Tiny garden

はじまりのおわり(1)

 四月になり、入社十年目の春が来た。
 私は今年度も広報課の一員として、小野口課長の下で働くことになっている。

 去年、異動したての頃は早く慣れなくちゃって焦りもあったし、初めての異動でわからないことも結構あった。でも広報課の人達は皆いい人で、親切で、私が思ったより早く馴染むことができた。振り返ってみれば一年間なんてあっという間だったけど、これまでに得た経験を糧に、新年度からはより広報課に貢献できるような仕事をしたい。
 それと広報だけじゃなく、優しい人事課長殿にもいろいろ気にかけていただきましたし――この件については個人的にお礼を言っておいた。
 彼は少し得意げに笑んで、だけど口では、
『当然のことをしたまでだよ』
 と答えていた。
 今年度も彼には何かとお世話になるだろう。お互い、支え合ってやっていけたらなと思う。

 そういった周囲の温かい支えもあり、私の広報課勤務も無事二年目に突入しました。
 現在は四月の社内報の記事を作っているところで、新年度早々仕事に追われております。

「園田さん、新入社員の紹介記事の方はどうなってる?」
 小野口課長の問いに、私は素早く答える。
「アンケートの提出状況は八割強です。今のところ掲載不可の申請はありません」
 毎年四月になると、どこの企業でも社内報には新入社員の自己紹介特集が組まれるものだ。
 我が社も例外ではなく、新入社員に名前や趣味や性格、自己PRなどのアンケートを取ってそれを掲載するのを恒例の特集にしている。これも当然ながら個人情報であり、掲載するかどうかは各社員の自己判断に委ねているとのことだけど、過去に掲載を拒んだ新人さんは一人としていなかったらしい。そういえば昔、私も迷わず提出した覚えがある。
 ただこの時期は入社直後の新人さん達が張り切って研修に励んでいる頃で、そうなるとアンケートを書く暇もなかなか持てなかったりするものだ。そういう場合は人事を通して掲載の可否を問い合わせた上、掲載可となればアンケートの回収に出向かなければならない。
「八割か。時期的にそろそろ催促かけたいところだなあ」
 こちらの回答を聞いた小野口課長は、広報課の壁にかけられたカレンダーを睨んでぼやく。社内報の更新締め切り時期が近づいていた。
「あとで人事に連絡してみます」
 私がそう続けると、課長は少し考えてから、
「いや、今かけてみて。で未提出の人には今日中に連絡しよう」
「わかりました」
「あとほら、人事課長もお忙しいし。奥さんの声聞けば元気出るだろう」
 小野口課長がこそっと言い添えてきたので、私も小声で反論した。
「……まだ結婚してないです」

 新年度を迎えたところで、私と安井さんは改めて小野口課長の奥様のお店に伺い、課長ご夫妻に結婚の報告をしていた。お見合いをセッティングしていただいたお礼も兼ねてだ。
 課長も奥様もそれを嬉しそうに聞いてくれ、結婚式を挙げるならわからないことは相談に乗るよと言ってくださった。当たり前だけど私達にとっては初めてのことなので、お言葉に甘えようと思っている。
 その報告の際に、具体的にいつ頃結婚する予定なのか、と課長から聞かれていた。
 来年くらいかな、と私が安井さんに振ると、彼はにっこり笑ってこう答えた。
『籍を入れるのは一月十日にしよう。一番覚えやすい結婚記念日になる』
 私としては自分の誕生日にしたいって思ってたわけでもないし、何だったら二人の誕生日のちょうど中間でもいいんじゃないのって言ったけど、彼としては一月十日という日を大切にしたいらしい。実際、私達にとっては辛いことも嬉しいこともあった、実に思い出深い日でもある。今年はついにプロポーズ記念日にもなったことだし、この日が結婚記念日になってもいいのかもしれない。
 というわけで私は、三十歳ちょうどで結婚することになりそうです。

 閑話休題、私は早速人事課長に電話をかけた。
 この時期の彼は人事課にいないことも多いので、社用の携帯電話に直電する。
『――はい、安井です』
 広報課据えつけの電話から彼の声が聞こえてくる。
 私は表情を変えないよう努めていたけど、小野口課長を始めとする広報課員達が一様にこちらを窺ってくるので、視線のやり場にさえ困って天井を見上げながら受け答えした。
「あの、お世話になっております。広報の園田です」
『お疲れ様。お前がかけてきたってことは、新入社員のアンケートの件?』
 こちらが名乗ると彼の声はたちまち柔らかくなり、砕けた口調になった。もしかすると周りに誰もいないのかもしれないけど、こっちはそうじゃないので答え方が難しい。
「そう、です。今朝の時点で新規の提出ってありました?」
『今朝付けでまた何通か来てた。あとでまとめてそっちに持ってく』
「いえいえ、お忙しいとこ申し訳ないですし、こっちから伺います」
『別にいいよ、ついでに可愛い顔も見たいしな』
 安井さんは安井さんで、私が敬語しか使えない、つまり衆人環視の状況下にあるとわかっているくせにそういうことを言う。私が緩みそうになる口元を無理やり引き締めたら、傍にいた東間さんが思いっきり吹き出した。
「で、ではお手数をおかけしますが、アンケートの件、よろしくお願いいたします」
 私は取り繕うように通話を畳みにかかり、
『了解。じゃあまた後程、午前中のうちにそちらへ伺います』
 勤務中の口調に戻った彼が、その後で声を落とす。
『そうだ。今日はいつもより早く上がれそうだから、夕飯は一緒に食べよう』
「あ、うん。……じゃなくて、承知いたしました」
 頷きかけて慌てて言い直すと、彼は笑いながらようやく電話を切った。
『またな、伊都。声が聞けて嬉しかったよ』
 彼は本当に嬉しそうに、名残りを惜しむように言い残したけど、毎日聞いてるじゃないのってツッコミを入れる隙は与えてくれなかった。

 どんな顔をしていればいいのか大いに困りながら、私は受話器を置く。
 すると、足音もなく近づいてきた東間さんが、耳元で不意に囁いた。
「……電話切る時、『愛してるよ』って言ってあげなくてよかったの?」
「勤務中にそんなこと言うわけないですから!」
 私があたふたと否定すると、東間さんは少し残念そうにしながら自分の席へ戻っていった。言って欲しかったんだろうか。いやいや、勤務中に上司同僚の前でそんなことが言えるわけがない。二人きりの時でさえなかなか言えないのに。
 にしても、まだ籍も入れていないというのに、結婚前からこんなにからかわれてるなんてどうなんだろう。小野口課長も東間さんも普通に冷やかしてくるし、と言うか広報課一同が知ってる感じになってるし、安井さんも総務部長辺りに結婚することをぼちぼち打ち明け始めたらしい。いくらかもすれば、社内で私達のことを知らない人がいなくなるくらいに広まってしまうのかもしれない。恥ずかしいだろうなあ、きっと。
 まあ、早いうちに広めておけば今は散々からかわれても、いざ結婚する頃には皆も私達をからかうのに飽きて、冷やかしてこなくなるかもしれない――と思ったけど、多分そうはならないどころか、新婚さんらしく今以上に冷やかされるんだろうなという気もする。
 それでも、誰にも言えなかった頃から比べたら幸せかもしれない。なんて。

 仕事の方は多少の落ち着かなさ、慌しさこそあれ概ね順調と言えた。
 ではプライベートの方はどうかと言えば、こちらも特に問題なく、順調ではないかと思っている。

 以前話していたように、私と安井さんは入籍より一足も二足も早く同棲を始めた。
 今年の四月から、彼の部屋で一緒に暮らすことになったわけだ。
 朝は二人一緒に目を覚まして、朝食も二人で取る。夜、仕事を終えて部屋へ戻ればまた彼と二人で過ごす。そういう幸せな暮らしが私達の元へ訪れていた。
 もちろんそういうことも結婚を決めたからこそできることであり、私は以前住んでいた部屋を引き払う際、両親に報告も兼ねて連絡を入れた。うちの両親は姉と違い、なかなかご縁のない次女に多少やきもきしていたらしく、結婚するからという報告は大きな喜びと安堵をもって迎えられた。
 安井さんの方もお兄さんと弟さんが既に結婚済みという状況下にあり、ご両親への報告ではやはりめちゃくちゃほっとされたそうだ。まとまった休みのうちにでも、双方の実家へ足を運んで挨拶をする予定だけど、この分だと反対されることもなさそうだ。

 私としても彼との生活に、いずれ来る結婚生活へのリハーサルのつもりで挑んでいる。
 仕事を終えて部屋へ戻ったら着替えを済ませて、二人分の夕飯の支度をする。食事の支度は私が一手に引き受けている。彼には悪いけど、どうせなら毎日美味しいご飯を食べたいからだ。
 代わりに当面の間、掃除は彼の役目ということになっている。洗濯は手の空いている方がする。大抵、私だけど――やっぱりその、見られたら恥ずかしいものとかありますし。いずれ夫婦になる相手だとしても今はまだちょっと。
 ともあれ社内報の更新が一段落し、午後七時に退勤した私は、今夜も二人分の食事の用意をした。

 彼も早く帰ると言っていた通り、午後八時には部屋に帰ってきて、私は玄関まで迎えに出る。
「お帰り、安井さん!」
 玄関で靴を脱ぐ彼が、私を見るなり表情を緩める。
「ああ、ただいま」
 仕事の後の疲れた顔が、たちまちほっと和らいだ。そういうそぶりを見ると、私も少しは彼を癒せているのかな、なんて嬉しく思う。
「ご飯、ちょうどできてるよ。先に食べるよね?」
「そうするよ、ありがとう」
 靴を脱いだ後、彼はネクタイを緩めながらリビングに入ってくる。その途中で私を捕まえて、頬に軽くキスしてくるのも忘れない。
 ベタなことが大好きな安井さんは、ただいまのキスも決して欠かさないので困る。ここで一緒に暮らしてるんだ、二人きりなんだ、というのがはっきり意識できるようで。
 それで私が慌てればたちまちにやりとされるんだけど。
「このくらいで照れるなよ。可愛いな、伊都は」
「しょうがないでしょ、慣れてないんだから。そのうち平然とするようになるよ」
「どうかな。お前なら一生照れまくってそうだ」
「……そこまで言うなら確かめてね。一生」
 彼が望むところだという顔をしたので、私もにやっとしておいた。
 それからリビングのテーブルに食事を運んでいくと、その上に並べられた今晩の献立を見た安井さんが口元を綻ばせる。
「厚揚げ丼だ」
「そうだよ。そういうの食べたいかなと思って、味つけ濃い目のメニューにしたんだ」
「今日辺り、食べたかったんだよ。美味いよなこれ」
 厚揚げとじゃがいもをバター醤油で焼き上げた厚揚げソテー丼は、気合を入れたい時のスタミナメニューだ。安井さんはこれを甚く気に入ってくれているようで、同棲する前から何度となくリクエストされていた。私も定期的に食卓に載せるようにしている。
「出来たてだから美味しいよ。手洗っといで」
 私が促すと、安井さんは子供みたいに素直に従った。
 鼻歌交じりにいそいそと洗面所へ向かう姿が可愛い。私の作ったご飯をそんなに楽しみにしてくれるなんて、幸せなことだとつくづく思う。

 二人暮らしといっても、常に一緒にご飯を食べられるわけじゃない。
 どちらかの帰りが遅くなることもあるし、朝の出勤時間がずれることもよくある。これから繁忙期を迎えれば一緒にいられるのは寝ている時間だけ、なんてことにもなるかもしれない。
 だからこそ、夕飯を二人で一緒に食べられる日があれば、それを大切にしようと思っている。

「いただきます」
 手を洗って戻ってきた彼が、テーブルの前に座って手を合わせた。
 それから箸を取り、私が見守る中、丼に飛びつくようにしてご飯を食べ始める。
「うん、美味い」
「そう? よかった」
 彼の言葉に私はほっとして、それからようやく箸を取る。
 その間にも安井さんはでれでれに緩んだ顔で食べ進め、途中で一息ついてからこう呟いた。
「仕事して帰ってきたら温かいご飯が待ってる、って最高の贅沢だよ」
「そんなに喜んでもらえるなんて嬉しいな。できれば毎日贅沢させてあげたいけど」
「忙しい時は大変だろ。無理はしなくていいからな」
 安井さんが私に釘を刺してくる。
 私は一応頷いて、
「でも、こう見えても一人暮らしの頃からずっと自炊してきたからね。忙しい時の手の抜き方だってわかってるし、大丈夫だよ」
 と続けた。
 もちろん無理をするつもりはないけど、これまで自分の為に作ってきたご飯を、彼の為にも作ればいいというだけのことだ。食べ物の好みが合わなければ料理一つ振る舞うのだって手間も苦労もあるだろうけど、私達は幸いにも食べ物の好みがぴったりと一致している。一緒に暮らすに当たり、それはすごく重要なことだ。
「頼もしいな、伊都は」
 彼が愛情を込めた声でそう言い、目元をそっと微笑ませる。
 その声と眼差しに私は急に恥ずかしくなって、その顔からぎくしゃくと目を逸らした。

 名前を呼ばれるようになってからもう三ヶ月も経つのに、未だに慣れなくて、どきっとする。誉められてくすぐったいのもあり、私はろくに返事もできず厚揚げを口に運んでいた。
 でも慣れておかなくちゃいけない。結婚したら同じ名字になるんだし、そうなったら名字で呼び合う方がおかしくなる。

 そこまで考えてから、私は彼に呼びかけた。
「ねえ」
「何?」
 私が呼びかけた時、聞き返してくる彼の声はいつも優しい。
 ますます照れたけど、いい機会だからと切り出しておく。
「私もそろそろ、安井さんを名前で呼びたいんだけど、なんて呼べばいいかな」
 すると彼は軽く目を瞠ってから少年みたいにはにかんだ。
「好きに呼べばいいよ、伊都。お前の呼びやすいように」
「呼びやすいようにって言われてもあんまりぴんと来ないんだよね」
 安井さんのフルネームは安井巡。
 とは言え職場に彼を名前で呼ぶ人なんていない。あの石田さんでさえ安井、と名字で呼び捨てにしている。
 そうなると私は前例に倣うことができず、自分で彼の呼び方を考えなくてはいけなくなる。
「じゃあ、めぐるくん、だから……」
 彼が瞬きをする中、顎に手を当ててしばらく考えて、
「めぐめぐって呼ぶ?」
 私が一案を挙げた途端、安井さんは楽しげだった顔を微妙に引きつらせた。
「悪いけど、それはお前限定だったとしてもさすがに恥ずかしい」
「え、そうかな。可愛くない?」
「違う、可愛いからこそ恥ずかしいんだよ。忘れてもらっちゃ困るな、俺はもう三十一だ」
「そっか、めぐめぐは駄目か……」
 いいと思ったのにな。可愛いし。似合うし。
 それならと逆に尋ねてみる。
「安井さんはお兄さんとか、ご両親からは何て呼ばれてたの?」
 すると彼は先程以上にびくりとして、決まり悪そうに視線を逸らしながらぼそぼそ答えた。
「いや、うちの親とか兄貴は、……めぐって呼んでたよ」
 それから私を目の端で見て、拗ねたような顔つきで続ける。
「子供の頃は結構からかわれたな。友達からはライアンって呼ばれてたし、ミュージカルで若草物語を観た時はずっとくすくす笑われてた」
 なるほど、安井さんの多感で繊細な少年時代が窺えるようなお話だ。めぐめぐって呼ばれるのが嫌なのも、実はそういうことなのかもしれない。まあ純粋に恥ずかしいだけ、という方が確率高そうだけど。
「でも私も名前ではよくからかわれたよ。糸巻きの歌とかでめちゃくちゃネタにされたからね」
 私がそう告げたら、彼は腑に落ちたように笑った。
「子供ってそういう単純なからかいが好きだからな。俺は伊都っていい名前だと思うけど」
 からかわれたことはあれど、私は自分の名前を結構気に入っている。誕生日がわかりやすいし自己紹介のネタにも困らない。そしてこの名前が、今度は結婚記念日にもなるわけだから。
「私も、巡っていい名前だと思うよ」
 長い長い時間とか、めぐりあわせとか、そういうものを考えたくなる名前だ。
 ちょうど私達が長い年月をかけて、一度はすれ違ったけどまた一緒にいるようになった、そういう一連の出来事を振り返りたくなるような名前だ。
「せっかく素敵な名前なんだから略さないで、巡くんって呼ぶ方がいいよね」
 私は悩んだ末、彼にお伺いを立てた。
 すると彼は眩しそうに目を細めて、困ったように笑った。
「伊都にそう呼ばれると、何かちょっと、どきっとする」
 そんなことを率直に言われると、私の方こそ心臓が大きく跳ねたようだ。急に息が詰まったようになって、もじもじしたくなる。
 名前を呼ぶって、名字が変わるからそうしなきゃみたいに軽く考えてたけど、実は結構大切で、重大なことなのかもしれない。私だって彼に名前を呼ばれるのは好きだ。溶けそうになる。
「……そ、それともやっぱり、めぐめぐにする?」
 私はじっとしていられない気分になり、照れ隠しでそう聞き返した。
 彼はもう一度、息をつくように笑う。
「じゃあ俺もお前のこと、いといとって呼ぼう。いいよな、いといと」
 聞き慣れないその呼び方に、私の身体を一瞬にして駆け巡ったのは居た堪れないほどの気恥ずかしさだった。
「ええ!? やだよそんなの、何か、何て言うかすっごい浮かれたカップルみたいだよ!」
 私が拒否しても彼はどこ吹く風で、むしろ面白がるみたいに平然と言い募る。
「それは元からだろ。だったらとことん浮かれてやってもいいと思わないか、いといと」
「ご、ごめんなさい! 恥ずかしいのわかったからいといとって呼ぶのやめて!」
「口にしたら調子が出てきたな。よし、今夜はずっといといとで行こうか」
「わあああ! わかった、もうめぐめぐって呼ばないから! 普通に呼ぶから!」
「そんなに恥ずかしがるなよ。その真っ赤になった耳たぶとか、いといとらしくて可愛いな」
「だからもうやめてってば! 恥ずかしくて死にそうだよ!」

 そういうわけで彼のことは、普通に呼ぶことになるんじゃないかと思います。
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