Tiny garden

九年目の浮気(2)

 それから数日もしないうち、私と安井さんは我が社の社食で顔を合わせた。
 例によって厨房はもう火が消えている午後三時、食堂には他に二、三人の利用者しかいなかった。私は後からやってきた安井さんにお弁当を手渡し、彼は恭しく頭を下げてそれを受け取る。
「いつもありがとう。悪いな、忙しい時期なのに」
「一つ作るのも二つ作るのも一緒だよ。気にしないで」
 ここ最近、お弁当を持っていく日は彼の分も作って持っていってあげるようにしていた。今は泣く子も黙る年度末、お昼を食べに行くどころか買いに出かけることさえままならないことも多いからだ。こういう時、食の好みが一緒だと助かる。
 あとはまあ、四月から一緒の部屋に住むことになるし――そうなったらこうして落ち合わなくても朝のうちにお弁当もたせてあげられるし楽でいい。今はそのリハーサルってとこだ。
「園田のおかげで助かってるよ。昼の楽しみも増えたし」
 安井さんは私を名字で呼ぶ。それは別に周囲の目を気にしてということではなく、単にけじめの問題だろう。
 私はまだ名前で呼ばれ慣れなくて、呼ばれる度にどきっとしている。そのくせこうして名字で呼ばれると、何となく物足りなさを感じるようにもなっていた。贅沢なものだ。
「……来月が待ちきれないな、楽しみが一層増える」
 お弁当の包みを解きながら、安井さんが呟く。
 私がそちらに目をやったからか、にまっと少年みたいに微笑んだ。
「お前の作るご飯だけが楽しみってわけじゃないからな」
 人気が少ないとは言え他に人がいないわけじゃない食堂で、私は面食らうあまり言葉に詰まった。何も言わないうちから動揺したのがわかったのか、安井さんは意味ありげに目配せをしてくる。私はわざとらしく彼から目を逸らす。
 そりゃ私だって楽しみにしてないはずがないけど、一緒に暮らせるのが嬉しくて引っ越しの準備すら粗方済ませてしまったけど、社内でそういう話を振られてどう答えろというのか。
 俯いたまま自分のお弁当を開けた私を、彼の声が呼び戻す。
「あ、そうだ。忘れないうちにこれ、渡しとかないと」
 持参したファイルケースから一枚の紙を取り出し、顔を上げた私に差し出してきた。
 見慣れない人名が並んだ名簿は、私が――と言うか広報課が、新年度に移り変わるこの時期、毎年人事にお願いして借りているものだ。
「ありがとう! 随分早くできあがるんだね」
 私がその名簿を受け取ると、安井さんは造作もないというように肩を竦めた。
「二月から入社の意思確認をするからな。順調に行けば二月中には出揃うよ」
「そういうものだっけ。自分のがもう九年も前だから、忘れちゃったよ」
 彼から受け取った名簿は、来年度の新入社員の一覧だった。
 社内報の四月号には彼らの紹介、及び自己PRを掲載するのが通例で、その為新入社員の皆さんには入社直後からお知らせをして、掲載許可及び原稿をいただかなくてはならない。その為に名簿が必要だったというわけだ。
「確かに随分昔だもんな、忘れるよな」
 安井さんがそう言って、いち早くお弁当の蓋を開けた。今日のメインおかずは厚揚げと小松菜の煮浸し。例のビュッフェな社食でいただいたものを私なりに再現してみたものだ。
 ただ味見してみたところ、だしの風味がいまいち弱くて、完コピとまではいかなかったのが惜しい。やっぱりああいうところのご飯は、いっぺんにたくさん作るからこそ美味しいというのもあるのかもしれない。
「ね。入社したての頃のこととか、何気に覚えてないよね?」
 私はまだお弁当を開けず、更に話を振ってみた。
 手を合わせてから箸を持った彼が頷く。
「自分では覚えてるつもりでも、ふと思い出せないことはあるな」
「そうでしょ? だろうと思って、持ってきてみたんだよ」
 今度は私が荷物の中から冊子を取り出し、軽く掲げて彼に見せた。
 既に表紙が変色しているその冊子は、発行から九年以上が経過していて、小口のところもぼろぼろになり始めている。それでも手に取ってめくる分には問題ない保存状態だった。形式は変われど表紙を飾るタイトルだけは現在と変わりがないので、安井さんもそれが何かすぐに気づいたようだ。
「それ、社内報か? まだイントラに載せてなかった時代の……」
「うん。冊子で発行してた頃の社内報」

 当然ながらこの社内報が発行された当時、私は広報課員ではなかった。
 それどころか入社したばかりで、リクルートスーツもまっさらなぴっかぴかのルーキーだった。
 もちろん私だけじゃない。同期入社した安井さん、石田さんも同じようにぴかぴか眩しい新人ちゃんで、いよいよ始まる新社会人としての生活に期待半分不安半分で過ごしていた頃のものだ。
 社内報の四月号で決まって特集が組まれる新入社員達の自己紹介コーナーでは、そんな目映くも初々しかった頃の我々の姿が掲載されているはずだった。何とも豪華なカラーの顔写真つきで。

「来年度の新入社員の紹介、私が担当なんだ。だから参考にしようとバックナンバー漁ってたんだけど」
 まだ冊子だった頃の社内報も、広報課の建てつけの悪いスチール棚にしまってあった。
 その中から見つけ出したのがこれだ。
「そしたら私達の入社年度のがあったから、安井さんにも見せたげようと思って」
 私の説明を聞いた安井さんは、何とも複雑そうな顔をした。
「見つけなくてもいいのに……今更見るの恥ずかしいよ」
「そうだね。実は私もまだ中身確認してないんだ」
 どちらかと言えば彼に見せたかったというより、巻き添えにしたかったという気持ちの方が大きいかもしれない。自分一人で開く度胸はなかった。こういうのはどうしたってこそばゆいものだ。
「お前はまだいいだろ、どうせそんなに変わってない」
 安井さんは苦笑しながらも、口調はどこかからかうようだった。
 彼だけじゃなく、入社当時から見た目が変わってないといろんな人から言われる。それだけ成長がないということなんだろうけど、最近の私はちょっと変わったはずだ。私は自分の髪を手のひらで持ち上げるようにしながら反論した。
「そんなことないよ、髪型だって変わりつつあるし」
「それにしたって俺や石田ほどじゃない」
 何年も前からすっきりと短くしている安井さんがかぶりを振る。
 ある意味、髪型の変化というのも成長と言うか、ある年代からの脱却をする儀式の一つなのかもしれない。安井さんや石田さんといった同期の子達は私より先に成長してしまったけど、私はそこからの脱却になかなか踏み切れなかった。変わらない自分は嫌だと思った結果、ようやく入社当時の自分とは違う姿になれそうだった。
 だからまあ、昔の写真なんて変に照れず胸張って見ればいいんだろう。
「一緒に見ようよ、こういう時は一蓮托生だよ」
 私が促すと、安井さんは諦めがついたように顎を引く。
「わかった、開けてくれ」
 そこで私は社内報を食堂のテーブルの上に広げ、目当てのページまでぱらぱらとめくった。新入社員の紹介ページにはすぐに辿り着くことができた。この特集の為に撮られた写真と共に、名前、趣味や特技、自己PRなどが小さな文字で書かれている。
 並びはご丁寧にも五十音順で、そうなると真っ先に石田さんが見つかった。サッカー選手っぽい髪型をした若かりし頃の石田さんは、ここでもめちゃくちゃいい笑顔で写っていた。新入社員とは思えないほど堂々とした、だけど同時に屈託のない笑い方だった。
「石田の奴、相変わらずの笑い方してるな」
 安井さんもその顔を見つけて吹き出した後、顔写真の下にある文章を読み上げて更に笑った。
「趣味は登山とカメラ、特技は誰とでも仲良くなれることです……か。ここはそれほど変わってないな」
 自己PR欄には『常に前向き、未来志向がモットーです。粉骨砕身働いて、我が社の模範社員と呼ばれるよう頑張ります!』とあった。石田さんは昔から石田さんだったんだなあ、と腑に落ちる思いだった。今じゃ彼もすっかり落ち着いて主任さんなんてしてるけど、変わらないものもあるんだなと思うし、一貫したそういうところはちょっと格好いい。
「これ、あいつにも見せてやりたいな」
 安井さんが意地悪そうな笑みを浮かべたので、私はそんな安井さんの名前を次に探した。五十音順となれば終わりの方の安井さんも見つけるのはそう苦でもなく、程なくして新人時代の彼も見つけた。
 程々に伸ばした前髪を整髪料で上げて、安井さんはどこか澄ました顔で笑んでいる。石田さんほど笑顔全開ではなく、若干格好つけた表情にも見えた。
「安井さんはっけーん。ね、自己PR読み上げていい?」
「やめろよ、そんなことしたらお前のも読み上げる」
 彼が慌てて止めてきたので、私は笑いながら黙読に努めた。
 顔写真の下に記された趣味はもちろん音楽鑑賞、特技は人の顔を覚えること、とある。自己PRは『お酒には弱いですが、打たれ強さには自信があります。厳しいご指導も大歓迎です、よろしくお願いいたします!』とのことだ。安井さんらしい勝気さだなと思っていたら、本人はなぜかびっくりしていた。
「あれ、俺こんなこと書いてたっけ……」
 口元を押さえて呻いていたのがおかしかった。
「書いてるじゃない、覚えてないの?」
「普通覚えてないよ、何年前だと思ってるんだ」
 さも当然の口ぶりで言うと、彼は逆に尋ねてくる。
「お前こそ、自分で何て書いたか覚えてたか?」
「言われてみれば……覚えてないかも」
 入社当時、確かに書いたはずなんだけど、そういえばどんなこと書いたか覚えてない。締め切りを守りなさいと先輩に急かされたことと、この記事用に顔写真を撮ったことくらいだ、記憶にあるのは。
 私と安井さんはそのページを競うように覗き込み、五十音順なら恐らく真ん中辺りにあるだろう私の名前を探した。
 そして大体予想通りのところに、見慣れたショートカットとはにかみ笑いの顔を見つけた。今でも鏡に映るのとそう大差ない顔写真の下、趣味の欄にはスポーツ全般、特技は料理などと書いてある。
「あれ、趣味は自転車じゃないのか」
 安井さんが声を上げたので説明しておく。
「自転車は入社してから始めた趣味なんだよ。運動不足解消の為にね」
「そうだったのか。で、自己PRは……」
「あ、読み上げないでよ。私だって黙読したんだから!」
 私が制止すると安井さんは思いっきりにやにやしながら、それでも一応は黙って目を通してくれていた。
 ルーキー時代の私が書いた、自己PRはこうだ。
『この会社に入れたことが本当に嬉しいです。入社させていただいた以上は仕事をどんどん覚えて、会社に貢献できる社員になりたいです!』
 入社九年目の私はそれを読み、軽い目眩を覚えた。
「ま、眩しい……! 昔の私が眩しい!」
「何だこれ、殊勝で可愛いこと書いてるじゃないか」
 一層にやにやし始めた安井さんを軽く睨んで、だけど私は打ちのめされた気分にもなっていた。
 何て言うか、こんなこと考えてた頃もあったんだなあ。
 今だって全く思っていないわけじゃないけど、口にして誰かに伝えるほどのものではなかった。お給料を貰っている以上は会社の為に働くのも当たり前だし、新しい仕事を学ぶのだって周囲の足を引っ張らない為には当たり前のことだ。
 だけどそういう当たり前のことを、いやに誇らしく、きらきらした気持ちで考えてたんだなあって。
 思えば学生時代の私は、就職活動で結構苦労してたんだっけ。なかなか内定取れなくて焦ってばかりだった。そんな時にこの会社で採用内定通知を貰った時は跳び上がるほど嬉しかったな。自分を選んでくれるところがちゃんとあるんだってわかって。
「……何か、浮気してごめんなさいって気分になった」
 先日心が揺らいだことを、私は今更のように悔やんだ。
 全く、あの頃の眩しい気持ちを私はどこへ置いてきてしまったのか。
「自分で発掘してきて、自分で打ちのめされてるんじゃ世話ないな」
 安井さんはそう言って、若かりし頃の自分を見てへこむ私を笑った。
 だけどその後でふっと目元を和らげて、
「でも俺は、お前のそういうとこが好きだよ」
 と、私にしか聞こえないよう声を落として呟いた。
 私がはっと顔を上げれば、彼は嬉しそうにお弁当を食べ始めながら続ける。
「昔の自分見て、今の自分を省みられるってところが、園田らしい純粋さでいい」
「そ、そうかな……」
 妙に誉められたような気がして、私は照れた。
 純粋なんて、二十九にもなって言われるとくすぐったい。昔ほどピュアではないと思うけど、安井さんの目にはそういうふうに映ってたりするのかな。
「でもさ、純粋って言うより、単純の方が近くない?」
 照れ隠しからそんなことを言ってみたら、安井さんは優しく目を細めた。
「俺がお前の為に言葉を選んでやったのに、台無しなこと言うなよ」
「あっ、やっぱ同じ意味なんだ……」
「だから、俺は、そういうところが好きだ」
 釘を刺すように繰り返してから、彼は厚揚げを箸で口に運んだ。
 その後に浮かべた至福の表情を見ながら、単純な私は、まあいいかって気分になって笑んだ。

 そういうわけで、私の『九年目の浮気』はあっさりと雲散霧消した。
 あの時の心の揺れ動きなんて、しばらくは思い出すこともないんじゃないかと思ってた。
 ところが――。

 四月に入り、私と安井さんが同棲生活を始めた直後のことだ。
 仕事のある平日、一足先に帰宅した私は安井さんの帰りを待っていた。彼も午後八時には帰ってきて、二人で一緒に夕食を囲むことができた。
 そして夕食を取り終えた後、ソファに座ってくつろぐ私の隣に座った安井さんは、妙にそわそわした様子で切り出した。
「伊都、広報誌を読ませてもらったんだけど……」
「あ、読んでくれた?」
 私は嬉しくなって食いついた。安井さんは私が広報に移ってからというもの、社内報も広報誌も丁寧に読み込んでくれている。
 特に今月発行の広報誌には例のインタビュー記事が載っている。私が頑張ったというところを見てもらえるのは本当に嬉しいものだ。
 ただ、彼の表情は少し硬かった。勤務を終えて帰宅した後にしてはリラックスしている様子もなかった。何となく不安を抱え込んでいるような面持ちにも見えた。
「お前が会ったっていう例の社長さん、思ったよりいい男だったな」
 その硬い表情でそんなことを言うものだから、私は怪訝に思いながらも答える。
「まあ、そうかもね。男前だったかも」
 うちの小野口課長といい勝負の素敵なおじさまだった。頷く私に、彼はむっと唇を結んでから尚も言った。
「何かあの時、食事に誘われたって言っただろ」
「うん、そうだけど」
「まさかと思うけどお前、口説かれたりしてないよな?」
「――へっ?」
 文字通りまさかの問いかけに私は目を見開いた。
 ソファに隣り合って座る安井さんはこちらに身体ごと向けて、圧し掛からんばかりの体勢だった。私の肩をぐっと掴んで、真剣な顔で覗き込んでくる。
「だって取材行ったついでに食事に誘われるとか、よほど気に入られたのかって思うだろ」
「いや、でも、社食だよ?」
「違うんだよ伊都。大抵の男は一回目から気合の入った店に女を連れてったりしない」
「そりゃデートのセオリーでしょ。仕事で会った相手なんだし、ないない」
 焦りのせいか早口になる彼を、諭すのだって一苦労だ。
 あの社長さんは単にご自慢の社員食堂をお披露目したかっただけだと思う。さすがに口説かれたらわかりますって。
 でもって、あなたの彼女はそこまでもてる女じゃありません。
「いい男って言うけど、あんなに年上じゃちょっとね。私は話の合う人がいいし」
 安心させようとそう言ってみたけど、安井さんは不安に揺れる目で私を見ている。
 だからその頬に手を添えて、ちょっと照れながらも言ってみた。
「それに、私にとっては安井さんこそが一番いい男だよ」
 すると彼はちょっと笑いかけておきながら拗ねた顔つきになって、
「もう一声」
「何が?」
「いい男って言われるだけじゃ物足りない」
 と催促してきた。
 だから私は溜息をつき、それから大いに照れつつ宣言した。
「安井さん大好き! 世界で一番愛してる!」
「それだと何か二番がいるみたいじゃないか」
「いるわけないよ。誰に口説かれたって私は断じて、百パーセント浮気なんてしません!」
 そう付け加えると、別に知らなかったことでもないはずなのに、彼はとても深く安心したみたいだ。ふっと緩んだ表情を隠すみたいに私をぎゅっと抱き込んで、耳元で囁くように言った。
「お前のそういうところが大好きだ。俺も、愛してる」
 二人きりの時に聞くその言葉は、気恥ずかしくなるような甘さと色気を含んでいる。
 お蔭で私は身動きも取れなくなり、しばらく黙って抱き締められているより他なかった。

 大体、九年前には既に、安井さんのこと好きだったんだから。
 そのくらい好きな人と一緒にいるのに、浮気なんてするわけがない。
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