Tiny garden

あの日までは数えてた(1)

 やり直しをしようと決めた日から、安井さんはまめに連絡をくれるようになった。
 これまでもメールだけなら二日おきくらいのペースでくれていたんだけど、それに電話という連絡手段が加わった。

 と言ってもまだ繁忙期を抜けきっていないから、仕事を終えて帰宅後に、ほんの数分話すだけだ。
 まず安井さんから、電話をかけてもいいかとメールが来る。
 その度に私はいいよ、とか、あと五分待って、とか返事をして、そして電話を貰う。時々はメールを出さずに私から電話をかけたりもする。安井さんはかけ直すと言ってくれるけど、数分の通話なら負担にもならない。
『園田の声が聞けたら、また明日も頑張れる』
 電話越しの安井さんの声は、夜になるとさすがに少しくたびれて聞こえた。
『だから五分でもいい。こうして話ができれば嬉しい』
 そして切実そうな口調で訴えかけられると、私は言葉に詰まってしまう。
 普段はそんなそぶりを露とも見せないけど、この人は酷く疲れていて、そして寂しがっているのかもしれない。ずっと寄りかかれるような相手が欲しかったんだろう。そう思うと私も優しい気持ちになって、私にできる限りのやり方で彼を労ってあげたくなる。
「安井さん、お疲れ様。今日も頑張ったね」
 精一杯心を込めて告げると、彼の声もほっとしたように和らいだ。
『ああ、お互いにな。園田は何時に帰ったんだ?』
「私もつい一時間前くらいに。もう遅いからこのまま寝るつもり」
 自転車で帰ってきて、軽くシャワーを浴びて、髪を乾かし終わったところに電話が来た。
 あとは検定に備えておさらいをしたら、明日の朝用に炊飯器のスイッチを入れて、軽くストレッチしてから寝るばかりだったから、私も電話に付き合う余裕があった。

 ところで安井さんは、家に帰ったらどんなふうに過ごしてるんだろう。
 彼の部屋を見せてもらったことはないんだけど、本人が言うには『いつもきれいにしてるから、いつでも遊びに来ていいよ』だそうだから、普段から几帳面にしている人なのかもしれない。
 帰ったら即座にケータイ充電、解いたネクタイはネクタイかけへ、鞄の中身を入れ替えて、明日の準備をきちんとしてからじゃないと布団には入らない――私のイメージする帰宅後の安井さんはこんな感じだ。当たってるかな。

 私が想像をめぐらせる間に、安井さんも同じく私の様子を想像しようとしていたらしい。
『今の園田がどんな格好してるのか気になる』
 やぶからぼうに聞かれて、思わぬ想像の一致に私はこっそり微笑んだ。
「え、どんなって。別に普通だよ、何で?」
『園田はパジャマ派? Tシャツにジャージ派? まさかベビードールなんてことは――』
「五分しかない貴重な電話でセクハラか! 時間がもったいない!」
 もちろん速攻で突っ込んだ。
 全く安井さんという人は気を抜けばすぐにこれだ。さっきまでの優しい気持ちを返して欲しい。そして答えはどれでもない。
『聞いておかないと気になって夜も眠れないだろ。俺の安眠の為だ』
 彼はさも当然の権利だというように主張する。
「知らないよそんなの。適当に、股引でもはいてる姿想像しとけば?」
 私が投げやりに答えておくと、わずかな沈黙の後で唸った。
『……園田の脚なら、それはそれでありかもしれない』
 この人の趣味がわからない。妄想を邪魔してやろうと思ったのに、かえって捗らせてしまったみたいで癪だ。
 しかし、たった五分ほどの電話でセクハラ問答としか言いようのないやり取りをするのはもったいない。そう思うのは私だけだろうか。
「安井さんはこんな話してて楽しい?」
 私の問いかけに、彼は力を込めて答える。
『ああ、楽しい。すごく。とても』
 そんなに強調しなくてもいいのに。私は呆れて息をつく。
「私には怒られるだけで済むけど、他の子にやったら訴えられかねないからね」
『心配しなくてもいい。園田にしかしないから』
「私も怒らないとは言ってないからね! 時間の無駄だって言ってんの!」
『五分しかない貴重な電話でお説教なんてやめよう。時間がもったいない』
「しかもそれさっき私が言った!」
 すると安井さんは楽しげにげらげら笑い出す。
 笑う時は本当に屈託なく、子供みたいに大笑いするから、こっちも怒りがしぼんでしまう。
 こういうくだらない会話も、彼にとっては寛げる時間だったりするのかもしれない。そう考えると怒るに怒れない。そんな私の気持ちに付け込んでくるのはどうかと思うけど、まあいいか。言ったところで直るものじゃないのも十分わかってる。
『いいだろ。こういうところから地道にやり直すべきなんだよ、俺達は』
 散々笑った後で安井さんは言った。
「こんな雑談がやり直しになるの?」
『なるよ。こんな会話さえできない頃があったと思えば、大した進歩だろ』
 彼が口にしたのは別れた直後の話だろう。

 あの頃は私達もさすがに気まずくて、社内ですれ違っても会釈をし合う程度だった。それから時間をかけて、少しずつ挨拶をするようになり、雑談ができるようになり、付き合う前の関係へと戻っていったわけだ。
 あれからおよそ三年半が経ち、今頃になって私達はやり直すという選択をした。
 その選択が私達に何をもたらすのか、私はまだよくわかっていない。

「……ねえ。やり直しって言うけど」
 私はかねてからの疑問を彼に尋ねた。
「具体的にはどんなふうに、どこからやり直すのがいいのかな」
『お前も一からって言ってた通り、最初からだよ』
 安井さんは柔らかい声で応じる。
 でも最初って言うけど、私と安井さんのスタートラインはそれぞれ違うところにあったわけで、じゃあ私の方が先に始めないと、安井さんには追い着けないんじゃないだろうか。
 そう思って更に尋ねた。
「じゃあ私の場合、安井さんを好きになる前から、ってこと?」
 途端に彼は困ったように笑い、
『それって結構昔の話だろ。そんなに遡るのか?』
 まるで私がいつから彼を好きだったか、全部知っていたみたいな言い方をする。
 私は隠してたつもりだったけど、安井さんは目敏い人だ。ばれていたとしても仕方ないだろうし、その上でスルーされ続けていたことも仕方ないと思う。
 ただ仕方ないとわかっていてもむっとするものだ。私は半ば拗ねながら聞き返す。
「そんなにって言うけど、安井さんは私がいつから好きだったかなんて知ってるの?」
『四、五年は前からだろ』
 自信ありげな回答には思わず吹き出してしまった。この人の目も鋭いようで、それほどよくは見えていなかったのかもしれない。
「残念、はずれ。八年前からだよ」
『そんなに!?』
 安井さんの声が裏返ったので、私はますますおかしくて笑う。
「そうだよ。知らなかった?」
『知らなかった。と言うより、気づけなかった』
 彼は悔しげに呻いた。
『そんなに前から好きでいてもらってたのか。俺の目も節穴だな』
「まあ、私も端から諦めてたしね。何にもしなかったから、知らなくて当然かも」
 この状況で私が彼を慰めるのも妙だけど、こんなにしょげられると放ってもおけない。私がフォローすると、彼は尚も低い声で続けた。
『大体、八年前って言ったら入社した年じゃないか。そんなに前から……』
「そうだよ」
『戻れるなら八年前に戻って当時の俺を引っ叩いてやりたい。ぼんやりしてないで周りを見ろと言ってやりたい』

 そうは言っても当時の安井さんは、私のことなんて眼中にもなかっただろう。教えられたところでどうにもならなかったんじゃないだろうか。
 人が恋に落ちるにはそれなりのきっかけが必要だ。誰かに背を押されたくらいでたやすく動く心なんてない。だから安井さんのスタートラインは四年前、八月の終わりの森林公園にあり、私のスタートラインは八年前まで遡る必要がある。
 そして仮に過去を顧みたとしても、現実にその日へ戻ってやり直しができるわけじゃない。ここからまた何年もかけなければならないのだとしたら、恋のやり直しというのは途方もないことだ。

「八年前って考えると、一からのやり直しって果てしないよね」
 私はそっと呟いた。
 ちょうどその時、部屋の壁掛け時計が目に入って、約束の五分がとうに過ぎていることに気づく。
 五分なんて本当にあっという間だ。名残惜しいという気持ちもなくはないけど、ここで時計を無視したら、お互いに明日の仕事に響いてしまうかもしれない。
「そろそろ時間だよ、安井さん」
 そう告げると安井さんは静かに応じた。
『わかってる。これだけは言わせてくれ』
「何?」
 聞き返してから数秒間だけ間があって、
『八年も前からやり直す必要なんてない。園田にまた、俺を好きになってもらえばいいだけだ』
 またしても自信たっぷりに安井さんが言った。
 さすが、もてる男は言うことが違う――などと茶化す余裕は私にはない。むしろそんなことを言われてどう返事していいのかと困惑した。
『今度は俺が、必ずお前を振り向かせてみせる。覚悟してろよ』
 電話は相手の吐息さえ拾ってこちらまで届けてくれる。息をつくように口にされた言葉は私の心臓に大きな衝撃を与えた。心拍数が一気に増えた。
 もはや声も出せない私を直に見ているみたいに、安井さんはそこで軽く笑った。
『じゃあ、今夜はこれで。おやすみ、園田』
「お、おやすみなさい……」
 息も絶え絶え返事をしたら、電話を切る直前にまた笑われたような気がした。
 後にはケータイを握り締めたまま床に倒れ込み、息も絶え絶えで困惑する私がいるばかりだ。
 そういうこと言われると眠れなくなるんだけど、私の安眠は誰が保証してくれるというのか。

 八年前の私に、今の状況を教えてあげたらどんな顔をするだろう。
 これから何年も片想いする相手に、心臓に悪い台詞を賜り、振り向かせてみせるとまで言われてしまった。
 しかしながらあの頃の私は本当に安井さんが好きで好きで堪らなかったので、きっと彼を苦しめるような女には容赦などしなかっただろう。それが自分自身となれば尚更で、付き合った挙句こっちから振ったなんて言ったらまずぶち切れられる。ぼこぼこにされたかもしれない。
 私は過去の私にも恥じない自分でなくてはならない。今のままじゃ八年前の自分に合わせる顔がない。

 その意思が実を結んだか、あるいは安眠できない辛さを勉学にぶつけたのが功を奏したのか。
 八月の下旬に行われた検定において、私は合格ラインをクリアする得点を挙げることができた。
 実際に認定証が送られてくるのは来月の話だけど、とりあえずはその成果を安井さんに報告した。彼は自分のことのように喜んでくれ、そして約束通り、九月になったらお祝いしようと言ってくれた。私もその誘いはありがたく受け、ぼちぼち日程を調整しようという話はしていた。

 それから東間さんにも、お礼を兼ねて報告しておいた。過去問をお借りしたご恩もあるし、改めてお礼を言っておきたかったからだ。
「園田ちゃんならやれると思ってたよ。おめでとう!」
 東間さんは私の為に拍手までしてくれて、思わずほろりとした。
「ありがとうございます! それもこれも東間さんのおかげですよ!」
「私は別に何もしてないよ。園田ちゃんが頑張ったからでしょ?」
 微笑んでそう言った後、あ、と口を軽く開いて、
「言うまでもないことだと思うけど、資格取得したら小野口課長にも報告しておいてね」
「そうでした。折を見て報告しておきます」
 課長にも検定を受ける話はしていたから、もしかしたら気にかけてくれているかもしれない。早目に話すのがいいだろう。
「じゃあこれで肩の荷もひとまずは下りたことだし……」
 東間さんはそこでにまっと笑って、続く言葉は私の耳元に囁いた。
「例の件についてもじっくり考えられるようになったんじゃない? その後、どう?」
 もちろんこの場合の例の件とは、私がらしくもなく、ものすごく頭を使って考えている案件についてであって――。
 私は顔に出さないよう細心の、そして恐らく無意味な注意を払いながら答える。
「えっと、まあ、とりあえずは婚活を一旦やめとこうかなって……」
 それだけしか打ち明けなかったのに、東間さんは大方の事情を読んでしまったようだ。たちまちその顔がぱっと輝き、眼鏡の奥の瞳もきらきらし始めた。
「本当? よかったじゃない! 幸せになってね園田ちゃん!」
「いえいえそんなそこまでの話にはなってないですから!」
「もう時間の問題みたいなものでしょ? 羨ましいな、園田ちゃんも遂に結婚かあ」
「ですから本当に! そういう段階ですらないんで!」
 東間さんは本気で言ってるのか、私をからかっているだけなのか、時々よくわからない。
 結婚なんてそんなまさか、あるはずがない。安井さんと結婚して一緒の家に暮らすようになったりしたらこっちの心臓が持たないと思う。

 とは言え、私も彼も結婚を考えなくてはならない年頃だろうし、もしこのやり直しが上手くいって復縁することになったら、そういう未来も考えなくてはならないだろう。
 むしろそういう未来も考慮に入れつつ、やり直しをすべきなのかもしれない。
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