがちがちに固めている。さすがに暑いのかハンカチで額の汗を拭き拭き、巡くんに向かって挨拶をした。
 何だってこんなにめかし込んでいるんだろう。ぽかんとする私をよそに、隣で巡くんが頭を下げ返す。
「初めてお目にかかります。安井と申します」
 当たり前だけど巡くんはネクタイなんて締めていない。でもまるでスーツを着た勤務中と同じように、丁寧な口調で続けた。
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。こうしてご挨拶をする機会をくださり、ありがとうございます」
「こちらこそ、娘がお世話になっているのに長らくご挨拶もせず……」
 父がハンカチで額を押さえているのを、私はすっかり置いてけぼりの気分で眺めていた。
 実家の居間に入るのもやっぱり一年ぶりだったけど、きれいに掃除がされていること以外は特に変わり映えもない。だからこそこの居間を支配する張り詰めた緊張感、フォーマルな雰囲気についていけない。ここに来る前、巡くんには『深刻にならなくていい、畏まらなくていい』と言ってしまったこともあり、巡くんが戸惑ってやしないか心配だった。
 でも巡くんは私なんかよりよほど堂々としていた。うろたえることもなく続ける。
「伊都さんとはかねてより、結婚を前提としたお付き合いをさせていただいております」
 そこで彼がちらりと私に視線を向けたので、私は無言で頷いておいた。
「伊都さんのお話によればお父様、お母様も結婚を歓迎してくださっているとのことで、そのことには深く感謝しております。ありがとうございます」
 巡くんがまた頭を下げる。
 うちの両親も頭を下げる。その後で、私を見て二人揃って眉を顰める。
「こら、伊都。お前も少しは空気を読みなさい」
「何を間の抜けた顔をしてるの。もっともらしい顔をしてなさい」
「う……うん、わかった」
 そこまで間の抜けた顔をしているつもりはなかったけど、明らかについていけてない顔にはなっていたのかもしれない。私は言われた通り、もっともらしい顔をしてみた。
 巡くんがそんな私を見て、笑いを堪えるみたいに口元に手を当てた。かろうじて吹き出しはしなかったようだ。
「伊都さんは明るくて、とても素敵な女性です」
 彼がそう言うと、両親は揃って頷いた。
「それだけがうちの娘の取り柄でして」
「気立てはいいんです。昔からくよくよしない、前向きな子でした」
「ええ、今もそうです。その明るさには私も随分と支えられてきました」
 巡くんが同意を示した後、また私を見る。
 今度は柔らかく、優しく、愛情を込めた目をしている。向けられたこちらがくすぐったくなるような眼差しだった。
 そこでようやく私も、今がいわゆる『お嬢さんを僕にください』的な場面なのだと察することができた。

 今の今まで気づかなかったのかと言えばまさにその通りでお恥ずかしい限りだけど、何分こういうのは初めてだから勝手がわからなかった。てっきり歓談の後、少しお酒が入った辺りで切り出すのかと思っていたから、顔を合わせてすぐ、初めましての挨拶の直後にこう来るとは思わなかった。
 でも、決しておかしいとは思わなかった。
 巡くんは堂々としている。服装こそスーツ姿ではないものの、この時を見越してなのか白い襟つきのシャツを着ていて、背筋がぴんと伸びていた。いつも男前だけど今の横顔はことのほか凛々しく、頼もしく映った。この人の隣に座っていることを誇りに思いたくなる表情だった。
 すると私の背筋も自然と伸び、気分が引き締まる。お嫁に行く時は泣いてしまうものなのかもしれないけど、今は嬉しさと幸せの方が強かった。巡くんと出会えて、こうして実家まで足を運んでもらえて、両親に紹介ができたことを幸せに思った。
 不思議なものだ。私みたいに二十九年ものほほんと生きてきた人間でも、こういう局面ではそれらしく厳かで、真面目な気持ちになれてしまうもののようだ。そしてそれは両親も同じで、私は私によく似た両親のこんなに真剣な顔を久方ぶりに見たような気がした――記憶にある限りでは、姉の結婚式以来だった。

「伊都さんにこれまで支えていただいた以上に、これから私が、伊都さんを幸せにするつもりです」
 巡くんは張りのある声で、迷いやためらいの色を見せずに言った。
「そして互いに支えあう、温かく明るい家庭を築いていこうと思っております」
 彼の言葉を、私も同じように思っている。
 まだ結婚すること、夫婦になることに実感は湧いていないけど、そうなりたいと思うから一度は離れてもまた一緒にいるようになった。同棲生活の順調ぶりを見る限り、結婚生活への不安はない。全くない。
 だから私も、互いに支えあい、明るく笑顔の絶えない家庭を巡くんと作っていけたらと思う。
「どうか、伊都さんとの結婚をお許しください」
 肝心のその言葉は、思いのほかシンプルだった。
 だけどだからこそ心にゆっくり染みこんでいくようだった。こういうものなんだ、としみじみ実感している。言葉を必要以上に飾ることなく、本当の気持ちだけを伝えようとしているのが、わかる。
 目の前で両親が深々とお辞儀をした。
「どこへ出しても恥ずかしくない娘だと、親の欲目かもしれませんが思っております」
 父が、私のことをそんなふうに言った。
 一月十日生まれだから、伊都。私にこの名前をつけてくれたのは父だった。
「どうぞ娘を、伊都をよろしくお願いいたします」
 そう言った後、父は面を上げて私を見た。
 どこかほっとしたような、反面少し寂しそうな顔をしている。その顔を見た瞬間、思いがけず胸が詰まった。
 思えば両親が私の為に、誰かに頭を下げる姿を見たことはなかった。そういうことがないようにと、私なりに胸を張れる生き方を心がけてきたつもりだったけど、何も悪いことをしていなくても頭を下げてもらわなければならない日がやってくるのだと初めて思い知った。
「ありがとうございます」
 巡くんが静かにお礼を述べた。
 私も、すぐ後に続いた。
「ありがとう、お父さん、お母さん」
 すると両親は揃って微笑み、そして肩の荷が下りたというように胸を撫で下ろしてみせる。
「よかったな、伊都。どんな相手を連れてくるかと思ったら、立派な方じゃないか」
「何も心配要らないようだし、幸せになりなさいね」
「うん」
 巡くんのことは、確かに立派だし何の心配も要らない。
 でも私はどうかな。まだまだ未熟だし、結婚式までにもう少し大人になっておかないと。でないと――当日、泣いてしまうかもしれない。
 ふと小さな頃みたいな心許なさが胸を過ぎって、私は巡くんをそっと見た。
 巡くんも私を見て、不意に明るく笑んだ。
「幸せにするよ、伊都」
 彼の方こそ肩の荷が下りたからだろうか。その笑顔には一点の曇りもなく、あっけらかんとした底抜けの明るさがあった。
 私もつられてしまうほどだった。
「……うん。私も」
 やっぱり、結婚式でも泣く暇はないかもしれないな。
 隣に巡くんがいてくれたら、いつでも笑えそうな気がするから。
「さて。挨拶は一通り済んだし、お姉ちゃん一家も来る頃だし――」
 母が一息ついて立ち上がり、皆を見下ろしつつツーピースの上着を脱ぐ。
「ぼちぼちごちそうの準備をしましょうか。長旅の後でお腹空いたでしょう」
「伊都が言うには、安井さんは随分いける口だそうですね」
 語を継いだ父の言葉に、巡くんはそこで本日初めて慌てた。
「あ、いえ、私はお酒はあまり――」
 情報伝達に齟齬があったのかと、私の顔を見ながら言う巡くんに、父が慌てて声をかける。
「ああすみません。うちで『いける口』というのはつまり、豆腐のことなんですよ」
「……え?」

 私が先祖返りや突然変異だということは全くなく、私の両親もまた、私と同じように豆腐が好きだった。
 当然、本日のごちそうもそっち系です。巡くんが豆腐好きな人で、本当によかった。
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