Tiny garden

あの日までは数えてた(4)

 創作豆腐料理のお店に入ってからも、安井さんはずっと私を眺めていた。
 私がぷるんとした胡麻豆腐に箸を入れた時も、湯葉刺しを生姜醤油でいただく間も、豆乳の冷製スープを掬って口に運ぼうとしたその瞬間も、まるで見落とすまいとするみたいに見つめてきた。お料理はどれも美味しいけど、食べにくくて困る。

「またこっち見てる」
 差し向かいに座る彼に抗議の声を上げると、わざとらしく瞬きをされた。
「え? どうしてわかった?」
「普通にわかるよ、視線感じる」
「しょうがないだろ。園田がいつもと雰囲気違うんだから、どうしても目が行く」
 前にも聞いたことがあるような言い訳を、完全に開き直った安井さんが口にする。
 雰囲気違うと言っても、テーブルを挟んで座る今の状況ではスカートかどうかなんて見えないはずだ。見えているのは上半身だけ、トップスは普通のニットなんだから、いつもと違うと言われるほどのものでもない。そりゃ自転車乗る時に着る服ではないけど。
 私は自棄気味に残りの胡麻豆腐を口へ放り込む。そして十分味わい飲み込んでから、憤然と彼に告げた。
「そんなにじろじろ見られると食べづらいし恥ずかしいよ」
「しょうがないな。なるべく気をつける」
「気をつけるんじゃなくて、やめて欲しいんだけど……」
 こちらの抗議なんて、彼はまるで気にしたそぶりもない。いやに機嫌よくおぼろ豆腐を崩しにかかる。
「目が勝手にそっち行くんだから、俺の意思じゃどうにもならないよ」
 この手の店にありがちな、ほんわかした間接照明の小上がりに私達はいる。隣席との境目には障子を模した間仕切りがあって、他のお客さんの姿が見えないようになっている。安井さんの視線が気になるのも、そういった半密室空間のせいかもしれない。
「自分の言うことすら聞かないなんて、安井さんの目はどうなってるの?」
「反抗期なんだよ。俺は品行方正でいたいのに、困ったものだ」
「それは持ち主の教育がよくないね。もっとがつんと言ってやらないと」
「何せ可愛い女の子に飢えてるからな。俺も気持ちはわかるし、強くは言いづらいんだ」
 そしてああ言えばこう言う。この手のくだらない言い合いにはよほど慣れていると見えて、ちょっとやそっとじゃ言い負かせない。

 言っても無駄なら、いっそ私が気にしないのがいいのかもしれない。
 でも彼の視線ははっきり言ってすごくわかりやすい。睫毛とか唇とか鎖骨とか、パーツごとに見てるなっていうのを目の動きで察することができる。
 私もそれが感じ悪いと思っているわけじゃない。だけど嬉しくもないし、黙って見られているだけというのもどこか落ち着かない気分だった。

「どうしても気になるっていうなら、酒でも頼めば?」
 卓上メニューを指差して、安井さんがそう言った。
「酔っ払えば細かいことは気にならなくなるだろ」
 いかにも名案だというように笑む彼の顔を、私はできる限り冷ややかに見返す。
「飲み会でよくある手口だよねそれ。女性を酔わせてどうこうっていうの」
 たちまち彼は心外そうにした。
「あれ、警戒されてるのか。俺の真面目紳士ぶりは園田が一番よく知ってるだろ」
「ううん、知らない」
 きっぱりとかぶりを振ってやる。
 安井さんは彼氏としても大変優しい人だったけど、決して紳士ではなかった。個人的にはどの口が言うのかと、その口に豆腐を突っ込んでやりたい気分です。
「そんなにあっさり否定しなくてもいいのに」
「だって本当に知らないから。あ、そのメニュー貸して」
 私が手を伸ばすと、彼は悔しそうに笑いながら卓上メニューを手渡してくれた。お礼を言ってからそれを見てみると、アルコール類のラインナップはそれなりに充実していることがわかった。
「結局飲むのか」
「うん。何か安井さんの視線が癪だしね」
「どんな理由だよ」
「こっちも遠慮してたんだよ。安井さんが車で送り迎えしてくれるって言うから」
 飲んでもいい、と事前に言ってもらってはいたけど、やっぱりいざとなると多少は気が引けた。
 でもこのまま安井さんからの視線を浴び続けるのに、素面ではちょっと辛い気がする。それにここの料理がどれも美味しかったので飲みたくなったというのもある。
「遠慮なんてしなくていいって言っただろ」
 彼からも改めてそう言ってもらったので、私は店員さんを呼んで焼酎のお茶割りを頼む。午後六時をとうに過ぎた店内はぼちぼちお客さんも入り始め、徐々に店員さんの動きも慌しくなってきた。

 程なくしてお茶割りが届き、私はそのグラスを持ち上げ、安井さんは烏龍茶のグラスで乾杯に応じてくれた。
「もし私が酔っ払っちゃったりしても、ちゃんと部屋まで送ってくれるよね?」
 冗談半分、釘刺し半分で尋ねると、彼は深く頷く。
「任せろ。ちゃんと連れて帰る」
「私の部屋にだからね」
「わかってるって。信用ないんだな、俺って」
 安井さんはそこで苦笑してから、自分の湯葉刺しに箸を伸ばす。彼はわさび醤油で食べるつもりらしい。
「大体、園田は酒飲んで潰れるなんてことまずないだろ」
「なくはないよ。学生時代なんて、飲み方知らなかったから何度かやらかしたし」
 インカレの陸上同好会に入ってた頃なんかはしょっちゅう潰れてた。友達も一緒になって潰れるから、気がついたら一緒に床で雑魚寝とかよくある話だった。
 でもそこで安井さんはにやりとして、
「園田は短大卒だろ。一月誕生日のお前が、いつ潰れるほど飲む機会があったんだ?」
「え! そ、そんなの成人してからに決まってるじゃない当然だよ!」
「へえ。たった三ヶ月の間に『何度か』ねえ……」
 しまった、うっかりして口が滑った。
 その辺りを追及されると今更やましいというわけでもないけどあれなので、私は防戦の体でお茶割りを呷る。やっぱり豆腐には和のお酒が合う。
「そういえば一年目の頃にも、飲み会で気分悪くしてたよな」
 安井さんも私を深く追及することはなく、思い出話にシフトした。
「同期でやった飲み会で、急に姿消したから驚いたよ。慌てて捜しに行ったら、店の外でしゃがみ込んでるんだもんな。覚えてるか?」
 覚えてないはずがない。私は、だけど曖昧に答えた。
「うん。一応ね」
「あの時だって俺がタクシー呼んでちゃんと乗せてやっただろ。ほら見ろ、俺は当時から紳士だったんだ」
 誇らしげに語る安井さんに、かえって複雑な思いが過ぎる。
「よく覚えてるね、そんな昔の話」
「ついさっき思い出した。園田が酒飲んで酔っ払ってるの、あの時以来見てないよ」
「あれから用心するようになりました。その節は迷惑かけてごめんね」
「迷惑ってほどじゃなかったよ。心配はしたけどな」
 安井さんが優しく笑って答える。その笑い方は、当時とあまり変わらない。

 私はその時の記憶を色つきの映像として脳内再生できるほど、とてもよく覚えている。
 正確には飲みすぎで具合を悪くしたわけではなく、飲み会前からちょっと疲れていただけだった。入社してから数ヶ月目、ちょうどがむしゃらに突っ走ったルーキー達のスタミナが切れ、急に疲れが押し寄せる頃だ。
 私は朝からあまり調子がよくなかったけど、終業後に予定されていた飲み会には無謀にも出席してしまった。この頃は飲み方を知らなくて見込みが甘かったというのもある。

 最初のビール一杯で呆気なく限界が来て、外の風に当たってどうにか持ち直そうと、一人でこっそり席を立った。
 ところが一向によくならなくて途方に暮れていたところに、安井さんが来てくれた。
『園田、どうした? 具合悪いのか?』
 幹事をやっていたから気がついてくれたのだろうけど、安井さんはわざわざ店の外まで私を捜しに来てくれた。そして私に声をかけたり、冷たいおしぼりを持ってきてくれたり、背をさすってくれたりして、最終的にどうにもなりそうもないとわかるとタクシーを手配してくれた。
 覚えている。まだ髪を短くしていなかった頃の覗き込んでくる心配そうな顔も、背中を撫でてくれる手の大きさ温かさも、タクシーに乗る時肩を貸してくれたことも、そして翌日謝りに行ったら、元気そうでよかったって笑ってくれた時の顔も。
 あの時好きになったんだってことを、本人には一度も話したことがない。
 安井さんなら、そんなことくらいでって軽く笑い飛ばすような気がするからだ。

 八年前のあの日から、私は彼のことが好きだった。
 でも今はどうだろう。私はいつ、再び彼のことを好きになったんだろう。
 あの頃の『好き』と今の気持ちは、同じものなんだろうか。

「……園田?」
 急に黙り込んだからか、安井さんが訝しげに私を呼んだ。
 私は考えるのを中断し、急いでかぶりを振る。
「ううん、何でもない。そんなこともあったなあって懐かしく思ってただけ」
 懐かしいのは本当だ。鮮明な記憶は今でも蘇る度ほのかに温かい。
 あの時、安井さんが追い駆けてきてくれたこと、私を見つけてくれたこと、今でも嬉しく思う。
「ありがとう。あの時は助けてくれて」
 私がお礼を言うと、彼は予期せぬ反応を食らったというようにぽかんとした。
 それからとろけるような笑みを唇に浮かべて、答える。
「こちらこそ。大したことはしてないけどな」
「あれで大したことないって、安井さんは普段からそんなに人助けしてるの?」
 私は残りのお茶割りを飲み干して、一気にグラスを空にする。
 すると安井さんがグラスに目を留め、口を開いた。
「園田、お替わりはどうする?」
「どうしようかな。安井さんが食べ終わるなら――」
 彼の皿もほとんどが空きつつあった。私一人でだらだら飲み続けるのはそれこそ悪いし、できれば同じタイミングで食べ終えたい。
 そんな私の考えを見越してか、彼はすかさず言った。
「もし先に食べ終わったら、デザートでもいただくよ。園田は気にせず飲めよ」
「……じゃあ、そうする」
 私はお言葉に甘えることにして、お茶割りをもう一杯注文する。
 安井さんはデザートとして豆腐のブラマンジェを頼んだ。とろりとした黒蜜がけのブラマンジェは見るからに美味しそうで、私もちょっと食べたくなったけど、お茶割りとは合わなさそうなのでやめておく。
 彼が関節の目立つ意外と無骨な手で木のスプーンを持ち、小さな器に収められたブラマンジェを目を細めて食べるのを、私はグラス片手に眺めていた。
 これを食べ終えたらどうするのか、この後のことを考えていた。
 ちらりと見た腕時計、時刻はまだ午後七時を過ぎたばかりだ。

 お店を出たのは七時半だった。
 さすがに日は落ちていたけど、かと言って遅い時刻では決してない。
 二人で車に乗り込むと、安井さんがエンジンをかける前に切り出してきた。
「まだ帰るには早い時間だよな。寄り道しないか、園田」
 ハンドルに手を置いた彼は真面目な顔で私を見て、それから私が返事をする前にがっくりと肩を落とす。
「お前、『案の定』って顔するなよ」
 何となく誘われるんじゃないかと思ってた。私は素直に答える。
「いかにも安井さんらしい手口だなあと思って」
「手口って言うな。このまま帰るなんてもったいないと思わないのか」
「それは思うよ。もうちょっと一緒にいたいよね」
 助手席のシートに寄りかかって、これも素直に言っておく。
 ただ私は平然としているわけじゃない。ちょっと緊張している。いざ寄り道をしたら、もっとどきどきするような予感もしている。
「どこがいい?」
 安井さんがそう尋ねてくる。
「私が決めていいの? じゃあ、風のあるところがいい」
「了解。車出すよ」
「あ、それと明るいところ。行っても怖くないような場所がいい」
「悪いな、それは候補にない」
 いっそ潔く言い切ると、安井さんは車のエンジンをかける。程なくして車は駐車場から滑り出し、夜道をどこかへむかって走り始めた。
 目映いヘッドライトが照らす道は、海へと続く通りのようだ。海でも見に行くのかなと、私は運転中の彼に尋ねる。
「臨海公園?」
「そのつもり」
「カップルとかいないかな。あんまり多いと落ち着かないかも」
「この時間ならまだ大丈夫だよ。カップルだって食事中だ」
「まあ、明日も休みって人多そうだしね。急いでご飯食べたりしないよね」
「そういうこと」
 急いでご飯を食べる必要があるのは、今夜はちゃんと帰らなきゃいけない人達だろう。
 明日はあいにく仕事だって人とか。
 あるいは、まだカップルにはなっていない人達とか。

 二十分ほどで車は海岸通りへと出て、直に臨海公園の駐車場へと乗り入れた。
 駐車場の隅に立つ街灯の白っぽい光が、かすれた白線の枠内に並ぶ数台の車と、ひっそり静かな公衆トイレを浮かび上がらせている。車を降りると早速波の音が聞こえてきて、いかにもなロケーションに目眩がした。
 来ておいて何だけど、こういうシチュエーションは本当に、二十八になった今でも苦手だ。
 めちゃくちゃに緊張する。

「寒くないか?」
 同じく車を降りた安井さんが、私の顔をちらりと見る。街灯の光は私の顔色さえ浮かび上がらせているのか、途端に軽く吹き出された。
「園田、もう雰囲気に呑まれてる」
「あ、当たり前でしょ。こういういかにもなデートは久々だから!」
 私が言い返すと彼はさもおかしそうに笑ってから、からかうように手を差し出してくる。
「手繋ぐ?」
「繋がない!」
「それは残念だ。とりあえず、少し歩こうか」
「……うん。いいよ」
 緊張するってわかっていたくせに彼の誘いに乗ったのは、話したいことがあったからだ。

 素面では話せないこともある。
 だから今夜は、普段言えないようなことを言おうと思っている。
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