Tiny garden

決して絶えず、限りあるもの(2)

 本題に入る前に、石田さんは一度箸を置き、携帯電話を取り出した。
「悪い。ちょっとだけ待ってくれ」
 そう断ってからメールを打ち、程なくして送信したようだ。電話をしまい、再び箸を手に取った。

 私も自分のお弁当包みを解きながら、気になって尋ねてみた。
「彼女にメール? お弁当美味しかったよ、とか」
「それは全部いただいてから送る。ちゃんと感想も言いたいしな」
 意外と、と言ったら失礼だろうけど、マメなところを窺わせる答えが返ってくる。
 それから石田さんは私のお弁当に目を向け、ちょっと驚いたような顔をした。
「園田の弁当、まさか麻婆豆腐か?」
「そうだよ」
「マジかよ、すげえな。いくら豆腐好きだからって」
「うん。美味しいからよくやるんだ」
 本日のメニューは麻婆豆腐丼。時間がなくてもささっと食べられて一品で栄養もあって、しかも美味しいという素晴らしい献立です。
 だけど石田さんはものすごく珍しいものを見たというように笑う。
「そりゃ美味いだろうけどな、弁当に入れてくる奴を見たのは初めてだ」
「変かなあ。カレーをお弁当にする人と一緒じゃない」
 私が指摘すると石田さんははっと気づいたように、
「ああそっか、言われてみれば。一見のインパクトについ圧倒されたぜ」
「でしょ? 私にとってはむしろスタンダードなくらいだよ」
 私は持参したスプーンで麻婆豆腐を掬う。
 花椒を控えめにしたせいでちょっと辛味が足りないような気もしたけど、お弁当用としてはこんなものだろう。なかなかいい出来だと自画自賛しておく。
 それから感心したようにこちらを見ている石田さんに、早速本題をぶつけてみた。
「社内報のことで、石田さんにお願いがあるんだけど」
「何だよ、また面白写真か?」
 石田さんは思い出し笑いをするように吹き出した。
「あれは安井が持ってきたやつだから、俺の手持ちにはないぞ」
「ううん、今回は写真じゃないんだ。コラムを書いて欲しいの」
「コラム? 俺に!?」
 大仰なテンションで聞き返されて、私まで笑い出しそうになる。
「そう、石田さんに。九月から社内報に社員執筆のコラム載せてたの知ってる?」
「読んだ読んだ。でもあれって、総務部長が書いてただろ」
「第一回はね。前回は秘書課の課長にお願いしたから、次は石田さんでどうかなって」
「いいのか俺で。その人選なら次は人事課長殿の方がいいんじゃねえの?」
 石田さんは半笑いの表情の後、何気ないトーンで続けた。
「先に安井に聞いてみろよ。あいつ、園田の頼みならすっ飛んできて二つ返事で聞くはずだしな」

 それは別に揶揄する口調ではなかったけど、だからと言って素直に受け取っていい発言だとは思えなかった。
 多分、小野口課長言うところの『かまをかけた』っていうことだろう。
 だからあえて反応せず、正直に答えておいた。

「実は、同じ理由で他の人からも断られてるんだ。部長課長と来たら、次もそれなりの方じゃないと駄目なんじゃないかって」
 案の定、石田さんも同じように思っていたらしい。怪訝そうにされた。
「違うのか?」
「うん。所属も役職もテーマも不問の、誰でも書ける自由なコラムにするつもりだったの」
「それで俺か。そうやって断られてるんじゃ、安井には持ってけないよな」
 私も何の縛りもなければ、まず彼に話を持っていっただろう。二つ返事で請け負ってくれるだろうこともわかっていた。でも今回はそうもいかない。
 それに、他にも条件があることだし。
「あと、うちの課で石田さんの名前が出たら、皆がそのユーモアセンスを評価してくれてて」
 そう続けた途端、卵焼きを箸で摘んだ石田さんがにわかに目を細めた。
「ユーモアセンスと来たか。そこまで言ってもらうほどじゃねえよ」
 謙遜するのが珍しい。とは言え口ぶりは自信がないというわけでもないようだった。
「そう? うちの課長も言ってたよ、石田主任は明るくて面白い人だって」
 私が小野口課長の言葉を伝えると、照れたのを隠すみたいに石田さんが肩を竦める。
「いやいや、過分な評価をいただいちゃって恐縮だ」
「そんなことないよ。私も石田さんなら面白いコラム書けると思う」
「面白いか……やっぱ俺の荒ぶるインテリジェンスは隠そうとしても隠し切れないようだな」
 さっきの謙遜はポーズか。石田さんが顎に手を当てて凛々しい顔をしたので、私は笑いを堪える為に麻婆豆腐を口に運んだ。
「だが、こうまで期待されちゃしょうがないな。俺の秘めてきた文才を爆発させる時が来た!」
 そして遂に、石田さんがそう言ってくれたので慌ててスプーンを置く。
「おお! お願いできる?」
「いいぜ。知的でウィットに富んだ秀逸なコラムを仕上げてやろうじゃないか」
「ありがとう、すごく嬉しいし助かるよ! さすが石田主任、頼りになる!」
 私が両手を合わせて感謝を伝えると、石田さんは得意そうに顎を上げて応じた。
「まあな。もっと持ち上げてくれてもいいぞ、園田」
「持ち上げるとかじゃないよ。もう、本当にありがたいと思ってる!」
 まさに神様石田様。私は感謝の意を込めて彼を崇め拝み奉った。
 すると、石田さんはふとひらめいたような顔をしてからにやりと笑んだ。
「この状況、安井に見せたら悔しがるだろうと思うと気分いいな。園田に心から拝まれちゃってんだから。後で自慢してやろ」
 今日の石田さんは、やたら安井さんの名前を口にしている。
 もちろん何か思惑があってのことなんだろうけど、こっちとしては聞き流せるようなものでもないし、何となく落ち着かない。

 ともあれ話はまとまった。
 私は麻婆豆腐丼を食べながらコラムの詳細について説明した。字数は四百字まで、テーマは自由だけど仕事の話だけは厳禁で、趣味や個人的な思い出、経験といった題材の方が向いているだろうことも告げておく。
 同じくお弁当を食べながら、石田さんも熱心に聞いてくれていた。
「締め切りはいつだ?」
「今月中がありがたいけど、来月頭でも大丈夫だよ。仕事忙しいでしょ?」
「忙しくないとは言わないが、早めに上げてやるよ。時間は限りある資源だからな」
 石田さんが苦でもない調子で言ってくれたので、私は彼の背後から後光が差すのを見たような気さえした。
「わあ……何て頼もしいお言葉! 石田さんは最高のコラムニストだよ!」
「まだ読んでもないのにか! 気が早いなおい」
 彼は声を上げて笑った後、満更でもない顔つきで呟く。
「しかし、もしかしたらこれが俺のノンフィクション作家としての第一歩かもしれん」
「まさか石田さん、作家志望だったの? すごく意外……」
「いや全然。俺が仕事以外で書く文章なんてラブレターぐらいのもんだからな」
「ラブレターは書くんだ……それも意外、でもないか」
 むしろものすごく石田さんっぽい。普段から彼女さんに対してもこんなテンションで接してるんだろうなと想像できるようです。
 その彼女が作ったというお弁当を食べ終えた後、石田さんは手を合わせてごちそうさまを言い、そしてお弁当箱を丁寧にしまい始める。
 作業の合間にふと、言った。
「園田には言ってなかったよな。俺、結婚するんだよ」
「えっ、本当?」

 いきなりの宣言に驚いたのは最初だけで、すぐに納得した。
 それは間違いなくそう遠くない時期にやってくるだろうと、きっと私だけじゃなく社内の皆が予想していたはずだ。
 安井さんはもう知ってるんだろうな。なんて言ってお祝いしたんだろう。後で聞いてみようかな。

「おめでとう! 幸せになってね、石田さん!」
「ありがとな、園田」
 私が祝福の拍手をすると、石田さんは照れ笑いを浮かべた。言われるまでもなく幸せそうな顔に見えたけど、それならもっと幸せになっちゃえばいい。きっとこの人とあのお嬢さんなら、賑やかで明るい家庭を築くことだろう。
 でもそこまで考えて、私は急に不安になる。
「だけど、それならますます忙しいんじゃない? コラム頼んじゃったけど……」
「年内は大丈夫だ。式挙げるのも来年の話だし、そこは気にすんな」
「そっか、よかった。じゃあ悪いけど、よろしくお願いします」
「任せとけ」
 自信たっぷりに頷く様が本当に頼もしい。もしかするとその自信も、プライベートの充実っぷりから来るものでもあるのかもしれない。
「でもいいなあ。もう順風満帆、幸せ一杯じゃない」
「まあな。おかげさまで」
 私の指摘に、石田さんは込み上げてくる嬉しさを隠そうともせずに笑んでいた。これは冷やかしようもない。下手にからかったりしたら強烈にあてられること必至だ。
 結婚なんてしたら本当に、毎日幸せそうにでれでれしてるんだろうな。
 私がそんな未来に思いを馳せていると、石田さんはまた携帯電話を取り出して、今度は画面をちらりとだけ見た。それから私に向き直り、どことなく含んだように唇の両端を吊り上げる。
「で、園田はどうなんだよ? 進んでんのか、花嫁修業」
「あー……うん、料理教室は行ってるよ、たまに」
 ただし成果は微妙なところだ。もうじきチケットも使い切ってしまうけど、再購入するかどうかはわからない。
 彼に作ってあげるとしても、間違いなく豆腐料理だろうから、改めて習う必要もなさそうだ。
「肝心の、料理を披露する相手は見つかったのか?」
「うーん……」
 この追及にどう答えたものか。正直に言ってもいいんだろうけど、石田さんが相手だと判断が難しい。
 安井さんは本当に、この付き合いの長い大切なお友達に何も言ってないんだろうか。
 私が答えを濁したからか、そこで石田さんが切り出した。
「さっきも言った通り、近頃の安井は妙に浮かれてんだよな」
 それには答えず、私は迷いながらも石田さんを見やる。
 吊り目がちな石田さんが向けてくる視線は鋭く、真実を知りたがっているようでも、もう既に知った上で確かめたがっているようでもあった。
「来月、あいつ誕生日だろ。三十一歳になる日を寂しく独り身で迎えずに済むのか、俺としても心配なんだよ」
 言葉とは裏腹に、表情は何となく愉快そうだ。もう心配が必要な段階ではないと思っているのか、それとも純粋に友人の恋路を面白がっているだけか。
「園田から見て、どう? あいつ、いい奴だろ」
「そうだね。いい人だと思うよ」
 警戒しつつ答えると、石田さんは苦笑して首を竦めた。
「いい人か……まあな。あいつ、社内報もやたらみっちり読み込んでるらしいぜ」
「そう、なんだ」
「ああ。普段ガード堅いくせに、そういうところでぼろが出るタイプなんだよな」
 確かに毎月、更新の度に感想をくれるのは安井さんくらいのものだったけど――改めて第三者から言われると恥ずかしいな。やっぱりそれって、そういうことだよね。
「だから、園田の方はどう思ってんのかなって、俺も気になっちゃってな」
 石田さんがそう続けたので、私はいよいよ黙秘ができない瀬戸際にいることを悟る。

 ただ、相変わらず石田さんが得ている情報量は読めない。
 全部知ってるのか何も知らないのか。前者ならからかわれるだけで済むから何と答えてもいいだろうけど、もし後者なら安井さんの為にも迂闊なことは言えない。彼が、こんなにも心配してくれる友人に、たとえそれが面白半分だとしても気にかけてくれている石田さんに打ち明けていないことには、何か理由がありそうだからだ。

 それで私は反応を試すように、口を開く。
「石田さん、もう聞いてるかもしれないけど」
「お、何だ?」
 わくわくした様子で膝を進めてくる石田さんに、恐る恐る打ち明けた。
「私、実は最近、お見合いしたんだ」
 この一言で、石田さんが持ち合わせている安井さんに対する情報量が推測できる。そう踏んでカードを切った。
 そして思った通り、効果はてきめんだった。
「え……。マジで? お見合い?」
 石田さんは息を呑み、大きく目を瞠った。
 私がゆっくり顎を引けば、気まずげに一旦視線を外して瞬きを繰り返す。表情は明らかに困惑しており、しかしまだ信じがたいというように改めて私を見た。
「本当にお見合い、しちゃったのか?」
「うん」
「そっか……うわ、そうなのか……」
 落胆したように息をついた後、はっとして、慌てて私に満面の笑みを向けてくる。
「あ、いやいや。よかったなそういうご縁があって。で、上手くいったのか? 結婚すんのか?」
「結婚、すると思うよ」
「だよな……わかった。幸せになれよ園田。お前は絶対いい嫁になれるって」
 保証するような口ぶりの石田さんは、すぐに力強い笑みを浮かべ、
「お前が嫁に行くことで泣く奴がいるかもしれないがな。そいつのことは俺に任せとけ。盛大に慰めとく」
 私はその言葉とその笑みから、おおよその事実を悟る。

 これ、石田さんは本当に全く何も知らされてないっぽいなあ。
 もしかしなくても私が違う人とお見合いして、安井さんが失恋したものだと思い込んでいるみたいだ。しかもめちゃくちゃ心配してる。石田さんにとっても、安井さんは大切な友達なんだろうなとわかる。
 だとすると、お見合いしたって打ち明けたのはよくなかったかもしれない。石田さんに余計な心労をかけてしまった。もっとも、石田さんがそれを安井さん本人に尋ねたりすれば、すぐに真実ではないと明らかになるはずだけど――問題は、安井さんが何と言うかだ。
 あとで安井さんに連絡を取って、お見合いしたことを打ち明けたと伝えておこう。それで安井さんが石田さんにどう対応するかはわからないけど、石田さんに心配させたままというのも悪いし、どちらにせよずっと黙ったままではいられないだろう。もし安井さんが『もう少し伏せておきたい』と言ったら、それはそれで口裏を合わせておく必要もあるし。
 でも本当に意外。安井さんだったら、石田さんには真っ先に話してそうって思ってたのに。
 私がそこまで考えた時だった。

「――覚悟しろ。浮気の現場を押さえに来たぞ」
 安井さんの、ドスの利いた声が突然近くから聞こえた。
 同時に私達のいるテーブルには黒い人影が差しかかり、聞こえた声の低さとも相まって、私は思わずびくりとした。
 声のする方へ顔を上げると、安井さんがいた。
 カップ麺を手にした彼が、私達のいるテーブルの脇に、瞬間移動で現われたみたいに何の前触れもなく立っていた。表情はいつになく険しく、苛立たしげで、石田さんに向かって突き刺さるような鋭い眼差しを向けている。
「人の目盗んで楽しそうにしやがって。小坂さんに言いつけるぞ、石田」
 そう言い放つ安井さんを、私は思わず呆然と見つめた。
 いつ来たんだろう、いつからいたんだろう。考え事をしてたせいかちっとも気づけなかった。それに石田さんの浮気を疑うなんて、どう考えても私と石田さんじゃそういう仲には見えないだろうにどういうことか。そんな疑問が次々と浮かんだけど、これだけは言っておかなければと思って大急ぎで口を開く。
「ち、違うよ安井さん。石田さんには私が声をかけてね、仕事の、社内報の話をしてたんだよ。どう考えたって浮気とかする人じゃないよ、石田さんは」
 すると安井さんは私の方を、石田さんに向けたものよりは柔らかい眼差しで見た。
「俺だって本気で言ってるわけじゃない。随分と楽しそうに見えたから割り込んでやっただけだ」
「何だ、そういうこと。そりゃ石田さんなら、誰とでも楽しそうに話すよ」
「お前もそうだろ」
 短く息をついた安井さんは、その後でまた石田さんに目を戻し、
「石田は本気で浮気見つかったみたいな顔してるけどな。何だよ、まさか図星だったってわけじゃないだろうな」
 指摘された通り、石田さんはものすごく気まずげと言うか、愕然とした顔で安井さんを見ている。
 もちろん浮気なんてしていないし、石田さんみたいな人にそんなつもりがあるはずもない。だけど明らかに安井さんの登場に驚いているし、うろたえている。
「や、安井……お前、何でここに来てんだよ」
「何でじゃない。お前が『飯まだだったら食堂来い』って誘ってきたんだろ」
「あ、そっか。そうだったよな……うわ、やべえ」
 石田さんが片手を額に当てて俯く。
 それをうろんげに見ながら、安井さんは石田さんのすぐ隣の椅子を引く。
 私はそこまで見守って、ようやくこの食堂でどんな事態が起ころうとしてるか気づくことができた。

 もしかしたら私、切っちゃいけないカードを切ったのかもしれない。
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