Tiny garden

決して絶えず、限りあるもの(4)

 その夜遅く、安井さんから電話がかかってきた。
『起きてたか、園田。ちょっと話せるか?』
 問いかける彼の声は普段と違っていた。
 どことなく気だるげで、くたびれているようで、だけど機嫌がいいようにも聞こえる吐息混じりの声だ。
 もうじき日付も変わる午後十一時四十五分、私は既に就寝前のストレッチを済ませ、あとは寝るだけというところだった。
「いいよ、大丈夫だよ」
 私の答えを聞くと、彼はますます上機嫌な声で、
『ありがとう園田。愛してる』
「……はっ!?」
『こうして声が聞きたい時に電話かけられるのっていいな。幸せを感じる』
 しみじみと噛み締めるような言葉が後に続くのを、私は呆然と聞いていた。

 いやいやいやいや、今、何て言った?
 あんまり自然に言われたものだから聞き違いかと思った。真夜中に電話をかけてくるなり何を言うのかこの人は。しかもたかが電話に応じたというくらいで。

「な、何? そのテンション」
 ばくばく言い始めた心臓の辺りに手を当てつつ、私は探りを入れてみた。
『テンション? 何それ、俺は普通だよ』
 彼はそう言い張るけど、心なしか舌足らずな話し方にも聞こえる。
「ちょっと普通には聞こえないんだけど……」
『強いて言うなら少しだけ酔っ払ってるかもしれない』
「ああ、それなら納得。お酒飲んできたんだね」
『でも酔ってるから言ったわけじゃない。俺は本当にお前を愛してる』
 また言われた。
 私が動揺のあまり、敷いたばかりの布団の上にころりと倒れ込んだ。それでもかろうじて握り締めていた携帯電話から、アルコールの気配を滲ませる彼の言葉が続く。
『今夜くらいそう思ったことはないな。お前と一緒にいられるってどれだけ幸せなことかわかった。お前がいない時間がどれほど空虚で寂しいものだったかってことも』
 安井さんがそれを、どんな顔で口にしたのかは見えるはずもない。
 私は真っ白い天井と眩しい照明を見上げながらそれを聞き、何となく気がかりになって尋ねた。
「何か……あったの? 酔っ払ってるだけじゃないよね」
 電話の向こうで彼が微かに笑う。
『わかるか』
「わかるよ、そのくらい」
『そうか。じゃあ俺が愛してるのと同じように、俺も園田から愛されてるんだな』
 喉を鳴らすような笑い声を立てる安井さんに、私は返す言葉も浮かばない。
 そりゃ安井さんのことは好きだけど、愛してるかどうかなんて考えもしなかった。

 恋と愛の違いを真剣に論じ合えるのは若いうちだけで、この歳になってからそれを考えることには気恥ずかしさというか、若干の抵抗がある。案外それほど違わないんじゃないの、って思ったりもするんだけど。
 さておき彼と同じように愛してるだの愛されてるだのと口にできるわけでもない私は、しばらく仰向けの姿勢で寝転んだまま黙っていた。

 伸びかかった前髪を指先で摘みながらまごまごしていると、安井さんが言った。
『もしかして、照れてる?』
 どこかからかいのニュアンスが感じ取れる聞き方だ。
 私は見えもしないのに顔を顰めて応じる。
「もしかして、わざと言った?」
『まさか。俺の言葉を疑うのか』
「そうじゃないけど、からかわれてる気がしたから」
『信じてくれ。俺は園田を裏切らないし、離しもしない』
 その発言は、愛の告白とは別の意味で私を戸惑わせた。
 酔った勢いで口にするにしては重い言葉だと思う。やっぱり何かあったみたいだと感じ取った私は、矢も盾も堪らずに切り出した。
「何かあったなら話聞くよ、安井さん」
『ありがとう。ただ、相談したいわけじゃない。報告したいことがある』
「うん。どんなこと?」
『今日、石田に誘われて飲みに行った。ついさっき帰ったところだ』
 安井さんの報告に私は驚く。
「え? 今日のうちに行ったの?」
 何という迅速な対応。さすがは営業課、アフターフォローは万全なようだ。
 もっとも、それらの面倒をかけさせてしまったきっかけは私にある。申し訳なさでいっぱいになった。
「重ね重ね面倒かけてごめんね。石田さん、怒ってなかった?」
『園田が怒られるようなことじゃない。怒られるとしたら俺の方だ』
 安井さんは私を庇う。石田さんの前でもそうしたのかもしれない。
「そんなことないよ。誤解させるような発言したのは私だもの」
 尚も私が言い募ると、彼は短く息をついてから反論した。
『違うんだ。むしろ俺は、園田にも謝らなくちゃならない』
「謝るって……何かあったの」
 ただことじゃない気がした。私は布団の上で身を起こし、正座をして彼の次の言葉を待つ。
 私の方がというならともかく、彼に謝られることなんてあるだろうか。

 安井さんはこちらの動きが見えているかのようにたっぷり時間を置いてから、言葉を続けた。
『石田に本当のことを言えなかった。お前と見合いしたのが俺だって』
 内容の割に深刻な口調だった。
 告げられた私は、今日飲みに行ったことを教えられた時よりは驚かなかった。
「そうなんだ」
 当然、謝られるようなことでもない。それは許す許さないという問題ではないし、安井さん自身はまだ言いにくいと思っていたそうだから、言えなかったとしてもやむを得ないことだ。
「そんなの気にしなくていいよ。親しい相手に『お見合いした』って言いにくいよね」
 私は軽く笑い飛ばすつもりで言った。

 かく言う私も両親や姉、それに割かし最近の事情を知っている東間さんにもお見合いの報告をしていない。
 もちろんずっと黙ってるつもりはないし、落ち着いたら打ち明ける気ではいたけど――落ち着く前に仕事の繁忙期がやって来そうだ、とも思っている。
 日に日に涼しくなっていく十月下旬、もうじき冬が来るのを肌で感じている。長らくタオルケット一枚で寝ていたけど、上掛けをプラスしたのもつい数日前のことだ。

『いや、恥ずかしいってわけじゃない』
 安井さんは慌てたように否定した。
『そういうことじゃなくて……なあ園田、誤解しないで欲しいんだけど』
「しないよ。何?」
『俺は決して、お前を石田に紹介したくないとか、お見合いしたことを恥だと思ってるわけじゃない』
 それから彼は言いよどむそぶりを見せ、しばらくしてからようやく続ける。
『ただ、もう少し二人きりでいたかった』
 彼の発言は、私にとっては予想外と言うか、いまいちぴんと来るものではなかった。
 思わず瞬きをすると、電話の向こうで咳払いが聞こえる。
『つまり、誰にも邪魔されない状態でお前と二人の時間を堪能したい』
「よくわからないんだけど、石田さんに話すと邪魔されそうなの?」
『邪魔する。あいつは必ず。もう二百パーセント全力でちょっかいをかけてくる』
 ずっと酔っ払ってふわふわした口調の安井さんが、そこだけはお腹の底から声を発して言い切った。
 さすがにそこまで介入してくるような人には見えないけどなあ。私が訝しく思っていれば、安井さんは急に盛大な溜息をつく。
『そもそも今夜だって酷かったんだ。あいつのせいで俺はいちいちへこまされた』
「えっ、何で? 石田さんは励ましてくれたんでしょ?」
 その為に飲みに行ったんだとばかり思ってた。
 あんなに友達思いの石田さんが、失恋した安井さんの神経を逆撫でに走るというのは信じがたい。
『それだよ。あの野郎、俺を慰めてくれるのかと思いきや、要所要所で地雷を踏んでくる』
 一度話し始めると、堰を切ったみたいに怒涛のぼやきが続いた。
『奴が言うには、俺の態度はばればれなんだそうだ。顔に出てるとか、園田のことばかり見てるとか。園田はこれから結婚するんだから、そんなあからさまに好き好きオーラ出すなって駄目出しされたよ』
 オーラって何。そんな可愛い単語を安井さんが口にするのはちょっとおかしい。
 多分これ、石田さんの使った言葉なんだろうなと思いながら、話の続きに耳を傾ける。
『顔が緩みきってるとかでれでれしすぎだとか、園田と話す時だけ声が嬉しそうだとか、目つきまで違うとか、そのくせ園田が他の男と話すとたちまち怖い顔になってるとか――自覚なかったから焦った。明日から俺、どんな顔して園田に会えばいいんだか』
 いくつかは納得できる意見だったけど、私の知らない話もあった。
 石田さんはものすごく安井さんのことをよく見ているみたいだ。それとも長い付き合いのおかげで些細な変化もわかるようになっているのか。
「私は気づかなかったのもあるし、大丈夫だよ。石田さん以外の人にはわからないよ」
『それは、園田は石田よりも俺をじっくり見てないってことか……』
 フォローのつもりで言ったら、それはそれで落胆されたようだ。
 そんなことはないつもりだったんだけど、私もちょっと自信ないかも。
『おまけにあいつが言うんだ。いかにも諭すような口調で、園田はお前のものじゃないんだから妬いても顔に出すなよ、って』
 安井さんが尚も嘆いた。
『それ聞いた時にぐさっと来たよ。ナイフで刺された気分だった』
 まるで実際に痛みを感じたみたいに、声が暗く澱んでいる。
『そこで俺のものだって言ってやれたらよかったんだけどな。いろいろ指摘されてうろたえてる最中で心に余裕なかったんだ。昔、園田に振られた頃の記憶がじわじわ蘇ってきて、あの時は誰にも話せなかったし誰にも慰めてもらえなかったことを思い出して、何か無性に泣きそうになった』
 彼から泣きそうだったという言葉が出てきたことに、私の方がうろたえた。
「や、安井さん、泣いちゃったの?」
『大丈夫。ぎりぎり泣かなかった』
 安井さんはどこか誇らしげに言った。ほっとした。
『あいつはもう俺が振られてへこんだものだと思ってるみたいで、その後で大いに慰められたよ。お前ならすぐに新しい彼女ができるなんて言われて、そういえば園田にも同じように言われたことあったなって思ったらもう駄目だった。泣きはしなかったけど、その後はすっかり気分沈んで、失恋した気分で酒飲んでた』
 石田さんも悪気があったわけじゃなく、友達を思う一心での言葉だったんだろうけど、ことごとく地雷を踏み抜かれた安井さんがお酒を呷る姿、想像するだけで不憫だ。
『でも実際、俺も一度は失恋してたんだよな。園田に振られた直後は会社で鉢合わせても挨拶すらまともにできなかったし、休みの日は急に暇になって、でもお前に今日何してるのかってメールもできなくなった。ちょっと気が急いて合鍵なんて作ってみたけどすっかり無駄になって、今でも取っておいてあるし。あの頃の気持ち、意外と覚えてて胸に来たよ』
 彼がそう続けた時、私は不憫どころではない悲しい気持ちになった。

 私は安井さんの全てを知っているわけじゃない。
 特に別れてから、あの頃の彼がどんなふうに日々を送っていたかはまだ把握しきれていなかった。
 その一片が今の言葉から垣間見えて、堪らない気分になる。

『あの頃は仕事に没頭して、それほど悲しくないつもりでいた』
 寂しげな声が電話の向こうで落ちる。
『でも実はかなり堪えてたんだろうな。今になって気づいたよ』
 それはそうだろう、当たり前だ。失恋で堪えない人なんているはずがない。
 私まで胸の痛みを覚えて、切ない気持ちになりながら告げた。
「安井さん、それで石田さんに言えなかったんだ……それは仕方ないね」
『それもあるけど』
 彼はそこで一旦間を置き、少し真面目な口調になる。
『何か、これだけ辛い思いをしたからには存分に取り返したいって気になった』
「取り返すって何を?」
『園田を。さっきも言っただろ、俺はもっと二人の時間を堪能したい』
 私達はお互いに同じ時間を共有し、同じ分だけの時間を失くしている。
 過去をやり直すことは誰にもできないけど、失くした分の時間を改めて過ごすことならできるはずだ。
 彼が望んでいるのは、つまりそういうことなんだろうか。
『何からにしようか。さっきも言った通り、合鍵を作ってあるんだ。四年前に』
 安井さんは、はきはきと続けた。
『お前の為に作った。よかったら貰ってくれないか』
 その問いかけには即答しかねた。

 合鍵を貰おうにも、私はまだ安井さんの部屋を訪ねたことがない。
 どんなところに住んでいるのか見たこともない。
 大体、作ってたのだって知らなかった。もう少し一緒にいたら、彼は私を部屋へ招いてくれてたんだろうか。逆に、私の部屋の合鍵を欲しいと言われていたかもしれない。

「私、安井さんの部屋がどこにあるか、住所でしか知らないんだよ」
 そう告げたら、彼は待ち構えていたように嬉しげに、
『じゃあ今度来る? 俺の誕生日にでも』
 さっきは寂しそうな声で訴えていたかと思いきや、今は一転してすっかり浮かれている。今夜は本当に酔ってるみたいだ。
「い、いいけど……」
 何か、彼のペースに乗せられている気がしなくもないような。
『じゃあ、久々に園田の手料理が食べたい』
 それは考えてなくもなかったし、誕生日に何か作ってあげるくらい構わない。安井さんも今では豆腐大好きみたいだし、久し振りに豆腐料理を振る舞うのもいいかもしれない。
 構わないんだけど。
「私を部屋に呼んで、変なこととか考えてないよね?」
 慎重になって確認すれば、安井さんは惚ける口調で応じた。
『変なことってどんなことだよ』
「『誕生日だからプレゼントにお前が欲しい』的なことを言ったりしない?」
『今時、そんなベタな口説き方する男なんているのか? 酷いなその台詞』
「いるみたいだよ。私は一人しか知らないけど」
 そう告げたら、安井さんは酔っ払いらしくげらげらと笑い出す。
 失恋してお酒を飲んできた後とは思えないくらい明るい笑い声だった。それがしばらく続いたかと思うと、やがて一息ついて、言った。
『話は逸れたけど、園田。もう少しだけ俺に、お前を独り占めさせてくれ』
 その言い方じゃまるで、直に私を独占できなくなるとでも言いたげだ。結婚したら、これからの関係を公にしたら、そうなるんだろうか。
『石田には、いつか必ず話す。ずっと隠すつもりもない。それまでは二人きりでいさせて欲しい』
「構わないけど、安井さんはいいの? 石田さんが心配しない?」
 私の言葉に彼は、照れたように言い返してくる。
『多分しない。昨日ので自分の仕事は済んだと思ってるだろうし、しばらくそっとしといてくれるよ』
 そんなもんなんだ、男の友情って。
 ものすごく距離が近いようで、それでいてあっさりしている。
『実感したいんだ。園田が俺のところに戻ってきたって、十分確かめてからがいい』
 そう口にするからには、安井さんはまだ実感していないんだろう。
 私達が元に戻ったという実感。昔のように付き合っているというイメージが持てていないのかもしれない。

 実を言えば私もそうだ。
 お見合い以来一度もデートらしいデートをしていないせいもあるんだろうけど、私の中のイメージはまだ曖昧な関係のまま、結婚はするんだろうなと漠然と考えているような段階だった。
 もちろん安井さんのことは好きだし、結婚することへの照れや戸惑いはさておき、この人じゃなきゃ嫌だと強く思ってはいるんだけど。
 時間が足りないのかもしれない。私達にはお互いに、幸せを噛み締めて相手がいることを実感する為の時間が足りない。これからどんどん忙しくなっていく時期だっていうのに、このまま年末に突入しちゃったら、私達はまたすれ違ってしまうだろうか。
 それとも今度こそ、すれ違うことなくやり直すことができるだろうか。

「誕生日、何が食べたい?」
 私の問いに、酔っ払った彼が声を弾ませる。
『豆腐!』
「わかった。メニューはお任せでいいの?」
『いいよ、園田の作ってくれるものなら何でもいい』
 既に日付も変わってしまった深夜帯、私はお腹が空くのを堪えてメニューを考え始める。
 来月の彼の誕生日は、一体どんな日になるんだろう。まだ想像もつかなかった。
PREV← →NEXT 目次
▲top