Tiny garden

私に似合うこと(4)

「もし同棲するとなっても、早いうちに園田のご両親にもご挨拶をするよ」
 安井さんは冷静に口を開いた。
「無責任なことはしない。将来的には結婚するつもりだからな、入籍するのが早いか遅いかの違いだ」
 淡々と、まるで随分昔から決めていたことのように語る。

 お見合いに備えてそういうことも考えてきたんだろうか。
 おかげで私の方がぼんやりして、長い間ノープランのままで過ごしてきたようにさえ思える。実際ぼんやりはしてるけど、さすがにそこまでは考えもつかなかった。

「一緒に暮らすとなったら、どこに住むの?」
「園田さえよければ、俺の部屋に来るといい。荷物と自転車くらい置けるスペース作るから」
 そう話す安井さんの部屋を、私はまだ一度も訪ねたことがない。自転車置き場を作れるくらいには広い部屋に住んでいるんだろうか。さすが人事課長。
「私、荷物結構多いよ。大丈夫?」
「大丈夫。書斎にしてた部屋があるんだけど、そこを片づければ余裕でどうにかなる」
「わざわざその為に片づけてもらうっていうのも悪いよ」
「どうせ近々手をつけようと思ってたんだ。散らかってるわけじゃないし、すぐ済むよ」
 彼は造作もなく言ってから、苦笑した。
「口で言うだけじゃわからないよな。今度見においで、いつでもいいから」
「うん。折を見てお邪魔するね」
 ひとまず私は頷いたけど、結婚もしくは同棲に諸手を挙げて賛成というわけじゃない。
 だから一番の問題点が解決できそうにないんだってば。
「ただ安井さんだって、私と一緒に住むのは初めてじゃない」
「そりゃそうだよ。でも俺は、上手くいくと思ってる」
 自信たっぷりに言われたから、その根拠は何かと確かめたくなる。
「何でそう言い切れるの? 一緒に暮らすとなるといろいろ問題も出てくると思うよ」
「問題って例えば?」
 逆に聞き返され、私は顔を顰めて懸案事項を捻り出す。
「例えば……だらしない人と几帳面な人だと、部屋の片づけ一つでも揉めるって言うし」
「園田は部屋きれいだろ。その辺も俺達、気が合うよ」
 何年も来てないのに、よく知ってるなあと思う。
 別にあれから部屋を片づけなくなった、なんてこともないけど。
「あとは、生活習慣の違いとかもよく聞くよ」
「お前、何か特殊な習慣とかできたのか」
「ないけど。でも一緒に住み始めたらあれって思うかもしれないじゃない」
「それも平気だよ。お前の部屋に泊めてもらったことあるけど、問題なかった」
 問題ないとかいう途轍もない問題発言が飛び出した。
「わ! ちょ、ちょっと何言うのいきなり!」
 とっさに立ち上がりかけた私を、安井さんが小声で制する。
「声が大きい。小野口課長に不審がられるぞ」
 それで恐る恐る振り向くと、小野口課長ご夫妻がカウンターから怪訝そうにこちらを見ていた。私が急に声を上げたので、何事かと思ったみたいだ。
 私はあたふたと両手を振り、
「な、何でもないんです。お見合いは順調です!」
 お二人にそう宣言してから、いたたまれない思いで椅子に座り直す。
 安井さんが心底楽しそうに、喉を鳴らして笑った。
「園田、うろたえすぎ」
「うろたえて当然だよ。こんなところでいきなり何を言うの」
「俺は事実を言ったまでだよ。それに、以前なら普通のことだった」
「む、昔だって普通ってほどじゃなかったよ。結構緊張したし」

 きっと当時の私は、自分の部屋だというのに借りてきた猫のようになっていたはずだ。
 でも一緒に住むとなったらいつまでも猫被ってはいられないし、そういうところで軋轢が生じないとも限らない。
 それか、いつまでも緊張しっぱなしでそのうちぶっ倒れるか。こっちの方が可能性高いかもしれない。
 安井さんは『普通のこと』って言えるくらいだから、緊張してなかったみたいだけど。

「まして、あれから何年も経ってるんだよ。急に昔みたいに戻れるわけないし、もっと緊張するに決まってる」
 私はそう言い切ると、パウンドケーキを一かけ、口の中に放り込む。
 それをじっくり味わう間に、安井さんは肩を竦めた。
「俺は、何年も経ったって気がしてない。ついこの間の出来事みたいに感じることさえあるよ」
「そこは認識のずれがあるよね。私はどうしてもブランクを感じるって言うか」
 別れてから三年半。
 私の頭の中では一旦切り替えが済んでしまったのか、安井さんが昔のことを持ち出してくる度に慌てふためいてしまう。実際、普通に恋人同士みたいな過ごし方をしていた時期もあったわけだけど、三年半も間が空けば『普通』じゃなくなっても仕方ないはずだ。
 私がいちいち初めてみたいにうろたえるのも、及び腰になるのも、正常な反応に違いない。
「ブランクか。ちょっと寂しいけど、そういうものなのかもな」
 安井さんは言葉の割に嬉しそうな顔をして続ける。
「まあ、もう一度初々しい園田を楽しめると思えば悪くないか」
 にやにやしながらそんなことを言われても困る。二十八にもなって『初々しい』なんて言われるのは決して誉められたことじゃないだろう。
 私は複雑に思いながら肩を竦めた。
「すみませんねえ、いい年して晩熟で」
「可愛いからいいよ。許してあげよう」
 気負いもなくさらっとこういうこと言っちゃうのがこの人だ。私はいい年して頬が赤くなるのを自覚しつつ、残りのケーキを頬張った。
 彼も残りわずかのレアチーズケーキを食べながら言った。
「俺は割と昔から考えてたからな。そのせいで心構えができてるのかもしれない」
「何の心構え?」
「結婚の」
 私の問いに、安井さんが照れ笑いを浮かべる。
「実は異動が決まった時から考えてた。人事に行って給料が上がったら、園田にプロポーズしようかと」
「そんなに前から?」
 明かされた事実に私は驚く。
 だって彼の異動が決まったのは、付き合ってから四ヶ月過ぎたかどうかという頃合いだ。まだ私達の間には結婚を意識するような会話もなかったし、そもそも結婚に焦るような年齢でもなかった。
「あの頃は本当に忙しくて、何か励みでもないとやってられなかったんだ」
 ケーキの皿を空にして、安井さんはカップに手を伸ばした。
「今だから言えることだけど、もうちょっと営業でやっていきたいって思ってたのもあったしな。何で俺が、って気持ちもなくはなかった。それでも人事に行って出世して給料が上がったら、園田と結婚する十分な口実になるんじゃないかって前向きに考えた」
 そこまで考えてもらっていたのに、私はつくづく彼の気持ちがわかっていなかった。
 申し訳なさが顔に出ていたのか、彼は私を見てかぶりを振った。
「済んだ話だ。知っておいて欲しいとは思うけど、気に病む必要はない」
「うん……。安井さんは何でもちゃんと考えているんだね」
 私は素直にそう告げる。
 彼がそんな思いで異動を控えていたなんて知らなかった。どうりで及び腰になってないはずだ。彼にとっては、結婚について考えることも初めてではなかった。きっと私の知らないところでじっくりと、堅実に考えをまとめていたんだろう。
「そうだろ。惚れ直した?」
 安井さんが得意げに問う。
 いつもなら反応に困っているところだけど、お見合いの席だし、それに間違いでもない事実だったから私は頷いた。
「うん。そうかも」
「かも、は要らない」
「じゃあ、……うん。惚れ直した」
「よろしい。このまま遠慮なく俺についておいで」
 彼はとても満足そうに言って、カップの中身も空にした。

 ついていく、か。私は彼の言葉を胸の中で繰り返す。
 前時代的な言い回しかもしれないけど、私にはそっちの方が向いているのかもしれないな。
 何せ物事を考えることにかけては安井さんに叶わない。私にとっては計画立てて何かを考えることなんて不得意中の不得意だから、そういうのは全部彼に任せて、私は彼を信じてついていくのが一番いいのかもしれない。結婚についてもそうで、案外彼の言う通りにしていたら何もかも上手くいくのかもしれない。そんな気さえしてくる。
 だけど私も子供じゃないんだから、考えることは彼に任せるとしても、自分でも何かできるようになりたい。
 私向きの役目を見つけ出して、昔とは違う自分として彼の隣にいたいと思う。
 考えることよりももっと、私に似合うことを。
 そうしたら私も結婚なり、同棲なりに前向きになれるんじゃないかって気がするんだけど、どうかな。

「……空が曇ってきた」
 ふと安井さんが呟き、少し険しい顔でお店の窓を見た。
 私もそちらへ視線を向けると、大きな窓の向こうに黒雲が広がりつつある空が見えた。まだ夕暮れ前だというのに辺りは暗くなりつつあり、一雨来そうな雰囲気だ。
「あら、本当。雨になりそうですね」
 私達の様子に気づいてか、課長の奥様が窓際に近寄って空を見上げる。それから私達の方を振り返り、気遣うように言ってくれた。
「お車でお越しでしたよね? もしお持ちでないなら、傘をお貸ししますよ」
「お気遣いありがとうございます」
 安井さんはすかさずお礼を言い、それから私の方を窺い見た。どうしようか、と尋ねたがっている表情だった。
 私としてはもう一杯お茶をいただきたい気分でも、彼と話をしていたい気分でもあったけど、雨の中をここから十五分かかる駐車場まで歩いていくのは、たとえ傘をお借りできても憂鬱だ。お互いスーツで来ているし、極力雨に濡れたくないというのも自然な感情だろう。
「雨になる前にお暇する?」
 それで彼に尋ねると、安井さんも少し名残惜しそうにしながら、やがて頷いた。
「そうだな。もうちょっといたい気分だったけど、仕方ない」
 私達は席を立ち、小野口課長と奥様にお暇を告げる。お茶とケーキの代金を支払おうとしたら、お二人にはやんわりと断られた。
「いいからいいから。今日のは招待であって、お金をいただくつもりはないよ」
「でも、それだと申し訳ないですよ。本日はわざわざ時間を割いていただいたのに」
 課長の言葉に私が困っていると、安井さんがレジスターの横に並べられていたハーブティーの袋詰めを手に取った。小野口課長に向かって笑顔で告げる。
「ご馳走になってばかりでは悪いですから、こちらをいただけませんか」
 小野口課長が奥様と顔を見合わせる。奥様が微笑んで、安井さんに尋ねた。
「気に入っていただけましたか?」
「ええ、大変美味しくいただきました。ハーブティーは初めてでしたが、とてもいいものですね」
 彼はそう言うと私の方をちらりと見て、続けた。
「買って帰って、彼女と二人でまた飲みたいと思うんです」
「そうか。お見合いの締めにふさわしい台詞をありがとう」
 小野口課長が表情を綻ばせて私達に告げる。
「それでこそ招いた甲斐もあったってものだ。これからも仲良くね、お二人とも」
 面と向かってそんなことを言われると、どうしても照れずにはいられない。せっかくだから、帰ったらハーブティの美味しい入れ方でも調べてみようかな。安井さんの部屋にも招かれていたし、実際に二人で入れて飲むこともあるだろうから。
「お買い上げありがとうございます。またお店にもお二人でいらしてくださいね」
 奥様も嬉しそうにハーブティーをビニール袋へ入れてくれ、安井さんはその代金を支払った。

 その後、丁重にお礼を言い、お二人には温かく見送られながらお店を出た。
 生け垣を抜けて通りへ出ると、既に空一面がどんよりしている。秋の空は変わりやすいと言うけど、それにしてもとんだ急変ぶりだ。まるで日が落ちたみたいに暗くなって、風もどこか湿り気を含んでいて、今にも降り出しそうだった。
「うわ、もう時間の問題って感じだね」
「そうだな。園田、急ごう」
 私達は早歩きで車を停めたコインパーキングへと歩き始めた。
 空模様を気にしながら急いだつもりだったけど、ものの数分も歩かないうちにぽつんと雨粒が落ちてきた。最初は一つ二つが頭や頬や手に当たる程度だったのが、だんだんと数が増えていく。アスファルトの路面も最初はぽつぽつと水玉模様だったのに、あっという間に一面色が変わってしまった。
「降ってきたな」
 忌々しげに安井さんが呻いたけど、あいにくこの辺りは住宅街で雨宿りできそうな場所もない。そもそも空を見る限り、少し雨宿りをしたところで止みそうには見えない。
 本降りとなった雨は容赦なく打ちつけ、雨音が辺りを覆って騒がしいほどだった。
「園田、走れるか?」
「いいよ。もうちょっとのはずだし、急いで行こう」
 私が答えると、安井さんは私の手を握った。それから勢いよく駆け出した。

 スーツを着てきたから靴はパンプスだし、柄にもなくスカートなのでストッキングなんか履いてる。冷たい水を撥ね上げながら、靴の中まで染み込む水の感触にうんざりしながら、それでも私は懸命になって走った。手を引いてくれる安井さんに遅れずついていけるように走った。
 本降りになった時点で諦めはついていたけど、駐車場に辿り着いた時はやっぱりお互いずぶ濡れだった。
 それでも降りしきる雨の向こうに彼の青い車が見えた時は、堪らなくほっとした。

 安井さんが私の手を離し、素早く助手席のドアを開ける。
「すぐに乗って」
「ありがとう」
 私はその言葉に従い、助手席に乗り込んだ。すぐに安井さんも運転席から車に乗り、ドアを閉めたところで揃って溜息をついた。
「酷い降りになっちゃったね」
「本当だな。結構濡れたんじゃないか、大丈夫か?」
「そうでもないよ……って言いたいとこだけど、座席まで濡れたかも。ごめん」
 前髪から雫が垂れている。スーツも濡れて重くなってるし、靴なんてぐじゅぐじゅ言ってて気持ち悪い。こんな状態で車に乗り込んじゃうのは悪いな、なんて乗ってから思うのも遅いけど、私は謝った。
「気にするなよ。これだけ降られたらしょうがない」
 安井さんはそう言って笑ったけど、彼も雨を浴びて酷い有様だった。短い髪は水を吸って額やこめかみに張りついているし、スーツもところどころ色が変わっている。
 それなのにハンカチを取り出したかと思うと、運転席から身を乗り出すようにして、
「風邪引くと困る。焼け石に水かもしれないけど」
 真っ先に私の髪を拭こうとする。
「あ、いいよいいよ。私もハンカチ持ってるし、安井さんだって結構――」
 断ろうとするより早く彼が私の髪に触れ、私のすぐ目の前には、思いのほか深刻そうな彼の顔があった。
 吐息がかかるほど近くにあった。
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