Tiny garden

決して絶えず、限りあるもの(5)

 十一月に入ると、気温は一段と落ち込んだ。
 対照的に仕事の密度は増した。広報課のスケジュールも年末年始を踏まえて立てられるようになり、一足早く来月の予定までぼちぼちと埋まりつつあった。
 どうやら聞いていた通り、十二月は本当に忙しいようだ。

「何か来月、やばいかもしれない」
 助手席に座る私のぼやきに、運転席の安井さんが横顔で反応する。
 真っ直ぐ前を見ながら口元だけで薄く笑んで、
「早くもクリスマス終了のお知らせ?」
「クリスマスなんて毎年ないも同然じゃない。来月超忙しいの」
 就職してからこの方、クリスマスらしいクリスマスを過ごしたことがない。それはまあ八月の花火大会と同じで、平日にあればスルーするしかないようなイベントだから仕方ない。仕事終えてくたびれて帰った後、一人の部屋でクラッカー鳴らしてシャンパン開ける気にもならないし。
 もともと年末あたりのイベントには何も期待してなかった。だからいいんだ。
 そう私が思っていたら、
「でも今年のクリスマスは土曜だ」
 安井さんはまだ諦めてないみたいな意思を滲ませて言った。
「イブは無理でも、クリスマスくらいは一緒に過ごせるかもしれない」
「どうかなあ。その頃は私も安井さんもくたくたの干物になってるかもしれないよ」
「干物なら水かければ戻るだろ。平気平気」
 いつになく軽い口調の安井さんが、赤信号で車を停めた後にこちらを見る。休みの日の髪型の彼は、そのくだけた表情までオフの日らしく映った。
「お互いくたびれてなかったらでいいから、考えといてくれないか」
 今日も機嫌のよさそうな彼の顔を、私も悪くない気分で眺めた。
 これが三十一歳になった顔、かな。
 当たり前かもしれないけど、三十歳の頃の顔とあまり違いがないみたいに見える。
「いいよ。ただ来月、出張があるんだよね」
 頷いてから、私は注釈を入れた。
「十二月に? 大変だな」
「そうなの。しかもまだ日程決まってなくて」

 出張の話を小野口課長から言い渡されたのも、十一月に入ってからだ。
 先方とのスケジュールの折り合いがまだついていないけど、心構えはしといてねと言われた。
 もっとも日帰りできる距離ではあるので、年末進行への影響は日取り次第ってところだろう。なるべく十二月前半にお願いできないかと掛け合っている最中だった。

「それでなくても十二月は忙しいみたいだし、年明けすぐに広報誌の入稿があるし、社内報だって来月分更新したらすぐ新年の分を作り始めなきゃいけないしでばたばたなのに。その上出張なんて、なかなかにヘビーだよね」
 私が指折りしながら来月の予定を上げると、安井さんは怪訝そうに聞き返してくる。
「出張って何しに行くんだ」
「取材。て言うかインタビュー、広報誌の記事用の」
「おお、何かそれ格好いいな。雑誌記者みたい」
「だよね。そこは全然不満とかないんだ」
 と言うか十二月じゃなければ、取材にだって一も二もなくすっ飛んでいくところだ。だけど年末にそれはさすがにきつい。
「だから絶対って約束はできないけど、それでもよければ」
 そりゃ私だってクリスマスにデートなんて憧れる。
 昔付き合っていた頃にはできなかったことだし、そもそも平日クリスマスなんて社会人にとっちゃただの二十四日、二十五日。仕事納めまでの残り日数にしか過ぎない。
 それが今年に限って二十五日が土曜だなんて出来すぎだとさえ思う。
 問題の出張だって日帰りで済むんだし、頑張ればクリスマスデートだって実現できるだろう。
 ただ、それよりも気がかりなのは。
「わかった。今は覚えておいてくれるだけでいいよ」
 了承した安井さんの表情は明るい。仕事のない土曜日の午後、当然ながら疲れた顔なんてしていない。
 その顔を見ていると、昔のように無理はさせたくないなと思ってしまう。疲労困憊で作る笑顔ほど胸の痛むものはないからだ。
「安井さんだって忙しいんだから、身体第一にしてね」
「心配してもらえて嬉しいよ」
 私の言葉に彼が声を弾ませた時、信号が変わって、車が動き出した。

 車が走り抜けていく街並みも、秋の終わりを感じさせる景色へと移り変わっている。
 街路樹はすっかり葉を落として、歩道は落ち葉で埋もれているし、外を歩く人達もコートを羽織ったりマフラーを巻いたりといち早く冬支度を済ませているようだ。私もつい先日衣替えを済ませ、ついでにこたつも用意したりして、冬の到来に備えていた。
 もうじき冬が来る。
 この季節をもう一度、彼と共に迎えられるとは思ってもみなかった。それはもちろん幸せなことで、喜びを感じてもいるけど、同時に少しのプレッシャー、責任感も覚えている。
 同じ過ちを二度と繰り返してはならない。
 これからお互いに忙しくなるけど、会えなくなっても連絡を取り合うことさえままならなくなっても、絶対に彼に無理はさせないつもりでいる。
 そういう意味で、彼からのクリスマスの誘いはちょっと複雑だった。仕事納め前の貴重な休日をわざわざ私の為に割くこともないのに。どうせそのあと何日かを乗り切ればお正月休みなんだから、私はそれまで待ったっていいのに。
 とは言えその誘いが嫌だったというわけでもなく――なるべくなら会えたらいいな、とは思う。もちろん安井さんが疲れてなくて無理もしてなくて体調万全でって場合に限るけど。

「緊張してる?」
 不意に安井さんが尋ねた。
 私は窓の外の景色から、再び彼へと視線を転じる。彼はどことなく面白がっているような笑みを浮かべている。
「何で?」
 質問に質問で返すと、安井さんはいよいよおかしいというように低く笑い出した。
「俺の部屋に来るの初めてだから。園田はそういうの、弱そうだなと思って」
「……そりゃ、ちょっとはね」
 わかってるんだったら聞かなくてもいいのに、と内心では思う。
 せっかく久々に会えた休日、しかも彼の誕生日デートだというのに仕事の話に終始しているところなんていい証拠だ。
 今日の予定は彼の部屋にお邪魔して、遅いお昼ご飯を造って一緒に食べることだった。彼の要望でまたスカートをはいてきて、彼が料理を作って欲しいと言うからエプロンだって持参して、後部座席には来る途中で立ち寄ったスーパーの袋が積まれている。その袋が車の揺れでがさがさ言う度、これから何をするのか自覚しては例えようのない緊張感が込み上げてきた。
 そう、この緊張感は彼に対し久々に手料理を振る舞うことへのプレッシャーであって。
 彼の部屋に行く、ということ自体にはそれほど緊張も気負いもないし、まして意識なんてしてない。
 と思いたい。
「怖くないよ。心配しなくてもいい」
 安井さんがくつくつ笑いながら言う。誘拐犯みたいな台詞だと思う。
「それはむしろ悪い男の誘い文句だよね」
 すかさず私が突っ込むと、彼は大げさに首を竦めた。
「酷い言い方するな。俺みたいに愛情深い男はなかなかいないのに」
 その点は異論もない。彼にこれだけ想われている私は幸せ者だ。
 私が彼を同じくらい想えるか、労われるかという事実はこれからの日々で試されることになるのかもしれない。
「真面目な話、園田には一度俺の部屋を見てもらいたかったんだ」
 そう言うと彼は片手でフロントガラスの向こうを指差し、
「ほら、あれ。……って言っても特徴ある建物じゃないけど」
 道の先には、まるまるコピーしたようにそっくりな外観の、二階建てのアパートが何棟も建ち並んでいた。チャコールグレーの屋根とそれよりもやや薄い灰色をした外壁、ドアの数からして一棟当たり四部屋だと思う。駐車場スペースはアパートの真正面にあり、いわゆるファミリーカーと呼ばれる類の車がちらほら目についた。
 彼の住まいはごくありふれた住宅街の一角にある。私の部屋からは会社を挟んでちょうど逆方向にある為、この辺りまで足を伸ばしてみたことは一度もなかった。行ってみたいと思ったことなら何度もあったけど、いざ来てみると初めて見るのに、見たことがあるような景色が目についた。
 背の低い家々、空に張り巡らされた電線、ぽつぽつとある個人商店、木枯らしの吹く児童公園、土曜日のがらんとした小学校――住宅街なんてところ変われど、日本全国似たようなものなのかもしれない。
 居並ぶアパートのうち一棟の駐車場に車を停め、安井さんがこちらを向いて微笑んだ。
「着いたよ。ここの二階だ」
 私は大きく息をついてから、思いきってシートベルトを外した。

 彼の部屋は長方形をきれいに四等分したような3DKだった。
 玄関から入ってすぐのところにバストイレ洗面所があり、ドアを開けるとまずフローリングの床のキッチンダイニング、その奥に三部屋という構造だ。三部屋のうち、ダイニングから続く真南の部屋はリビングとして使用しているらしく、テレビやソファ、テーブルといったどこのご家庭の居間にもあるような家具が置かれている。
 ダイニングのすぐ東側にある部屋は書斎代わりにしているとのことだったけど、覗いてみたらパソコンデスクの他は本棚と、それより大きくて背の高いCDラックがあるだけだった。

「こっちの部屋に、園田が持ってきたいものを置けると思う」
 安井さんが身振り手振りを交えながら言う。
「もし邪魔ならCDは向こうの寝室に移してもいいし。結構あるんだろ、嫁入り道具」
 最後の一言で私は答えに詰まり、そこを彼に見咎められて、わざとらしく不思議そうな顔をされた。
「あれ? 何か俺、おかしなこと言った?」
 このすっとぼけようが憎々しい。先月お酒飲んで石田さんに慰められて、危うく泣きそうになってた人と同一人物とは思えないふてぶてしさだ。
「本当にめちゃくちゃ荷物持ってくるけどいい?」
 私は売られた喧嘩を買うみたいに聞き返す。
「いいよ。でも一体何をそんなに持ってるんだ」
「自転車用のヘルメットだけで七つはあるからね。あとサイクルウェアとシューズと」
 途端に彼は目を白黒させて、
「七つ!? いや、確かに毎日違うの着けてるなとは思ったけど……」
「普通の女の子だって、帽子ならそのくらい持ってるものでしょ。同じ同じ」
 私は彼を驚かせてやったので、少しばかり溜飲を下げることができた。
 さて三部屋あるうちの残り一室、書斎から見て南側、リビングの東側の部屋は寝室として使用しているそうだ。
 それを聞いた時、私はドアの前でちょっと躊躇した。
「開けちゃって大丈夫? 失礼じゃない?」
 私の問いに、安井さんは誇らしげな顔で答える。
「大丈夫。きれいにしてるから」
 部屋の主がそういうならとそろそろドアを開けてみれば、中は確かに片づいていた。きちんと整えられたベッドと扉を閉ざしたクローゼット、それに鏡面仕上げの黒いオーディオボードがあるだけだった。
 室内は全体的に飾り気がなく、ベッドカバーもカーペットも、窓にかかったカーテンまで無地のモノトーンというシンプルさだ。ベッドのサイズはセミダブルと見たけど、それを置いても部屋が狭いという印象はない。
「さすが人事課長、広い部屋に住んでるね」
 私が茶化すと彼はたちまち苦笑して、
「そうでもないよ。単身者向けじゃないから静かでもないし」
「何かそれっぽいね。外に停まってたの、大きめの車ばかりだった」
「ああ。夏休み中なんて毎日騒がしいよ」
 嘆くでもなく言った安井さんは、その後で南向きのベランダに目をやった。薄曇りの空の下、柔らかい日差しが外に干された洗濯物に降り注いでいる。
「でも日当たりはいいし、洗濯物の乾きも早い。立地は悪くないだろ」
「確かにいいね、南向き。冬でも暖かそう」
「それにコンビニもスーパーも歩いて行ける距離にある。どう? この物件」
 不動産屋さんみたいな彼のセールストークを聞きながら、私は室内を見回す。

 どうも落ち着かないのはすぐそこにベッドがあるからか、それともよその家の匂いがするからか――何の匂いとも判別できないような微かな空気の違いは、あえて言うなら彼の匂いによく似ていた。
 抱き締められた時に感じる、自分ではない他者の匂い。
 実感した途端に懐かしさが込み上げてくるのには困った。
 懐かしいって何だ。ここへお邪魔したのは初めてなのに。

「……園田?」
 安井さんがこちらを見て眉根を寄せる。私が返事をしなかったので訝しがっているようだ。
 私は慌てて口を開いた。
「あ、ううん。何でも――」
 言いかけた最中に彼が私の頭を抱き寄せ、開いた口を塞ぐように唇を重ねてきた。
 およそ三秒間、目を閉じる隙もない短いキスの後、私はあたふたと彼を引き剥がす。
「な、何するの急に」
 彼は私の頭に手を添えたまま、私の動揺ぶりを楽しむように笑んだ。
「誕生日なんだから、このくらいはいいだろ」
「結局言うんじゃない、『プレゼントはお前』的なことを」
 あんなにベタな口説き文句だと自己批判していたくせに。私が睨むと彼は間髪入れずに言った。
「貰っていい?」
 よくもまあ臆面もなくそんなことを聞けるものだと思う。
「駄目。絶対駄目。と言うかご飯作るのがプレゼントじゃなかったの?」
 私は断固として拒否の姿勢を貫く構えだ。
 しかし安井さんもこちらの反応は予想していたようで、特に粘りもせず落胆もしなかった。
「そうだった。じゃあまずは、ご飯を作ってもらおうかな」
 まずはって何だ。ホームゲームだと思ってか、今日の彼はいやに余裕ありげだった。

 当然ながら完全アウェイの私は、初めて見る彼の部屋のキッチンにさえ緊張した。
 各家庭で案外違うのがキッチンという代物だ。蛇口からお湯を出すのも、火を点けて鍋をかけるのも、よその家でやるとこれが案外難しい。私は安井さんから流し台でお湯の出し方、ガス台では火の点け方を一通り試して、更に炊飯器の使用法もレクチャーを受けた。
 それから持参してきたエプロンを身に着け、ようやく腕まくりをする。
「安井さん、冷蔵庫開けていい?」
 そう尋ねたら、彼には苦笑された。
「断らなくてもいいよ。自由に開けてくれ」
 私は遠慮なく冷蔵庫を開け、ここに来る途中で購入してきた食材を取り出す。
 何を作るかはとっくに決めてあった。豆腐のあんかけ卵とじ丼だ。まずは米を研いで炊飯器のスイッチを入れ、次にお味噌汁を作り始める。安井さんはどんなお味噌汁でも美味しいと言ってくれたけど、一番好みなのは大根なのだそう。だから今日は大根も買ってきた。
「何か手伝うことある?」
 私の一メートル背後に立った安井さんが問う。
 軽く振り向いてから私は答えた。
「全然ないよ。座って待ってて」
「ここで園田を見てちゃ駄目か?」
 その問いには正直、とても困った。ただでさえ久々の手料理で緊張してるのに、ずっと見られてたら作りにくいこと甚だしい。
「さすがにずっと見られてると失敗しそう。テレビでも見てたら?」
 笑いながらやんわり断ると、安井さんは少し考えてから頷いた。
「わかった。できあがるのを楽しみに待ってる」
「うん、そうして」
「あと今の会話、何か夫婦っぽいなと思った」
 わざわざ嬉しげに言い残して、彼はリビングへと立ち去る。

 おかげで私は、異を唱えることもできなかったわけだけど――そんなこと言われたらますます意識しちゃうっていうのに、全くあの人は何を考えているんだか。
 実際、かもしれないと、思わなくもないんだけど。
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