Tiny garden

唯一無二でも安物です(4)

 身体の方が覚えてるって、真実なのかもしれない。
 私はいくつかの懐かしい気持ちを思い出していた。
 大好きな人がすぐ近くにいるという充足感、触れて確かめられる体温のほんのりとした心地よさ、そして自分が満たされているからこそ相手にもそうであって欲しいと願う強い想い。そういうものが次々と胸を過ぎっては、今も心のどこかに記憶として留まり続けている。
 あの頃、私は私なりに精一杯彼を幸せにしたいと思っていた。その為に考えてしたのが、彼に迷惑をかけないということだった。
 でももうわかった。そんなことくらいで、そんな気持ちで人を幸せになんてできるはずがない。
 私は安井さんに、あんなふうに無理に笑って欲しくなかった。

 ただ別の意味で、身体の方がよく覚えているし素直だと言えることもある。
 あの屋上での抱擁を、私は冷静に受け止められていたかというと全くもってそうではなく、むしろ時間が経つにつれていろいろやばいと思うようになってきた。
 だって屋上だよ! 外だよ! フルオープンだよ!
 おまけに後から気づいたんだけどそういえばあの時隣のビルに人がいたような――もし見られてたらどうする気だったんだあの人は。いや見られたからったって他社の人間、こちらの面が割れて更に密告されるような可能性はまずないと思っていいだろうけどそもそも見られてなきゃいいって問題でもない。社内で勤務中にああいうことをしてはいけない。それは社会人としての倫理にもとるし、あと何と言うか、びっくりしたし!
 後からじわじわと込み上げてくる懐かしい羞恥心と狼狽が私に染み込むように苛み、その後お盆休みを挟んで十日が過ぎても、社内で安井さんを見かける度に不自然にうろたえては赤面しそうになる有様だった。
 また彼も彼で、そういう私をそっとしておいてはくれず、何かと声をかけてくる。

「園田、今帰り? よかったら一緒に帰ろう」
 退勤後、サイクルウェアへの着替えを済ませてからロッカールームを出ると、どうも待ち構えていたらしい安井さんが廊下でにこにこ突っ立っていた。
 お盆休みが明けた翌日、既に時刻は夜八時過ぎ。今日もお互い残業で疲れているはずだけど、安井さんはあれ以来ずっと機嫌がよかった。よすぎるほどだった。
 一方の私はまだお盆休み前のあれこれを引きずっており、むっとした顔を作って応じた。
「私、今日自転車だよ」
「駅まででいい。俺も電車だから」
 その言葉にはちょっと驚いた。お盆休み前後はどうしたって仕事が立て込むもので、私はそんな時期に雨が降ると本当に憂鬱になる。駅近物件なんてそうそうあるもんじゃないし、電車通勤だと駅まで、そして駅から更に歩かねばならないのが地味に効く。
「へえ。まだ忙しい時期なのに、電車通勤って辛くない?」
 私が純粋な興味を持って尋ねると、安井さんがすかさず微笑む。
「園田と一緒に帰れる可能性を考えて、天気のいい日は電車にしてる」
 そういうことをよくもまあ平然と口にするものだ。
 私は顔が赤くならないように表情を引き締めた。とは言えそんなもの、努力でどうにかなるはずもない。それでそっぽを向いてやったら、安井さんは意外そうに言った。
「あれ。まだ怒ってるのか、園田」
「怒ってない。と言うかずっと怒ってはないよ」
「じゃあ何でずっと微妙に機嫌悪いんだ。照れ隠し?」
 わかってるんだったらいちいち聞くんじゃない。
 私がむっとして歩き出すと、安井さんもそのまま普通についてきた。だから彼に聞いてやった。
「我が社に、不審な投書とか届いたりしてない?」
「何それ。何の話?」
「『御社の社員が屋上でよからぬことをしてました』的な……」
「ないない。そんなの心配してたのか?」
 安井さんは私の不安を一笑に付した。
 正直笑い事じゃないと思うんだけど、問題になってない以上、引きずるのもまたおかしいんだろう。だから一旦は忘れておくことにする。

 私はエレベーターで一旦地下へ下り、駐車場の隅に停めておいた愛車を外へと連れ出す。
 その間も安井さんは私の傍にいて、一緒に駐車場の出口から会社の外へと出た。
 外は相変わらず熱と湿度がみっちりと凝縮された蒸し暑さだった。お盆が過ぎたら涼しくなるなんて言うけど嘘に決まっている。今夜もお盆前と変わらない、真夏の夜だ。
「お盆休みの間は一度も会えなかったから、園田と話したかったんだよ」
 自転車を押す私の隣を、安井さんが重そうなカバンを提げて歩く。
「ご実家、どうだった?」
 帰省するという話はしておいたから、そう聞かれた。
 私は少し笑って答える。
「普通だよ、いつも通り。両親は元気だし、姉一家も相変わらず元気そうだったし」
 お盆はなるべく戻るようにしている。父は一昨年定年を迎えていて何かと暇そうだし、お墓参りもしたいからだ。一番の理由は姉が可愛い姪っ子を連れてきてくれるからだけど。
「姉が戻ってくるのもお盆くらいだからね。これを逃すと来年まで会えないから、八月は帰るようにしてるんだ」
 私が姉について触れたからか、安井さんがそこで笑った。
「三月生まれのお姉さんだっけ」
「そうそう。本人は自分の名前、あんまり好きじゃなかったみたいだけど」
「何で? 一回聞いただけの俺が覚えてるほど、忘れがたい名前なのに」
「逆に安直な感じがしたんだって」
 十も年上の姉は、当然ながら私よりも十年早く反抗期を迎えていた。その頃は結構な頻度で両親と言い争っていたのを覚えている。
「もっと名前に込めたメッセージが欲しかったとか言ってた。今はそうでもないみたいだけどね」
 姉は自分の娘にはとてもありふれた、誕生日とは関係のない名前をつけている。
 私だったらどうするだろう、なんて考えるのは先の話でいいだろうけど。
 私は自分の名前をそこそこ気に入っている。そりゃ安直だと思わなくもないけど、自己紹介でウケを取るにはいい名前だ。いろんな人に覚えていてもらうこともできる。
「俺はいい名前だと思うけどな。実摘と伊都、どっちも覚えやすいし可愛い」
 安井さんが自然に私の名前を呼んだので、私は黙って目を逸らした。

 そういえば名前で呼んでもらったことなんて数回しかなかった。
 定着する前に別れたからだ。
 私の方は安井さんを名前で呼ぼうと思いつくことさえなかった。もちろん知らないわけではなかったけど。

 夜のビル街に沈黙が落ちかかった時、安井さんがふと思い出したように口を開く。
「そうだ、お前検定は? 日程もうすぐじゃなかったか?」
「うん、来週。だからお盆の間にはその勉強もしたよ」
 正直、屋上での出来事が勉強の支障になるのではないかという懸念もあったんだけど――そうはさせるかとかえって闘志が燃え滾り、勉強に一層注力できているのが不思議だ。これもある意味、安井さんのおかげと言っていいのかもしれない。
「受かったら教えてくれ。お祝いがしたい」
 彼はむしろお祝いをしたがっている口調で言った。
 私はそれを不快だとか、迷惑だと思ったわけでは決してないけど、曖昧に答える。
「気持ちは、嬉しいんだけど」
「駄目?」
「駄目じゃないけど、私まだ写真のお礼もしてないよ。安井さんに」
 だから私の方がお祝いしてもらうのは気が引ける。順番で行けば安井さんへのお礼が先に来るべきだ。
「安井さんこそ、あれから何も聞いてないけど何かないの? お礼にできそうなこと」
 逆に尋ね返したら、彼は歩きながら難しげに思案を始めた。
「聞かれると悩むな。せっかくの切り札、園田が断るに断れない状況で使うべく、じっくり温存しておきたいと思ってた」
 何に使う気だったんだ。思わせぶりな口ぶりに私は警戒を強める。
「言っとくけど、駄目なことは駄目ってきっぱり言うからね!」
「まだ何も言ってないだろ。勝手に妄想を膨らませるなよ」
「それ、安井さんには言われたくないよ!」
「はいはい、そう怒るなって」
 私を軽くいなすと、安井さんは再び考え込んだ。
 今度は短く、すぐに何かひらめいたように言った。
「じゃあ、検定受かったら俺にお祝いをさせてくれ。お礼はそれでいい」
 妄想と言われるほど想像していたわけではないけど、彼が言い出しそうなお礼について、私が思い浮かべていたいくつかの予想はことごとく外れた。私はぎょっとしたし、すぐに聞き返した。
「そんなのでいいの? だって、私がするお礼だよ?」
「いいよ。お前が会ってくれるなら、俺はそれでいい」
 安井さんは決めてしまってからは迷いもなくなったらしく、きっぱりと答えた。
「検定が来週なら、お祝いの席は九月に入ってからだな。その頃ならこっちの仕事も落ち着いてるし都合がいい」
 更に予定まで立てられてしまったけど、その場合、予定を遵守できるかどうかは私にかかっている。
「もし、受からなかったらどうするの?」
「その時は慰労の席にでもする。けど受かれよ、今から落ちるかもなんて考えるな」
 彼が私を叱咤するように苦笑したので、私も思い直して、頷いた。
「うん、絶対頑張る」
 自分の持つ知識がちゃんと生きているかどうか確かめたかった。そして自分の為になる、自分を保証する価値になるものが欲しかった。
 検定を受けようと思ったきっかけを思い出すと、落ちるかもなんて思ってはいられない。
「前にも話したけど、自分の価値を高めたいって思ったんだよね」
 私はそう、安井さんに打ち明けた。
 安井さんが、自転車を押す私をじっと見る。
「自分の価値ね……。園田は自分の価値なんて、ちっとも自覚してなさそうだけどな」
「そんなことないよ。私のことは私自身が一番よくわかってる」
「どうだか」
 ちょっと冷めた口調で疑問を呈されたので、私は言い返した。
「だって、冷静になって客観的に見てみれば、私って微妙なスペックだと思う」

 特別美人じゃない。丸顔だし、奥二重だし、脚細くないし。
 料理は自分の好きなものしか作れないし、お金のかかる趣味は持ってるし、そのくせ誇れるような年収ではないし。よくこのスペックで婚活に挑めたものだと今頃になって冷や汗が出てくる。
 もちろん世界のどこかには私と同じくらい豆腐が好きで、ロードバイクが好きで、稼ぎを多少趣味に費やしてもにこにこと受け止めてくれる素敵な旦那様候補がいるのかもしれないけど、それを見つけるのは宝くじを当てる以上に難しいことだろう。
 それに何より私には、考えが足りない。
 小さなころからずっといろんな人から言われ続けてきたことだけど、この間、東間さんからも言われた。
 私は納得がいくまで考えて、それから答えを出した方がいいって。
 納得のできる恋をした方がいいって。

「だから私、今、すごく変わりたい。価値のある自分になりたい」
 私の言葉に安井さんが溜息をつく。
「変わらなくたって園田は十分、唯一無二の個性だよ。俺はそう思う」
「でもその個性が昔と何も変わらない、お値段据え置きの安物だったら駄目なんだよ」
 これまで通りの私でも好きになってくれた人はいた。そのことはちゃんとわかってる。
 私が考えなければいけないのは、その人を二度と悲しませないようにする為のやり方だ。これまで通りの私では駄目だった、できなかったことができるようになりたい。
「じゃあ園田は、婚活なんかの為に検定受けたいって考えてるのか?」
 安井さんが苦々しい顔で尋ねてきたから、私は首を横に振る。
「ううん。一番は、私自身の為にだよ」
 変わる為にしたいのは検定だけじゃない。これからもっとたくさんのことに取り組んでいきたい。
「私は、入社したばかりの写真を見て、何にも変わってないなって思える自分ではいたくない」
 決意表明する私の顔を、安井さんは今頃になってようやく、何か気がついたような目で見た。
 深呼吸をしてから私は続ける。
「もう二度と安井さんを辛い目に遭わせないようにする為に、変わりたいと思ってる」
 口にしてしまってから、こういうのはちゃんと立ち止まって、向き合ってから言うべきだったかなと思った。
 でも、思ったタイミングで安井さんの方が足を止めた。
 呆気に取られた顔をしてから、込み上げてくる感情に口元を綻ばせるのがわかった。
「園田、それって」
「あ、うん。何て言うか、これで検定落ちたらいろいろ台無しだなとも思うんだけど」
「だから、今から落ちることなんて考えるなよ」
 照れ隠しで言ったことを、安井さんは笑い飛ばしてくれた。
「それに結果がどうでも、お前がした努力はお前の価値にもなるだろ」
 私もそう思いたい。
 これから私達がすることが、私達にとって意味のある時間になると思いたい。それがどんな結末を迎えるかは、想像もつかないけど。

 正直、私が安井さんをどう思っているのか、自分でもよくわからなかった。
 あの頃は本当に心底から好きだったし、今もその記憶を大切には思っている。そして今も安井さんには幸せになって欲しいと思っているし、彼のことを考えるとしょっちゅう顔が赤くなる。
 それでも彼のことを今でも好きだと断言できないのは、私自身があの頃の自分のしたことに納得できていないからだ。同じ過ちを繰り返さない為にも変わりたい。そうして初めて、私は自分の気持ちにも向き合えるようになれると思う。

「ありがとう、園田」
 私を見下ろす彼が、涼しげな目を細めて、すごく嬉しそうに笑んだ。
 この人のこんなに嬉しそうな顔を、私は久々に見たように思う。普段の落ち着き払った雰囲気は吹き飛んで、まるで子供みたいに心から笑っている。何の不安も懸念もないと信じきっている笑顔に、私は罪悪感すら覚えた。
 こんなことだけでここまで笑ってくれる人を、私はどうして傷つけたりしたんだろう。
「お礼を言われるのは……だって私のせいだよ、もともとは」
「園田のせいなんて思ってないよ」
 彼が気遣うでもなく言ってくれたので、私がお礼を告げた。
「ありがとう。一からやり直そう、私達」

 駅までの道は残りわずかだった。
 もう少し話したいと思ったけど、今日も遅い。だから残りの距離を惜しむように、私達はゆっくり歩いた。
「一つ、先に確かめておきたいんだけど」
 歩きながら安井さんが言った。
「一からやり直すってことは、今夜は別れ際にちゅーしちゃ駄目?」
 涼しい顔で何を聞くのか。私はとっさに答えも出ず、黙って彼を睨みつけた。多分顔には出てたと思う。
 彼は私を見てげらげら笑った。
「悪かった、ちょっと調子に乗っただけだよ。しばらくは自重する」
「本っ当に安井さんは……! そういうことを軽々しく言うから!」
「わかってるって。今は園田が戻って来てくれただけで十分だ」
 もしかしたら彼は浮かれているのかもしれない。ほろ酔い気分みたいな調子で言った後、ちらりと私を見てまた笑んだ。
「そうだ。俺、園田の写真が欲しい」
「いきなり何? と言うか、自分の写真なんてそうそう持ってないよ」
「写真のお礼には写真貰うのが一番いいかと今思った」
 お礼の件は検定のお祝い、もしくは慰労会で話がついたんじゃなかったのか。そうも思ったけど、せっかくなので聞いてみる。
「写真って例えばどんなの? 昔のだったら探してくるけど」
「いや、新しいのがいい。なるべく最近の園田が欲しい」
「最近のか。近頃写真なんて撮ってないからなあ……」
 私は少し考え込み、それからふと思い出す。
「ああ、最近のって言ったらこれがあるよ」
 通勤用のショルダーバッグを開け、名刺入れを出して彼に見せる。
 我が社の名刺は全てが写真入りで、この春異動したばかりの頃に作ったものだから、載っている写真に写っているのはもちろん今年度の私だ。めちゃくちゃかしこまったよそゆきの顔で写っているのが我ながらおかしい。
「何かと思ったら名刺か」
 安井さんは苦笑しながら、私が差し出した名刺を受け取った。
「元手ゼロだし、ちっちゃい写真で悪いけど」
「十分だよ。園田がくれたものだからな」
 そう言った後、安井さんは私の名刺をしげしげと見入る。顔写真の隣に広報課、園田伊都と印字された名刺を、どこか微妙な顔つきで眺めている。
「写りが気に入らない?」
 私の問いに彼はかぶりを振り、
「いや、そうじゃない。ちょっと思い出しただけだ」
「何を?」
「前に、好きな人の名刺を定期入れに、後生大事に入れてた女の子がいたんだよ」
「そうなんだ。ちょっと可愛いね、そういうの」
 少女漫画みたいだけど悪くないかも。私が率直に感想を述べると、安井さんもまた自らのパスケースを取り出し、私の名刺をそこへ忍ばせた。
「好きな人から貰ったものなら、たとえ名刺一枚だって、唯一無二の宝物になるんだろうな」
 納得したように呟いてから、顔を上げ、私に向かってまた笑んだ。
「俺もあやかるつもりで真似ておこう。ありがとう園田、大切にする」

 この間から思っていたけど、意外と可愛いことを好んでする人だ。
 私はとっさにどぎまぎしてしまい、顔が赤くなってなければいいなと思った。
 多分、なってただろうけど。
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