Tiny garden

写真は嘘をつかない(4)

 社内報を仕上げて課長のチェックを受けると、見事及第点をいただくことができた。

 仕事を済ませて退勤したのは午後九時過ぎだったけど、私はすこぶるいい気分だった。
 ご機嫌で退社しようと廊下へ出た時、帰り支度を済ませた安井さんと出くわした。
「あっ、安井さん。お疲れ様です」
「お疲れ、園田。待ってたんだ」
 安井さんは意外なことを口にすると、私に向かって微笑んだ。
「今朝は時間がなくて見せられなかったけど、実は他にも写真があって。園田に見せたいと思ってた」
 そういえば朝、そんなことを言っていたような気がする。
 すっかり忘れていたけど、もちろん興味があった。
「見たい見たい! 今度はどんな写真?」
 私が話題に飛びつくと、安井さんは焦らすようにそれを一旦押し留める。そして並んでエレベーターホールへと向かいながら続けた。
「まあまあ、ここじゃちょっとな。よかったら一緒に帰ろう、今日電車だもんな?」
「そうだけど……わかった。いいよ」
「俺は車で来てるんだ。部屋まで乗せてくよ」
 安井さんが言って、エレベーターのパネルを操作する。
 途端に私が無言になると、振り向くなり眉を顰めた。
「見るからに微妙な顔をするなよ。俺の車に乗るの、嫌なのか」
「嫌とかそういう問題じゃなくて。いつも言ってるけど」
「じゃあ何だよ」
「はっきり言うと、付き合ってもいない男の人の車に乗るの、抵抗あるから」
 私は至極当然のことを言った。
 ――つもりだったのに、安井さんはがっかりしたように肩を落とす。
「そこまではっきり言うか」
「でもそういうものじゃない? ここでほいほい乗っていく方がおかしいよ」
「……俺のおかげでいい写真が手に入ったのに?」
 それを持ち出されると、反論できなくなってしまう。
「もちろんそのことはすごく感謝してるよ。おかげでとてもいい特集記事が組めたし」
「じゃあ俺の誘いを断ったりはしないよな? 送っていくから一緒に帰ろう」
 恩を笠に着て、というやり方はわかるんだけど、それって変じゃないのかと私は思う。
「安井さん、私を送っていったら遠回りになるんじゃないの?」
「そうだよ。それでも送っていくって言ってる」
「普通逆じゃない? 写真を提供したんだから家まで乗せてけ、とかいうならわかるけど」
「いいから黙って乗ってけ」
 ちょうどその時エレベーターがやってきて、私達は二人で乗り込む。
 操作パネル前は安井さんが陣取り、黙って駐車場のある地下一階のボタンだけ押した。

 安井さんの車は青のコンパクトカーだ。何度か乗せてもらったことがあるから覚えている。
 ただ『付き合ってもいないのに』乗せてもらうのは初めてで、助手席に乗れと指示された時はやっぱり抵抗を覚えた。
「あのね、安井さん。こんなこといちいち言うのも悪いかもしれないけど――」
「そう思うなら言うなよ。帰りが遅くなるぞ、早く乗れ」
 有無を言わさぬ調子で促され、私は仕方なく助手席に乗る。
 そしてシートベルトを締めたところで、安井さんがエンジンをかけるより先に、今朝も見たあの手帳を取り出した。
 そこからまた別の写真を引っ張り出すと、私の手に押しつけるように持たせた。
「見せたい写真ってのはそれ」
 私はその写真に視線を落とす。
「持ってたんだ、ずっと。さすがに見返す気になれたのは最近の話だけどな」
 写真の中には毎日見る顔が写っていた。
 例えば顔を洗う時、洗面台の鏡の中に映っているような顔だ。
「……これ」
 私のかすれた声を呑み込むように、車のエンジンがかかる。程なくして車はゆっくりと動き始め、薄暗い地下駐車場から、小雨降る夜の街へと滑り出していく。
 ハンドルを握る安井さんは黙っていた。私に道を聞くこともなかった。

 私も黙って、手渡された写真にしばらく見入った。
 写真の中の私は、今の私とあまり変わらない。入社当時から成長のない私だ、四年くらい前の写真にもやっぱり違いはなかった。
 ただ、すごくいい笑顔を浮かべていた。
 ワンピースなんて手持ち服にも選択肢にもなかった頃、それでも精一杯めかし込んだ私はカメラに向かってすごく嬉しそうに笑いかけている。
 頬は誰の目にも明らかなほど赤くなっていて、瞳は見ている方が面食らうほどきらきらしている。森林公園のベンチに座って、手には売店で買ってもらったヘリウムガス入りの風船を持って、ベンチの傍らにはタンデム用の自転車が停めてある。一面の芝生はどこまでも青々としていた。夏の終わりの、よく晴れた休日だった。

 この日の出来事は何もかも覚えている。
 安井さんが私を切れさせて、そのお詫びにと連れて行ってくれたデートの日だ。
 広大な森林公園の敷地内で、私は安井さんをタンデム自転車に乗せて隅から隅まで引っ張り回し、遂に音を上げさせることに成功した。
 休憩しようと誘われた売店ではお土産にと風船を買ってもらった。
 それからベンチに座って、その時に私から写真を撮りたいとお願いした。最後かもしれないから思い出に、好きな人の写真が欲しかったからだ。
 そうしたら安井さんも私の写真が欲しいと言い出して、私のデジカメで写真を撮った。
 その写真は後日プリントアウトして、安井さんにあげた。まさか取っておいてるとは思わなかった。デジカメのデータは消去するのもたやすいけど、写真として手元にあるものはそうではなく、ずっと残ってしまうのかもしれない。

「この写真、私にくれる?」
 ようやく口が利けるようになって、私はそう切り出した。
 安井さんが唸るように返事をする。
「駄目。俺のものだ、誰にも渡さない」
「でも、私が写ってるのに」
「だから何? どうしてもって言うなら、焼き増ししてやってもいいけど」
 安井さんはこの写真を手放すつもりはないらしい。
 だけどこんな写真が自分以外の手元にあるなんて複雑だ。写真の中の私はルーキー時代の安井さん達と同じように、後先考えない全開の笑顔を浮かべている。この後に何が起きるかなんて全く知らない顔をしている。
 教えられるものなら教えてやりたい。背水の陣で臨んだ告白はまさかの成功で、それから三ヶ月くらいは写真を撮ってくれたこの人と付き合えること。でもそれからの三ヶ月はお互い仕事に追われ、自分の気持ちと寂しさを持て余した挙句、せっかく付き合ってくれた相手を散々に振り回しては距離を置く羽目になってしまうこと。そして最終的には自分から、別れようって切り出すことも、もし最初から知っていたなら――。
 でも誰が何を言ったって、あの日の私は止められなかっただろう。
 この写真を見ればわかる。
 好きな人に写真を撮ってもらえて、本当に、心から嬉しいって顔をしている。
「可愛いだろ? その顔」
 不意に安井さんが、ワイパーが掃き続けるフロントガラスを見たまま言った。
 私は他人事のような思いでそれを肯定した。
「そうだね」
 確かに可愛い。馬鹿みたいに一途で一直線だった、この頃の私は。
「今でも時々、園田はそういう顔をするよ」
 続いた発言にはどきっとして、
「え、え? 本当に?」
「ああ。自転車の話をする時と、豆腐を食べてる時は」
「……あっ、そういうことか。びっくりした」
「それと前に、東間さんの話をしてた時も」
「そ、そっか。すごくいい人だからね、東間さん」
 胸を撫で下ろす私と一緒に、安井さんも溜息をつく。
「それから、今日もしてた。あの写真を見た時に」
 私は黙って瞬きをする。
 そう、だっただろうか。その時々の自分の顔なんて、鏡でもない限りわからない。
「俺だけを見て笑ってくれたなら嬉しいんだけどな。そうじゃないんだろうな」
 安井さんが寂しげに呟く。
 どう答えていいのかもわからず、私は黙った。

 黙っているうちに車が停まった。前方を照らすライトが消え、エンジンも切れて、一気に静かになる。さあさあと雨がぶつかる音だけが聞こえてくる。
 顔を上げると、窓の外には見慣れたアパートの外観があった。
「ありがとう、送ってくれて」
 私が告げると、安井さんは黙って手を差し出す。
 その手に写真を返そうとしたら、代わりに手首を掴まれた。がっしりとした手の感触と温かさに息が詰まる。
「園田」
 月の光もない夜だった。薄暗い運転席に座る安井さんが、真正面から私を見つめてきた。
 写真に写っていたのとはまるで別人のような、真剣な面持ちをしている。たくさんのことを経てきた後の顔、なのかもしれない。
「また、誘ってもいいか?」
 それから、言葉を選ぶようにゆっくりと言った。
「二月と先月、どっちも飲みに誘ったけど、楽しくは飲めなかっただろ。もう一度だけ、挽回のチャンスが欲しい」
「楽しくなくはなかったよ。気にすることないよ」
 私はそれを否定したけど、安井さんは聞き入れるそぶりもなく続けた。
「やり直させて欲しいんだ。園田」
 その言葉は額面通りの意味合いでしかないと思った。
 でも、主語をあえて省いたのは、意味があってのことだと思った。
「やり直す必要なんて、あるかな」
 私がうろたえながらも同じ言葉を口にすると、安井さんは諭すように微笑む。
「迷ってるなら急いで返事しなくてもいい。待ってるから」
「ま、迷ってないよ! 私、全然迷ってないし答えはっきりしてるし!」
 慌てて否定する。
 そうだ、迷ってなんかいない。私の中ではとっくの昔に答えが出ていることだ。
 だから、なかったことにするのが一番よかったのに。
「何だよ。せっかく人が意味深なこと言ってるんだから、少しは迷えよ」
 ぼやく安井さんは、私達がどうして別れたかを忘れてしまったみたいに振る舞う。
 あの頃、振り回されて散々な目に遭ったのは安井さんの方だったのに。
「安井さんは……」
 先月手を繋いだ時に、思い出さなかったんだろうか。
 今もこうして私に触れているのに、全く思い出さないんだろうか。
「あの頃、私といて楽しかった?」
 私も、静けさに逆らわないようにそっと尋ねた。
 彼は即答した。
「もちろん。楽しかったし、幸せだった」
「本当に? 私、安井さんに酷いことしたよ」
「あんなの、酷いことのうちに入らない。むしろ俺はあの時――」
 そこまで言いかけて、安井さんは思い至ったように笑った。
「ああ、そうか。あの時のことを気にしてるのか」
「気にするよ! 私は本当に自分が情けなくて、許せなくて……!」
 今でも思い出すと自分に腹が立つ。

 安井さんはあの頃、私以上にとても忙しい人だった。年末進行が終わって一息つけたかと思いきや、今度は人事課への異動が決まって、引き継ぎなどで一層多忙な日々を過ごすことになった。落ち着いたら連絡すると言われていた一月の初め、私はその言葉通りにおとなしく待っていようと思っていたのに、待てなかった。
 一月十日、私の誕生日にも会えないとわかって、社内で顔を合わせても何も言えなくて、仕事を終えて先に帰ってから寂しくてたまらなくてどうしようもなくなって、それで――。
 寂しいと、メールを送ってしまった。
 そのメールは私が思っていた以上の劇的な効果をもたらした。日付が変わる頃まで残業をして異動に備えていた安井さんが、それでも退勤後に私の部屋に駆けつけてくれるほどに。
 酷く疲れ果てた様子で、それでも私に向かって笑いかけようとする彼を目の当たりにした瞬間、もう駄目だと思った。
 私は好きな人を幸せになんてできない。
 一緒にいてもこうやって、無理に笑わせてしまうだけだ。
 そんなことをしておいて、安井さんと付き合い続けるなんてできなかった。だから自分からは連絡をしなくなった。私が連絡を絶つと、彼からの連絡も途切れがちになった。社内では秘密にしていたのも相まって、接点がなくなって、最後には付き合っている意味すらなくなった。

「俺は気にしてないよ」
 いつぞやのように、拍子抜けするほどさらりと、安井さんは言う。
「今からだってやり直せると思ってるよ、俺は」
 でもやり直すって、何をだ。どこからだ。
 仮に一から始めたところで、同じ道を辿れば行き着く先もまた同じじゃないだろうか。
 同じことを繰り返して、また彼を振り回すだけかもしれない。
「今は考えておいてくれるだけでいい」
 そう言って、安井さんは私の手首を解放する。武骨な指の感触と体温が剥がされるように離れていくと、私は言葉もなく彼を見つめるしかなかった。
 いつしか車の窓は曇り、外が見えなくなっていた。彼が私から写真を受け取り、それを大切にしまった後、エンジンをかける。
 それを合図に私はシートベルトを外す。何か言おうと思うのに、何も思いつかない。口を開けば否定的な言葉しか出てこないような気がして、でもそれを言えば安井さんを傷つけるのもわかっていた。
 安井さんが私を見る。
「園田」
「何?」
 聞き返すと彼はゆっくり、聞き間違えようのない慎重さで言い放った。
「キスしたい。駄目?」
「――はあ!?」
 思わず声が裏返る。
 安井さんは私の動揺なんてお構いなしに平然と続ける。
「そこからやり直すのもいいかと思って。身体の方が覚えてるってわかったしな」
「だ……駄目に決まってるでしょ何言ってんの!」
 はっきり言うけどそういうのは! 付き合ってもいない相手の車の助手席に乗るより遥かに駄目だ。アウトだ!
 と言った反論が上手く声にならず口をぱくぱくさせる私に、安井さんはにやにやし始める。
「冗談だよ」
 騙された!
「そんな冗談やめてよ! ちっとも笑えないし面白くないし心臓に悪いしびっくりするし!」
「でも園田を、暗い気分にさせたまま帰したくないと思ったんだ」
 だからといって言うことがこれか。
 まあ確かにさっきまでの、何にも言えない感じは一瞬にして吹き飛んだけどもだ。
「お気遣いどうも。できればもっと違うやり方がよかったですが」
 むっとしながら言う私に、安井さんは肩を竦める。
「いや、冗談だけど嘘じゃないからな。万が一ってこともあるし」
「ないよ! 私はそういうのすっごく厳しいからね!」
「そうだっけ? 意外とあっさり許してもらった覚えがあるけどな」
「そ、そんなことない! それは安井さんの覚え違いだよ!」
 私はそう言い捨てて、逃げるように彼の車を出る。
 それでも一応、彼が車を動かすまで見送った。窓を開けた安井さんが軽く手を振ってくれたのが懐かしかった。

 本当は、覚え違いじゃない。
 あの頃は、好きな人には何でもしてあげたいと思っていたし、逆に何をされてもいいと思っていた。
 それはもう、あの写真の中の私を見ればわかる。写真は嘘をつかない。

 だけど写真が閉じ込めるのは一瞬だけで、その後に移り変わる気持ちはどこにも残らない。
 いっそカメラで撮るみたいに、私の気持ちも変わらないまま、留めておけたらよかったのに。
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