Tiny garden

冬の日に訪れる(4)

 テーブルの上にホールケーキが二つ並ぶと壮観だった。
 アイスケーキの方は既に半分食べられていたから、正確には一つ半ってところだけど、それでもすごい。見た目はただの白いデコレーションケーキのようだけど、切られた断面から見るに土台のスポンジはごく薄く、その上にチョコチップアイスとバニラアイスが二層になって乗っかっているようだ。ケーキの上には切る時にでも除けたのか、ホワイトチョコのプレートやもみの木風の飾りや真っ赤ないちごがひとかたまりに寄せられている。
 一方のムースケーキはまだナイフも入っていないつるつるのぴかぴかで、目の覚めるような真っ赤ないちごのジュレを、薄いピンクのムースが支えている。ジュレの中には薄切りのいちごがたっぷりと閉じ込められており、見るからに甘酸っぱそうだった。

 これを今から私と安井さんで平らげるわけだ。
 日付も変わった真夜中に。二人で。
 しかも私なんてまだ仕事帰りのスーツ姿だから、クリスマスパーティとしては場違いにも程がある。
「アイス、安井さんが半分食べたの?」
 私が尋ねると、彼は自棄気味に胸を張った。
「ああ。最初は一人で片づける気でいた」
「でもこれって日持ちするんじゃないの? そんなに無理して食べなくても」
「確かに生ものじゃないけどな。冷凍庫を何日も占領されるのは敵わない」
 そう話す安井さんの部屋の冷蔵庫は一人暮らしにちょうどいいサイズだ。ケーキの箱を長い間入れとくのは辛いかもしれない。
「じゃあどんどん食べよう。ひとかけらも残さずに」
「そうだな。けど、俺はもうアイスはいい」
 安井さんが自らの胃の辺りにそっと手を当てたので、残りのアイスケーキは私が引き受けることにする。
「私、アイス担当でいいよ。安井さんはそっちのムース担当ね」
「任せていいのか?」
「任せて。安井さんの胃腸は私が守るよ!」
「頼もしいな。是非とも生涯守ってくれ」
 プロポーズみたいな台詞を口にした後、彼は安心した様子で立ち上がり、私に尋ねた。
「ところで園田、何飲む?」
「温かいのがいいな。この間のハーブティー、まだある?」
 すると彼は申し訳なさそうな顔をして、
「悪い、あれは全部飲んだ。コーヒーと紅茶なら出せる」
「ケーキだったら紅茶かな。お願いします」
「わかった」
 安井さんがお茶を入れにキッチンへと向かった後、私はケーキを切り分けておく。彼の皿にはムースケーキを、私の皿には大きめに切ったアイスケーキを載せた。
 部屋には暖房が入っていて、アイスケーキは既に柔らかくなり始めていた。これは大急ぎで食べなくてはならない。

 程なくして紅茶が入り、私達は並んでソファに座った。
 私は晩ご飯も食べていないから非常にお腹が空いている。早速、勢い込んでケーキを食べ始める。
 アイスケーキは予想を裏切らないアイスの味がした。バニラの冷たさに舌先がちりっと凍えそうになる。私が溶けかかった一口目を飲み込むと、すかさず安井さんが聞いてくる。
「美味い?」
 私も即答した。
「冷たい」
「だろうな」
 彼は笑い、私は一口目にして早くも身震いをした。
「美味しいんだけど半端なく冷たい。お腹の底から冷え込みそう」
 安井さんはよくこのケーキを一気に半分も食べられたものだ。お腹壊さなかったんだろうか。
「冷え込んだら言えよ。暖房大きくするから」
「あ、今のところは大丈夫。紅茶あるし」
 アイスで冷えたお腹に温かい紅茶を流し込む。そうして少し冷たいのが落ち着いたらまたアイスケーキを食べる。冷まして熱して冷まして熱してと、まるで鉄でも鍛えているみたいだ。
 そんな私を愉快そうに見つめながら、安井さんはムースケーキを食べている。見た目より柔らかいケーキのようで、フォークで切って掬うと不安定にぷるぷる揺れていた。それを逃すまいと素早く口に運んだ後、彼は満足げに口角を上げる。
「そっちも美味しい?」
 私が同じ問いを返すと、彼は含み笑いを浮かべた。
「美味いよ。食べてみるか?」
「いいの? じゃあ一口だけ味見」
 申し出に私は遠慮なくフォークを伸ばす。
 ところが安井さんはそれをやんわりと制し、自分のフォークを食べかけのムースケーキを入れた。大きく切り取ってからそれをフォークの腹に載せ、人の悪い顔つきで私を見やる。
「クリスマスらしく食べさせてあげよう」
「はっ? な、なな何言ってんの、いいよ自分で食べれるよ!」
 相変わらずとんでもないことを言い出す人だ。あまりのことに私が慌てふためいても、彼は意に介する様子もなくフォークを掲げる。
「いいから、ほら口開けて」
「いやいいってば。と言うかクリスマスらしくって何なの」
「クリスマスの夜に会うカップルなんて、大抵こういうことするもんだろ」
「聞いたことないよそんなルール。それに一口にしては大きすぎるし」
 彼がフォークに載せたムースは自分で食べる時の三口分くらいはあった。どう見てもこんなに入らない。指摘した途端ににやりとされたから間違いなくわざとだ。
「心配するな、お前ならこのくらい楽に入るよ」
「何の保証なんだか……」
「とにかく早くしろ。今にもフォークから落っこちそうだ」
 急かされて仕方なく口を開けると、安井さんは悪戯っ子みたいな目をしながら私の口にムースを押し込む。彼の言う通りにすんなり口の中へ収まって、私が口を閉じるのを待ってからフォークが引き抜かれた。口の中で解けるような軽いムースの甘さと、ジュレのはっきりとした甘酸っぱさが対照的だった。
 ケーキの方はとても美味しかったけど、やっぱり少し大きかったのかもしれない。私の唇の端に何かついたようだ。思わず指で拭おうとすると、それより早く安井さんがフォークを置いて、私の顎を掴んだ。
「待って。園田、俺がやる」
「え――」
 何をと聞くのも遅すぎた。彼は私の視界をさえぎるように顔を近づけ、私の唇の端に食いつくように触れた。
 私は一瞬固まったもののすぐさま我に返り、彼の肩を拳で殴った。
「ああもうこの人は! こんなベタな迫り方ってどうなの!?」
 安井さんは大げさな身振りでよろめき、殴られた肩を押さえる。
「いたっ、痛いよ園田。ぐーで殴ることないだろ」
「これがやりたくて食べさせたんでしょ、わかってんだから!」
「そうだよ。クリスマスだからな」

 彼のイメージするクリスマスって一体どんなのなんだろう。
 さすがにどこのカップルもこんなことしてるわけじゃないと思う。こんな、クリスマスの成り立ちなんてかけらも頭にないような浮かれたカップルの方がかえって珍しいんじゃないだろうか。
 もっとも私も厳かに過ごしたいなんて思ってもいないし、多少浮かれてるくらいの方が過ごしやすくていいんだけど。
 だからってケーキ食べさせて欲しいとまでは思ってない。恥ずかしすぎる。

「全く、安井さんは油断も隙もないんだから」
 私が皿に残ったアイスケーキを攫い、憤然としながら頬張ると、安井さんはそ知らぬふりで紅茶のカップを手に取る。カップで隠された口元が緩みきっていたから、確実に彼も浮かれているんだろう。
 そういう顔を見てると、こっちまで楽しくなって笑いたくなるから困る。
 こんなのが楽しいとか、本当に浮かれまくりのカップルだ。私が唇を引き結ぶと、彼は猫撫で声で言った。
「そう怒るなよ。こんな真夜中に腹立てることないだろ」
「怒るのに時間なんか関係ないよ」
 実は全く怒っていなかったけど、リビングの壁掛け時計はあと二十分で午前一時を迎えるところだ。浮かれすぎて騒いだら近所迷惑かもしれない。
 彼は紅茶を一口飲んでからカップを置く。
 その後で発した声は、現在の時刻を意識したみたいに静かだった。
「せっかくいい夜なのに、怒ってるのももったいないだろって話だよ。もっといい話をしよう」
 そう言うなり、安井さんは私の腰に手を回す。くすぐったかったけど反応すると面白がられるのはわかっていたから、なるべくじっとしていた。
 その後、軽く力を込めて抱き寄せられたから、私も座る位置を少しだけずらして彼との距離を詰める。
 肩がぶつかり合う距離まで近づくと、すぐ頭上で彼が低く笑うのが聞こえた。
「あれ、今度は素直だな。ベタな迫り方だって言わないのか」
「アイス食べてたら寒くなったからね」
 私は素っ気なく答える。
 そうは言っても頬はすっかり火照っているのが自分でもわかるほどだった。こういうことがしたくて彼の部屋を訪ねたんだって、自覚しているせいかもしれない。
 そんな私の顔を安井さんが覗き込んできた。
「寒いのか? じゃあ俺が全身全霊で温めてやる」
 調子に乗ってる。すっごくにやにやしてる。
「あ。それはめちゃくちゃベタだね、手口が」
「いいだろ、楽しいんだから。こうなったら思いきりいちゃいちゃしよう」
 真夜中のテンション、とでもいうんだろうか。安井さんはやけにはしゃいでいるし、すっかり目も冴えているようだ。私の腰に手を回したまま頬にキスしてみせた後、急に声を落とした。
「お前もまだ眠くないよな?」
 確かに眠くはなかった。これでお腹が一杯になれば急に眠たくなるかもしれないけど、アイスではなかなかお腹も膨れない。
 それに私も妙にどきどきしてて、睡魔の出る幕もない。
「平気だよ」
 だから頷くと、彼は知っていたように微笑んだ。
「俺も今夜は眠れそうにない。何ならこのままずっと起きてようか」
 その言葉が逆に、現在の状況をしっかり意識させたように思う。
 私、今夜、彼の部屋に泊まっていくんだ。

 全然何も考えてなかったというわけじゃない。
 彼の部屋をこんな時間に訪ねた以上はそうなるだろうなって思ってたし、私だって子供じゃないし、実際初めてでもないし。彼の部屋に泊まるのは初めてだけど、私の部屋に彼を泊めたことは何度か、それなりにあった。
 だからといって緊張しないわけでもない。
 むしろ今になってものすごく緊張してきた。どうしよう。意識しすぎかな。
 私だけがそういうこと考えてるだけで、安井さんはそこまでではないかもしれない。それはそれで恥ずかしいな、私だけ期待してるみたいな――いや別に期待なんて全くもってしてないけど!

 午前一時少し前、息を潜めたくなるほど静かな部屋で、私は隣の安井さんを見上げる。
 その時、彼も私を見ていた。
 視線が合う直前までは意外と真摯な、笑いの色も見えないような真っ直ぐな眼差しをしていた。それが私と目を合わせた途端にふっと弛緩し、優しさと甘さが入り混じったような熱っぽい目つきを向けてくる。何を考えているか丸わかりの目だ。内心を、魂胆を読まれたがっているみたいにさえ映る。
 私はその目に射竦められ、逃げるようにぎくしゃく俯いた。
 どうしよう。絶対期待されてる。

 そうこうしているうちに私は全てのアイスケーキを食べ終えた。
 半ホールのアイスケーキは見ての通りその八割近くがアイスであり、全てをお腹に収めると身体は正直に冷え込み、ひとりでに震え上がった。
「寒っ」
 芯から冷える寒さを覚えて私が呟くと、安井さんは笑って私を見下ろし、両手で私の頬を挟むようにした。彼の手は温かいはずだけど、私の頬が熱くなっているせいか心地よい温度に感じられた。
「心配するな。俺がちゃんと温める」
 口調はいかにも親切そうだけど、魂胆は相変わらず見え見えだ。
 だけど私もそれをわかっててアイスを全部食べたんだから、あんまり彼のことは言えない。温められたいとかそんなこと思ってるわけじゃないけど、まあそういう雰囲気かなみたいに思ってたりはする。
 私が無言だったからか、彼も黙って私の顔を引き寄せる。そうして軽く唇にキスしてから、こつんと額をぶつけてきて、溜息と共に言った。
「長かったな、今日まで」
 それは万感の思いを込めた心からの呟きだった。
 一度離れてからの四年近い年月が全て凝縮されているようだった。
 確かに長かった。長すぎて、私はまた彼を好きになったのに、彼の傍にいることには慣れた気がしない。
 こうして見つめ合っていると緊張のあまり、呼吸も瞬きも忘れそうになる。彼の目は熱っぽく潤んでいて、黒く光る瞳には私のものと思しき人影が映り込んでいた。彼から見た私の目にも、同じように彼が映っているのかもしれない。
 という状況が途轍もなく恥ずかしくて、私はつい視線を外した。
「どうして目を逸らす?」
 安井さんが不満そうに声を上げる。
「だって、恥ずかしいし」
 私はぼそりと答え、即座に彼には笑われた。
「照れてるんだ」
「そうだよ、悪い?」
 こんな空気の中、照れないでいられる人間の方が珍しいに決まっている。
 もちろんこういう時でも安井さんは照れもせず、目を細めて私を見ている。頬に触れていた手を離し、私の髪を労わるように撫でた。
「可愛いな、園田は。純情なところは変わってないのか」
 からかうような言い方でもなかったけど、思わず私は彼を睨んだ。
「よく言うよ。安井さんだって大概純情じゃない」

 私と一緒に花火が見たかっただの、写真をパスケースに入れておくだの言っていたくせに。
 そしていい年して意外と余裕ないことも知ってる。二十代の頃はそこまで見せてはくれなかったのに――いや、あの頃の私に、単に見えていなかっただけだろうか。
 今はそういう弱さや脆さを私に曝け出そうとしていて、見栄を張らない彼が目の前にいる。
 私もそういう彼を、まるごと好きだと思っている。

 彼も私の指摘を痛がるそぶりはなく、むしろ誇らしげな顔をしていた。
「じゃなきゃ、好きになった相手を四年も引きずらないだろ」
「それもそうだね」
 私は素直に認めた。
 純情さではお互い、相手に引けを取らないのが私達だ。
 おかげで壊れてしまったものを直すのにとてもとても時間がかかってしまったけど、ようやくナインカウントの次へ踏み出せるのかもしれない。
「改めて考えると、四年って長いね」
「長いよ。しかも時が経てば経つほど忘れられなくなる」
 安井さんは思いを巡らせる顔で言うと、真面目に続ける。
「時が全てを忘れさせてくれるなんて言葉があるけど、あれは嘘だってわかったよ。忘れるどころか後になってから思い出すことばかりだ」
「そんなに私のこと思い出してくれてたの?」
 それはすごく嬉しいかもしれない。その気持ちが声に出てしまったからか、今度は安井さんが私を睨む。
「お前、それがどんなに寂しくて空しいことかわかってるのか?」
「も、もちろんわかってるよ。私もたまに思い出してたし」
 そう答えると彼はいやに熱い手で私の右手首を掴んだ。また額がくっつくほどの距離まで近づいてくると、囁く声で言った。
「なら、覚えてるかどうか確かめてもいいよな?」
「何を?」
 聞き返す私は平静を装おうとしつつ、内心はちっとも平静じゃない。
 そういう態度は彼にも見抜かれているようで、わかっているくせに、と言いたげな顔をされた。
「言っただろ。こういうことは、身体の方が覚えてる」
「この状況でそれ言うと、ちょっといかがわしい……」
「いかがわしいって何だ。悪いことでもするみたいじゃないか」
 彼はそれこそ悪い笑みを浮かべて私を咎め、私は答えずに自分の手首を掴む彼の手を、そっと握り直してみる。
 やっぱり熱い手だ。意外と武骨な、関節の目立つ指の感じにどきどきする。
 安井さんもまた私の手を強く握り、それからもう片方の手を伸ばして、もう一度私の髪を撫でた。私は彼に髪を撫でられるのが好きだった。その為だけに髪を伸ばそうかと思ったこともあったほどだ。

 多分、私は覚えてる。
 どきどきするのはそのせいかもしれない。
 何も知らないよりも、昔のことを覚えている方が、ずっと――。

「愛し合うのは悪いことじゃない。恋愛の楽しみの一つだ」
 そう言い放つと彼は、ケーキを食べる時よりも美味しそうな顔をして、私をソファに押し倒した。
 私は慌てふためく暇さえなく、彼の手を握ったまま、真上に来た彼の陰る表情を見上げる。当たり前のようにこうなってしまったけど、駄目だ、やっぱり恥ずかしい。
「本当に楽しそうに言うよね」
 私の呻きに彼が聞き返す。
「園田は楽しくない?」
「楽しいわけないよ。恥ずかしいし緊張するし心臓ばくばく言ってるし」
「そういうところも変わってないな。本当に可愛いよ」
 甘ったるい誉め言葉と共に髪を撫でられると、何だかもう、いいかって気分になってしまう。
 だって大好きだ。この人が。安井さんが。
 私の場合は四年なんてものじゃない。もっとずっと前から好きだった。一度は離れても、結局また好きになった。きっと私は彼のことを何度だって好きになる。
 これから先、何があっても。
 どんな時間が過ぎたって、その度に彼を好きになってはこうして会いたくなって、帰ってくるんだ。彼の元へ。
 今夜はもう彼のこと以外、何も考えたくなかった。
「でも、明かりくらい消して……くれるよね?」
 横たわる私がおずおず尋ねると、照明の光を背負う彼は平然と答えた。
「嫌だ。お前が見えなくなる」
「見ないでよ……安井さんこそ全然変わってない、そういうとこ」
「いい趣味だろ?」
「全然! 言っとくけど誉めてないからね!」
 私が抗議の声を上げると、安井さんは目を瞠って私の顔を覗き込む。
 心外そうなその表情が妙に可愛く思えてならなかった。
 さっきまで格好つけたことを言っていたくせに、ちょっと反撃されるとこの通りだ。込み上げてくるおかしさに私が笑うと、彼はきょとんとして私を見下ろしてから、どこか眩しそうな顔をした。
 それから彼はゆっくりと目を閉じて、今までより丁寧に唇を重ねてきた。

 ――森林公園に行った時のことを思い出した。
 あとになってから、彼はそう言っていた。
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