Tiny garden

唯一無二でも安物です(1)

 八月に入ると、もう誰からも『仕事慣れた?』なんて聞かれなくなった。
 かつてのお客さん感覚はどこにもなく、何年も前からここで働いているみたいに扱われている。

 その扱いに私の仕事ぶりが追い着けているかはさておくとして、とりあえず小野口課長はそういうふうに接してくれている。
「園田さん、そっち済んだら広報誌のインタビュー起こしといてくれる?」
「はい。終わり次第取りかかります」
「頼むよ。あと社内報の締め切りも今週末だけど間に合うね?」
「間に合わせます」
 小野口課長はとても優しく温厚な方だけど、だからといって部下の働きに対してまで甘くはない。
 仕事ができない、できてないという選択肢はまず与えてくれない人なので、私も期待に応えていかなくてはならない。春先はその温かい期待感がプレッシャーだと思ったこともあったけど、見事に鍛えられた結果、繁忙期にどうにか適応できるようになっていた。
 指示を受けた私は、まず目の前の仕事を片づけるべくパソコンの画面と向き合う。
 と、そこで課長がはっとして、再び口を開いた。
「ああ、そうだ。退職者の記事の件はどうなった?」
 私も顔を上げて応じた。
「人事を通して該当者の方に確認してもらっているところです」
 退職者があれば社内報に載せる。それはどこの会社でも同じことだろうけど、個人情報の取り扱いが何かと取りざたされている昨今では、退職についての情報を載せてもいいかどうか、まず本人に確認することとなっている。
 いつぞやの『あの時君は若かった』みたいな面白記事なら広報の仕事だけど、退職に関してはとてもデリケートな情報の為、人事を通して確認してもらうことになっていた。もちろんご本人がノーと言えば記事にはできない。そうなると社内報に開きスペースが生じるので、なるべく迅速な確認が求められる。
「いつごろ返事あるかな。と言うか、人事に話通したのいつ?」
「一昨日です。こっちから聞いてみましょうか」
「うん、やんわり催促してもいい頃だな。内線で聞いてみてくれる?」
「かしこまりました」

 私は席を立ち、広報課据え付けの電話の受話器を取ると、人事課の内線番号を打つ。
 同じ階の並びにある人事課も繁忙期らしく、内線には四コール目まで誰も出なかった。
 ようやく電話が繋がり、
『はい、人事課安井です』
 何と人事課長殿が出た。
 聞き慣れた声のはずなのに、勤務中らしい生真面目な口調になぜか笑いが込み上げてくる。私は顔を引き締めようと努力しながら口を開いた。
「お世話になっております。広報の園田です」
 一瞬、微妙な間があって、
『ああ、お疲れ様です。お世話になっております』
 気のせいか、安井課長の声も笑いを堪えているようだった。私の声も向こうには取り繕ったよそゆきの声に聞こえたのかもしれない。自分だってめちゃくちゃよそゆきの声のくせに。でも、それをお互い面白がっているのが変な感じだ。
 とは言え面白がってもいられない。今は勤務中だし、大事な用件もある。
「一昨日お願いした、社内報の確認の件なのですが……」
 私が切り出すと、電話の向こうからは小さく声が上がった。
『遅くなって申し訳ない。今朝方掲載許可をいただけたので後程書類を持っていきます』
「よろしくお願いいたします。あ、こちらから伺いましょうか?」
『いえ、お待たせしたのはこちらですし、届けますよ』
「ありがとうございます」
 畏まった会話がいやにぎこちなくて何度も笑ってしまいそうになった。普通に話してるだけなのに、何がこんなに面白いんだろう。相手が安井さんだからだろうか。
 それでも用件は終えたし、電話を切ろうと挨拶を口にしかけたところで、先に向こうが言った。
『では後程。お忙しいでしょうが頑張ってください』
 よそゆきの声の安井課長にそう言われて、遂に笑いが堪えきれなかった。私は思わず吹き出し、それから慌てて告げた。
「は、はい。そちらもどうぞ頑張ってください!」
 それから受話器を置いたけど、切る直前に向こうでも吹き出すのが聞こえた。

 むしろあの人は私を笑わせに来てたんじゃないだろうか。
 まさかなと思っていると、待ち構えていた小野口課長が早速尋ねてきた。
「園田さん、どうだった?」
「掲載許可いただけたそうです。後程書類を持ってきてくださるとのことで」
「そうか、記事の組み直しが要らなくてよかった」
 小野口課長は大げさなくらい胸を撫で下ろし、私も笑って頷きながら自分の席へ戻る。
 椅子に腰を下ろした時、向かい合わせの席にいる東間さんがこちらを見た。私と目が合った途端、どこか含んだように笑いかけられて、ぎくりとした。
 誰と話していたかばれたのかもしれない。東間さんによれば私は顔に出る方らしいけど、今もそうだったんだろうか。自分でもあの状況で笑ってしまったのはまずかったと思うけど。
 私は恐々としながら点けっ放しのパソコンと再び向き合った。
 しかし繁忙期だというのに勤務中に笑う余裕さえあるとは、私も成長したものだ。

 安井さんはお昼過ぎに広報課を訪ねてきた。
 その時、広報課には私しかいなかった。そして私もDTP検定のテキストを読みながらツナサンドを咥えていたところで、入ってきた安井さんが私を見るなり咎めるように苦笑する。
「行儀悪いぞ、園田」
 私はサンドイッチを口から外し、恥じ入りながら頭を下げる。
「ごめん、検定前だからってことで見逃して」
 八月は仕事も忙しいけど、検定試験もあった。だからこんなふうに空き時間を見つけて勉強するようにしている。お行儀が悪いというのは自覚済みですが、人に言われるとさすがに恥ずかしい。
「駄目。ちゃんと本置いてから食べなさい」
 まるで上司のような口調で安井さんは言い、その後で私の席まで近づいてきて、呆れたように笑う。
「昼飯くらい机から離れて食べたらいいだろ。そんなんじゃ休憩にならない」
「そうなんだけどね。食堂まで行く時間も惜しいと申しますか」
 私は椅子に座ったまま、彼を見上げて弁解した。
「忙しいからって無理して身体壊すなよ」
 肩を竦めた安井さんが、携えていた書類を私に差し出した。
「これ、さっき話してた書類。遅くなって悪かったな」
 私はテキストとサンドイッチを机に置き、恭しくそれを受け取る。
「締め切りに間に合えばいいんだよ。わざわざありがとね」
「いえいえ」
 彼が持って来てくれた書類には記事にする為に必要な、退職者の個人情報が記されていた。顔写真のデータは既にこちらにあったので、許可さえ下りればあとは記事にするだけだ。今週末までには十分間に合うだろう。

 私が書類を確かめる間、安井さんは私のデスク周りを妙に興味ありげに眺めていた。
 別に珍しいものがあるわけでもない普通の机なんだけど、パソコンの画面に表示された作りかけの社内報とか、開きっ放しのメモに記した私の走り書きとか、あるいは付箋をべたべた貼ってる検定のテキストなんかを楽しげに見ている。
 何が面白いのかはよくわからないけど、私も安井さんの机を見に行ったらこんなふうに観察するだろうな、という気はする。

「検定の勉強進んでる?」
 テキストに目を留めた彼からの問いに、私は曖昧に笑った。
「試験日が近づくにつれて、勉強法が本当に合ってるのかって不安になってる」
「懐かしい言い回し。学生時代を思い出すよ」
「私も。部屋で勉強してたら急に模様替えしたくなるのとか、久々だよ」
「誘惑に負けるなよ園田。それは死亡フラグだぞ」
 全くだ。模様替えなんて検定をパスしてからゆっくりやればいいのに、なぜ人は目の前のテスト勉強から逃げたくなってしまうのだろう。もう二十八だというのに、その辺の感覚は学生時代と何ら変わらないのが怖い。
 安井さんは私の机をたっぷり眺めてから、私の手元、食べかけのサンドイッチに目をやった。
 途端にその顔にからかうような笑みが浮かぶ。
「お前、弁当作りはもうやめたのか」
 三日坊主だとでも言いたいのだろうか。八月中はやめてるだけだと、私はむしろ勝ち誇って答える。
「一時中断。真夏だといろいろ怖いし、忙しいしね」
 自分で作らない日のお昼ご飯はコンビニでサンドイッチを買うと決めている。大体BLTとツナサンド。コンビニのおにぎりは味が濃くて苦手だからだ。会社の近くには美味しいお弁当屋さんもあるんだけど、貴重な休憩中に外へ出て買いに行くのも億劫だった。コンビニなら二十四時間開いてるから、出勤途中に買ってこられるのがいい。
 とは言えサンドイッチも続くと飽きる。私の身体は常に豆腐を欲しているのだ。
「でも小野口課長は夏場でも毎日お弁当なんだよ。朝だって早いのにすごいよね」
「愛妻弁当だろ? 聞いたことある」
「そう。見られると恥ずかしいから、食堂の隅でこっそり食べるんだって」
 なので休憩に入ると、小野口課長は電光石火のスピードで食堂へ消える。そして広報課員とは一緒に食べない。皆もそれをわかっているので、あえてそっとしておいてあげるのだそうだ。
「奥様はお店開いてるんだから、きっとお弁当もすごいのだと思うんだけど」
「だろうな。ちょっと見てみたいよな」
 安井さんは相槌を打ちながらも、私のサンドイッチを気にしている。お腹が空いているんだろうか。
「お昼ご飯、安井さんは食べた?」
 私の問いに、彼はたちまち遠くを見るような目をした。
「まだ。今が休憩中なんだけどな」
「えっ、休憩中だったの?」
 貴重なお時間を他部署の用件で潰してしまうなんてもったいない。私は大慌てで彼を促す。
「もう書類貰ったから急いでご飯食べてきなよ。と言うかごめんね、届けさせちゃって」
 だけど安井さんは軽く首を竦め、
「どうせ今からじゃ買いに行く時間もないし、晩まで抜くよ」
 八月、お盆休み前はどこも大体忙しいものだ。かく言う私も何度かお昼を抜く羽目になってしまったことがある。
「それこそ身体壊すよ。忙しい時こそご飯食べないと駄目でしょ」
 私が先程の仕返しとばかりに説教をすると、安井さんは憤慨も悔しがりもせず穏やかな顔をした。
「だから園田の顔を見に来たんだ。心の栄養を取りに」
 歯の浮くような台詞を!
 とっさに私は広報課と秘書課を仕切るパーテーションに目を向けた。現在こちら側には私達しかおらず、向こう側もひっそりしている。だけど誰かいて、この会話を聞かれているとなれば恥ずかしい。
「変なこと言わないでちゃんとご飯食べなよ」
 私は誤魔化し半分照れ半分で、まだ手つかずのBLTを包みごと差し出した。
「よかったら食べていいよ。コンビニのでよければだけど」
「え? 園田のだろ、悪いよ」
 安井さんは少しばつが悪そうに遠慮を見せた。散々人のサンドイッチを眺めておいて遠慮なんてらしくもない。
「私、サンドイッチに飽きてきたとこなんだ。やっぱ豆腐じゃないと駄目みたい」
 私は駄目押しみたいに告げた。
 すると安井さんは微妙な苦笑を浮かべ、BLTサンドを受け取る。
「それなら貰う。助かった」
「いえいえこちらこそ。美味しく食べてね」
「そうするよ、二重に栄養をありがとう。やっぱり園田に会うと違うな」
 まだ言ってる。
 東間さん曰く私は顔に出る方らしいので、ここで顔に出られると困る。私は安井さんを追い払うことにした。
「そろそろ行ったら? 東間さんがもうすぐ休憩から戻ってくるだろうし」
「ああ。あの人に見つかったらまたお前がからかわれるか」
 安井さんがにやっとする。
 言葉の割に急ぐそぶりも、心配してくれる様子もまるでない。

 先月、モールに出かけたのを東間さんに見られた時も、あとで『今後は人目に気をつけないと』と訴える私をよそに、『別にやましいこともないだろ』と平然としていたのが彼だった。
 廊下で車のキーを渡してきたり、最近では当たり前のように『一緒に帰ろう』と誘ってきたりと、日に日に堂々とし始めているような気さえする。
 私もそれが迷惑だというわけではない。嫌な気持ちでいるわけでもない。
 ただ人に聞かれた時、どう答えていいのかわからないだけだった。

「じゃあ行くよ。またな、園田」
 軽く手を挙げた安井さんが、サンドイッチ片手に広報課を出ていく。
 しかしドアを開けたところで、外からも誰かがドアを開けようとしていたようだ。
「あっ。いらしてたんですか、課長」
 危惧していた通り、東間さんが戻ってきていたらしい。
「ええ、お邪魔しました」
「はい。またいつでもいらしてくださいね」
 まるで家に遊びに来てもらったみたいな東間さんの言葉の後、ドアが静かに閉まる。

 入れ替わりでやってきた東間さんは、なるほどと言いたげに笑っていた。
「園田ちゃん。安井課長が来てたの?」
 もちろん、私はうろたえにうろたえた。
「ち、違うんですよ今のは。単に人事の方に必要な書類を届けてもらっただけで!」
「私まだ何も言ってないけど。え、まさかここで何かしてたの?」
「してないですっ!」
 東間さんが演技っぽく驚いてみせたので、思わず大声で否定した。おかげでかえって笑われた。

 だからこういうのは、社内恋愛の最中にこそするべきやり取りであって!
 何で今になってこんなベタなからかいを受けねばならぬのか。甚だ不思議だ。
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