Tiny garden

冬の日に訪れる(5)

 午前四時を迎えても、安井さんは上機嫌だった。
 私がバスルームを借りシャワーを浴びて戻ると、彼は寝室のベッドの上にいた。
 仰向けに寝転がっていたからもう眠っているのかと思いきや、鼻歌が聴こえてきたからつい吹き出してしまった。

「ご機嫌だね」
 戸口に立って覗き込むと、彼は目だけ動かしてこちらを見やる。少し笑った。
「おかげさまで幸せいっぱいだ」
 その言葉を聞くと私まで幸せな気持ちになれた。
 今夜ここに来て、本当によかったと思える。
 ただいろんな出来事が過ぎた後だけに恥ずかしくて、彼と顔を合わせるのが妙に照れて、私ははにかみながら寝室に足を踏み入れる。
「まだ起きてたんだね。もしかしたら寝てるかなと思ってた」
「ちっとも眠くない。今日はこのまま眠れないかもしれない」
 安井さんは、ベッドの上にむくりと起き上がった。
 私が近づいて傍らに立つと、物珍しげに全身眺めてくる。
「着替え、持ってたのか」
「出張帰りだからね。何にも着ないで出てくるのもなと思って」
「俺はそれでもよかったのに」
「言うと思った!」
 あまりに予想通りの台詞が返ってきたから、私はまたも笑ってしまった。

 シャワーを借りた後、昨日ホテルで着た私服が鞄にあったから、それを着てきた。
 いつもの寝間着だから特別可愛いものではない。

 だけど安井さんは食い入るように、穴が開きそうなほど私を見つめている。
「へえ……園田、寝る時もスパッツなんだな」
「そうだよ。変かな?」
 短い丈のスウェットワンピにレギンス、というのが私の寝る時の基本スタイルだ。寝間着は締めつけないものの方がいいという話も聞くけど、私は適度に締まってないと落ち着かない。
「変じゃない。むしろすごくいい」
 彼は熱のこもった口調で言うと、素早く手を伸ばしてきてワンピの裾をまくる。
 その手をぺちっと跳ね除けても、彼は全く悪びれず、爽やかな顔で笑んだ。
「やっぱり園田はスパッツ似合うよな。撫で回したい」
 いい笑顔で何てことを言うんだろう。ムードが台無しだ。
 せっかく――と言うのも何と言うかくすぐったいものだけど、結構しっとりしたいい雰囲気だったのに。
「安井さんって時々、やんわりと変態だよね」
「いいだろ、好きなんだから。お前の脚はいい脚だ、今日触ってみて再確認できたよ」
 懲りない彼は手のひらで私の太腿に触れ、まるで彫刻でも鑑賞するみたいに優しく撫でてきた。その時の顔が非常に嬉しそうだったので、私も文句を強くは言えない。
「変なの。脚が好きだなんて」
「脚だけが好きみたいに言うなよ。俺は園田なら何もかも好きだ。でも」
 彼の大きな手のひらが、膝の裏からそうっと撫で上げてくる。相手が安井さんじゃなかったら即通報の手つきだ。
「園田の脚は俺にとって理想的なんだ。適度に引き締まってて弾力も張りもあるし、それでいて柔らかいところは柔らかく、すべすべしてる」
 愛を囁く口ぶりで誉め言葉を並べ立てたので、私は肩を落とす。
「そんなの言われても喜んでいいのかわからないよ」
「喜べよ。誉めてるんだから」
「誉めてくれるのはいいけど、さっきから撫で回しすぎ」
「くすぐったい?」
 不意に手を止めて、彼が上目遣いに私を見た。

 その聞き方と睫毛越しの強い眼差しに、ほんの少し前の出来事を思い出して、どきっとする。

「さっきだって十分撫でたでしょ。それに痕だっていっぱいつけてた」
 私はその手の動きを制する為に、ベッドの端に腰を下ろす。
 するとそれも見越していたのか、彼は素早い動きで私の膝に頭を乗せてきた。それから私を見上げてにやりとする。
「あ、気づいちゃったのか」
「普通に気づくよ、脚なんて自分で見えるとこだし」
「つけた時は何も言わなかったから、ばれないかと思ったよ」
 しれっと語る安井さんのきれいな額に、私は照れ隠しと抗議の意思を込めて手のひらを置く。
 本当はさっきみたいに軽くはたいてやろうかと思ったけど、額に手を置かれた彼が気持ちよさそうに目を閉じたから、そのままでいてあげた。
「こうしてもらうのも久し振りだ。気分いいな」
 膝枕された格好の安井さんが、満足げに息をつく。
 私はその顔を見下ろし、彼の髪に触れてみる。短く刈り込まれた安井さんの髪は見た目よりも柔らかくて、ふわふわしていた。猫を撫でてるみたいな気分だ。
「おまけに甘えん坊さんなんだ」
「いいだろ。愛があればこそ甘えられるし、独占したくもなる」
「独占ねえ……」
 彼の言葉に私は冷やかすつもりで笑んだ。
「それで痕残すなんて、安井さんも可愛いね」
「そう思うだろ? 可愛い彼氏を持って幸せだな、お前は」
 こっちとしてはからかったつもりだったんだけど、平然と開き直られてしまった。全く仕方のない人だ。
 可愛いと思わないわけではないものの、一応釘は刺しておく。
「あのさ、私、会社で着替えることがあるの知ってるよね?」

 自転車通勤の時はロッカールームで着替えをしている。
 スーツで自転車に乗るのはちょっと大変だし、それなりの距離を漕いでくれば汗も掻くからだ。
 もちろん会社のロッカールームだから、使用するのは私だけじゃない。さすがに着替えてるところをじろじろ見てくるような人は滅多にいないし、何か見つけたからと言ってわざわざ突っ込んで尋ねてくるような人はもっと稀だろう。それでも万が一ということもあるから用心に越したことはない。

「人に見られたりしたら恥ずかしいよ、こういうの」
「こんなとこ、誰にしげしげ見られるって言うんだよ」
 私の抗議に、彼はにわかに眉を顰める。
「脚だけならまだいいけど、私の見えないとこにはつけたりしてないよね?」
 そう聞いたら、今度ははたと考え込んでから上体を起こす。私の首の後ろを覗き込み、洗いたての髪をかき上げてから言った。
「……大丈夫。誰からも見えないよ」
「見えないかどうかを聞いてるんじゃないんだけど」
「目立つようなら絆創膏でも貼ってやるよ」
「かえって目立つでしょ、どう考えても」
「かもな」
 安井さんが低く笑い声を立てながら、私のうなじに指の腹で触れる。そこにあるらしい、私には見えないものをなぞるように。
「もう、笑い事じゃないってば」
 何なら今度つけ返してやろうか。私はじろっと睨んでやった。
 すると彼はにこやかに私の肩を抱く。
「まあまあ、怒るなよ。とりあえず今夜はもう休もう」
「幸せいっぱいで眠れないんじゃなかったの?」
「俺はそうでも、お前は違うだろ。出張帰りだし少しは寝とけよ」
 まだ夜明け前ではあるけど、午前四時は夜と言うより、そろそろ朝に差しかかる範疇だろう。夜更かしどころか徹夜コースだ。私もさすがに眠くなってきた。
「ほら、久し振りに一緒に寝よう」
 そう言うが早いか、彼は丁寧な手つきで私をベッドに横たえた。

 部屋の明かりを消し、二人で布団に包まる。
 カーテンの向こうも寝室もまだ真っ暗だ。セミダブルサイズのベッドに大人二人が寝るのは少しだけ狭く、私はその狭さをいいことに、彼の胸に顔を埋めるようにしてくっついた。
 素肌が頬に触れる感触と、衣服越しに聞くよりも鮮明な胸の鼓動、そして直に伝わる体温が懐かしい。

 彼も私をぎゅっと抱き込み、髪を撫でてくれた。
「ねえ、腕枕って辛くない? 大丈夫?」
「平気だよ。昔も一緒に寝る時はこうしてただろ」 
 安井さんは優しく答えたけど、昔から優しかった彼が私に腕枕をしたせいで、よく腕を痺れさせたのを覚えている。
「私が寝たら、やめちゃっていいからね」
 彼の胸に囁けば、私の耳元に、穏やかな声の返事があった。
「やめない。せっかくお前が、俺の腕の中に戻ってきてくれたんだから」
 すぐ近くに彼の鼓動を聞きながら、私もそのことを強く感じた。
 戻ってきた。
 彼のところに。お互いのところに。
 こうしていると何もかもが懐かしい。彼の頬や顎のざらつく感触、絡め合う脚のなめらかさ、体温を蓄えて暖かくなっていく布団の居心地のよさ、そしてすぐ傍に彼がいるという安心感。
 一緒に寝るだけで、こんなにもたくさんの幸せと気持ちよさが溢れている。
 こんなものを手放すなんて、私はきっとどうかしていたんだろう。
「……本当に、久し振りだね」
 私が幸福のあまり呟けば、彼もまた至福の声で応じた。
「ああ。このままずっと、朝が来てもベッドの中にいたい」
「朝ご飯はいいの? 食べなくて」
「いや食べる。食べたらまた戻ってくる」
「じゃあ朝起きたら豆腐丼作ろうか。久し振りに」
 そう言ったら彼が喜んで私にキスをくれたので、私も張り切って目を閉じた。
 身体が疲れきっていたせいか、すぐにとろとろと眠気が押し寄せてきて、久し振り尽くしの夜がようやく幕を下ろした。

 それから六時間ほど、二人でぐっすりと眠った。
 目が覚めたのはお昼近くで、私が約束通りに用意した豆腐丼は遅めのブランチになった。二人一緒にリビングのテーブルを囲んで、何となく照れながらご飯にした。
 豆腐丼とはその名の通り、温かいご飯の上に冷たい豆腐を崩して載せただけの丼だ。刻みねぎは絶対あった方がいいし、かつお節とすりごまもあれば尚のことよし。味つけはお好みで、基本は醤油か麺つゆだけで十分美味しいけど、だしにこだわれば極上のメニューになる。
 驚いたことに、安井さんの部屋には豆腐だけじゃなくねぎもかつお節もすりごまも常備されていた。おかげで私は実に理想的な豆腐丼を作り上げることができた。
「たまに自分で作ってたからな。園田の見様見真似で」
 安井さんは私の驚きに、何とも複雑そうな面持ちで答える。
「でも決まって物足りなくて、お前が作ってくれた味を思い出すんだ。空しかったよ」
「それで豆腐が好きになったの?」
 私が突っ込んで尋ねると、彼は照れ隠しの為か薄く笑んで目を逸らした。
「まあ、な。園田恋しさにと言うか、自分で自分を慰めるのに思い出の味が必要だった」
 どうやら彼には相当寂しい思いをさせてしまったようだ。もちろんこれからはそんなこともない。
「つまり私は、安井さんの胃袋をしっかり掴んじゃってたってことだね」
「そういうことになるな。掴んだ責任は取ってもらおうか」
 彼は頷き、目の前の丼を手に取る。久々の豆腐丼を目をつむってじっくり味わい、そして言った。
「そう、これだ。この味だ」
「思い出の通りの味だった?」
 私は幸せな思いで問いかける。目の前の人が私の自慢の手料理に喜んでくれている。こういうのってありふれた図式だけど、やっぱりいい。
「ああ。俺はどうやったって、この味を再現できなかったのにな……」
 安井さんは柔らかい表情で答え、それから私をひたむきに見つめてきた。
「これなら毎日でもいい。毎日食べたい」
「いいよ。いつでも作ってあげる」
 彼の視線を受け止めて、私は笑う。彼も特にうろたえることはなく、当たり前のように言い添えた。
「楽しみにしてるよ、ここで一緒に暮らせる日を」

 だけど私達はまだ慌しい年末進行の真っ只中にあり、明日からもう同棲生活を始めるとか、結婚生活の展望や式の日取りといった細々したことを話し合ったりとか、あるいはお互いの両親に挨拶に行ったりとか、そういうことに心を傾ける余裕はない。
 まずは目の前の仕事をやっつけてからだ。
 それでも仕事納めまでの残り数日、私はこれまでになく前向きな気持ちで仕事に取り組めそうだった。

「何か私、安井さんのおかげで月曜日からまた頑張れそうだよ」
 ご飯を食べながら告げた私を、安井さんは意味ありげな目で見る。
「俺のおかげ? 逆だろ、俺が貰ってばかりだ」
「え、そうかな。私はケーキ以外何も持ってきてないよ」
「そんなことない。ケーキも豆腐もそして園田も美味しくいただきました」
 それはわざと昨夜の出来事を思い出させようとする言い回しに聞こえた。
 引っかかるまいと、慌てて言い返す。
「言っとくけど、私なんかより豆腐の方が栄養もあるし美味しいんだからね!」
「論点はそこなのか!」
「そうだよ。ノートーフ、ノーライフだよ!」
「照れ隠しにしちゃ大きく出たな。お前の人生、豆腐で成り立ってるのか」
 言い放った私を安井さんは目を丸くして見た後、ふっと力の抜けた顔で笑んだ。
「でも確かに、俺達の人生には豆腐も必要だよな」
「そうでしょ?」
 お互いこうして豆腐好きになってしまったんだから、一緒に楽しんで、味わっていけばいい。
 本当に私、この上なく相性ばっちりの相手を見つけてしまったんだと思う。
「じゃあ次は大晦日にでも」
 安井さんが、豆腐丼をあらかた食べ終えてしまってからふとそう言った。
「大晦日、豆腐食べる?」
「それだけじゃなくて。一緒に過ごそう、年末から年明けにかけて」
 彼は何の迷いもなく言い切った。
 もちろん私に異存があるはずもない。深く、しっかり頷いておいた。
「あと、お前の誕生日もな。知ってたか? 来年の一月十日は成人の日で、土日から三連休だ」
「うん。さすがに自分の誕生日だからね」
 そのくらいのチェックはしておいた。
 三連休の最終日が自分の誕生日というのも、何だか結構いいものだ。
「でも安井さんまで調べてるとは思わなかったよ」
「調べてるよ。楽しみにしてたからな」
 彼はさも当然の口調で言うと、私に向かって表情を柔らかく、甘く和ませる。
 気を許した相手にだけ見せるような、とろける笑顔で言葉を継いだ。
「できればその三連休も、俺にくれると嬉しいんだけど。どうかな」

 もちろん異存はない。ないんだけど。
 何だか来月――というか来年の私達は、今までの反動で、ものすごいことになりそうな気がする。
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