Tiny garden

私に似合うこと(3)

 私達が雑談に興じていると、お店の中には独特の香りが漂い始めていた。
 ここに来るまで、ハーブティーって紅茶にハーブを入れたものだと思っていたけど、どうやらそうじゃないみたいだ。香りはほとんど果物に近い。甘く爽やかな香りが辺りに立ち込めると、不思議と気分が落ち着いてくるようだった。

 やがて課長の奥様がトレイに透明なティーポットを二つ、そして同じく透明なガラスのティーカップを載せて戻ってきた。
「こちらがカモミールとリンデンのブレンド、こちらはハイビスカスとローズヒップのブレンドでございます」
 奥様が私達のテーブルにポットとカップを置いて説明する。
 私の前に置かれたのは色味の濃い、紅茶色を通り越して宝石みたいな赤色をしたハーブティーだった。
 これがハイビスカスとローズヒップのブレンドのようで、奥様が『ちょっと酸味はありますけど、美容によくて、女性の方に人気があるんですよ』と言って勧めてくれたものだった。小さなカップ入りの蜂蜜も添えられていて、お好みに応じて入れてくださいとのことだった。
「ごゆっくりどうぞ」
 空のトレイを手にした奥様が一礼すると、小野口課長が微笑んでその隣に並ぶ。
「僕も一旦席外そうかな。仲人要る? 要らないよね?」
「え、行っちゃうんですか課長。い、一応これってお見合いですよね?」
 恐る恐る私は聞き返したものの、課長はまるで気にするそぶりもない。
「僕がいない方が会話弾みそうだし、もし助けが必要になったら呼んで。駆けつけるから」
 そう言い残して奥様と共にカウンターへと取って返す。
 私はそれを呆然と見送った後、差し向かいの安井さんに向かって声を潜めた。
「いきなり、お見合いっぽさ半減してない?」
「いや、これは『あとは若い二人で』ってやつだ。それがちょっと早まっただけだろ」
 安井さんは自分を納得させようとするみたいに言った後、ポットから透明なカップにハーブティーを注いだ。
 私もそれに倣い、透き通ったルビー色の液体を自分のカップに注ぐ。
「じゃあ、いただきます」
 そう言って、早速カップを手に取ってみる。

 立ち昇る湯気は甘酸っぱい香りがしていて、本当に紅茶じゃないんだなあと思う。
 どきどきしながら一口飲んでみると、奥様に言われていた通り、はっきりと強い酸味が口の中に広がった。
 味も果物っぽい。何かに似てると思ったら、あれだ。アセロラジュース。酸味の強さは飲めないというほどではないけど、せっかくだから蜂蜜を溶いてみたら飲みやすくなった。

 安井さんはカモミールとリンデン、だそうだ。私の飲んでいるものよりも色は薄く、よりお茶っぽい見た目だった。飲んでいる表情を見るに、味は好みに合っているようだ。
「そっちはどんな味?」
 私の問いに彼は答えようと考え込んだけど、すぐに笑んで言った。
「飲んでみるか?」
「え、いいの?」
「いいよ。口で説明するより、飲んでもらった方が早い」
 でもお行儀悪くないかなと一瞬思ったけど、小野口課長は自分の役目は終わったとばかりにさっさとカウンター席へ座り、こちらには見向きもしない。相好を崩して奥様に話しかけていた。
「じゃあ僕にも一杯。ラベンダーがいいな」
「はい、少し待っててね」
 奥様も嬉しそうに頷き、ハーブティーを入れ始めたようだ。予想はしてたけど仲睦まじい夫婦みたいで、何だかいいなあと思う。

 そういえば以前、小野口課長の昔の写真を見せていただいたことがあった。
 今の課長が男前なのも、奥様のお力によるものなんだっけ。つくづく恋の力は偉大だ。
 それはともかく、見られてないならまあいいかと、私達は素早くカップを交換した。そしてありがたく味見をさせてもらった。

「ふうん。ほんのり甘くて美味しいね」
 カモミールとリンデン、こっちの方が私の好みではあるかもしれない。上品で控えめな甘さと、すごく爽やかな果物っぽい香り。お店に入ったとたんに感じた、あのリンゴみたいな香りはこれだったようだ。
 一方の安井さんは私のカップに口をつけ、直後に目を見開いた。どうやら予想外の味わいだったらしく、びっくりしたように言った。
「……思ったより酸っぱい。と言うか、お茶って感じがしないな」
「だよね。果物の温かいジュースみたい」
 実際、フルーツを食べるようにビタミンが摂れるそうだから、その感覚でもいいのかもしれない。美容にいいと言われると選ばずにはいられないお年頃だ。
 ちなみに安井さんは今の気分を聞かれて『お見合いは初めてなので少し緊張しているんです』と答えた結果、あのお茶になった。私の目には緊張しているようには全く見えないし、いつも通りの安井さんのようだけど、果たしてリラックス効果はあるんだろうか。
「でもカモミールはともかく、リンデンって何だろう」
 聞き慣れない単語に私が首を傾げると、安井さんはいともたやすく答えた。
「菩提樹だろ」
「えっ、何でわかるの?」
「リンデンバウムって言うじゃないか。シューベルトの曲にもある」
「全然知らない。安井さん、博識だね」
 私は感心した。菩提樹もハーブなんだってところからして驚きだし、外国語で何て言うかまで気にしたこともなかった。
「クラシックとかもよく聴くの?」
 お互いにカップを戻し、私は自分のお茶を飲みながら聞いてみる。

 安井さんの趣味が音楽鑑賞だってことは知っている。
 でも彼が好きなのは古い洋楽とか、そうでなければメロコアって言うんだっけ、あのどかどかと賑やか系の曲。そういうのばかりだった。

 カップを傾けた安井さんが、目だけ上げて私を見る。
 滅多に見られない上目遣いの視線。どきっとした。
「何か今の質問、ちょっとお見合いっぽいな。『ご趣味は?』って感じ」
 おまけにカップを置いてからそう言われて、何だかこっちが照れてくる。
「そ、そうかな……。別に意識した質問じゃなかったんだけど」
 それで安井さんも軽く笑い、
「自分では聴かない。親がレコードを集めてて、実家にいっぱいある」
「そうなんだ。集める人はすっごい集めてるって言うよね、レコード」
「すごいよ、実家の一部屋がレコード部屋になってる。棚という棚にみっしり詰め込んでて」
 身内の話だからだろうか。彼は少しだけくすぐったそうに、でも表面上はうんざりしているというふうに続けた。
「おかげで俺は兄貴が進学して家を出るまで、一人部屋を貰えなかったんだ。あの部屋さえ片づいてれば揉めなかったのに」
 レコード部屋、何かすごいことになってそう。安井さんのご両親にとっては大切な宝物の部屋で、いかに子供の要望と言えど簡単には明け渡せなかったんだろう。
 あるいは、思い立って片づけようにも手遅れなほど溜め込んでしまっているとか。
「それって何歳までの話?」
「高一。それまで弟と同じ部屋で、しかも二段ベッドで寝てたんだよ。ありえないだろ?」
 安井さんは積もり積もった鬱屈でもあるのか憤然と語る。
「弟は寝るのも早いし、夜更かししようものなら文句言ってくるからな。最悪だった」
「楽しそうでいいと思うけどなあ。きょうだいと同じ部屋なんて」
 私と姉は年の差がありすぎて、一緒の部屋でなんか過ごしたことがない。ちょっと羨ましくなる。
「私はずっと一人部屋だったからつまらなかったよ。一緒の部屋とか二段ベッドとか憧れる」
 そう告げると安井さんは奇特な人を見るような目をした。
「冗談だろ? 六畳の部屋を弟とシェアしてたんだぞ」
「六畳なら二段ベッドと机二つ、ぎりぎり置けるんじゃない?」
「置ければいいってものじゃない。窮屈で息が詰まるし、友達も迂闊に呼べない」
「そんなに窮屈かな。友達呼ぶ日が被ったら、居間にいてもらうとかもできるでしょ」
 そこまで言ってからふと察して、私はにやにやしながら言ってみる。
「あ。それって『友達』じゃなくて、彼女を呼べなかったってことじゃないの?」
 私の指摘は彼にとって相当予想外だったようだ。涼しげな顔立ちに一瞬、動揺が走ったのを見逃さなかった。
 もちろんすぐに取り澄ましてみせたけど。
「実家にいる頃は彼女なんていなかったよ」
「へえ、意外。高校時代までは、ってことだよね?」
「そう。昔は女なんて訳わからん、男同士でいる方が気も休まるし楽しいと思ってた」
「安井さんにそんな純情な頃があったなんて。ものすごく意外すぎて想像できないよ」
 少年時代は晩熟だったんだ。
 一体、何があって口達者で手も早い今の安井さんになっちゃったんだろう。
「昔の安井さんに会ってみたかったな。もしかしたらすごく格好よかったんじゃないかな」
「……それは、今の俺に対する駄目出しか何かか?」
 彼がちょっと切なそうに聞き返してきたので、私は大急ぎでフォローする。
「違うよ。女の子に及び腰な安井さんって想像つかないから、見てみたかったって思って」
「何だよ物珍しそうにして。誰だって最初のうちは及び腰になるもんだろ」
 安井さんは拗ねた表情で続けた。
「まして、男友達といるよりも気が休まって、その上一緒にいて楽しい女の子なんてなかなかいないからな」

 考えてみれば意外と難しい注文だ。
 一緒にいると気が休まる人も、一緒にいて楽しい人も、どちらかの要素だけなら満たせる人はいくらでもいるだろう。だけどある種相反するその二つを同時に満たせる人はそうそういるものじゃない。
 安井さんは自分の為に恋愛をするのだと言っていた。つまり彼にとって人生に必要な人とは、一緒にいて休まる上に楽しい人という二大条件を満たした存在だということになる。
 私、そういう存在になれてるのかな。

 甘酸っぱいハーブティーの香りの中で考え込むと、安井さんが再び口を開く。
「園田と一緒にいると、どきどきする」
 私が何を考えていたか、彼にはわかっているようだった。
「急に脈絡ない変なこと言ってくるし、怒ったかと思えば次の瞬間には笑ってたりするし、ちょっとしたことで照れてすぐ赤くなるし、そういうのが可愛くて」
 そんなの見て楽しいなんて、私としては不本意だけど。
 でも一緒にいてつまらないと思われるよりはずっといいに決まっている。
「それでいて、傍にいるとほっとする。園田は何でも面白がってくれるし、俺が無様なところを見せたって笑ってくれる。俺も、園田の前では見栄を張らなくていいんだって思うようになった」
 私も、安井さんといると楽しい。そう思う私が笑うのを、彼はほっとすると言っている。そして彼が幸せそうに笑うと、私まで幸せな気持ちになる。
 一緒にいない理由なんて、もうどこにもない。
「だからできれば、早いうちに結婚したい」
 安井さんがためらいもなくそう言ったので、私は言葉に詰まって俯く。
 私だってそう思っていないわけじゃない。一緒にいない理由がない、彼と一緒にいたい。そういう意思は確かにあるのに、結婚となると途端に及び腰になってしまう。
 もちろんそれも、最初のうちだからということなのかもしれない。
 ただそれなら、安井さんも及び腰じゃないとおかしいはずなんだけど――今の彼は晩熟でも何でもないから、平気なのかもしれない。

 婚活を始めた当初は、結婚こそ目的であり目標だった。
 なのに現実にそれが眼前に、手を伸ばせば触れられる位置にやってくると、戸惑いたくなるのが困る。
 結婚がどういうものか、今頃になってようやくわかってきたということかもしれない。
 年収とか共働きとか親との同居とか子供のこととかよりもまず先に、何より一番に考えなくてはならないことがあると、ようやくわかったからかもしれない。
 結婚したら、私はこの人と、ずっと一緒にいることになる。
 それが嫌だというわけじゃない。でも嬉しい、大歓迎だと言えるほどには心の準備ができていない。

 普段ならここで考え始めて、挙句に頭がぐるぐるして何も言えなくなるところだ。
 でも今日はお見合いだから。
 普段は言えないようなことも口にしてしまういい機会だと思う。

 だから私は口を開きかけ、
「あの――」
 私の言葉を待っていてくれた安井さんが、こちらに真っ直ぐな視線を向けた。
 途端、
「失礼します。よろしければハーブティーと一緒に、ケーキはいかがですか?」
 トレイを手にした小野口課長の奥様が、私達の間に立って声をかけてきた。
 恐らくは会話が途切れるのを待って、いいタイミングで持ってこようとしてくれていたんだろう。私と安井さんは同時に顔を上げ、それから多少気まずい思いでその顔を見合わせる。
「ええと……いただいちゃう?」
「そうしよう。せっかくだから」

 私達はそれぞれの飲み物に合うお菓子を勧められた。
 安井さんにはレアチーズケーキ、私にはパウンドケーキのお皿がそれぞれ置かれた。奥様はケーキを並べ終えると、よろしければお茶のお替わりもお持ちしますからねと言い残して踵を返す。
 そしてカウンターへ戻ると、すっかり寛いでお茶を飲んでいる小野口課長にもお菓子を差し出していた。課長がそれをいい笑顔で受け取る様子を、私は横目で密かに窺う。

「美男美女のカップルだよね」
 私が小声で同意を求めると、安井さんは黙って頷いた。
 それからすぐに微笑んで言われた。
「憧れる?」
「そりゃまあ……」
 私は否定せずに頷き返す。
 小野口課長ご夫妻は仲もいいし雰囲気も大人っぽくて穏やかで、憧れるのも当然だ。昔の写真を見せていただいた後だからこそ、一層素敵なご夫婦だなと思ってしまう。
 憧れだけならいくらでもあるんだけど。
「結婚って、素敵なものだとは思うんだよね」
 そう切り出した私を、安井さんは優しそうな目で見る。
「きっと楽しいよ。幸せにもなれると思う」
「うん。でも結婚するとなると、ずっと一緒に暮らすわけじゃない」
「それも楽しいに決まってる。朝、目を覚ましてから夜に眠りに就くまでずっと一緒だ。俺はお前と、一刻も早くそういう生活がしたい」
 レアチーズケーキにフォークを入れながら、安井さんはうきうきと語った。声が弾んでいる。言葉通り、今からその時が待ちきれないとでもいうみたいだった。
 でも私は、そんな生活を想像するだけで、
「普通に照れるって言うか、何か恥ずかしいんだけど……」
 ぼそぼそと告げたら、安井さんが目を瞬かせた。
「もしかして、園田が躊躇してる理由ってそれだけ?」
「それだけって言うけど、最もたる理由じゃない。いきなり結婚なんてハードル高いよ」
「もしもそういうのに慣れたら、結婚してもいいってことか?」
 畳みかけるような問いに、私はぎこちなく顎を引く。
「そう、かも。だから、もっと時間をかけて、慣れていけたらなって」
 これ以上安井さんを待たせるのは悪いけど、結婚するからにはちゃんとした、いい奥さんになりたいし。
 その為には私も、彼と一緒にいることにもっと慣れなくてはいけない。昔ですら途中で終わってしまったことを今度こそやり遂げて――。
「じゃあ、結婚の前に同棲しようか」
 例によってさらりと、安井さんは言った。
 口にしてからそれこそ名案だというように顔を輝かせていた。
「いいと思わないか? 結婚生活の練習になるし俺も楽しい。一石二鳥だ」
「ど、同棲って……!」
 結局それって安井さんと一緒に生活するってことで、やっぱり朝から夜まで何かと顔を合わせたり一緒にいたりするってことで、つまりそれこそが普通に照れるし恥ずかしいんだけど全然解決策になってなくない?
「本気、なの?」
「俺はずっと本気だよ。結婚か同棲か、園田はどっちがいい?」
「どっちも問題点となる部分が共通してると思うんだけど!」
「そりゃ問題解決の為には避けて通れない部分なんだからしょうがないだろ」
 安井さんはどっちに転んでも嬉しいんだろう、屈託のない笑顔で語る。
 ハーブティの効果かどうか知らないけど、絶対この人緊張なんかしてない。むしろリラックスしすぎだ。

 私も美容効果は後回しにして、リラックスできそうなのを頼んでおけばよかった。
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