Tiny garden

あの日までは数えてた(2)

 小野口課長とは、昼休憩の際に話をする機会を得た。
 たまにはゆっくり座ってご飯を食べようと社員食堂へ向かったところ、ちょうど休憩に入っていた課長を見つけた。

 本日も愛妻弁当を抱えて広報課を出て行ったのを見ていたから、会釈だけして通りすぎようとしたら、課長の方から手招きしてきた。
「園田さん、こっちおいで。僕はもう食べ終わったから」
 言われて見るとテーブルの上、愛妻弁当は草木染めみたいな淡い色合いの布できれいに包み直されている。
 どうせなら中身の方も見てみたかったなと思いつつ、私は課長の向かいの席に座った。
「お言葉に甘えてお邪魔します」
「どうぞどうぞ」
 小野口課長はすっかり寛いだ様子でコーヒーを啜っている。その満足げな面持ち、本日もさぞかし美味しいお弁当を食べたのだろうと推測できた。
 一方の私はまだコンビニのサンドイッチを脱却できていない。自分で言うのも何だけど、美味しい手作りのお弁当が恋しい今日この頃だ。サンドイッチの包みを開きながら、課長に疑問をぶつけてみた。
「課長のお弁当ってどういうのか、一度拝見してみたいです」
 たちまち小野口課長は目を見開き、困ったように笑った。
「いやいや、そういうのはちょっとね、見せるとなると恥ずかしいと言うか」
「そうなんですか? でもお弁当を作ってくれる奥様なんて素敵ですよ」
「まあ、ありがたいと思ってるよ。朝早い出勤でも付き合って、早起きしてくれてね」
 課長は男前の顔立ちに照れを滲ませて続ける。
「ただ自慢みたいになっちゃうけど、手の込んだものを作るんだよ。うちの妻は」
「それなら尚のこと、見せびらかしちゃってもいいと思いますよ」
 さりげなく唆してみる。
 実際、手の込んだお弁当なんて自慢以外の何物でもないはずだ。せっかくだから公開しちゃえばいいのに、私も見てみたいし。
 だけど課長は苦笑しながら首を捻る。
「いやね、前に人に言われたことあるんだよ」
「何てです?」
「『お正月のおせちみたいだね』って。僕にとっては普通のお弁当でも、よその人から見ればそうじゃないみたいだから」
 おせちみたいなお弁当を毎日持たせてくれる奥様とか、むしろ私が欲しいです。
 本当に見てみたい。でも課長の反応を見る限り、無理なんだろうなあ。

 とりあえず話が一段落したところで、私はDTP検定の結果について報告した。
 課長はコーヒーを味わいながら私の報告を聞き、そして一通り聞き終えると温かく労ってくれた。
「頑張ったね、園田さん。努力が実を結んでよかったじゃないか」
「おかげさまで結果出せました」
 今度は私が照れた。頑張ったというのは事実なんだけど、それを人に誉められるのは嬉しいけどちょっと恥ずかしい。
「認定証が来るのは来月なんですけどね」
「おおそうか。じゃあ来月の社内報に載せようか」
「え、社内報に載せるんですか? 私の名前を?」
「資格取得者は本人の許可を得て載せるようにしているからね。園田さんには是非、率先して記事になってもらいたいな」
 小野口課長はにこにこと私に微笑みかけてくる。断るに断れない空気だ。
 別に嫌じゃないんだけど、わざわざ名前載せるほどのことかなとは思う。まして自分で自分の名前入力するかもしれないと考えるとね。何か自画自賛みたいで恥ずかしい。
「それってやっぱり、載せなきゃ駄目ですか?」
 恐る恐る聞いてみたところ、小野口課長はきょとんとして、
「園田さん、嫌なのかい?」
「嫌ってほどではないんですけど、ちょっと恥ずかしいかなとは思います」
「恥ずかしいどころか誇れることなのに、若いお嬢さんの感覚は面白いなあ」
 課長は言葉通り、面白がって笑っていた。

 こうして話していても、やっぱりすごく年上の人だと思う。お父さん、にしてはちょっと若いけど、でもそんな感じだ。
 この人の下で働くようになって、もうじき五ヶ月になる。振り返ってみてもあっという間のようで慌しい、ぎゅっと凝縮したような日々だった。正直初めは仕事についていくのに必死だったけど、今は広報の仕事そのものが面白くなってきたところだ。

「園田さんも、広報にはもうすっかり慣れたみたいだな」
 小野口課長も同じことを思っていたのか、不意にしみじみと言われた。
 私はここぞとばかりに力一杯頷く。
「はい。小野口課長のご指導のおかげです」
「本当に? そう思ってくれてるとは嬉しいなあ」
 相好を崩した小野口課長は、でもその後すぐに気遣わしげな表情を浮かべた。
「だけど園田さん、この辺りが一番用心時だよ。特に体調には気をつけないと」
「そうなんですか? 今のところ夏バテはしてませんよ」
「いやいや。新しい仕事を始めるとね、最初の三ヶ月は誰もががむしゃらになって頑張るものなんだよ」
 警戒を促すような物言いに、私も内心どきっとする。
 最初の三ヶ月は、か。それはもしかすると仕事に限った話ではないのかもしれない。
「でもそれを乗り切ってしまうと、今度は気が緩んで思わぬミスをしたり、身体に響いたりするんだ。気をつけるんだよ」
「……はい。気をつけます」
 神妙な思いで私は顎を引く。

 確かに最初の三ヶ月はがむしゃらになってしまう時期なのかもしれない。
 せっかく手に入れたものを失いたくないとか、誰かに失望されたくないとか、新しい環境に早く慣れたいとか、そういう理由で。
 だけど必死になればなるほど、後になってから息切れを起こす。それで自己嫌悪に陥って、一人でぐるぐるして、考えるの下手なのに考え込んで――よくよく考えたら私、いつもこのパターンかもしれない。
 最近の例だと婚活なんてまさにそう。初めのうちは必死になってやってたけど、壁にぶつかったり、だんだん現実を知ったりして、自分が何にも前に進めていなかったことに気づいた。
 まともに続いているものって言ったら仕事の他は、自転車くらいのものだ。
 でもそれだって世間じゃお金のかかる趣味って認識のようだし、そのうち諦めなくちゃいけない日が来るのかな。

 何にせよ仕事では迷惑かけられない。息切れしないようにしようと、サンドイッチを食べながら考え始めた時だ。
 小野口課長がふと顔を上げ、テーブルの近くを歩いてきた誰かに声をかけた。
「ああ、安井課長。お疲れ様」
 呼ばれた名前に私まで、反射的に顔をそちらへ向けた。
 お湯を入れたカップ麺に割り箸を載せた安井さんが、呼び止められてこっちを見ている。
 彼は勤務中らしい冷静な顔つきでちらりと私を見てから、小野口課長に向かって頭を下げた。
「お疲れ様です」
「よかったらここどうぞ。僕はもう休憩終わりだから」
 そう言うなり小野口課長はカップのコーヒーを勢いよく飲み干し、いささか慌しく立ち上がった。草木染めのお弁当包みを抱えるようにして、自分が座っていた椅子の隣を引く。
「ほら、座って座って」
 半ば無理やりな調子で促した後、私に向き直って尋ねてくる。
「園田さんもいいよね、安井課長となら」
「え? いいんですけど、あの――」
 唐突な展開に私は困惑していた。別に相席が嫌だというわけではないし、もし一人で座っていたなら、安井さんと一緒にお昼を食べていたと思う。
 ただそれを、小野口課長から勧められるのが変な感じと言うか。
 そもそも課長は何を慌てているんだろう。安井さんが恐縮しながら椅子に腰を下ろすと、まるで後ずさりするようにテーブルから離れつつ手を挙げる。
「じゃあ僕はこれで。園田さん、休憩中はゆっくり休むんだよ」
「あ、はい……」
 何が何だかわからないけど、私は頷いた。
「ありがとうございます、小野口課長」
 安井さんが笑顔でお礼を言うと、小野口課長もどこか得意げに笑んで、それから一目散に食堂を出ていった。

 上司の後ろ姿を目で追う私に、安井さんはぽつりと言う。
「別にああまで慌てなくてもいいのにな」
「と言うか、どういうこと?」
 私は声を潜めて彼に尋ねる。
 午後二時過ぎの社員食堂はまだそれなりに人がいる。とは言え席がないほど混み合っているというほどでもないし、わざわざ呼び止めてまで席を譲るのには違和感がある。
 つまり小野口課長は、安井さんだからこそこのテーブルに着くよう勧めたのだと思う。
 ここから導き出される答えは、
「……例の、お見合いの件があったからじゃないのか」
 安井さんは何とも言えない苦笑いと共に答えた。
「見合いが中止になっても、小野口課長としては俺達に気を回したいのかもな」
「な、何で?」
「さあな。そういうのが好きなんだろ」
 それが課長の趣味ですみたいな言い方を、安井さんはする。
 実際、小野口課長が仲人好きっていう話は既に耳にしていたし、それはそれで納得できなくもない。

 だけど微妙に釈然としない。
 ただのお節介焼きというだけでは、中止になったお見合いをもう一度試みるような真似はしないはずだ。むしろ断られた時点でこの組み合わせは駄目だと思い、例えば次の組み合わせを考えるとか――。
 そういえば、私はあれ以来お見合いどうこうって小野口課長からは言われてないけど、安井さんはどうなんだろう。

「安井さん、あれから何か言われたりした? うちの課長に」
 私が尋ねると、安井さんは肩を竦めた。
「いや、何も」
「別のお見合いを勧められたりとかも?」
「全然ないよ。何だ、気にしてくれてるのか?」
 そこで安井さんは少し嬉しそうに私を見る。
 私は呆れて口を尖らせた。
「心配してるんだよ、私は。やっぱり我が社にさる筋からのタレコミがあったんじゃないかって」
「さる筋からのタレコミって何だよ。やけに深刻な物言いじゃないか」
 今度は彼が呆れたように笑った。
「だからさ、屋上で花火見てたことを目撃されたんじゃないかと……」
 後の方はごにょごにょと濁しておく。
 なぜって、花火を見てたこと自体が問題だというわけじゃないからだ。その後に起きたことが、と言うかされたことが問題。
「それが小野口課長の耳に入ったんじゃないかって?」
 安井さんもようやく、私の懸念を理解できたというように聞き返してきた。
 ただ私が頷くと、あっさり笑い飛ばしてしまった。
「ないない。そんな微妙なタレコミがあったら俺の耳にだって入ってる」
「そっか、それもそうだね。じゃあ……何だろう」
 私はどうしても小野口課長の気の回し方が引っかかって仕方がなかった。東間さんには最近ちょくちょく冷やかされているけど、課長からそういうふうにされたのは初めてだったからだ。冷やかしというよりは、本当に気を遣われている感じだったけど。
 もしかして東間さんから何か聞いて、とかかな。
「まあ、俺としては気を遣ってもらえて助かったよ。園田と二人で昼飯食べられるし」
 対照的に安井さんは暢気なものだ。明るい口調でそう言って、カップ麺の蓋を剥がしにかかる。
 その後で手を合わせ、割り箸を手に取って割ってから言葉を継いだ。
「それに小野口課長の傍でカップ麺食べると、何かと気を遣われるんだよな。早く嫁さん貰った方がいいんじゃない、とか」
「ああ、愛妻弁当の人から見たらそう思えちゃうのかもね」
 課長はおせちみたいなお弁当作ってもらってるそうだからね。カップ麺がお昼ご飯なんて、そりゃ不健康な食生活に思われるのかもしれない。
「俺だって結婚したくないわけじゃないんだけどな」
 安井さんが麺に息を吹きかけながらぼやく。
 サンドイッチの残りを食べる私が黙っていると、こちらに目を向けてからまた言った。
「むしろ、結婚したいな。なるべく早いうちに」

 以前までなら、じゃあすればいいじゃないって言っていたところだ。
 安井さんなら難しいことじゃない。少なくとも私よりはずっと。
 でも今は、そんなふうには言えない。
 それなら何と告げるのが正しいのか、まだ判断がつかない。

「前とは違う反応だな。俺ならできるって言わないのか」
 言葉に迷う私に、安井さんは低く笑いながら言った。
 私は恨めしい思いで聞き返す。
「言って欲しかった?」
「いや、全然。結婚相手はまだいないけど、恋愛はしてるしな」
 社員食堂にふさわしい話題ではないように思うけど、さらりと彼は言い切った。
 そして一層まごつく私に対し、幸せそうな顔で語り始める。
「最近、たまに考えるんだ。俺が嫁を貰ったらどんなふうに生活が変わるだろうって。毎日のように豆腐料理が食べられるなんてまさに最高だし、インテリア代わりに自転車が飾ってある部屋も悪くない。何より隣で明るく笑ってくれる奴がいたら、どんな疲れもすぐに吹っ飛ぶだろうな」
 私はその幸せそうな顔を、しばらくの間ぼんやりと眺めていた。

 それから、考えた。
 安井さんは、今ではすっかり豆腐が好きらしい。本人の言う通りしょっちゅう豆腐料理が食卓に並ぶ食生活でもきっと文句は出ないだろう。今のところロードバイクにも理解をもって接してくれているし、何よりこの人は私の前では衒いもなく、屈託なく笑う。
 もし私がこの人を、幸せにしながら日々生きていくことができたら、それはとても素晴らしい暮らしになるんじゃないだろうか。

 そんな思いが込み上げてきて、私はふと口を開く。
「もしかしたら、安井さんってすごく理想的な旦那様になるのかもしれない」
「そうだよ。お前にとってはな」
 安井さんは楽しげに言ってから、ものすごく複雑そうな、でも喜んでもいるような笑みを浮かべた。
「全く。ようやく気づいたか」
 本当だ。私は今の今まで、そのことには気づけなかった。

 彼が私にとっても居心地のいい、まさに理想の人であることに、今になってようやく気づいた。