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九年目の浮気(1)

 九年目にして、心が揺らぐ出来事があった。

 事の発端は広報誌のインタビューで伺ったよその企業だ。
 市内郊外にある化粧品製造メーカーの会社社長は経営に関する著作も複数ある高名な方で、外部識者からの客観的なインタビューを是非記事にしたいと小野口課長が仰ったのでアポを取りつけた。お忙しい方だそうなので早めに連絡を取ったところ、三月上旬なら都合がつくとのことで、スケジュールを前倒しして私が伺ったわけだ。
 そうしてお会いした社長は四十代後半、ロマンスグレーの素敵なおじさまだった。うちの小野口課長も男前だけど、こちらの社長さんはもう少し枯れた感じの、品のいい紳士といった趣だ。講演経験もあると伺っていた通り、他社の人間の訪問にも慣れた様子で、またインタビューも相当場数を踏んでいらっしゃったようだ。こちらの聞きたいことを的確に察し、難しい用語は噛み砕いてわかりやすく説明してくださるのでインタビューは滞りなく進んだ。
 私の心が揺れたのはその最中だ。
「我が社ではフレックスタイム制度を導入しているんです」
 社内の勤務形態について話が及んだ時、社長はにこやかにそう言った。
「例えば同じ人間でも、朝に強い方と夜に強い方がいらっしゃるでしょう? 園田さんはどちらですか?」
「私は……どちらかといえば朝派ですね。いつも五時前には起きてます」
 そう答えると社長は、まるでこちらの回答が予想通りであったかのように頷いた。
「それだけ早起きをされる方でしたら早くから頭が冴えているでしょうし、午前中の集中力は素晴らしいでしょうね。そういう力を我が社では積極的に生かしているんです」
 好きな時に出勤して、その出社時間に応じた時刻に退勤できる。こちらの会社ではなんと出勤日まで自由に決めていいらしい。そんな勤務形態で同僚の顔を覚えられるのかと疑問に思うけど、そこは『コアタイム』と呼ばれる、一日数時間の出勤を必須とする時間帯が設定されていることで解決するらしい。
 フレックス制なんて私にとっては名前自体は聞いたことあれど、実在しているのは見たことがないUMAみたいな存在だった。もしもうちの会社に導入されたら、朝早く出勤して、夕方明るいうちに帰れちゃったりとかするのかな。そしたら会社帰りに寄り道してちょっと遠乗りなんてできるのになあ、などと考えてしまう。
 今の会社に不満があるわけじゃない。
 いや、全くないとも言わないけど何と言うかまあ、ごく些細な不満だ。給料が増えたらそりゃ嬉しいなとか、もっと残業減らせたらいいのになとか、その為にも広報にはもっと人員が必要なんじゃないかなとか、実体験を踏まえて言えば異動の告知はもうちょい早めだとありがたかったなとか――その程度だ。そういった不満は多分どこの企業に行ってもそれなりにつきまとうものだろうし、転職を考えるほどの不満にはなり得なかった。もう九年目も終わろうとしている今、まして結婚を控えている身で転職考えるなんてちょっと冒険野郎だと思う。
 ただ、こうして他社の勤務形態を聞く機会があって、初めて羨む気持ちが生じてきた。
 もしかしたらよその会社には、もっと働きやすい環境があったりするんじゃないか、みたいな。
「本日はお忙しいところをありがとうございました」
 インタビュー収録後、私は録音用のレコーダーを切ってから頭を下げてお礼を述べた。
 そしてお暇しようとしたところで、社長に呼び止められた。
「園田さん。ちょうどよいお時間ですし、一緒にお昼でもいかがですか?」
「え……ええ、構いませんが、ご迷惑じゃないですか?」
 時刻を見れば正午過ぎ、気づけば結構長居してしまっていた。恐縮する私に、社長は爽やかな笑顔でかぶりを振る。
「こちらからお誘いしたのに迷惑なんてことありませんよ。我が社の社食も紹介させてください」
 そして連れて行かれたのは温かみのあるフローリング、高い天井には天窓のついた、自然光溢れる社員食堂だった。
 既に大勢の社員が食卓を囲む食堂は街中のこじゃれたレストランのような雰囲気で、おまけにビュッフェ形式だ。幅広い年齢層の社員のニーズに応える為、メニューも揚げ物から京風おそうざいまで実に種類豊富だった。高野豆腐の精進煮、厚揚げの煮浸し、白和えに胡麻豆腐と目移りするほどいっぱいあって、それらを全て取ってきたら社長さんにくすくす笑われた。
「園田さんはお豆腐がお好きなんですね。お若いのに、珍しいな」
「すみません豆腐ばっかり……大好きなんです」
 私は照れながら頷いて、同時に心底羨ましく思う。
 毎日豆腐が食べられる社員食堂! なんて素晴らしいんだろう。そりゃ心だってちょっとは揺らぐ。

 お昼をいただいてから帰社して、その後は広報課でインタビュー起こしに勤しんだ。
 仕事を終えて退勤したのは午後九時過ぎだった。挨拶をして廊下に出たところで安井さんも廊下に現れ、あと二十分で退勤するから一緒に帰ろうと言われた。今日はいいお天気だったから、私は愛車で、彼は電車で出勤していた。その誘いに二つ返事で答え、二十分後、私達は社屋の外で落ち合った。
「安井さん、お疲れ様」
 先に出ていた私が声をかけると、通用口から出てきた彼が面を上げてはにかんだ。
「お疲れ、伊都。待たせて悪いな」
 好きで待ってたんだから謝らなくてもいいのに。私も笑い返しておく。
「それほどでもないよ、行こ」
「ああ。ありがとう、待っててくれて」
「うん」
 私は自転車を押しながら、彼と共に駅を目指す。
 こういう夜は駅の前まで一緒に行って、そこで別れるのがいつものパターンだった。先月下旬辺りからは忙しくて、いつもと言うほど頻繁には帰れていないけど。
 三月に入って日中の気温はぐんと上がった。外で話していても息が白くならなくなった。だけど夜の冷え込みは相変わらずだ。寒さに震えて歩きながら、私は今日の出来事を彼に話した。
「今日、例の会社にインタビューに行ったんだよね」
 取材をしに行くという話はもう既に打ち明けてあった。私の報告に、安井さんもああ、と相槌を打つ。
「行ってきたのか、どうだった?」
「もうすごかった、社員食堂がすっごいきれいなビュッフェなんだよ」
 私の言葉に安井さんがいきなり吹き出した。
「取材に行ったんだよな? なんでいきなり社食の感想だよ」
 身体を折り曲げてげらげら笑っている。よほどツボに入ったのかもしれない。
「インタビュー録った後でお食事でもどうですかって、社食に案内されたの」
 私は説明したけど、なんかこのタイミングだと言い訳っぽく聞こえる気がする。
 まあ、せっかく取材に出かけていったというのに真っ先に出てくるのが社食の感想かよ、とツッコミを入れたくなる気持ちはわかる。立場が逆だったら絶対突っ込んでた。
 安井さんも納得したのか、まだ笑いながらも聞き返してくる。
「そういうことか。よその社食なんてそうそう行くことないし、貴重な経験だよな」
「テレビではよく見るけど、利用するとなるとなかなかね。今回はラッキーだったよ」
「美味かった?」
「美味しかった! 厚揚げの煮浸しなんてだしが利いてたし、胡麻豆腐も絶品だったの」
 思い出すだけでよだれが出そうだ。また食べたいけど、よその会社の食堂では行きようがない。自分で再現してみるしかないか。
「何よりビュッフェっていうのがいいよね。各々が食べたい物を好きなだけ取れるのが」
 我が社の社員食堂はポピュラーな食券方式だ。定食メニューと麺類が主で、豆腐料理なんて日替わりに麻婆豆腐でも来ない限りまず食べられない。定食メニューは割かし美味しいんだけど、お肉やお魚の献立が多いから豆腐好きにはちょっと寂しい。
「でもうちの社食だって結構美味いだろ。食べられればの話だけど」
 安井さんがそう言ったので、私は大いに共感しつつ笑った。
「本当、食べられればの話だよね」
「終わるのが早いんだよな、うちのは。午後二時には大体終わってる」
 その頃になると賄いの皆さんが帰ってしまうので、以降の社員食堂は自販機のあるだだっ広い飲食スペースと化す。普段の私はそこでお弁当を食べるか、朝の出勤時に買ってきたサンドイッチでも食べるか、みたいなランチタイムを過ごしている。
 秘書課にいた頃は割とスケジュール厳守で休憩に入れて、社食も利用しようと思えばできたんだけど、広報に来てからは全然駄目だ。何せ広報課にはどんなスケジュールよりも絶対的な『入稿締め切り』という暴君が君臨している。奴には小野口課長も東間さんも、むろん私も断じて逆らえないのだ。
「今日行ったとこの社食は、夕方五時までやってるんだって」
 並んで歩くと、時々肩がぶつかった。多分わざとぶつけて来てるんだと思う。手を繋ぎたいのかもしれない。
 ただあいにく私の手は自転車で塞がっていたから、その分、なるべく彼をじっくりと見ながら話をした。夜風にふわふわ揺れる短い髪と、涼しげに瞬きする目元、形のいい唇の動きを見ていた。
「十時から五時までだよ、もうちょっとしたレストランだよね」
 安井さんも歩きながらちょくちょく私を見る。眼差しは温かく、こうして話をする間はずっと楽しげに笑っている。
「それは羨ましいな。うちもその時間までやっててくれればありがたいのに」
「勤務形態が違うせいもあるんじゃないかな、フレックス制だって言ってたし」
「フレックスか……俺達には全く縁のない言葉だな」
「ね。私なんてそんなもの、ネッシーか雪男並みの存在だと思ってたよ」
 安井さんが遠い目をしたので、私も本心から呟いた。
 ビュッフェとか、フレックスとか、馴染みのないものばかりが揃う会社がちょっと眩しく見えてしまった。もちろんいいことばかりじゃなくてデメリットだってあるんだろうけど、思えばよその会社のことなんてそこまで気にする機会もなかったな。
「だからさ、隣の芝生が青く見えたってやつなのかな」
 私は溜息と共に打ち明ける。
「ちょっと羨ましくなっちゃった。よその会社で働いてたら明るいうちに帰れたのかな、みたいに思ったりしてね。今の会社に不満はないけど、違う選択肢もあったのかもしれないな、とか」
 別に深刻な悩みとして話したつもりはなかった。
 だけどその時、安井さんはふと笑みを消し、表情を生真面目に引き締めて言った。
「伊都、人事の人間として聞くわけじゃないけど、まさか引き抜きにあったのか?」
「え?」
 言われたことがとっさに呑み込めず、私は聞き返してから慌てて弁解した。
「いや違うよ。だからさっき言った通り、広報誌の取材に行ったんだって」
「何か、勤務形態についてじっくり聞いてきたみたいな口ぶりだったから」
「そりゃそういう取材だし。今更転職とか考えてないし、お声がかかる人材でもないよ」
「そうかな。それは自己評価低いんじゃないか?」
 安井さんは口元だけ笑っていたけど、目は真剣だった。割と本気で心配しているのかもしれない。
 私は焦ってかぶりを振る。
「ないない、そういうのじゃ全然ないから。ないものねだりしてるだけ」
「ならいいけど」
「大体ね、私もこういう話は安井さんが相手だから打ち明けたんだよ」
 取材については小野口課長にも当然報告したけど、さすがに『よその会社が羨ましくなっちゃいましたー』なんて能天気なことを直属の上司には言えっこない。査定にダイレクトに響きそうだ。
「だから安井さんも仕事のことは忘れて、はいはいって聞いといてよ」
「はいはい」
 彼はどことなく安堵したように笑い、肩を竦めた。
「でも気にするのは当然だろ。お前が転職したいって言い出すかと思うと」
「だからそういうんじゃないってば。ちょっといいなあって思っただけだから」
 ひとしきり羨んでみてから振り返れば、今の職場にそこまで強い不満があるわけでもない。
 それどころか今日まで、転職という選択肢が頭に浮かんだことさえほとんどなかった。そりゃ社会人一年目のルーキー時代は壁にぶち当たることもあって、この仕事でいいのかなあ上手くやってけるかなあと柄にもなく悩んだりもしたけど、結局はそういう悩みも時間が解決してくれたように思う。愛社精神を誇れるほどではなくてもなんだかんだ我が社には愛着あるし、どこかへ移ろうなんて気はさらさらない。
 本当にほんのちょっとだけ、心が揺らいだだけだった。
「逆に聞くけど、安井さんは少しでも転職したいなって考えたことないの?」
 こんな時間だけど誰に聞かれるかわからないし、私は声を落として尋ねた。
 安井さんは何かを思い出すみたいに苦笑する。
「ないはずがないな」
「あるでしょ? ほら、誰だって一度は考えるんだよ」
「多分、今のお前よりも深刻に考えてた」
 私は胸を張りかけたけど、後に続いた彼の言葉が気になって、やめた。
 代わりに急いで食いついた。
「え、そんなに考えてたの?」
「そりゃそうだろ。俺は営業がやりたかったんだからな」
 彼がかつて営業から人事への異動を言い渡された時、どんな思いを抱いたかは前にも教えてもらっていた。
 その時にもしかしたら、転職という選択肢も頭に浮かんだのかもしれない。よその会社へ行けばやりたい仕事がある。そう考えるのも不思議なことじゃない。
 そして彼が転職していたら、私達が今の関係を取り戻す機会は永久に失われていたかもしれない。
「でも、結局は考えただけだった」
 私が抱いた微かな不安を吹き飛ばすように、安井さんはそう続けた。
 目を合わせてから彼は笑う。夜の街明かりの中で見るその顔は、見とれるほど優しかった。
「思い留まった最後の決め手は、人間関係だったのかもな」
「人間関係かあ……そうだね、大事だよね」
 一つのところに長く留まっていれば、自ずと周囲の人との関係ができあがっていくものだ。そして職場の居心地の良し悪しにも直結する。考えてみれば私だって、広報に異動する時は上司や同僚となる人のことが気になってそわそわしていた。その辺りは幸いにも、大変恵まれていたみたいで安心している。
「それもまた財産みたいなものだから、そうそう手放せないよね」
 私はそう言ってからもう一度息をついて、胸の奥に溜まっていた羨む気持ちを追い出した。
 今の会社に入ってよかったと思うことだってたくさんある。そのうちの一つはやっぱり人間関係だと思う。
 隣の芝生は青いものだけど、だからと言ってすぐさまそちらへ飛び込んでいこうなんて気になるはずがない。うちの芝生だって悪いもんじゃないし、広報の仕事もいよいよ面白くなってきたところだし。
 それに、安井さんがいるし。
「安井さんが転職を決意してなくて、よかったかも」
 後からぼそっと呟いてみたら、安井さんは嬉しそうにつっついてきた。
「そう思ってくれる?」
「うん。安井さんがいなくなってたら寂しかったよ、きっと」
 すると彼は格好つけるように目を伏せて、でも口元には隠し切れない照れ笑いを浮かべて言った。
「俺も未練があったからな。決めてたら後悔してたよ、間違いなく」
 並んで歩きながら見つめたその表情が、なんだか大切なものに思えて仕方がなかった。
 財産、というと硬い感じがするから――私はあの会社で、宝物を見つけたみたいだ。
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